2009年11月15日日曜日

文集「若き志士の言の葉」について

 先月、お陰様をもちまして私の議長就任祝賀会も無事に行うことができました。これもひとえに皆様方のご支援とご協力の賜物でございます。この場をお借りしまして、心より厚く御礼申し上げます。有難う御座います。
 さて、この度の議長就任祝賀会を着実に乗り切ることができたのも、その中心に後援会の役員の皆さんのご協力があったことはもちろんですが、加えまして、私の事務所に研修・研鑚に来てくれている若者達の力があったればこそとも言うことが出来ます。
この度の祝賀会では、帰りのお土産に、今年の流行色で編んだ「マフラー」に加えまして、「若き志士の言の葉」という題名の文集を添えさせていただきました。私自身、今年で議員在職10年となったわけですが、この10年間ずっと続けてきた活動の中の一つに、「次世代の政治的リーダーの育成」というのがあります。最初は、果たして上手くいくのかなと不安な面もありましたが、マスメディアを通さない「裸の政治」を学びたいと思っている若者が、かくもいるのかと驚いたのを思い出します。「裸の政治」を学ぼうとして集まってきた若者達の数も、延べで約500人を超え、その体験談も10年分が溜まっています。この度の文集は、その中から、掲載について本人の承諾があったものの中から、さらにピックアップしたものを編んだもので、前半部分が今現在抱いている感想、後半部分がかつて研修をし終えた直後書かれた体験談となっています。裏返して言いますと、10年を経過した後に私の下に来て研修した若者達の感想や体験談は、割愛されているわけでして、この度の祝賀会の切り盛りに参画してくれていたのが、まさに彼ら彼女らであることを考えますと、何としてもこの若者達の声も何処かで発表したいと願うのもご理解いただけるのではないかと思います。文集からオミットされるのは、今年の夏から来た若者達ということになりますが、この夏、10名の若者が私の下で研修・研鑚を積み増したが、その内の一人の体験談を皆さまに紹介させて下さい。今回もご一読誠に有難う御座います。

