2010年5月6日木曜日

悲しみの3・10と4・13の存在

 それは、3月10日に開催された子ども文教委員会での、午前中の質疑応答がひと段落して終わり、午後からの質疑応答の再開時間を決める際の出来事でした。本来私は、委員(かつ議長)という身分では、総務委員会という常任委員会に帰属していますが、もう一つ、今度は純粋に、議長という身分で子ども文教委員会という常任委員会にも出席しています。この辺りは、今の副議長と役割分担をしているところでもあります。

(本橋)「えっ、何で…、ただ正午に黙とうするってだけじゃ傍聴者は訳が分からないでしょうに。もっとキチンと、分かりやすく案内すればいいのに…」
この度の第1回定例会での子ども文教委員会の特徴は、「報告案件」がかなり多い事でした。勿論、どの報告案件も大事なものばかりで、その内容に優劣をつけることは出来ないでしょう。ただ、その取り扱い量の多さから、いつにも増して委員会が開催されたことは特筆されてしかるべきですし、その開催日の一つが、冒頭申し上げた3月10日だったのです。

(事務局)「本日は、正午から黙とうが行われますので、午後の開催時間をお決めください」

 今年に入って間もなくのことです。特別区23区の議長には勿論のこと、三多摩の議長にも、東京都の石原慎太郎知事(実務は、東京都の生活文化スポーツ局・文化振興部・文化事業課が担っているのですが、ここで『文化』が出てくるのには、なんだか違和感をいだいてしまいますね…)から、3月10日、東京都庁第1本庁舎5階大会議場で行われる、「東京都平和の日記念式典」の招待状が届きました。何でも、平和国家日本の首都としての東京都は、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓うために、3月10日を「東京都平和の日」と定めたこと、そして、この日は、東京大空襲をはじめ戦災で亡くなられた方々を追悼するとともに、何よりも平和の願いを込めて、「東京都平和の日記念式典」を挙行すること、確か、そういった内容の手紙が添えられていました。
 勿論、私は、出席に○を付けて返信しました。
 
昭和20年3月10日、午前零時8分、東京上空…。日本軍玉砕とバンザイクリフの悲劇のあったサイパン島が陥落し、ここから、その当時の日本の総国家予算の半分以上の研究開発費をかけて製造されたといわれている「B29重爆撃機(愛称は、スーパーフォートレス)」334機が、暗闇の中轟音をたててやって来ました。今の墨田区や江東区、そして中央区あたりを中心に、絨毯爆撃を展開し、約2000トンの焼夷弾(新型焼夷弾)を、だいたい午前2時半頃まで落とし続けたのです。
その焼夷弾の落とし方がまた、アングロサクソン流ですね…。まずは、東西の5キロ、南北の6キロの範囲に焼夷弾を落として灼熱の炎で取り囲み逃げ惑う人々の退路を断ち、次に、1平方メートルあたりに、平均して3発の焼夷弾を落とすことで、人も、家屋も焼きつくす計画を遂行したわけですから…。

(読者)「えっ、1平方メートルあたりに3発も焼夷弾を落としたの?、なんてひどい事を…」

そのひどさをもう少し詳しくご説明しましょう。
「3発」と言っても、単純に3つの弾が落ちてくるというものではありません。このとき使われた焼夷弾は、その中に、ナパーム剤を中身とするM69という新型焼夷弾が48個束ねられて詰まっているのです。つまり、B29から投下された焼夷弾は、空中でパカッと帯が解かれ、48個のM69(新型焼夷弾)がばら撒かれる仕組みになっているのです。しかも、そのM69のお尻からは約1メートル位のリボンがひらひらと飛びだし、これによってM69の揺れを防ぐと共に、ここが点火もします(だから、当時の被災者の証言の中に、やたらと空から火の雨が降ってきたよ…、とのセリフが出てくるのでしょうね)。それが、次から次へと、雨あられのように天から降ってくるのですからたまったものではありません。しかも、アメリカは最もダメージを大きくするためのち密な実験までしての計画遂行ですから…。
実験…、何でもアメリカは、木と紙で出来ているとも言える日本家屋を焼き払う作戦計画策定ために、わざわざ国内の実験場に、2階建て12棟の長屋を建設し、建物内部には、ちゃぶ台・畳・座布団・炭火鉢・ふすま・障子・タライなど、ありとあらゆる日本的グッズを用意して、新型焼夷弾M69の試爆実験を繰り返し、その威力を確かめたといいます。
その結果が、「東京大空襲」です。
一夜にして焼死者約10万人、負傷者約11万4千人、戦災家屋約26万8千戸。東京の人々は、灼熱地獄の中にあって、逃げ惑い、逃げ切れずに、燃え上って絶命していったのです。これを国際法違反の非人道的空爆、人類史上空前絶後の戦争犯罪・大虐殺と言わないで、一体全体何と言うのでしょうか。私達日本人は、今もって告発者の立場にある事を忘れてはならないでしょう。
そのアメリカは、相も変わらずに、6大工業都市を隈なく爆撃した後、人口の多い順番に、日本全国の64の都市部焼き払っていったのです。

