2008年2月7日木曜日

舞良戸(まひらど)

  新しい年を迎え、気持ちも新たにして原稿を書いておりますと、「時折穴もあけるけど、よくもまあ続いているなぁ」と、自分で感心するときがありますし、書きたまったものを纏めて出版したら、という言葉をかけてくれる方もいます。誠に嬉しいことではありますが、いやいや、私なんぞの原稿を纏めて出版したところで読めた代物ではありません。しかも、もし三島由紀夫が生きていて、その本を読んだとしたら、私はどうされちゃうでしょうか?想像しただけでもゾッとします(私が介錯されちゃう!!)。といいますのも、彼の遺作評論であり、文学的遺書とも言える(私が勝手に思ってる?)「小説とは何か」(新潮社)の五を読む限り、とてもとても、私なんぞ本とか出版とか、口にすることすら出来ないと思うのであります。
 





  三島はその中で、小説と戯曲とを比較しながら、「小説の特徴は…生・自然・人間(動物である場合もある)のすべての表現が、言語を通じてなされており、かつ、言語を持って完結している、…」と述べ、「言語表現による最終完結性」こそが、芸術としての小説のもっとも本質的な要素であるといった発言をしております。そこから、三島は「小説は、実に自由でわがままなジャンルと考えられているだけに、この点の認識をなおざりにして書かれたものが実に多く、古い日本語の教養が崩れてゆくに従って、この認識自体が小説家の内部で日に日に衰えつつあるように思われる」と当時の小説作品群の出来映えの傾向を嘆きつつ、ひとつの家の造りのある部分を取り上げて、以下のように自説を展開しているのであります。








  「たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。一例をあげよう。『舞良戸(まひらど)』という名の戸がある。横に多数のこまかい棧のある板戸のことである。こんな戸は今では古い邸や寺などに見られるだけで、近代和風建築にはめったに見られず、ましてマンションやアパートの生活ではお目にかかれない代物である。しかし小説はマンション生活ばかり扱うべきだという規則があるわけではなく、小説家自身の過去の喚起が、小さな事物をも重要な心象たらしめるから、現代小説にだって、舞良戸が登場することは免かれない。そういうとき小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその『名』をしらねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はおわり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。……(略)……伝統によって一定期間存続され且つそれに代わる名稱ないようなものについては、作家はその『名』を指示すれば、満足すべきなのであって、それが言語表現の最終的完結性というものを保障する一つの文化的確信であるべきである。極端なことをいえば、日本歴史を信ぜずして日本語を使うことなどできよう筈がない。私は明らかに、舞良戸は、ただ『舞良戸』と書くことを以って満足する小説家である。……(略)……しかしこのごろ新人の、いや新人のみならず中堅に及ぶ作家の中にも、『舞良戸』が出てきたと仮定した場合、次のような表現をとる事例に、私はしばしばぶつかるのである。



①「横棧のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」
②「横棧戸」
③「まひらど、というのか、横棧の沢山ついた戸」





  このうち私が検事であれば、③にもっとも重い罪を課する筈であるが、それは追って説明するとして、①のように書く作家は、物を正確に見ており、過去の喚起力を持っているけれども、それだけを作家の素質と考えている怠け者であり、言語表現の最終完結性について、すなわち小説の本質について、ぞろっぺえな考えを持っているのである。彼は字引を引くこと自体を衒学的な行為と錯覚しているにちがいない。②の作家は平気で造語をする。『横棧戸』などという、サンドウィッチの一種のような言葉は日本語にはない。彼は言葉の伝統性について敬謙さを欠いた考えの持主であり、あるいは忙しすぎて、表現の厳密性に注意を払わない作家である。



  一事が万事、こういう作家に限って、決してユニークな感覚的表現はできず、他の個所では、きっと『彼女は悲しくなるほど美しい微笑をうかべて』など、使い古されたルーティーンな表現を平気で多用している筈である。彼はただ忙しいのである。③の作家にいたっては論外である。なぜ論外かというと、こういう表現をするには、いくつかの心理的蓋然性が考えられる。一つは、彼の頭に『舞良戸』という名が浮かぶには浮かんだが、字引なり何なりで確かめる労を省いて、その労を省いたという心理的経過をそのまま売り物にして、『というのか』と、責任を他に転嫁しているのである。もう一つは、実は彼が『舞良戸』という名をちゃんと知っていながら、作者自身あるいは登場人物の呑気な正確表現として、『というのか』を入れたほうが、表現が柔らかく親しみ易いものになると考えているのである。三つ目は、すべてが無意識な場合である。彼は表現の凝縮性も正確性も考えず、ただ、あいまいな心理状態を外界に投影して、外界自体をあいまいな『というのか』で満たしており、しかもすべてを無意識にやっているのである。






  私のすべての中で、この③の第三番目の場合をもっとも悪質だと思う。③の第一番目は文士気質を売り物にしているから悪く、第二番目はわざとらしい無智の衒いを、作中人物の呑気さの性格表現に利用しようと考えている点で、キザな心掛けが悪く、第三番目は、言語表現の自律性についての無反省において、作家としての根本的な過誤を犯しているからである。
私はこれらの例をすべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさという罪名に於いて弾劾する。何を些細なことを、と言われるかもしれないが、一方、もし劇作家がト書の中で、『下手に舞良戸』と指定すれば、職人はすぐに意を承けて舞良戸を制作するに決まっており、單なる技術的指定として使われた言語が、舞台ではちゃんとした物象として存在するにいたるのである。そして小説とは、そのような、ちゃんとした物象、役者がよりかかったぐらいではグラつかない本物の物象を、言語で、ただ言葉のみで創造していく芸術なのである」







  ~ は初めて「まひらど」というのを知ったわけですが、もし自分がこれを読者に伝えるとしたらどのような言語表現を用いていたでしょうか?おそらく三島検事の最も嫌う③のように記述していたかなと思います。決して私はここで小説を書いているのではありませんが、この三島の言説に触れる度に、日本語・その概念・その文章は美しいけれども難しいと、つくづく感じますと共に、私が本を出すなんて……トンデモナイー、と叫ぶのであります。
今年もまた拙いエッセイ(間違っても小説はかけません)にどうぞお付き合い下さいませ。

                                      2008年1月