2009年3月26日木曜日

教室パトロール

1月の下旬から2月の中旬にかけて、いわゆる「学校参観週間」と「道徳授業地区公開講座」が、豊島区内の小・中学校において行われました。これに参加された方々もいらっしゃるかと思いますが(どういう感想をもたれましたか?)、私自身も、2月6日に行われたそれらに、事務所に来ている若者達を連れて、午前中は区内某中学校のを、そして午後は2つの区内某小学校のを、それぞれ参観してまいりました。
そこで何を見て、何を感じたかと言いますと・・・・。
いやいや、今の子供たちを取り巻く環境は甚だ厳しいものがある、そう巷で言われて久しいですが、こと教育の基本中の基本ともいえる「学校教師の質」の劣化を大きく問題視せざるを得ない、と言いますか、それはもう危機的状況・危険水域に来ていると体感してまいりました。
本区で熱心に展開しているこの学校参観週間ですが、これは「授業の様子を公開する事で、学校・家庭・地域の連携を深め、開かれた学校づくりを一層推進することが目的」とされてはいるものの、余り成功しているとは思えません。今回のは、第3学期ですが、私自身、暇を見つけては第1学期・第2学期と、地元の母校の小・中学校をはじめとして、その周辺にある小・中学校(隣接校)までつぶさに参観しておりますが、如何せん参観者が少なすぎます。ここでは、毎度御馴染み(失礼!)のいつもの方々(PTAの役員・青少年育成委員・民生委員・町会役員)がふらっと来て、さくっと参観して、ハイおしまい、といった具合で終わっているのが殆どです。もっともっと工夫の余地が、大いに有りといえます。いっそのこと、としまケーブルテレビでも入れて、今行われている授業風景を放映して、多くの区民の皆さんにも見てもらって、「生徒としてわきまえなければならないこと」「先生としてなさねばならないこと」、これらを一緒に考えてもらう機会が必要ではないでしょうか。それ位の事をしなければ、戦後の日本の発展を下支えした教育は溶解していくに違いありません。
何か、本橋さん大袈裟じゃないですかぁ~。一体全体何が授業中行われているんですか?
そう聞かれそうですね。まあ、行われている(作為)、と言うより、行われていない(不作為)のが問題と言う事でしょうか。詳しくはこの後の、一緒に参観した若者の感想に委ねたいと思いますが、端的にいいますと、公立の小・中学校の先生におかれましては、もっともっと毅然とした態度を生徒に対してとってほしいと言う事です。これは男性教諭・女性教諭を問いません。兎に角生徒に対して甘すぎると言う事です。しかも、若者の書いた出来事は、その時間内なら、何時でも・誰でもが参観することの出来る、学校参観時の出来事ですから、これが、そうではない普段の授業の時だったら、一体全体教室内はどうなっちゃっているんだろうと不安で仕方がありません。いっそのこと教室パトロール(○○エンジェルスみたいな?)でもしたい位です。
平成19年2月5日に、文部科学省は、現場の教師が少しでも毅然とした「指導」が出来るようにと、いわゆる「体罰」基準を通達しました。その詳細は避けますが、肉体的苦痛を与えるものでない限り、放課後の居残り指導や、授業中の今日室内での起立命令を体罰としないなど、生徒を指導するにあたって先生が萎縮しないように、分かりやすくポイントを示しております。勿論、杓子定規的・画一的に大鉈を振るえるものではなく、現場がケース・バイ・ケースで判断するという大原則が極めて重要である事には変わりがないでしょうが、現場の先生におかれましては、この通知を熟読吟味していただき、生徒指導にブレることなく、毅然とした姿勢でもって臨んでいただきたいと、切に願う次第であります。

学校参観
辻 綾香(中央大学)
豊島区立某中学校一年二組の国語の授業を参観しました。

生徒→教室に入る前からざわついていた。入ってしばらくは、私たちの存在が気になったようだが、しばらくすると友人との私語に没頭し始めた。さらに、隣だけにとどまらず、列を超えてまで、私語をしている。その私語の声も大きく、私たちがはっきりとその内容を、聞き取れるほどであった。特に、後ろのほうにいた男子生徒三人は、先生に背を向けるような形で、体系を組んでおり、聞きたくもない話題で盛り上がっていた。完全に、授業そっちのけであった。他にも、あちこちで私語のグループができており、はっきり言って、生徒たちのやりたい放題という印象を受けた。教師が授業の途中で、教科書の音読テープを流してからも、私語の多さは変わらなかった。