「学生」から「住民」への自覚
本学塾第32期生 大田 みふゆ
【何を学んだか】
 私は2009年の夏、豊島区議会議員の本橋弘隆先生のもとで研修を行うことを決めた。あれから早くも三ヶ月ほど経つが、今までで一番考える時間が多かった夏休みであった。
 本橋先生は本当に大胆である反面、どんな小さなことでも気を配って下さる方だった。時には厳しく指摘して下さり、時には様々なことを心配して下さる本橋先生のもとで研修を行い、「相手の気持ちを考えること」の重要性を改めて感じた。相手の気持ちを考えるということは一見当たり前のように思え、私を含めて幼い頃から言われている方も多いであろう。でも、これこそが社会において、日常生活においても必要なのではないだろうか。選挙のときは有権者の方々や後援会の方々の気持ちを、お祭りの景品を選ぶときは子どもたちの気持ちを、事務作業を行うときはそれに関わる方々や、受け取る方々の気持ちを考えるようにして行動するようにした。そうすることによって、物事の意味を捉えることができるようになった。時には失敗して、反省しなくてはならないこともあったが、後に考えてみると、相手の気持ちを考えれば正しい判断ができたであろうということばかりだった。
 政治もこれと同様ではないだろうかと私は思う。生活している人々の気持ちを考え、問題を議論して、より良い政策を実現していく。区民の気持ちを考えれば、何をすべきなのかが見えてくる。そう考えると、本橋先生は地域というものをとても意識していらっしゃった。また、歩いているときや、運転しているときは、地域の人々や街のようすを「区民」且つ「議員」の視点で見ていらっしゃった。そして「○○さんにこのことを報告しておこう」、「今度取り上げてみよう」など、自分が何をすべきなのかを考えていらっしゃった。きっとこのような積み重ねがよりよい街づくりに繋がるのであろうと考えた。また、委員会や協議会を通じて、様々な議員さんや職員の皆さん、そして一般区民の方々が働く姿を生で見ることができたのは貴重な経験であった。「新型インフルエンザ対策」「豊島区子どもプラン―次世代育成支援行動計画―中間報告」などを聞いて、そのようなことまで区政で取り上げていただけるのかと驚いた。そして、委員会では、議員さんが自分の体験をもとに考えを述べている様子を見て、区民の代表であることを改めて感じることができた。また、豊島区子どもプランの中間報告会の中で、行政と区民が一体とならなければ、目標を達成しにくいということを知った。このことから、政治は議員だけが行うものではなく、職員や区民のみんなで行っていくものであるということに気がついた。本橋先生がおっしゃっていた「どこにでも政治はある」という言葉を意識しながら、これからは自分も住民の一人であるという自覚を持って生活し、協力していきたいと考えるようになった。
【これをどう生かすか】
 今回の研修で「相手の気持ちを考える」ことの重要性に気付いたので、今後は私と関わる人の気持ちを考えながら、自分に何ができて、何をすべきかを考えられるようにしていきたい。また、その考えを実行しなければ、意味が無いということも研修を通じて感じたので、積極的に行動に表せるように努力していきたい。
 また、上記において、自分も住民の一人であるという自覚をもつということを目標として掲げたので、まず、自分の住んでいる地域がどのような活動をしていて、どのような目標を掲げているのかを調べていきたいと思う。その上で、自分が住民として、どんな活動に協力できるかを考え、少しずつ実行していきたい。地域に貢献することが、国の貢献に繋がるということも学んだので、私の周りから変わっていけるようにしたい。
【本橋先生へ】
 この度は、私を研修生として受け入れてくださり、本当にありがとうございました。本橋先生の下で研修を行ったことは、私の自慢であり、最高の経験になりました。本橋先生は面接の際に、「この夏を本当にここで過ごしていいのか」と尋ねていらっしゃいましたが、三ヶ月が経った今、この夏を本橋先生の下で過ごすことができて、大変よかったと思っています。
本橋先生は、政治に関することだけではなく、生活する上で必要なことも直接教えてくださり、人間的にも成長できたと思います。他の議員さんの下で研修をしている友人に、この事務所の話をすると、とても羨ましがられました。これからも、アットホームな環境の中でたくさんの研修生を育てていって下さい。
もうすぐ議長就任祝賀会ですね。今までお世話になった分、お手伝いさせて下さい。

