2008年12月26日金曜日

街まもり・街づくり

 今年も残り僅かとなりましたが、名店街ニュースをお読みの皆様方は、いつも年末をどのようにお過ごしになるのでしょうか。
私の方は、今年もほぼ例年通りといった感じでありまして、先ずは、毎年、年末の大晦日前の五日間を通して実施される地元町会の歳末警戒での火の用心活動(主に拍子木打ちを担当してま~す)、そしてお決まりの事務所や自宅の大掃除などに、ほとんど費やされてしまいます(特に、今我が家では男手が足りないんですよね~)。
 さて、この歳末警戒に私が本格的に参加したのは、若干18歳・高校3年生の時でしたが(これ以前、子供向けバージョンがあったのを覚えています)、これ以降ほぼ毎年参加している状況が続いております。ある意味、これへの参加なくしてはカウントダウンが始まらないとも感じておりますし、参加し続けていればいる程、町会という組織の中の人間模様にも、なかなか味わい深いものがあることが分かってきました。
 特に、町会の役員の皆さんから歳末警戒本部(高三会館)に届く差し入れがとても楽しみで、これを肴として飲む熱燗に、思わず舌鼓を打ってしまう参加者も多くいらっしゃいましたっけ。思えば、私が、はじめて、日本酒の熱燗が美味しいかな?と感じたのも、この年末の歳末警戒の場でありました。
 私がまだ大学生の頃に町会活動に参加してくれる役員の皆さんの出身地は、とてもバラエティに富んでおりまして、ある方は北陸地方、ある方は北九州、そしてある方は北海道と言った具合に、ほぼオール・ジャパンと言いますか、ウィングの広さがありました。そういった方々から、その差し入れた商品がお祝い金と共に館内に大々的に張り出されることも手伝って、お国自慢といいますか、お国の特産品と言いますか、私達、特に拍子木うち実行部隊にはめぐってくるのであります。
 その中で、私が毎年楽しみにしていたのが、新島出身の方からの、「くさや」の差し入れでした。このあぶってちぎられたものを肴にしてやる熱燗は、もともとお酒やタバコをたしなまない私にも、美味しいかな?と思うところが極めて大なのであります。最も、その差し入れをしてくれた方は、もう既に他界されてしまいましたので、今はもうくさやで一杯と言う事は滅多にありませんが、今ではとても楽しい思い出となっております。
 こうして一杯やって、体を温めて、寒い夜警に繰り出して行くことを通じて感じたことは、この気忙しい時期に、町会の人達が一体感を持って街を守る、それは極めて尊い営みではあるまいか、と言う事です。
  
 街を守る事も勿論ですが、街を再生していく事も大切です。
 私の地元も、新築された都営住宅や副都心線千川駅・要町駅の開業、そしてこれからのコミュニティバスの運行をキッカケとして、町会の基盤がどのように変遷していくのかが楽しみです。
最も、豊島区はなんと言っても池袋が中心ですから、池袋駅を中心としてその周辺地域の都市再生がとても大事になってくる事は言うまでもありません。ここ数年が勝負とされている、この地域を中心としたエリアに対する都市再生緊急整備地域の指定に、注目と期待が一点に集中すると言うものです。

 平成20年を振り返ってみますと、豊島区それ自体にとって大きな変化の流れを感じた年ではなかったでしょうか。
その一番は何といっても、6月14日の副都心線の開業でしょう。池袋、新宿、渋谷が一つの鉄道で結ばれ、わずか十数分程度で行き来ができるようになったわけですから。
 最初の頃、池袋駅東西のデパート群では、顧客の流出が懸念されましたが、幸いにも、西早稲田や東新宿から、新しいお客様が来店するようになったという話しを聞いています。その一方で、三越池袋店が、平成21年5月をもって50年間続いた営業に幕を下ろし、閉店するというショッキングなニュースがありました。豊島区が「未来戦略推進プラン」という政策に示しております、「文化と品格を誇れる価値あるまち」の実現にあたり、そのあとの活用は非常に重要であり、行政側も頭を悩ますところと言えます。それは池袋・新宿・渋谷を始めとした、都市間競争の激しさを増したことを実感する出来事でもあり、池袋副都心が、これまで以上に「住んでよし、訪れてよし」という街の魅力を発揮する必要性を皆さんが感じたところではないでしょうか。
 池袋駅周辺に対する都市再生緊急整備地域の指定は、こうしたことへの街づくりの手段の一つとして大きく期待されており、この名店街ニュースをお読みの皆さんをはじめ、地元の各種団体からも早期指定の要望が極めて強いものでありましょう。都市再生緊急整備地域ともなりますと、都市計画事業を進めるに当たり、容積の割り増しなどの緩和策があり、公共貢献を伴う民間開発を誘導していくことにもなり、池袋の価値と魅力を、さらに高めるための、創造的なプロジェクトを生み出すことが可能になると言われております。池袋駅から新宿駅方面を眺めて見ますと、白い模様のコクーンタワーと呼ばれるビルが新しく建設されましたが、この建築物も、都市再生緊急整備地域の指定の中で計画されたものです。
 現在、池袋では、池袋駅東西デッキ構想の推進に併せて、周辺地域において、民間による都市開発事業の機運が高まりつつあると思いますので、こうした動向をさらに促進させるためにも、早期に都市再生緊急整備地域の指定が必要です。と言いますのも、そもそもこの根拠規定となる都市再生特別措置法は、平成24年3月までの時限立法なので、早急に民間と行政が総力を結集し、人と環境への優しさをコンセプトとした都市づくりを進め、都心部や臨海部ではなく、新宿や渋谷とも異なる個性を放ち、東京の中での役割をしっかりと果たせる魅力ある池袋副都心を築いていかなければならないのです。

 話が地元の事から池袋の事へと飛躍してしまいましたが、これからも街の皆さんと共に歩んでまいりたいと存じます。ラン・ウィズ・ユー(run・with・you)。今年はこれをもちまして、つたない読み物(?)を終わらせていただきます。この一年、誠に有難う御座いました。
 みな様、良いお年をお迎え下さい。

2008年11月18日火曜日

児童買春・児童ポルノ撲滅

撲滅などと大そうな言い回しを使ってしまいましたが、最近の新聞報道からしても、子供たちをめぐるわいせつ関連事件の多さと言ったら、目をそむけたくなる程の勢いがあります。何時ごろの記事だったかは覚えていませんし、それが新聞だったか、週刊誌だったか、あるいはサピオ(これ好きなんですよね~)かは忘れましたが、いまどきの女子高校生の多くが、将来の職業として何になりたいか、との問いに対し、「キャバ嬢」との答えが一番多かった旨の記事を見たことがありました。冗談半分の、お笑いをとる意味も込めた設問だったのかは分かりませんが、昨今の世情からすると、笑って済ませる事は出来ない感じがします。特に最近目立つ事は、児童ポルノ関連の摘発事件の多さではないでしょうか。
~ファイル交換ソフト:イーミュールを通じて児童ポルノ動画が国内外のユーザーに提供されていた事件で、埼玉県少年捜査課は12日、都内に住む36歳の会社員を「児童買春・児童ポルノ禁止法」違反容疑(提供目的所持)で逮捕。これに関する逮捕者は3人目。同容疑者が提供した動画は約10ヶ月で25万回ダウンロードされていたとの事。警察当局の取調べでは、同容疑者は10月16日頃、世界中の不特定多数に提供する目的で、児童ポルノの動画ファイル1個をイーミュールの共有フォルダーに保存した疑い。3容疑者のフォルダーには、猥褻動画や画像が約2千個保存されており、それぞれが5万から25万回ダウンロードされていたとの事~。

さて、児童買春・児童ポルノに係る行為等の処罰および児童の保護等に関する法律(通称:児童買春・児童ポルノ禁止法)というのがありまして、これは平成11年(1999年)という、ごくごく最近に施行されたもので、18歳未満の児童ポルノ画像の「販売」「頒布」「撮影」「インターネット上での画像提供」を、主に規制対象としております。当初はこの法律が大活躍して、児童ポルノ画像の規制を通じて、子供達を商業的性搾取から救ってくれるものと信じられましたが、なかなか事はそう単純にいきませんで、オミットされる事柄・局面がボロボロと出てくるといった状況があるようです。
そこから、ようやく平成16年(2004年)の児童買春・児童ポルノ禁止法改正により「販売などの目的」がなくとも、児童のわいせつな画像を「交換」し合う行為も処罰の対象に加わりました。
この法改正は、一定の効果をあげてはおりますが、依然として児童ポルノに関する犯罪件数は、何度も言うようですが、年々増加する傾向にありまして、しかも個人を特定することも困難な状況にあります。