教師→先ほど前述したように、教室に入る前からとても騒がしかったので、てっきり自習なのかと思っていた。しかし、教壇には教師が立っていた。教師は、「静かに」と言うのでもなく、ただ淡々と自分の業務である授業を、こなしているだけ、というふうに私の目には映った。それが、あまりに私語が多くて、手に負えない状況にまで、きているからなのだろうか。教師は半分私語を、というか生徒を無視しているようにもみえる。また、比較的教師の近くにいるおとなしそうな前方の生徒には、働きかけをするが、私が一番目についた後ろの方の男子三人には、一度も注意はしなかった。私が、この教師の立場だとしたら、確かにあまり関わりあいをもちたくはないグループではあるが。注意すべき生徒が、注意をしにくい後ろの方にいる席順にも問題があるのでは、と感じた。そして、生徒の私語に教師が加わって、一緒になって楽しんでいる場面も見受けられ、教師としての風格が、既に危うくなっていた。
 感想→私の中学校は、とても規則が厳しかったので、この学校を視察して、カルチャーショックを感じた。鞄指定、キーホルダー禁止、ブレザーを着ずにセーターで授業を受けるなど、言語道断という学校で育った私からすると、この学校の習慣?を受け入れることは、難しい。どちらがいいとは言えないが、もう少し、教師が権限を使って注意をするくらいはいいと思った。学校に入った時は、とても、綺麗で清潔、明るい色調も手伝って開放感に満ち溢れており、よい印象を受けただけに、授業の質とのギャップを色濃く感じてしまった。

同期の結婚式にて

つい最近、私の高校・大学時代の友人の結婚式が、フォーシーズン・ホテルで執り行われました。当日の天気は?と言うと、あたかも二人の幸せぶりを私も見たいといわんばかりに、お天道様も覗き込んでいる、そんな良い天気でした。
開演時刻よりも前に到着すると、既に懐かしい仲間達がワイワイと話し合っています。新郎は高校時代野球部でしたので、野球部関係の知り合いが大きな集団を形作って思い出話をしていました。運動部仲間として私も分け入って会話に参加していると、これまた懐かしい高校の野球部の監督が到着し、会話に加わってくれました。私自身は、アメリカンフットボール部でしたので、この監督さんとは部活でのご縁はなかったのですが、それでも私には忘れられない思い出が、ご恩が、この監督さんにはあります。
~昭和49年春、豊島区立高松小学校を卒業した私は、そのまま地元の公立中学校である豊島区立千川中学校に入学。小学校時代から、学内では球技クラブを、地元の地域では、高松少年野球会に所属し、特に野球に熱中する。千川中学校に入学直後、私は我が目を疑う、いや茫然自失する。何と、野球部がない。最も、数年前までは野球部はあったとの事。しかし何故野球部が廃止されたのか、その理由は未だに謎。それまで地元の原っぱ、城北公園内にあるグラウンドにて野球三昧で過ごしてきた私にとって、心と、体が真空に。だが、発想の転換を考える。「無いものは、作れば良い」と~