特色あるまつりづくり ~第10回東京よさこいと第32回江戸川市民まつり~

 9月の下旬頃でしたでしょうか、江戸川区の多田正見区長から、各23区の区議会議長に対して「第32回江戸川区民まつり」の招待状が届きました。A4版のレジュメ、パンフレット、そしてご案内状と、その送付資料から、長い歴史としっかりとした運営ぶり、さらには江戸川区の自信と誇りを感じさせられました。そうなってくると実際この目で見なくては気が済まなくなってきてしまうのが私です。当日10月11日の日曜日は、午前10時から「第4回東京よさこいin大塚」、午前10時45分から「第8回池袋本町商人まつり」と、たて続けに大型イベントが盛りだくさんに入っていましたが、ご列席者の皆さんのご協力もあって無難にこなし、何とか正午実施のメインイベントの「場内パレードとセレモニー」、そして「花自動車コンクール」に間に合わせるべく、すぐさま車に飛び乗って、首都高を利用し、一路まつり会場の「都立篠崎公園」を目指しました。
~昭和51年(1976年)9月19日に発足した、「江戸川区町会・自治会青年部等連絡協議会」で、青年を含めた区民ぐるみの催しができないかという声があがり、実行委員会が結成。 青年たちが目指したのは、タレント抜きの完全な手づくりのまつり。青年部等連絡協議会では、まつりを実現させるため中里区長に相談。区長は、昭和53年(1978年)10月10日付け広報えどがわ「区長随想」で、そのときの様子を次のように記す。「初めての“区民まつり”は大成功でした。これは、2年ほど前に発足した町会自治会青年部等連絡協議会が心に描いた若者の夢なのです。最初は私も本当にうまくまとまるだろうか、情熱だけで内容が伴うだろうか、と迷ったものです。それから各地で盛上がる地域祭の様子を種々見る度に、区民ぐるみの祭りもうまくいくのではないかと自信を持つようになりました。そして、6月頃から80にも及ぶ諸団体に相談したところ、是非にという声が多く、予想もしない程の熱意と協力で、立派な祭として実ったのです」~
 首都高速から降りて、程なく江戸川区内へ入ってくると、景色は確実に本区とは違ってきます。まずは、土地にゆとりがありますし、また妙にビニールハウスの畑が目に付くようになりました。「これは一体何の栽培をするのだろう、もしかして『小松菜?』かもね」(因みに、来賓お土産が「江戸川おかみさん会の小松菜うどん」でした)、そんな想いを擁きながらも、高層ビルやマンションをあまり見かけない江戸川区内の風景から、自身の視線のゆれが、都心に居る時よりもゆったりしていることに気づく有様です。その後私の目に飛び込んできたものは・・・、今では懐かしい紅白の「アドバルーン」でした(小さい頃、よく自宅から池袋のデパート上空のアドバルーンを見つけては、親に買い物をおねだりした記憶があります)。次に私の見たものは・・・、いやはや何とも言えないスケールでした・・・。会場内を来賓受付で頂いたマップを頼りに動き回り、ようやく来賓席に到着し、多田区長と共に場内パレードを見学することが出来ました。
~今年で、32回目を迎える「江戸川区民まつり」。記念すべき第1回は、『ひろげよう ふれあいの輪を』がテーマ。昭和53年(1978年)10月1日都立篠崎公園で開催。来場者数は約20万人。開催時間は、午前10時から午後8時までと、現在の午前9時から午後4時までに比べ、3時間長く開催。広場数は4つ(縁日広場、おどり広場、芸能広場、出展広場)と、現在より少なかったものの、午後8時のフィナーレには、豪快な打ち上げ花火と華麗なナイヤガラの滝、子どもたちのトーチサービスを実施、炎で会場を彩る派手な演出を行なっていた。
 その日の夕方からのメインスケジュールは「第10回東京よさこい」の表彰式への出席と賞状授与でしたので、午後6時半までには来るようにとの先輩の指示に従い、池袋西口の特設ステージ会場へ。目の前では、歴戦のつわものよさこいチームが演舞をしていました。思わず、昼間の「江戸川区民」まつりと比較してしまいましたが、どうしてどうして、こちらはこちら、あちらはあちらと言える、力強い特色がお互いにあることが見て取れます。焦ることなく、お隣に気をとられることなく、目の前のよさこいを育てる事が大事だと私は思いました(それにしても立教大学のよさこいチームはないの?)。
 
~参考~
第31回江戸川区民まつりのデータ(昨年)
参加者: 55万人
参加協力団体: 391団体 19,610人
場内パレード: 31団体 3,163人
ミニSL 乗車数: 約2,800人
迷子保護: 97人
もぎ店: 約9万食
都市交流コーナー: 8都市2団体
「安曇野市、鶴岡市、南魚沼市、城里町、長井市、八丈町、魚沼市、大島町、JA、町青協」
駐輪場: 9ヶ所 6,500台
ゴミのリサイクル: 空き缶、空きビン、ペットボトル、段ボールなど6,160キログラム
中止の回数: 残念ながら中止ということが、これまで30回のうち、3回あります。 (1)昭和60年(1985年)の第8回は雨天のため当日中止を決定。 (2)昭和63年(1988年)の第11回は、天皇陛下のご不例により中止。 (3)平成3年(1991年)の第14回は異常な長雨により事前に中止を決定。