では、諸外国での児童ポルノ規制に関する取り組みは、どうなっているのでしょうか。
海外の取り組みを見てみますと、我が国と比較して、かなり大胆かつ思い切った取締りをしていると言う事ができると思います。
特にアメリカのFBIの児童ポルノの摘発作戦はお見事でして、「イノセント・イメージス」や「オペレーション・キャンディマン」など、コードネームまである始末です。
実効性のあるやり方の一つに、「単純所持」(「持っているだけ」という状態)の者の罪を問う事が出来るようにする事です。勿論、単純所持が違法化された場合、いくつかの問題と危険性はでてくるでしょう。
しかし、現に日本国内で、唯一単純所持を違法として罰している奈良県の条例:「子どもを犯罪の被害から守る条例」が平成17年(2005年)7月1日に公布・10月1日に施行されて、何か大きな問題が生じたでしょうか。
むしろ、訳知り顔をして、やれ「罪刑法定主義」の中の「明確性の理論」とか、「表現お自由」とかを持ち出して、単純所持の規制を問題視して、児童買春・児童ポルノの氾濫を座視していることの方が罪深いのではないでしょうか。
加えて、先進8カ国(G8)で「単純所持」を処罰対象としていないのは、日本とロシアのみであります。今日、グローバル化が進みまして、国際社会において各国が足並みを揃えて協力していかなければならない情勢の中、これは非常に残念なことでもあります。

「単純所持」を規制していない現行法の問題点は沢山あると思いますよ。
先ず、前述した事件でお解かりのように、現行法ではインターネット上に児童ポルノ画像を、掲載する(アップロードする)ことが違法ではないことから、違法画像がインターネット上にアップロードされることで不特定多数のインターネット利用者の手に行き渡ってしまい、結局のところ児童ポルノ画像の拡大、増加につながってしまうという最悪の事態を引き起こしています。
次に、被害者に関しても、無数に・永遠に、自身のポルノ画像が存在すると考えることで、不幸にも被害に遭われた当該児童の立場としては、周囲の人に自分のポルノ画像を見られたのではないか・・・、と永遠に恐怖に怯えていなければならず、不当に大きな精神的苦痛を強いられることになります。
さらに、児童ポルノ画像がインターネット上に散乱しているために、児童ポルノ画像を潜在的性犯罪者が目にすることで、児童に対する性犯罪を引き起こす引き金となってしまう危険性が常に存在します。

これらを予防するためにも「単純所持」だけでも規制されるべきではないでしょうか。パソコン内あるいは実際に手元に児童ポルノを所持する「単純所持」を規制することで、多様な問題や犯罪の危険性を根本から解決できる方向に向かうと信じております。

最近若いアメリカ大統領が出ましたね~。
イエス・ウィ・キャン(バラク・オバマ)でいきましょう!!
昔骨のある牧師が居ましたね~。
ウィ・シャル・オーバーカム(マーチン・ルーサー・キング)ですすめましょう!!

2008年10月19日日曜日

この夏の若者たち

 この夏、私の事務所の門を叩いた若者は、男子8名・女子7名の総勢15人で、過去最高を記録すると共に、どの若者も個性的でかつ能力がありました。ある若者が、トッフルだか、トイックかは忘れましたが、920点近い点数である事が知れると、周りの若者達からネイティブ扱いされたり、またある若者は、大学生になって今まで一度もアルバイトをしたことがないことを告げると、みんなからお坊ちゃま扱いされたり、その一方で、ある若者は、色々と家庭に複雑な事情を抱えながらも大検に受かって今大学生をしていたりと、まさに十人十色、様々な境遇の若者がやってまいりました(一つ特徴的な事として、今回は何故か、愛知県出身の若者が4人もいたことですかね~)。
 今回も色々なところに若者を連れて回りました。先ずは区議会で行われる各種会議への参加は勿論ですが、私自身今仰せつかっている役目上、永田町にある自民党本部にもあしげく通ってもらいました。因みに党本部では、普段党幹部がプレス発表する場所に、自身もポーズを取ってみたり、また4階の自民党総裁の部屋に連れて行ってその椅子に座って記念撮影したのはいい思い出でした。
この夏は色々な出来事に出くわすと共に、良いめぐり会わせもありました。その一つが、まだ記憶に新しい「自民党総裁選」です。若者の研修期間中にまさか総裁選があるとは思いませんでしたし、ここに小池ゆりこ陣営のメンバーとして参画したことは、まさに一生に一度の体験でしょうから、ほとんど全ての若者が興奮していたと共に、喜んでくれていました。
もう一方で大事な活動が、私の地元で行われる諸々の催しへの参画です。ここでの鍛え上げがあってこそはじめて、若者に対して現場で行われている「裸の政治」を伝える事が出来るのです。地元町会の会合への出席は勿論の事、地元町会の盆踊りのお手伝い、地元の氏神様のお祭りのお手伝いなどなど、若者達には地域の中での人間の営みや、人と人との絆を感じ取ってもらいます。現場では特に、「理屈で人は動かない」「助けは求めるものではない」などなど、容赦なく本橋語録が飛び交ってきます(うるさいオヤジだな~、さぞかしそう思った事でしょうね)。
最も、この夏の若者には申し訳ないことがありました。それは、研修期間中に私の父が亡くなり、葬儀・告別式と相成って、若者達の面倒を見れなくなってしまった事です。一度はみんなを集めて研修の中断を相談し合ったのですが、むしろ逆に、それも皆で手伝おうと言う事になってしまい、私としては恐縮するやら嬉しいやら、この夏の良い思い出です(あんときゃ、泣けてきたねぇ~)。
こうして四季を通じて若者の育成に全力をあげて取り組んでいる私ですが、その評価はと言いますと?いやいや、これはやはり第三者に委ねたいですね。その第三者とは、地元町会の人たち、私の後援会の人たち、そして名店街ニュースをお読みの皆様方です。
今回も無事、事件事故もなく、15人の若者達が一応巣立っていきました(居残り組みも多いんです)。その代表的若者の言葉を紹介させていただき、私と今の若者が何を目指しているかを汲み取って下さいますと、有り難いです。

               『壁』       中央大学3年 大島宏介
「議員」と「市民」。そこには小さくない壁を感じてきた。言ってしまえば「議員」は特別な人で、「市民」とは違う人種とまで思っていた。しかしそれは当然おかしなことだ。民主主義の構造上、議員は庶民の代表であり、庶民の声の代弁者であるべきなのだから。だが、20歳となり選挙権を得たことで、私の政治への意識が高まり、そういった論理を理解していても感じてしまうこの障害の認識を変えたくなった。政治家、特に国会議員は普段の生活の視点から言えば、新聞の文字やテレビのニュース、ワイドショーで目にする、いわばテレビタレント同然の位置にある存在であった。実際に目にするのも選挙活動やビラ配りくらいのもので、他にどういった活動をしているのかなんて想像もできなかった。だから、区議団幹事長をしている本橋さんが地元の夏祭りの手伝い・裏方の仕事をしているなんて思いも寄らなかった。
振り返ってみると、最初の驚きは、本橋議員に初めてお会いした面談のときのことであった。「議員事務所」。この言葉から皆さんはどういった建物、部屋を想像するであろうか。私はテレビドラマのような、無機質にきちんと整った部屋を思い浮かべてしまっていたのだが、その予想はいい意味で大きく裏切られることとなった。本が壁一面の棚に並べられた和室。たったこれだけのことではあったが、私と「議員」の間の壁はそのときから少しずつ薄くなり始めていた。
今回多くのことを経験させていただくことができた。議員の方々が主に使用する区役所のフロアを案内していただけたり、普段は行われていることすら知らないような、しかし重要な協議会を傍聴させていただけたり、町内会夏祭りの運営側のお手伝いをしたり、また、より政治的な活動としては街頭演説でのビラ配り、ポスター貼りのお願いに回ることなど、日常生活では遠い位置にあったさまざまなことを経験した。そして、それらのことから私は多くのことを学んだ。とても原初的な、隣人との関係・隣人への気遣いが政治という局面においても重要視されていることには驚きを感じずにはいられなかったし、またビラ配りやポスター貼りでは、今までは受け取る側・お願いされる側しか知らなかったが、手渡す側・お願いする側を経験できたことはとても貴重な体験であった。また、必要とされるマナーや言葉遣いはそれなりに自信があったのだが、その自信が打ち砕かれたことは就職し社会人になることを一年半後に控える僕にとって非常にありがたいことであった。ときどきではあるが、本橋議員と直接お話を出来たことも貴重な経験であった。一番心に残っている言葉がある。これは面談後の言葉だったと記憶しているが、本橋議員の事務所の本の多さについて私が話した時に、演説等をする際の知識量について本橋議員が語ったものである。「ああいうところで話すのにはしゃべっている内容の10倍の知識がないとしゃべれないんだよ。」この言葉は常日頃、自身の知識の不足を嘆いている私にとっては大変な驚きであったし、過密な日程の中、徹夜で作業することもあったようだが、いつそういった膨大な量の本を読んでいるのか不思議に思い、また若い頃からの積み重ねの賜物なのかなと感じたことを覚えている。「議員」。私はこの言葉に以前ほどの壁を感じなくなった。これが一番の収穫かもしれない。これから先、私がどういった形で政治と関わっていくのかはわからないが、今回の貴重な経験が私の糧となり、「政治」「議員」というものを考えていくに当たって大きな役割を果たしていくことになるであろうことは自信を持って、言える。            以上