(事務局)「本日3月10日は、かつて東京大空襲のあった日です。東京都でも、また本区でも、正午に黙とうをささげる事となっております。つきましては、そこをご斟酌のうえ、午後の委員会の再開時刻をお決めください」

あの時、このような言い回しを事務局にしてもらいたかったですね…。先の大戦の悲劇は、現在生きている我々は勿論、将来の子孫にも語りつないでいかなくてはならないと思っています。そこを明確に意識していないと、直ぐに忘却の彼方へといざなわれてしまいますもの…。

4月13日、城北大空襲犠牲者追悼の会に参列してまいりました。既に15回目を迎えた「4・13根津山小さな追悼会」です。当日の実行委員会の皆さんの活動ぶりは、とっても純粋でかつ真摯でした。しかも設営・運営から進行に至るまで、手作りと戦災者への労りに満ち満ちていました。時折、葉桜となりながらも一枚一枚、追悼の会に潤いと悲しみを誘うかのように、丁寧に舞い落ちてくる桜の花びらが印象的でした。桜の花の散り際を見つめながら…、桜舞い散る公園の中で…、戦災で亡くなられた方々の思いに、少しでも辿り着こうとしている自分がそこにいましたし、これをどう語り、紡いでいくかが大事だと思案した午後のひと時でした…。
合掌。

バンクーバーを想う

「睦月・如月・弥生」と、季節も慌ただしい三月となりました。名店街ニュースをお読みの皆様のご家族も、学校や職場で引っ越しや移転作業等、新生活への準備等で慌ただしい時期ではないでしょうか。
さて、三月の別名、「弥生」の由来ですが、草木がいよいよ生い茂る月、「木草弥や生ひ月(きくさいやよひつき)」が詰まって「やよい」になったそうです。草木の芽が生え始めているのを見て、学生は新学期の開始、社会人は職場での新メンバーの歓迎など、さぞかし期待と不安の入り混じった、新しくも待ち遠しい事の始まりを予感している頃ではないでしょうか。
 
新春を迎える前に、そのスタートに相応しい多くの感動を私達は貰ったのではないでしょうか。いわゆるバンクーバーオリンピックでの日本人選手の活躍です。この大会で、我が国の選手は数えきれないドラマを残したわけですが、中でも特に印象深かった選手を振り返ってみたいと思います。

まずは、女子フィギュアスケートで銀メダルを獲得した、浅田真央選手。女子フィギュアのチャンピョン、キム・ヨナ選手と頂点を争い合いましたが、結果はプレッシャーをはねのけ、完璧な演技をこなしたキム・ヨナには敗れましたが、自己最高得点を叩き出し、初出場で銀メダルという快挙を成し遂げました。
しかしながら、その後の涙ながらのコメントが実に印象的です。
「(トリプル)アクセル(演技の技名で、女子フィギュアではかなり高難易度の技だそうです)を2回飛べた以外は全く満足していない。」
なんという貪欲さでしょうか!全世界から集められた天才の祭典で、圧倒的多数を抑えて2位になったにも関わらず、悔し涙を流したその勝利への意欲は大したものです。私達がテレビで見る演技、審査対象の全てはたったの5分足らずです。その5分のために、何千時間もかけて、怪我やスランプと闘いながら調整するわけですが、どんなに努力をしようとも、評価される対象はその5分のみです。およそ長い人生の中で、たった一瞬であるその時間を生きがいにし、そのわずかな時間のためにあくなき向上意欲を示す態度には、感服させられましたし、同時に自らの背筋が伸びるようです。
「本当に長かった、というか、あっという間・・・」大会後のこのコメントは、まさに一瞬に人生を賭けた勝負師・英雄の感想であるといえるでしょう。「銀メダル」というその偉業に拍手を送ると共に、その情熱を見習い、自らを戒めたいと感じたひと時でした。