子供達の人権メッセを聞いて

 9月12日、小雨が降りしきる中、豊島公会堂におきまして、豊島区と豊島区教育委員会もそれぞれ主催者と後援者のひとりとなり、「第16回子どもたちの人権メッセージ発表会」が盛大に執り行われました。この発表会の前に公務があったため、私自身の会場入りは、確か午後1時半頃だったと記憶しています。入った時にちょうど発表していたのが、5番の杉並区立大宮小学校6年生の女の子による「人権侵害について」でした。受付で貰ったプログラムを開いて、それぞれの子供達が発表するメッセージの題名に目を通していくと・・・。さすがに「人権メッセージ発表会」と銘打っているだけあって、「人権」という言葉があちこちの子供達のメッセージ題名に使われております。はたして本当にここにいる子供達は、「人権」を正しく使いこなせているか。使いこなせるのは大学で法学部にでも入ってからで良いとしても、正しく使える為の前提知識をどれだけ学校から、家庭から教わっているのか。一抹の不安を感じないわけにはいきませんでした。この段階でまずしっかりと学習しなければ、これから思春期を迎えていくにしたがって、権利、権利と駄々をこねる若者に育ってしまいかねません・・・・・・。
 このような発表会で出会う親御さんの中には、「既に、人は生まれながらにして人権というものがあり、その中には当然子供の権利が保障されているんです」といった趣旨の発言をされる方が大変多いです。勿論、私自身、「人権」とか「子供の権利」とかを否定するつもりはありません。
ただ、今一度、「人権」とは、「権利」とは何か、という命題に向き合って、しっかりと思索して欲しいと思っております。その思索を経由した後に、「人権」とか、「権利」とかを語っていただきたいな・・・、そう切に思う次第です。と言いますのも、それらは過分に濫用の危険があり、中でも特に「人権」は暴走する危険をはらんだ西洋近代の「発明品」であることを肝に銘じていただきたいのです。
「人権」は暴走する。また「人権」は西洋近代の「発明品」である。そう申しましたが、それまではどうであったでしょうか。皆さんご承知の通り、どんな時代のどんな文化においても、「権利」の主張には必ず根拠が必要でした。例えば、まず始めに契約が結ばれて、そして自分はこれこれの仕事をしたからこれこれの取り分がある、と主張するのが、まさに「権利」でした。あるいは、伝統ある古来の慣習を根拠として「権利」が主張されることもありましたし、さらには、キリスト教に基づいた「自然法」のように、「神の掟を忠実に守ること」と「神の与えた権利を有すること」とが表裏一体となっている場合もありました。いずれにしても、単に個人が何かを欲すれば、それが「権利」と認められる、などということはありえなかったのですが、これを全て覆したのが、「人権」概念の発明者のトマス・ホッブスであり、その半世紀あとに登場した、ジョン・ロックです。

 ~我が国の憲法に採用されているのが、「ジョン・ロック版」の人権思想。また、ホッブス自身、「人権」(自然権)が個人の意志と欲望以外の根拠を持たないものゆえ、本質的に暴走の危険を秘めている。それに手綱をかけて本来の個人の幸福追求・実現へと向かわせるのが国家・政府の責務と危険性を認識。にもかかわらず、その危険性の認識をぼやかしてしまったのがジョン・ロック。ロックは「人権」を「神によって与えられた有難い権利」としながら、そこに当然伴うべき「神への義務」の方はあっさりと無視。「ロック版」人権概念は、一方では個人の意志と欲望をそのままに認めながら、そのことの持つ危険性は一切考えないというもの。
  現在、人権の概念はフェミニズムの主張などを容れて、止めどもなく拡大。それはまさに個人の欲求の他、いかなる根拠も必要としないという、ロック版人権概念の基本構造に基づく。
 