2008年9月17日水曜日

カンボジアにて

 過日、私が所属する会派(自民党豊島区議団)を中心としまして、カンボジアまで行ってまいりました(いや~、暑かったですぅ~)。
 この名店街ニュースにて幾度となく言及しましたように、豊島区が再生自転車を海外譲与して、かれこれ20年が経過しております。この20年を一つの区切りと受け止め、そもそも我が街豊島の再生自転車が、一体全体海外、特に今回はカンボジアにおいて、どのように活用されているのか、果たして本当にカンボジアの保健ボランティアの皆さん達に喜ばれているのか、これら一連の事柄を見て・聞いて・知っておく事は、未だに放置自転車ワースト二位・三位(大塚駅・池袋駅)を維持してしまっている豊島区にとって、かつ本区が『品格』と謳っている意味においても、極めて重要であると思ったからです。

恐縮ですが、ここでおさらいをさせて頂きますと、この再生自転車海外譲与事業は、昭和63年に豊島区が、引き取り手のない放置自転車のうち、優良な自転車375台を整備して、母子保健向上に苦慮している開発途上国に送ったことをきっかけに始まった、国際貢献事業です。そして、平成元年、豊島区が発起人となり、23区や近県各市の自治体と家族計画国際協力財団(ジョイセフ)と共に、「再生自転車海外譲与自治体連絡会(ムコーバ)」を立ち上げ、今年で活動20周年を迎えることができたわけです。この再生自転車の譲与は1台で600~800人の村人の健康管理をすることができ、現地では二輪救急車や家庭訪問活動などに利用されています。また、「命を救う足」とも呼ばれ、非常に感謝されており、20年間の活動の中で発展途上国における母子保健向上に多大なる貢献をしてまいりました。

さて、私自身「豊島区自転車駐車対策協議会」を通してこの事業と出会い、この事業を分析して参りまして、これは金銭的支援とは異なり、支援を本当に必要としている人のもとに届く、草の根活動だと思うに至っておりますし、地方分権が叫ばれる今の時代、国ばかりに頼らない、自治体だからこそ出来る、息の長い草の根活動が必要だとも思っております。現在でも発展途上国では、自転車という交通手段を含めた物資の不足により、母子保健がまだまだ遅れている状況が歴然としてあります。そこから、さらなる再生自転車海外譲与事業の拡大化が必要と思っておりますし、今後もこの事業の普及促進を通して、継続的に途上国の母子保健向上に努め、自治体として国のODAなどでは成しえない草の根活動によって、母子保健向上に向かったムーブメントを起こしていきたいと考えております。その目的は、発展途上国の母子保健向上のためであります。

最も、その意義・目的は分かって頂けたとしても、その前に豊島区の課題は山積しているわけですから、海外の事よりもこっちの方の解決が先でしょ、とのご意見が出てきそうですね。

ただ、戦後日本は高度経済成長を果たし、その効果もあって途上国なみだった乳児死亡率や妊産婦死亡率が低下するとともに、人口増加率も安定し、戦災による焼け跡から急速に復興を成し遂げたアジアの国として国際的に注目されたという歴史的経緯があります。資源の乏しい日本としては、国際協調・国際貢献は極めて重要な国是であるはずですし、国際社会からはその経済成長の経験を、発展途上国へ支援という形で生かすよう求められるのは必定であります。そうであるならば、日本の・東京の・我が街豊島も、そのための一翼を担う動きを、言われてからするのではなく、こちらから積極的にアクションする責務があると、私なんぞは思うのであります。

また、支援する環境も整っているのが昨今ではないでしょうか。
昭和43年には、途上国の人口増加に伴う食糧危機、保健医療や貧困問題、人口増加と開発のバランス等についての国際協力を行う、家族計画国際協力財団(ジョイセフ)が創設されました。ジョイセフは、これらの母子保健の活動を続けながら、本年創設40周年を迎え、長期にわたり母子保健福祉に貢献しております。 
昭和63年7月には、豊島区は母子福祉分野で国際協力を行っているジョイセフの協力を得て、母子保健等のボランティア活動の交通手段に限定して、引き取り手のない放置自転車のうち優良なもの375台を整備して、マレーシア、フィリピン、ザンビアに送っております。
平成元年には、豊島区は、このような保健福祉分野の国際貢献事業の普及促進と、撤去されて引き取り手のない自転車の有効利用を図るため、本事業の発起人となり23区や近県の各市に呼びかけ、豊島区、文京区、大田区、世田谷区、川口市、大宮市(現さいたま市)の6自治体とジョイセフで「再生自転車海外譲与自治体連絡会(ムコーバ)」を発足しております(何度も言って恐縮です)。本連絡会では、平成元年の発足以来20年間で、90カ国56,225台の再生自転車を途上国の医療、保健福祉分野で活躍する方々の交通手段として譲与し続けてきました(平成8年には、本連絡会の加盟自治体が15自治体まで増えたものの、現在は13自治体となり、そのうち2自治体は休止状況となっております)。
現在、自治体以外では、この趣旨に賛同した財団法人自転車産業振興協会と財団法人東京都道路整備保全公社、株式会社ロッテより助成金、日本郵船グループよりコンテナをいただいております。
 
カンボジアの現地の村の奥にまで行って見て、母子保健・福祉衛生の説明を聞くほどに、まだまだ母子福祉医療分野は遅れていることは厳然たる事実であることが分かりました(特に、若い女の子の妊娠は深刻です)。また、現地でも他国産の自転車は販売されているものの、日本の再生自転車の方が遥かに丈夫で長持ち、しかもスペアタイヤ付きで海外譲与しますから、至れり尽くせり。大勢の現地保健ボランティアの方が再生自転車を求めていました。
視察の三日目、プノンペンの現地の母子保健センターで、豊島区が送った150台の再生自転車の贈呈式典が盛大に行われました。席上、私たちは、再生自転車が活用され、カンボジアの保健福祉衛生面の向上に貢献している事を誇りに思うと共に、これからも支援の手を差し伸べる旨を伝えました。他方、それを受けて、隣に座っていたカンボジア保健大臣が豊島区に対して感謝の念を述べました。 
その後、再生自転車一台一台を、会場を埋め尽くした150人の保健ボランティアの一人ひとりに渡していきました。その譲り受ける際の、嬉しさで輝くような瞳を見るに付け、日本そして豊島区は期待されていると肌で感じました。

子供とネット

 最近の新聞でも特集をしていましたが、PHSを含む携帯電話は、もはや通話目的だけではなく、GPSやメール、そしてインターネットなど、様々な用途に使われるツールとしての「ケータイ」となっており、児童や子供達にとって多大な影響力を及ぼしていることは周知の事実と言う事が出来るでしょう。
 報道によりますと、日本のPTA全国協議会の調査で、「深夜でもメールのやり取りをする」が小学校5年生で11%、中学校2年生で51%。「返信がないととても不安になる」が小学校5年生で18%、中学校2年生で24%もいるとの事であります。しかも、私もはじめて聞き及びましたが、子供の世界には、なんでも「30分ルール」というものがありまして、この時間内に返信をしないと、お互いの友情が崩れてしまうそうであります。そこから、子供達は、食事中も、入浴中も、四六時中携帯を手放せない状態に置かれるそうです。「嫌われたくない」という強迫観念が、自分自身の脳裏や心の襞に埋め込まれてしまい、常に精神的に緊張状態を強いられている今の子供達を見るとき、それはある意味「残酷」である、と言っても宜しいのではないでしょうか。小学生・中学生の頃は、何よりも「大自然の摂理」に従って、五感を研ぎ澄ますことが大切な時期であるのにもかかわらず、いつも「ピコピコ」と電波が入ってきて「今何しているの?」と用もなく聞かれてしまう。これでは人間がデジタル化してしまい、極めて危険ですし、かつ由々しき事態です。お互い顔を合わせて話す機会が減れば、その表情から微妙なニュアンスを読み取る力が育たず、親御さんの言葉さえ十分に受け止めることが出来なくなり、一家の団欒にも、ひいては家族の絆にまで悪影響が出てしまうと思います。