長島圭一郎選手が日本勢として初のメダルに輝いた瞬間、地元である北海道池田町での応援団の様子がテレビに映し出されました。会場は歓喜にわきました。町のホールで開かれた観戦会には町民300人が集合し、歓喜の瞬間には十勝ワインのスパークリングワインで祝杯を上げたそうです。
長島選手の快挙によって、町の絆が深まりました。池田町長は、長島選手に町民特別栄誉賞授与の意向も示しています。なぜここまで多くの町民が長島選手に魅了されるのでしょうか。おそらくは、一つの目標に向うに当たっての志高き個人の意思と信念が、多くの人を魅了しているのではないかと考えます。人生を歩む中で、自らが貫きたい・守り続けたい意思や姿勢、そして信念が必ずあるはずですもの・・・。
ちなみに、池田町の初代町民特別栄誉賞は、どなただと思いますか。
それは、みなさんよくご存じのDREAMS・COME・TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)の吉田美和さんです。町民に夢を与え、町の知名度を上げたとして、ドリカムの結成20周年と開町110年が重なった2008年に授与されました。バンクーバーオリンピック日本代表応援ソングであるドリカムの「GODSPEED」は、困難なことに立ち向かう人たちへ最上級の「GOOD LUCK!!」を願う意味を持つそうです。この応援ソングに日本選手団の選手たちは、多くの勇気をもらったことでしょう。人は困難に立ち向かう時、得てして周りの人間の温もりを感じるものです。長島選手も強き意思と信念があったとはいえ、周りの人の支えなしには、あるいはこの曲なしでは(ちょっと大袈裟?)、この快挙は達成できなかったのではないでしょうか。

同じスピードスケート男子500mにおいて、長島選手以上に金メダルが期待されていた選手がいます。長島選手と同じ会社に所属する、加藤条治選手です。一回目のレースでは金メダルが十分に狙える位置にいた加藤選手でしたが、二回目のレースでは最後の直線で失速し、残念ながら銅メダルという結果に終わってしました。競技終了後の加藤選手のブログには、「好きな競技に本気になって、たくさんの感情を抱く。幸せなことですね。」という文が掲載されています。
「たくさんの感情」とは、いったいどういったものだったのでしょうか。
加藤選手は、メダルを獲得した喜び・安堵の感情を、ひとまずは抱いたことでしょう。私自身も、人生の四年間を競技のために捧げ、世界で第三位という見事な結果をおさめた加藤選手の栄誉をたたえ、敬意を表したいと思っています。
一方で加藤選手は、「銅メダルがこんなに悔しかったなんて知らなかった」とも述べています。
競技が終了した翌日の朝日新聞の社説には、長野五輪の同種目で金メダルを獲得し、過日引退を発表した清水宏保選手の記事が掲載されていました。題名は「条治よ 悔しかったか」。「楽して金メダル取りたいですね」と言い、スタミナが要求される1000mには出場せず500mの競技のみに専念した加藤選手に対して、最後の直線で失速した原因はスタミナ不足にあり、練習方法を変えていく必要があると助言をする清水氏。同じ種目で金メダルを取った清水氏にしかできない、さらに高みへ登っていくための助言を、加藤選手はどう受け取ったのでしょう。
きっと加藤選手にとっては、銅メダルが自分自身を見つめなおすきっかけとなったのではないでしょうか。清水選手の助言を受けとめた加藤選手は、四年後のオリンピックまでに一回り大きくなって、必ずや私たちの期待に応えてくれるでしょう。私も一人のサポーターとして、今後の加藤選手を全力で応援していきたいと思っています。

4年に1度の五輪で、長島選手のように全力を出し切り、最高の結果をだすことができた選手もいれば、浅田選手や加藤選手のように、一瞬のために賭けた4年間を通じて自分自身を見つめなおし、また4年後を見据えて競技を極めていこうとする選手たちもいます。こうした選手たちの姿は非常に美しく、私は自分を奮い立たせ、困難を乗り切る勇気が湧いてきます。
私たちも彼らのように、いつまでも一瞬一瞬に全力でぶつかっていきたいですね。