「人権」とか「子供の権利」とかの定義や内容は、きわめて曖昧であり、ありとあらゆる子供達の権利行使が、ある子供の、またはある個人・団体の恣意に基づいて行われる危険を払拭できないところがあります。その典型例ともいえる事件が、約9年前に起きた、東京都国立市立第二小学校での、学校長に対する土下座要求事件だと言えるでしょう。私達大人は、今一度冷静に「人権」とは、「権利」とは如何なるものなのかを問い続け、これらがもつ危険性に常に配慮し、国家や自治体が「人権」や「権利」を謳うないし扱うに際しては、事前の学習やレクチャーをしっかりと十二分に行うと共に、極力それは謙抑的かつ慎重に展開すべきだと思います。
この度の子供達の発表の中で、私なりに気になったことがいくつかありますが、ここでは紙面の都合で一つ取り上げたいと思います。特に「いじめ」とか「ケンカ」、そして「差別」といったキーワードを駆使して発表されたものを聞いていて感じた事ですが、「相手にも『人権』があるんだから、いじめたり、暴力を振るったり、差別してはいけないよ」と言った類の主張です。要は、子供を人権・権利の主体と捉えることで、いわゆる「虐待問題」などを解決しようとする姿勢ですが、私はこういった主張や取り組みは見るべき視点を誤っていると思っています。その事はとりわけ「高齢者に対する虐待」の問題を考えてみればよろしいでしょう。高齢者の方は、当然のことながら大人ですから、完全無欠の権利を有する主体ということが出来ます。相対する方も、お互いが「人権」とか「権利」を有していると了解して社会活動をしています。それなのになぜ、権利主体との了解のある高齢者に対して、家族などによる虐待やいじめが増えているのでしょうか。「子供同士でもお互い『人権』があるんだからね。いじめたらダメよ」、そう主張する方は、いま申し上げた「高齢者虐待」がなぜ起こるのかをどう説明されるのでしょうか。およそ虐待というものは、何も、相手方が権利を持っているかどうかでその抑制が左右される代物ではないと思います。大切な事は、虐待される人に権利があるかどうかではなく、また、虐待する人を単純に非難する事でもなく、そもそも虐待しないですむ状況や、環境を作ることではないでしょうか。虐待してしまう人も介護に悩んでいるのでしょう。なぜ虐待するか、何故いじめるのかを理解しないと、適切な対策は生まれないと考えます。ここで再度確認したいことは、子供が必要としているのは「人権」や「権利」の名の下に生じる「利益」ではないということ、子供が最も必要としているのは、親との「関係」なのだということであります。すなわち、保護者、学校、地域が連携を強め、みんなで子どもを守り育てようという姿勢・構えであります。子どもを巡る環境の悪化は、大人が子どもを守り育てるという当たり前の義務を果たさなくなったことが原因です。私は「人権」とか、「権利」という一見すばらしいものであるような言葉を万能薬のように使って問題を解決しようとするのではなく、一つ一つの問題に対する具体的な施策を地道に実施していくことこそ問題の解決に最も効果的かつ効率の良いやり方であると信じております。

2009年8月15日土曜日

今夏もめげずに「高三盆踊り」

 ここ最近、異常気象があったり、寝苦しい夜が続いたりと、体調維持にひと工夫が必要な日々が続いておりますが、皆様は如何お過ごしでしょうか、心より残暑お見舞い申し上げます。
 この暑い8月は、豊島区内のあちこちで、様々な熱いイベントが行われておりますが、中でもこの時期のイベントで、誰もが楽しみにしていて、地域の親睦を図るにはもってこいのものと言ったら、基本的に町会ごとに実施・展開されている「盆踊り」ではないでしょうか。
夏の夜の風物詩とも言える「盆踊り」。そのイメージも、現代社会においてはむしろ単純明快に理解されており、お盆の時期の夜、音楽にのって浴衣の集団が踊るといった感じではないでしょうか。東京音頭とかをはじめとして、新民謡と呼ばれる曲で踊る民謡踊りや、子供向けにアニメキャラクターの盆踊りの曲なども登場して、大人から子供まで、老若男女問わず楽しめる娯楽的な踊り・イベントとのイメージが定着しているみたいです。
 最も、今もって町会長が不在で、とりたてて商店街もないがゆえに商店会長不存在の、集団指導体制下の高三町会では、そもそもこの夏にまた盆踊りをするかどうかが、5月に行われる総会で改めて議論されます。他町会さんからすれば、町会の盆踊りはもう既定の方針であり、その実施は当然の事として暗黙の合意があるかと思いますが、こと私のいる高三町会におきましては、毎夏、実施の有無・立ち上げから議論しなければならない状況になっているのであります。もっとも、総会ではなんだかんだと意見は沢山出たりはしますが、今申しましたように、毎年夏、老若男女が楽しみにしているイベントの一つでもありますし、また、住民相互の親睦やコミュニケーションを図るにはきわめて効果的ですから、結局はこの夏もやりましょうということになっていきます。ただ、それなら老若男女が楽しみにしなくなってきたら、この盆踊りそのものは一体全体どうなってしまうのか。私達は、そんな心配もしてしまう今日この頃なんです。まずは、楽しみを越えた存在・存続理由を、盆踊りに見出して、それを伝えねば…。