 「一般社会」というような大きな括りで言えば、そこには商売なら商法が、裁判であれば訴訟法が、自動車なら道路交通法がといった具合に、分野ごとに明確なルールを見つけることが出来ますが、こと「ネット」の分野は、ある意味では無法地帯と言えます。少し前から言われるようになった「メディア・リテラシー」と言う言葉は、テレビや新聞、雑誌、インターネットなど、あまたの情報媒体から自分が摂取すべき情報を正しく取捨選択する能力のことを言うわけですが、判断能力の乏しい児童や子供に、このリテラシーを要求するのは不可能ではないでしょうか。そうだからこそ、出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれたり、学校裏サイトと言われる掲示板で、陰湿な苛めにあったり、ブログに「死ね」とか「キモイ」とか書き込まれて、正しく受け止められず、自殺してしまう痛ましい事件・事故が起こるのではないでしょうか。自我が未発達な児童や子供は、同年代の影響を受けやすく、携帯の正しい使い方を教えても、きちんとはコントロールすることもままなりません。いっその事、携帯から開放してあげる事が、子供を守る最も適切な対策かもしれませんね。福田首相も同じような認識で、政府の教育再生懇談会に対して、「そもそも持つ必要があるのか議論してほしい」と指示し、今年5月にまとまり、5月26日に福田首相に提出された教育再生懇談会報告書では、「必要のない限り、小中学生が携帯電話を持つことがないよう、保護者、学校はじめ関係者が協力する」「安全確保の面から持たせる場合でも、通話やGPS機能のみの機種を推進する」などが盛り込まれました。久しぶりに良いことを言うなと感じましたっけ。是非、社会総がかりで子供を守るメッセージとして、国民全体が真剣に受け止め、携帯を買い与えようとする親御さん達が考える切っ掛けとなってほしいところです。

 報道によれば、サイト管理者の問題が指摘されていました。学校裏サイトの管理者が問題のある書き込みの削除を怠ったとして、苛めを受けた原告が訴訟を起こしている例もあるとのことです。こうした管理責任を問われるのは当然としても、例えば、ブログの場合は、自分が管理者となるところから、管理責任さえ問えばよいという問題でもないことを認識する必要があります。これだと言う簡潔明瞭な解決策は見い出しにくいものの、その包括的な解決策を見つける上で大切なことは、「子供は保護されるべき存在」であると言う認識が徹底される事です。そして、その責任を負うのが、まさに父母などの保護者・親御さんであり、学校であり、地域、団体、企業、メディア、行政機関、そして立法機関です。社会総がかりで、有害情報から児童・子供、若者、ひいては家庭を守らなければなりません。

 そのような意味では、6月11日に、参議院本会議で賛成多数で可決、成立しました「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」(通称:青少年ネット規正法)は、間違いなく一歩前進と言うことが出来ます。しかし、そこには、「子供は保護されるべき存在」である、との認識の下、まだまだ乗り越えなければならないハードルがあると考えます。成立した新法では、18歳未満の子供がネット上の有害な情報を閲覧できないようにする為、携帯電話事業者にフィルタリングサービスの提供を義務付けたり、PCメーカーにはフィルタリングソフトの利用を容易にする措置を義務付けたりしていますが、これらの規制の多くが、努力義務であり、罰則が設けられていない為、その実効性に大いなる疑問があります。そこから、子供にせがまれてフィルタリングを解除する親も多いと聞いております。また、新法では、有害性の判断は、民間の第三者機関に委ねられ、国の主体的関与は排除されております。児童ならびに子供達は国の宝ですから、その宝を守るためにも、例えば、内閣府内に第三者機関を設置し、有害かどうかを判断するといった、毅然としたシステムを作る事が必要です。
6月6日の衆議院本会議での可決に際して、新聞協会は「有害情報の定義について、表現の自由の観点から、国が関与すべきではない」との懸念を表明したとのことですが、保護されるべき子供への規制が、表現の自由の侵害になるという協会側の主張は、所謂「拝金主義的」とのそしりを免れないものと、言う事が出来るのではないでしょうか。
日本の資本主義は倫理観あってのものであり、ある経済人曰く「道徳という土なくして、経済という花は咲かず」なのであります。
今こうしている間にも、例えば、出会い系サイトとか、硫化水素自殺を助長する自殺系サイトとか、諸々の有害サイトに影響された事件・事故がどんどん起ています。我々大人達は今、厳しいネット環境に放り出されている児童・子供達を、有害情報・サイトから守るべく、更なる実効性あるシステムを積み上げるべきなのであります。

拉致があかない

 7月12日、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の首席代表会合が、「消化不良」のまま閉幕してしまいました。拉致事件の早期解決のため北朝鮮に対する経済制裁措置の一部解除に反対する行動が全国各地で起こっているなかにあって、この会合の内容を新聞報道で知ったとき、何かシラッとしたものを感じたのは私だけではなかったのではないでしょうか。と言いますのも、北朝鮮の核計画申告の検証方法は、細部にわたってまで合意出来なかったわけですし、そうなると日本政府はかねてからこの細部についての合意作りが先決問題としていたわけですから、必然的に検証の時期も遅れてしまうことになります。

 さて、先月の11日と12日に、約9ヵ月ぶりとも言える、日朝公式実務者協議が北京で開かれました。当時の私の記憶には、昨年の9月に、拉致問題を「私の手で解決したい」と、ご本人としては珍しく断定調で明言された、当時首相就任直前の福田康夫自民党総裁の言葉が強く残っています。そこから、先月の北京での実務者協議で、「拉致問題」の解決をはじめ、これからどう日朝関係が進展していくのかを、日本人の一人として大いに期待していたところでした。
 しかし、実際はどうでしたでしょうか。
 すでにご案内のように、北朝鮮は「拉致は解決済み」という立場を変更して「再調査」をすること、また日航機「よど号」乗っ取り犯とその家族を引渡すことを約束し、他方、我が国は、経済制裁措置の一部解除を実施することを約束しました。これを受けて、米国政府は、6月26日に、テロ支援国指定解除を議会に通告したとのことであります。

 「拉致問題の再調査」と「よど号犯とその家族の引き渡し」で、制裁を一部解除する。これを聞いて唖然とした人は多かったのではないでしょうか。何度も聞かされ、ある意味騙されてきた「再調査」で、なぜ我が国は制裁を一部ではあれ解除するのか、と。

 そもそも「再調査」という言葉自体が詭弁ではないでしょうか。例えば、誰か日本人が北朝鮮で登山をしていたところがけ崩れに遭い行方不明になったという場合なら、北朝鮮側に捜索をお願いしたり、それでも見つからないから「再調査」をお願いするというのならわかります。しかし、そもそも誘拐犯自身が「自分が誰を誘拐したか再調査する」というのでは話になりません。
 
 「拉致問題の解決」とは、我々が全く知らない人も含め、拉致被害者をすべて取り返すということであります。勿論、その後、真相究明やこれに関わった関係者の処罰が必要なのは言うまでもありませんが、兎に角、拉致被害者を全員取り返すことが先決事項であります。そして、これらの人を取り返すためには北朝鮮で誰もが自由な意思表示をできるようにしなければなりません。「自分が拉致被害者である」と名乗る事ができるようにし、あるいは自由な調査ができるようにすることが大切であって、そうする為には、北朝鮮の体制変更が必要になるでしょう。
 政府の責任は、あくまで「拉致被害者全員を救出する」ことであります。その中の一つの手段として「北朝鮮との交渉で帰国させる」が入るのでなければなりません。もし話し合いができないのであれば、別の物理的力を使ってでも取り返すという選択肢が存在するのは当然ではないでしょうか。勿論、北朝鮮からシリアに核拡散した今、イスラエルがシリアの核施設を空爆した選択肢は、現時点では、我が国は採ることは出来ないでしょう。ただ、北朝鮮が従来の立場を変更して、拉致問題での協議に臨んできたのは、この間の我が国と国際社会からの圧力が効果を上げたからである、との見方がもっぱらであります。そうであるなら、政府においては、「拉致問題の解決なくして、国交正常化はない」との方針の下、むしろ経済制裁措置の期限延長や、追加制裁措置の実施など、なお一層の効果を上げるための圧力強化のカードを切ることの方がより重要なのであって、未だに拉致被害者全員の帰国が実現していない中で、一部ではあれ経済制裁措置を解除することは絶対にあってはならない事なのであります。

 実務者協議の出席者の一人の斉木昭隆・外務省アジア大洋州局長は、6月13日に行われた、拉致被害者家族会への報告の終わりの頃、「(交渉は)出発点に戻った。交渉のプロセスを動かすために布石を売っている。あとは向こうがどう行動を起こすか」と発言されたとのことです。
その場に居合わせた方に、その時の雰囲気を報道機関が取材しており、その伝えるところによれば……。
「この言葉を聞いた家族会の人の表情からは失望というか落胆というか、なんともいえない思いが感じられました」
「また初めからやると言うのか、家族会ができてからこれまでの十一年はなんだったのか、という感情が何人もの家族から見て取れた」
との事です。
横田めぐみさんの拉致が分かってから、9.17小泉総理の第1回訪朝までが約6年弱、そしてそれから現在までがまた約6年弱です。ここでまた我々は重大な、「停滞」という壁に突き当たろうとしています。
横田めぐみさんの母・早紀江さんは、この拉致問題の風化が一番怖いとして……。
「核問題も拉致問題も、人間のいのちを台無しにする大変な問題です。どちらもいのちの問題として、一つの力で訴え続けて」
このように、政府と我々にいつも呼びかけています。