入学してから驚く方がお粗末とも言えそうです。兎に角、入学直後は他のスポーツをするわけでも無く、まったりと静かにしていたものの、やがて、中学2年になると、野球部の設置に向けた活動を起こし始めました。野球好きの連中が集まり、話し合い、計画を立て、体育の先生は勿論のこと、野球やスポーツに造詣の深い先生への陳情行動を熱心に始めました。その甲斐もあってか、その効果があったのか、私が中学3年生の春から、野球部が復活する事が決まりました。その後は、廃部になった理由が、チームが弱くて一勝も出来なかったからだ等、私たちを焦らせる情報も飛び交ったり、当時の私たち部員は、こりゃ負けたらまた廃部になるぞとの危機感を持って、ようやく割り当てられたグラウンド使用日に、必死になって練習したのを思い出します。但し、悲しいかな、千川中学校の校庭の狭さと、現在のように防球ネットが無い事から、打撃練習を始め、外野へのノックも出来ないといった有様でした。そして私自身こりゃ参ったというのは、中学一年生の頃は身長が145センチメートルしかなかったのが、3年生ともなると、175センチとなり、30センチも身長が伸びており、かつてのユニフォームが着れないことでした。ユニフォームぐらい直ぐ作ったら良いのにと言われそうですが、こちらは何年振りかの野球部なんです。兎に角、体操服やジャージでも良いから練習に打ち込みたくて仕方が在りませんでした。その挙句に、練習試合の時には、少年野球をしていた時の後輩からユニフォームを借りたりしていましたっけ(ちょっと高圧的だったかも)。
~千川中学校の野球部はこうして再び再起動し、夏の大会の大会に向けて練習に明け暮れる。やがて夏の大会の抽選が行われ、初戦の相手が、豊島区立中学校適正配置計画にて今は無き、第十中学校(現在は明豊中学校)と決まる。私は、5番:ショートで先発出場。試合は、ある意味で、投手戦となる。結果は、4対1で敗戦。私の中学校での野球人生は、一敗の歴史を刻んで終わりを告げる~

今でこそ「肘を壊す」といった理由で、小中学生の投手は、カーブをはじめとした変化球を投げる事は禁止されていますが、当時は今と違って、変化球オーケーの時代でした。十中のピッチャーですが、ストーレートもコントロールもいまいちのピッチャーで、これはオーケーかなとも思っていたのですが、チョコチョコと微妙に曲がる小さなカーブ(今で言うスライダーとカーブのあいのこで「スラーブ」)を、器用に且つ要所要所で投げてきました。私への勝負球は必ずといってよいほど、このスラーブで、結局のところ3打数ノーヒット、しかもセカドゴロ2つといった、散々足る有様でした。
~中学時代の野球で不完全燃焼だった私は、高校時代は野球をやり、甲子園を目指そうと決意(ほんとに目指すだけ…)。高校受験は、第一志望群は大学受験進学校を、第二志望は東京六大学の付属を狙い、都立高校を滑り止めに。最も、都立高校を滑り止めというのも、都立さんに対して失礼な話。実際は、男女共学の都立がイヤだったのと(これまた失礼)、中学時代をやんちゃに過ごしてきたせいか内申が低く、第41群の小石川・竹早が若干厳しかったのが真相~

昭和52年春、高校一年生の私は、両翼99メートルもあるグラウンドのレフト側にある土手に座って、野球部の練習を熱心に見学していました。高校受験でしばらく遠ざかっていた懐かしいあの掛け声、そして当時高校野球に導入されたての「金属バット」の打球音がグラウンド中に響き渡っていました。ここで野球が出来るんだなと思うと、胸がワクワクしましたし、それまでの運動不足がいっぺんい吹き飛ぶような気がしました。その時です。監督が近づいてきて、話しかけてくれました。熱心に見学しているこちらの思いを察してくれたのでしょうか。早速矢継ぎ早に質問が飛んできました。「君は中学の時はどこを守っていた?」「何番を打っていた?」「100メートルは何秒で走る?」。イヤイヤ、さすがに元旦以外は休み無く、日々甲子園を目指して練習している野球部の監督さんです。その目は、私がはたして使えるか使えないかの目をしていました…。
その一方、かねてから、どうしても私に来て貰いたいと言ってくれていた部がありました。それがアメフト部です。結果的には、自分自身と折り合いをつけ、急旋回する形でアメフト部に入部し、やがて高校2年生の時に全国大会ベスト16になりました。その年野球部の方は、夏の甲子園の埼玉県大会決勝に迄いったものの、決勝戦で所沢商業に負け、あと一歩で全国大会の甲子園を逃してしまったのです。結果的には我がアメフト部の方が優ったことになります。
あの時の監督の真摯で熱心な質問攻めが無かったら…。
それから30年後の今、目の前にいる監督さんに有難くも、懐かしさの思いを込めた御挨拶と握手をさせてもらいました。
この年齢になってからの同期の結婚式って、こういった出会いがあるから嬉しいですね。