~盆踊りは、仏教行事の一つである盂蘭盆会(うらぼんえ)に迎えた祖霊を慰め、再び送るために大勢の人が踊る「念仏踊り(ねんぶつおどり)」が源流。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号に節を付け、唱えつつ踊るもの。盂蘭盆会はお盆の正式名称。「盆」「盆会」「精霊会(しょうりょうえ)」「魂祭(たままつり)」などとも呼ばれる。施餓鬼や盆飾り、精霊流しを行うなど、現在でも日本古来の民族風習が色濃い行事。斎明天皇の治世である657年に盂蘭盆会を設けたことが史実上初めて登場。8世紀頃には夏場に祖先供養を行うという民俗風習が日本で確立。以来1300年もの歴史を持つ。旧暦7月15日を中心として行われている。この日は十五夜、すなわち満月にあたり、月明かりの下で夜通し踊ることができるほど明るかった。盆踊りの場は、あの世との境界・接点となる。その踊りには、霊と踊り手が親しみ、通じ合うことを表す所作が盛り込まれている。月明かりや篝火のほの暗い幻想の中、踊り手はあの世に行った人々の姿を別の踊り手に重ね合わせ、精霊と一緒に踊っているような錯覚に陥り、故人を偲ぶ~

 ちょっとこの路線では、何ゆえ盆踊りを実施・存続するのかを理由付けるには、あまりにもお堅いかも知れません。勿論、盆踊りの存在理由とも言える「祖先供養」を外す事はできません。そのことはしっかりと子供達に伝える事が大事で、それを暗黙の了解事項に仕立て上げつつ、なにか娯楽的な潤いと装いを付け加える事が大事ではないかなと思っています。

~盆踊りの直接的な起源を遡ると、元々は儀式的な色合いが強い。がやがて太鼓などが用いられ、娯楽的な要素が時代を下るごとに大きくなる。挙句はて騒ぎが昂じて、室町時代から明治時代までの間、盆踊り禁止令が度々出されることに……~

 盆踊りで騒ぎすぎてしまった挙句、禁止令が出ていた時代があったなんて知りませんでした。でも、なんとなく理解できるような気がします。盆踊りそれ自体が、地域をあげての一大行事ですし、また夜開催されるところから、特に昔は、若い男女が村の日常性から解放され、「恋愛活動の自由」を謳歌する場所でもあったわけですから…。ここにまた、お酒などのアルコール類が入ったら、もうどうにも止まらないといった感じでしょう。因みに、高三の盆踊りでは、来賓の方に対してだけ接客の際にビール等のアルコールを出するのみで、ビール等を販売する出店は一店舗たりともありません。また、昔から盆踊り会場内は禁煙を徹底しています。そこから、若い夫婦が安心してお子様を連れて会場に足を運んでくれています。未成年らしき者がビールを飲んで大騒ぎしていて迷惑だとか、歩行喫煙者の存在によって大事なわが子が火傷を負いかねないとかの心配がないのが高三盆踊りなんです。