 拉致問題は我が国の国家主権と、我々のいのちと安全・安心にかかわる重大な犯罪あります。
何度でも申し上げますが、政府は、「その解決なくしては北朝鮮との国交正常化はない」との方針を是非とも貫徹すべきですし、北朝鮮に対しすべての拉致被害者の安全確保と速やかな帰国を強く求め続けなければなりません。
それまでは、「対話と圧力」「圧力と交渉」との観点から、引き続き経済制裁措置を行う事が絶対に必要なのであります。

氷解

 あれは高校3年生の夏、二学期の始め頃でしたでしょうか?担任の先生(体育と陸上部の先生です)から休み時間に頂戴したお小言がありまして、それは未だに忘れずに覚えております。
 「なんだぁ、本橋はまだ小学生気質が抜けないのか」
そう言われた時は、先生が一体全体どういう意味で、何を、如何させようとしてそのように言われたのかが、はっきり言ってピンときませんでした。ただ、ひとつだけその時感じた事は、担任の先生が、その時の私の「イデタチ」を、シゲシゲと見ながら言われたので、どうやら私の体育着の短パン姿に着目して小言を言ってるな、ということです。
 当時の私は、アメリカンフットボール部の強面の副主将として、主将が皆に対して言えないことも、あえてズケズケと言う、所謂ヒール役を演じていました。当時の後輩達は、さぞかし本橋先輩は怖い、との印象を持っていた者が多かったと想像します。もっとも功績もありまして、あまり意味も無いしごきを適宜廃止していったことで、シゴキに嫌気がさして退部する者がグッと減った事であります。その意味では、当時のOB達からしますと、私は「改革派」と見られていたようです。OBが練習を見にきて、ソレを求めてきても、私達の代は拒絶した事が多かったと思います。
 ただ、どこかの相撲部屋の親方ではありませんが、私自身は、ある一定程度の「可愛がり」は必要だと思っています。さもなければ、上手くは成っても、強くはなりませんから。



 さて、3年生ともなると、かなり高校生活の要領も心得ておりまして、朝の電車も、遅刻という事態が生じないように、遅くとも池袋発午前7時45分の準急に乗って登校してくるようにとの学校側の生徒指導も軽んじて、自宅から歩いて最も近い駅である「大山駅」発午前8時ちょい前の各駅停車を使うようになっていました。なぜなら、これだと確実に座席に座る事ができて、かつゆったり出来るからです(お年寄りぃ~)。


 同時に、構内での態度も1・2年生の頃よりは確実に大きくなってきまして、1・2学期の夏期などは、朝登校してきて自分の机の上に荷物を置いた後(この荷物も部活の着替えぐらいでして、教科書・ノート類はロッカーに常駐)、直に、制服である学生ズボンを脱ぎ(今、何でも母校は私服だとか)、体育の授業ではく短パンにはき替えるのを常としていました。ですから、授業は短パン姿で受けていたのです。なぜそうするのかと申しますと、少しでも、放課後の部活の為に余力を残しておこうという配慮の一点に尽きまして、特に暑い日などは、上に来ているボタンダウンのワイシャツも、襟をさらに外側に倒す・折り曲げる等して、少しでも涼しくして過ごすことだけを考えていました。
 先程の担任の先生は、まさにその姿・格好を見て、本橋は小学生のままだな的発言をされたわけです。



 過日、母校である高校の、附属小学校に視察行ってまいりました。 この小学校は、児童の安全確保をトコトン追求しており、その観点から、全国的にもかなり早くから、児童のランドセルにICタグを取り付けた実績があります。「RFIDで登下校時の完全把握」とのスローガンを掲げ、この小学校では、ランドセルに取り付けたICタグの電波を正門のアンテナで受信し、児童の登下校の時刻を完全把握しており、正門をただ通過するだけで、学内のコンピューターに、児童の登下校時刻が記録されます。携帯電話やコンピューターのメールアドレスを登録された保護者の皆さんには、児童の登下校時刻を知らせてくれたりもします。教職員と保護者の両者が協力して児童の登下校時刻を把握する事で、安全確保のレベルを高めてもいるわけです。また、ICタグには、シリアルナンバー以外の情報は登録されておらず、万が一紛失したとしても、個人情報漏洩の危険性は最低限に抑えられているのです。さらに、「学内の安全向上」とのスローガンから、有人監視として正門に警備員の常駐所を設け、児童の在校時間中警備にあたるのは勿論、学内の死角になる場所には防犯カメラを設置し、モニターを警備員が常に監視しています。同時に、下校時には、保護者の方々が交代で、路線別の通学路の見回りをも行っているのです。


 
 豊島区立の小学校にも同じようなシステムの導入が必要です。それは「大阪大学附属池田小学校児童殺傷事件」を思い出して頂ければ明らかであり、しかも、ついこの間の「秋葉原無差別殺傷事件」に見られるように、誰が何時どこからどのような手段で攻撃してくるか予想も付かない時代になってしまっているからであります。


    
 これらの事を視察して回っていながらも、未だかつて母校の高校の附属小の建物内は見学した事がありませんでした。ものはついでにと思い、授業風景を見させてもらうべくお許しをもらい、各教室を見て回りました。その時、私の目に飛び込んできた光景は、なんと全生徒が体操服で授業を受けているのです。どうやらこの小学校では、登校するや否や、体操服・体育着に着替え、それでもってすべての授業を受ける事に決まっているのです。
 私は勿論、豊島区立の小学校出身者です。こんなことはありませんでした。つまり登校した時の服で授業を受けていたのです。そこで初めて担任の恩師の発言の真意が分かりました。つまり、恩師は私がこの付属小から上がってきた生徒であると勘違いされたことを。
 私、この付属小には入り、かつ出られるほどの「おぼっちゃま」ではありませんけど・・・・・・。

2008年6月3日火曜日

ムコーバ

豊島区が放置自転車対策の一環として、海外に向けて再生自転車を譲与し始めてから今年で20年が経ちましたが、このことを住民の皆さんに説明しても、いま一つピンときてくれないところがあります。
それは、放置自転車と言いますと、それが道路隅にズラッと並んで放置されていれば、救命救急の時や災害の時の救援救助の邪魔になりますし、また、それが黄色い点字ブロックの上に跨っていれば、目の不自由な方々にとって通行の邪魔者でしかありません。その意味で、放置自転車の一言からくる、ネガティブな印象が根本原因かもしれません。
 ところが、この国内において邪魔者の放置自転車も、一度お色直しをして国外に出してみるとかなりいい線をいっており、この大活躍ぶりを知っている方はそう多くはないようです。





そもそもムコーバ(MCCOBA)と言いますのは、日本語で言う「再生自転車海外譲与自治体連絡会」を、英文で表記した場合に並ぶ単語の頭文字だけを摘んだもので、その目的は、撤去された放置自転車の中で、引き取り手が無く且つまだまだ十分使えるものをメンテナンスし、再生自転車として「アジア」「アフリカ」「中南米」等の開発途上国に無償で譲与し、保健医療福祉関係に携わる人達の交通手段として利用してもらい、各国の福祉衛生の向上・発展に少しでも寄与して、日本の国際貢献・国際協力を高めるところにあります(次ページ資料図を参照)。




現在ムコーバに加盟している自治体は、全国約1800自治体ある中で13自治体と極々少なく、23区では豊島区を始め文京区・練馬区など…、また遠くの方では広島市などです。この13自治体の中で豊島区が全国に先駆けて放置自転車対策の中に「海外譲与」というオプションを設け、その実績を基に「ムコーバ」という組織を作り上げました。自治体別海外出荷台数を見ても、この20年間の総出荷台数53,175台の内、豊島区が第一位の10,656台で、第二位の川口市の7,046台、第三位の武蔵野市の4,724台を軽く押さえて、ダントツの五桁を記録しているのです。





ただし海外での評判は、何も豊島区から来た再生自転車が一番良いということはありません。それは決して残念なことではなく、むしろ「お色直し」がしっかりと、均等に出来ているからに他なりません。13自治体共通の「自転車再生整備基準」というのがありまして、海外に譲与するには、例えば、サドルが汚れていれば取り替える事とか、スタンドは必ず両立てスタンドにする事とか、後部荷台を必ず取り付ける事とかが事細かに決まっているのです。




こうして機能的に仕立て上げられた自転車が開発途上国で役に立たないわけがありません。各国には、看護師さんや助産婦さんが、素足で(?)且つ時間もかかって駆けつけていた方面が沢山あるでしょうし、また、急に容態の急変した人がいても、住民が戸板でもって人力で診療所等に運び込むことが多いでしょう。そこから、再生自転車は現地の人達から「動く宝石」「二輪救急車」「命を助ける足」、そして「神様の贈り物」とまで呼ばれ、最大級の賛辞を戴いてるとの事です。



これぞ豊島区が他の自治体に、ひいては世界に誇れる国際貢献といえるものですし、こうもヨイショされていると、是非ともこの目で現場を見てみたいものです。

お花見

4月5日、快晴の土曜日、私は生まれて始めてと言って良い、定型的な「お花見」というものに行ってまいりました。「生まれて始めて」と言いますと、「ちょっとそれ、大袈裟じゃない?」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそも基本的にアルコールやタバコ類を嗜まない私にとりまして、4月のまだ肌寒い時期に、しかも屋外で、桜を見ながら一杯やるといったことは、かなりと言いますか、ある意味思いっきり「想定外」の出来事なのであります。



実際、毎年4月の第1日曜日に、私の母校の豊島区立千川中学校校庭を使って、「4町青年会対抗ソフトボール大会」が開催され(私も高松三町目青年会のメンバーとして主に内野手で出場)、そのソフトボールの試合が終わった後、昼食をとりながら校庭にある桜を愛でることはありますが、最初から最後まで目的それ自体が桜の花を愛でながらの観光・飲食という事は、未だかつてしたことはないのであります。他方、私の家族はと言いますと、毎年4月、「千鳥が淵」に花見に行く様でして、帰ってきますと、「すごく綺麗だったよ。桜の木が見事に生い茂っていて、空が見えないくらい」との感動話を聞きます。察するに「桜ドーム」といわんばかりのその場所に私は行ったことがないのですが、もし私が見に行くとするなら、それは「靖国神社」の桜ではないか、と思っております。その靖国神社にも多くの桜がありますが、ここにある桜の内、3本のソメイヨシノ桜が、気象庁予報部の採用する「桜前線」の到来を伝える「標準木」でして、桜の開花宣言を行うための目安であることは既にご案内の通りかと存じます。



ただ、この3本のうちの1本のソメイヨシノ桜に格別思いをはせてしまうのであります。その桜の木の名は、「神雷桜」と言います。





~~~大東亜戦争末期、敗色が色濃く見え始めた戦局の中にあって、己の命と引き換えにした作戦が編み出される。「桜花」。人呼んで「人間爆弾」。「神風特攻隊」「回天特攻隊」と並び、ひとたび出撃すればもう帰還することはないという究極の作戦。「桜花」は、全長6メートル、幅5メートルの飛行機型の特攻機。約1,2トンの炸裂弾を前頭部に装着。その機体を一式陸攻爆撃機の下部に装着。敵艦を発見次第母親機から分離し、猛スピードで敵艦に体当たり攻撃をする。海軍の最高機密とされたこともあり、未だに全容は解明されておらず、なぞのベールに包まれている。
この「桜花」「一式陸攻爆撃機」「戦闘機」などで構成した部隊が、海軍きってのエリート集
団とも言われた「神雷攻撃隊」。この部隊に所属する人達の合言葉である「靖国で会おう」、その英霊達の集う場所が、靖国神社神門をくぐって右手にある3本のうちの1本、「神雷桜」。「靖国で会おう(あの神雷桜のもとで)」~~~






私自身、日本の桜について感じることは、その花びらの散り際の美しさであり、同時にその花びらの散り際の美しさと、自ら散華していった英霊の皆さん方の生き様との重なり合いです。その意味では、「お花見」自体一つの日本の文化として、これからも続いていって欲しいと考えております(私自身、宴会形式ではない散策形式のお花見は続けます)。


また、日本では4月が「新年度」といった形で一つの区切りとなっております。そこから3月・4月となりますと、ある生徒は卒業式を迎え、ある少年は入学式を迎える。
とある若者は入社式を迎え、またとある高齢者は退職を迎えるといったことが全国一斉に行われます。日本ではたまに、ある外国の例に見られるように、「9月入学」などを実施してみてはどうか、という議論が起きたりしますが、その都度曖昧に葬られてきましたし、それはむしろ自然な事と言うことができます。



「靖国で会おう」といって散華していった英霊達、特に「神雷桜」に集う英霊達のいない時期に、「入学式」や「入社式」そして「卒業式」などを移行させてどうするのですか。英霊達にその後の日本の「新陳代謝」を、きちんと報告できる季節がまさに4月であり、桜が開花した時期なのではないでしょうか。
     



4月5日のお花見場所は、千葉県幕張にあります「幕張さくら広場」で、ここには「ソメイヨシノ桜」が505本も植えられ、まさに桜一色の公園となっておりました。幕張新都心あります、松下電器社有地32,000平方メートルを、環境や地元の為に有効活用したいとの意図で、平成18年の4月に開園しました。設計者は、現代を代表する建築家の「安藤忠雄」氏で(同氏は元ポロボクサーとのこと…)、知名度とも相俟って、最近は日本で最も新しい桜の名所として話題のスポットとなっているとの事であります。


実際足を踏み入れてみますと確かに素晴らしく、505本の桜づくしによってあたり一面が淡いピンクの空間になり、そこに閉じ込められたようで気分も朗らかになっていくのを感じずにはいられませんでした。ただ惜しむらくは、505本の桜の木の殆どは、まだまだ若い樹木であることから、辺りはいわゆる植林したてのほやほやといった感じがつきまとい、天を仰げば青空が見えてしまうといった状態で、決して千鳥が淵の桜のように、天空を桜で覆うが如し、といったところがないところでしょうか。いずれにせよ5・6年先は楽しみなスポットではあります。



当日は、新進気鋭の「ソメイヨシノ桜の観光大使」の女性が花を添えてくれました。これは、豊島区観光協会が、豊島区を全国に発信するための起爆剤のひとつとして、豊島区発祥のソメイヨシノ桜をヒントに、過日行われた「ミス桜コンテスト」で優勝した女性を観光大使として任命したものです(任期は1年)。桜の観光大使の女性も、まだ任命されて日が浅いからか、しぐさの一つ一つに若干のぎこちなさがありましたが、それが返って評判を呼び、当日は記念撮影のラッシュが続いたようでした(さくら大使さんには、ソメイヨシノ桜を起点にして、豊島区を全国的に有名にして欲しいものです)。



さらに、当日のお花見に利用したバス11台のうち4台が、「天ぷら油の廃油で走る観光バス」でして、これはまだ日本には4台しかなく、いかにして燃料として使用する、使い終わった天ぷら油を回収するか、についてまだまだ課題があるものの、幾ら走っても大気汚染の原因となる硫黄酸化物はゼロで、しかも黒鉛は軽油の半分以下といったエコもの、じゃなくて、優れもの。


国内旅行は勿論のこと、各国世界への観光ツアーはこういったエコの観点から再度組み立てられていくことが大事と感じました。それがまた愛する祖国を守る為に散華していった英霊の皆さんの気持ちにも合い通じていくと思います。


今年も靖国の「神雷桜」は美しかったと聞いております。そこでは確実に凛とした英霊達の出会いが在ったことでしょう。合掌。

冷凍肉まん君まで!!

中国河北省の天洋食品の「冷凍餃子」君から農薬が検出されてから、安全で安心できる「食」の確保が注目を集めているわけですが、そこに今度は「毒入り肉まん」が登場するという、大変残念で痛ましい事態となってしまいました(中華まん好きの私としてはちっとも大袈裟ではありません)。



一連の中毒事件が、単なる天洋食品という一工場の、これまた「毒入り餃子」という一種類の食べ物の問題に止まらず、そもそも何故こうも中国社会において悪質食品・有毒食品が出てしまうのかという意味において、事件は更なる広がりと長期化の様相を帯びてまいりました。
  メタミドホスが入っていたこの肉まんは、実は平成18年8月2日に製造されており、1年半後の今年の2月2日が賞味期限に設定されておりました。今年の1月31日と2月1日(いずれも賞味期限内)に肉焼まん計12個を食べた広島県内の73歳の男性が、めまいを感じて2月1日に医療機関を受診した結果、軽症ということで済んだところから事件が発覚したとのことです。実際、事件のおきた広島県では、念のためということで調査したところ、食べ残しの肉まんから0・64ppm、未開封の同肉まんから0・55ppmのメタミドホスが検出されたとのことであります。






~~広島県は、この冷凍肉まんは大阪市の輸入業者ニッキートレーディングが輸入販売したものであることから、この結果を大阪市に通報。大阪市は、早速、同日(平成18年8月2日)製造の冷凍肉まんの在庫品や自主回収分を対象に検査を実施。 この結果、皮や具などから 0・22~0・64ppmのメタミドホスが検出。なお、袋からの検出はないとのこと。


これらの結果から、大阪市と広島県は、2月19日にそれぞれ記者会見を実施。『大阪市の食品輸入会社「ニッキートレーディング」が、中国・山東省の「山東仁木食品」から輸入し、広島県内などで販売した平成18年8月2日製造の冷凍「青島ニラ肉焼まん」から、0・22~0・64ppmの有機リン系殺虫剤「メタミドホス」を検出した』と発表。


なお、「山東仁木食品」は「ニッキートレーディング」のグループ会社である平成18年8月2日製造分の商品は同年8月21日に2500袋(1袋20個入り)が輸入され、大阪府など6府県の10業者に販売された。ニッキー社は今年2月17日までに74袋を自主回収したが、残りは消費されたとみられる(なんてこったー!!)~~

 




私の幼少の頃は、中華まんといえば肉まんとあんまんの2種類だけでして(確か?)、今のように様々な種類の中華まんがあって、その中からお好みで選ぶことが出来るといったことは考えられませんでした。しかも当時は、いわゆる駄菓子屋さんが根強い人気スポットとして君臨しておりまして(高松3丁目には駄菓子屋さんが2軒もありました)、中華まんでも買って食べようぜ!!と言ってのける子供は、当時としてはリッチな家庭・子供の部類に入っていたと思われます(私なんかよく友人と2人で一つを買って半分づつ、というパターンでしたっけ)。



その中華まんですが、これはそもそも小麦粉、水、塩、酵母などをこねて発酵させたふわっとした皮で、具を包んで蒸し上げた「饅頭」でして、中国で「包子」(パオズ bāozi)と呼ぶものに相当するとのことです。豚肉などを入れた肉まん(地方によっては「豚まん」と呼ばれることがある)や小豆餡のあんまんが代表格であるわけですが、最近のピザまん、カレーまん、海鮮中華まん、餃子まんなど、多様な変り種の中華まんも根強いファンをゲットしており、私もたまに食べてみますが、さらに美味しくなったな、今の子供たちは恵まれているな、と感じます。 また、まだ食べていませんが、「○○ロール」と呼ばれる細長い形状の種類もあるみたいです(?)。


その饅頭ですが、中国の明の時代に完成しました、いわゆる「三国志」(学生時代によく読みましたっけ…)の後半の部分に、実はこの「饅頭」の話が出てまいります。そして、この饅頭が、中華まんの原型であるとされております。






~~三国志に出てくる、蜀の国の元首:劉備玄徳の軍師:諸葛亮孔明は、国家3分の計(劉備玄徳の蜀・孫権の呉そして曹操の魏)を一応実現した後、周辺諸国の平定に乗り出す。やがて南蛮に到着すると、その地で「川の氾濫を治めるためには野蛮人の頭を川に投げる必要がある」との言い伝えを聞く。孔明はこの言い伝えに納得がいかず、人の頭を模した饅頭を作り、それを川に投げ込ませる。すると不思議な事に氾濫は治まってしまう。以来川の氾濫を防ぐため饅頭が投げられた。もちろん人の首を入れれば川の氾濫は静まるというのは迷信。孔明は、川の氾濫がいつの季節・時期に起きて、いつ静まるかを知っていたと思われる。同時に孔明は、蛮族を服従させるには武力より、そのような手段を用いた方が得策考えた~~
 



歴史的には(三国志演義はフィクションが多いですが…)多くの血を流さないですむようにといって発案された饅頭、そしてその後の中華まんが、今日では逆に人命を脅かす食べ物として認識され、警戒されてしまったことに、とても憤りを感じますし、加えて悲しいことは、今回の一連の冷凍餃子中毒事件に関して、中国語のインターネットサイトの掲示板で、「日本人の体質は毒に弱すぎ」とか、「日本人の生活環境は甘すぎ、ちょっとした事でも大袈裟に言う」とかの発言が出ていることです。
 


これからもまだまだこういった事件は続くでしょうが、その根本原因はどこにあるのかを私なりに探りますと、中国社会における①言論・報道・表現の自由と②司法の確立・自律・独立の2点が重要でしょう。現在の中国社会では殆ど報道の自由といったものがないため、報道機関として「正しい情報を伝える」「不正に対する監督機能を果たす」という使命が達成されていないですし、むしろすべての報道が党宣伝部にコントロールされてしまっております。そこから例えば、国内でのいくつかの雑誌や新聞社の編集長は頻繁に更迭されているとの事です。


また、司法の独立も依然未発達で、裁判・検察・警察の3作用は党中央ないし地方の政法委員会に属しています。そこから例えば、党幹部と太いパイプを持てば、法律で罰せられる対象外となり得、そこから社会の公正さは失われていき、悪質食品事件が揉み消されているといわれております。これらの二点が克服されませんと、依然として中国製品・中国食品の安全・安心性は世界から認められないのではないでしょうか。
 

今回もまた私は叫びます。冷凍肉まん君、ガンバレ。君も決して悪くない。君の汚名を晴らす為に、僕は君を食べ続けながら、いつでもポワロやコロンボになる覚悟だ。

2008年2月28日木曜日

冷凍餃子君

 毎日行動する上で欠かせない手帳から、いよいよ【新年会】【新春の集い】といった催し物が少なくなってまいりました。例年ですと、酒もタバコも一切と言って良いほど嗜まないのにもかかわらず、お付き合いと称して杯を重ね、帰り際には良い心もちになっていた私ですが、今年は出席する会の多さから車での移動がやたらと多く(勿論、私が運転手兼ナビゲーターです。最近うちに来る塾生はオートマ限定が多過ぎるゾ!!マニュアルをとらんかいー)、当然のことながらお酒は控えましたので、体調面・記憶面(若年痴呆?)でも、かなりしっかりとした新年会シーズンを過ごすことができました。また今年は有難くも、いろいろな団体様からお声掛けをいただき、可能な限り出席させていただいただけではなく、挨拶までさせていただけた団体さんが例年よりも多くありました。ありがとうございます。



「………さて、毎年恒例の「今年の漢字」に、「偽」が選ばれてしまい、その後の二位以下にも、「食」「嘘」「疑」が続いてしまった事にも象徴されますように、この五年間というものは、まさに日本人の食べ物に対する「安全・安心」が厳しく問われ、国民の皆様から強い叱責を受ける時代でありました。その潮流の中にあって、当協会の食品関係営業者の皆様におかれましては、「消費者の信用を勝ち取る為に!!」、また「ご自分で自身のお店を守る為に!!」、更には「自主的衛生管理を実践するお店創りをする為に!!」を合言葉に、毎日弛むことなく鋭意努力・活動されて来た事と存じます。特に、会員施設の食品衛生の向上と、自主的衛生管理の確立のために、昼夜を違わず、会員施設を巡回して衛生管理の指導・普及に取り組んでおられる「食品衛生自治指導員」の皆様方に対しましては、そのご尽力振りにただただ頭の下がる想いで一杯であります。引き続きましてのご活動に期待いたしますと共に、力強い支援システムの構築が急務と考えております。………私自身、当協会は勿論の事、ひいては食品業界全体に対しまして貢献できるよう、豊島区の保健福祉部や池袋保健所等と緊密な連携を図り、当協会会員の皆様に対しまして、食品衛生等の情報を幅広く提供してまいる覚悟であります。………」



 【食】の安全と言いますと、昨今は、【毒入り餃子】【殺人餃子】の話題が世上をかなり賑わしておりますが、この餃子の歴史は大変古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすでに食べられていた痕跡が見つかっているとのことですし、敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されたとのことです。その餃子発祥の地は中国、しかも華北の料理とされ、中国東北部で特によく食べられていたものが、戦後満州を経由して我が国に流入してきたとのことですが、物語っぽくなってしまうものの、日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされており、亡命していた朱舜水(誰ですかね?)から教わった、と伝えられております。
 日本では米飯のおかずとして食されることが多いですが、これは日本独自であり、他の国では一般的ではないようです。と言いますのも、中国の華北で食べられる餃子は主食を兼ねたものが多く、皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方の水餃子が主流で、焼き餃子はあまり食べられない。焼き餃子は残り物の餃子を焼いて食べるものであって、あまり上品な食べ物とは思われていない、と言った経緯があるからです。
 もっとも経緯とか歴史を調べて見ますと、餃子はその中国語での発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子の形に似ていることにから、縁起の良い食べ物としても珍重されており、また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願い食されます。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子を食したといわれています。



 日本の自治体の中には、栃木県宇都宮市のように、この餃子を使って町興しをしているところがあります。その宇都宮市の餃子の始まりは、かつての陸軍、しかも宇都宮出身の将兵が、満州からの帰国の際に本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれており、現在市内には餃子専門店と餃子を扱う料理店が合わせて約200軒もあり、一般的な販売価格は1人前150~200円程度と低廉で学生がおやつ代わりに食べることが出来る価格帯となっているとのこと、加えて、タレは酢だけで食する、宇都宮スタイルといわれるものがあるそうです。



~~平成2年ごろ、町興しにつながるキーワードを探していた市の職員が、総務省の「家計調査年報」において「餃子購入額」で同市は常に上位に挙がっていることに注目。餃子による町興しを提案したのがきっかけで、以来観光PRに力を入れる。平成3年には業者団体として「宇都宮餃子会」が発足。行政と民間で協力して様々な企画を仕掛けたことが功を奏し、かつて国際観光都市「日光・鬼怒川」への通過点だった宇都宮が、餃子という大きな観光資源を得ることに大成功。任意団体として発足した宇都宮餃子会は、平成13年に協同組合となり、登録商標「宇都宮餃子」の管理や組合直営店「来らっせ」3店舗(宇都宮2店、東京1店)の運営管理なども実施。現在の組合加盟店舗数は70軒を超える。JR宇都宮駅東口広場には、地元産出「大谷石」の業者によって無償で制作されたオブジェ『餃子像』が設置。ヴィーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現したユニークなもので、観光客の人気撮影スポットとなる。同時に、宇都宮駅が駅弁発祥の地(これは初めて知りました)であることから「宇都宮餃子駅弁」も企画・販売。宇都宮駅構内の立ち喰いそば屋には餃子そばというメニューがあった。秋には宇都宮餃子会を中心とする市民手作りのイベント「宇都宮餃子祭り」が定例化。協賛餃子店が市街で屋台を開き、1人前1皿100円の餃子が振る舞われる。「宇都宮餃子祭り」は毎年10月下旬~11月初旬の土日に実施。~~
 


 餃子一つでこれだけのインパクトを町に、そして全国に醸し出せるとは意外ですし、それはまた餃子というものを日本人の誰もが好物としているからでもありましょう。その食べた後の口臭が気になるという女子学生はいても、私の周囲にいる方でも餃子が嫌いな人はおりません。
 このように戦後中国から入り、日本に広まった餃子は数十年の時を経て、日本の食文化の1つとして日本流の餃子になっていると言えるでしょう。中国と日本の文化の架け橋であり、日本人が愛してきた餃子に毒が入っていたなんて、残念で仕方がありません。冷凍餃子君、君は悪くない。君の汚名を晴らす為には私はいつでも明智小五郎や金田一耕介になる覚悟だ。

2008年2月7日木曜日

舞良戸(まひらど)

  新しい年を迎え、気持ちも新たにして原稿を書いておりますと、「時折穴もあけるけど、よくもまあ続いているなぁ」と、自分で感心するときがありますし、書きたまったものを纏めて出版したら、という言葉をかけてくれる方もいます。誠に嬉しいことではありますが、いやいや、私なんぞの原稿を纏めて出版したところで読めた代物ではありません。しかも、もし三島由紀夫が生きていて、その本を読んだとしたら、私はどうされちゃうでしょうか?想像しただけでもゾッとします(私が介錯されちゃう!!)。といいますのも、彼の遺作評論であり、文学的遺書とも言える(私が勝手に思ってる?)「小説とは何か」(新潮社)の五を読む限り、とてもとても、私なんぞ本とか出版とか、口にすることすら出来ないと思うのであります。
 





  三島はその中で、小説と戯曲とを比較しながら、「小説の特徴は…生・自然・人間(動物である場合もある)のすべての表現が、言語を通じてなされており、かつ、言語を持って完結している、…」と述べ、「言語表現による最終完結性」こそが、芸術としての小説のもっとも本質的な要素であるといった発言をしております。そこから、三島は「小説は、実に自由でわがままなジャンルと考えられているだけに、この点の認識をなおざりにして書かれたものが実に多く、古い日本語の教養が崩れてゆくに従って、この認識自体が小説家の内部で日に日に衰えつつあるように思われる」と当時の小説作品群の出来映えの傾向を嘆きつつ、ひとつの家の造りのある部分を取り上げて、以下のように自説を展開しているのであります。








  「たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。一例をあげよう。『舞良戸(まひらど)』という名の戸がある。横に多数のこまかい棧のある板戸のことである。こんな戸は今では古い邸や寺などに見られるだけで、近代和風建築にはめったに見られず、ましてマンションやアパートの生活ではお目にかかれない代物である。しかし小説はマンション生活ばかり扱うべきだという規則があるわけではなく、小説家自身の過去の喚起が、小さな事物をも重要な心象たらしめるから、現代小説にだって、舞良戸が登場することは免かれない。そういうとき小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその『名』をしらねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はおわり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。……(略)……伝統によって一定期間存続され且つそれに代わる名稱ないようなものについては、作家はその『名』を指示すれば、満足すべきなのであって、それが言語表現の最終的完結性というものを保障する一つの文化的確信であるべきである。極端なことをいえば、日本歴史を信ぜずして日本語を使うことなどできよう筈がない。私は明らかに、舞良戸は、ただ『舞良戸』と書くことを以って満足する小説家である。……(略)……しかしこのごろ新人の、いや新人のみならず中堅に及ぶ作家の中にも、『舞良戸』が出てきたと仮定した場合、次のような表現をとる事例に、私はしばしばぶつかるのである。



①「横棧のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」
②「横棧戸」
③「まひらど、というのか、横棧の沢山ついた戸」





  このうち私が検事であれば、③にもっとも重い罪を課する筈であるが、それは追って説明するとして、①のように書く作家は、物を正確に見ており、過去の喚起力を持っているけれども、それだけを作家の素質と考えている怠け者であり、言語表現の最終完結性について、すなわち小説の本質について、ぞろっぺえな考えを持っているのである。彼は字引を引くこと自体を衒学的な行為と錯覚しているにちがいない。②の作家は平気で造語をする。『横棧戸』などという、サンドウィッチの一種のような言葉は日本語にはない。彼は言葉の伝統性について敬謙さを欠いた考えの持主であり、あるいは忙しすぎて、表現の厳密性に注意を払わない作家である。



  一事が万事、こういう作家に限って、決してユニークな感覚的表現はできず、他の個所では、きっと『彼女は悲しくなるほど美しい微笑をうかべて』など、使い古されたルーティーンな表現を平気で多用している筈である。彼はただ忙しいのである。③の作家にいたっては論外である。なぜ論外かというと、こういう表現をするには、いくつかの心理的蓋然性が考えられる。一つは、彼の頭に『舞良戸』という名が浮かぶには浮かんだが、字引なり何なりで確かめる労を省いて、その労を省いたという心理的経過をそのまま売り物にして、『というのか』と、責任を他に転嫁しているのである。もう一つは、実は彼が『舞良戸』という名をちゃんと知っていながら、作者自身あるいは登場人物の呑気な正確表現として、『というのか』を入れたほうが、表現が柔らかく親しみ易いものになると考えているのである。三つ目は、すべてが無意識な場合である。彼は表現の凝縮性も正確性も考えず、ただ、あいまいな心理状態を外界に投影して、外界自体をあいまいな『というのか』で満たしており、しかもすべてを無意識にやっているのである。






  私のすべての中で、この③の第三番目の場合をもっとも悪質だと思う。③の第一番目は文士気質を売り物にしているから悪く、第二番目はわざとらしい無智の衒いを、作中人物の呑気さの性格表現に利用しようと考えている点で、キザな心掛けが悪く、第三番目は、言語表現の自律性についての無反省において、作家としての根本的な過誤を犯しているからである。
私はこれらの例をすべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさという罪名に於いて弾劾する。何を些細なことを、と言われるかもしれないが、一方、もし劇作家がト書の中で、『下手に舞良戸』と指定すれば、職人はすぐに意を承けて舞良戸を制作するに決まっており、單なる技術的指定として使われた言語が、舞台ではちゃんとした物象として存在するにいたるのである。そして小説とは、そのような、ちゃんとした物象、役者がよりかかったぐらいではグラつかない本物の物象を、言語で、ただ言葉のみで創造していく芸術なのである」







  ~ は初めて「まひらど」というのを知ったわけですが、もし自分がこれを読者に伝えるとしたらどのような言語表現を用いていたでしょうか?おそらく三島検事の最も嫌う③のように記述していたかなと思います。決して私はここで小説を書いているのではありませんが、この三島の言説に触れる度に、日本語・その概念・その文章は美しいけれども難しいと、つくづく感じますと共に、私が本を出すなんて……トンデモナイー、と叫ぶのであります。
今年もまた拙いエッセイ(間違っても小説はかけません)にどうぞお付き合い下さいませ。

                                      2008年1月