~盆踊りの系統には大別して2つの流れがある。「伝統踊り」と「民謡踊り」 と呼ばれるもの。「民謡踊り」は、戦後に発展したもの。「伝統踊り」のような生演奏はなく、民謡カセット(レコード・CD・etc)を流して街の公園や公民館などで集団で踊るのが一般的。昭和初期、中山晋平の作曲で大ヒットした「東京音頭」に代表される「新民謡」の興隆により、戦後、地域交流の場として盆踊りが見直された時、それらの最新ヒット曲が活用され、その後も「ドラえもん音頭」など次々と盆踊りのための新しい曲と振りが作られた。現在、民謡・歌謡民謡をはじめ、アニメ・子供向けキャラクター・バラエティ番組・テレビドラマなどから多彩な曲が用いられている。また、各々のグループ・組織別に浴衣・衣装を揃えたり、仮装したりと観衆を意識した見どころが多いことも特徴的である~

 子供向け人気アニメ番組に流れている主題歌をもっともっと活用した曲作りとか、また、「志村けんのバカ殿」、二コレットのテレビコマーシャルに出てくる「全身タバコ」とか、定番の浴衣姿とは違った「仮装」で踊るといった工夫に、新しい盆踊りの幕開けがあるのかもしれません。
 そういえば、「ニュー盆踊り」と叫ばれていますよね。本区で……。

グレイトなピアニスト

 7月3日から始まった、10日間にも及ぶ東京都議会議員選挙もようやく終わりを告げ、街の中にもゆったりとした空気の存在を感じている今日このごろ、過日の「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で、日本人として始めて優勝した「辻井伸行」さんと、幸運にも面会する運びとなりました。
何せ国際的にも評価の高いコンクールでの優勝者・チャンピオンです。その後も色々な形でスケジュールが入り込んでいるでしょうから、当日の「お見えになりましたよ」といった旨の案内が私のところにくるまでは、「本当に会えるのかな」と、心配というか、気が気ではありませんでした。と言いますのも、既に私の家族が、7月7日にあった「七夕○○○○」(何でもこれは毎年行われているコンサートらしいです)というリサイタルと言いますか、コンサートに、ようやくチケットを入手して、そのピアノに感銘を受けて帰って来たと共に、彼自身がこれからかなりのスケジュールをこなし続けるとの情報を得ていたからです。
一たび時の人になると、やっぱりこういう流れになっていくのですね・・・。
さて、そうこうする間に、予定の時間より20分も早く、「辻井氏来る」の報を受けました。ワクワクしながらも面会場所に駆けつけましたが、そのお隣には、「辻井いつ子」さん、つまりピアニスト辻井伸行さんのお母様も同席されていました。
 当日の辻井伸行さんとの面談参加者は、何も私だけではありませんでしたから、様々な角度からの意見交換がなされましたし、その意見交換・面談の節々から、私が今まで会ったこともないような、素晴らしい精神性と美意識を持った若者像が浮かび上がってきました。何よりも嬉しかった事は、この豊島区にお住まいである事は勿論でしたが、会話のところどころに、「何か私でお役に立つことがありましたら、おっしゃってください」とのフレーズが数多くでてきた事です。「このような謙虚な姿勢を同世代の若者に見せてやりたいな」、そう思ったのは私だけではないと思いますし、事実、彼がこの言葉を口にする度に、列席者の皆さんが、自身の一挙手一投足を、あるいは又呼吸を、止めるがごとき静謐な雰囲気に包まれていたようでした。
 と同時に、このような姿勢を持つわが子に育て上げたお母さんに対して、関心を抱かないはずもなく、私からの話は、お母さんに向けたものになっていました。
そこで、ここまで息子さんを立派に育ててきたお母さんに、「欧米と日本とで、ピアニストとして育てるにあたり、その環境に格差みたいなものはあるのでしょうか」、と聞いてみました。それは、かねてから私は、欧米の音楽、特にクラシックというものの年代的な厚みに関心を持っておりまして、モーツァルトやベートーベンといった音楽は、日本で言うと江戸時代にも当たる頃の音楽です。それが未だにかく家庭で、それぞれの街中で流れていて、それを未だに自然と聞いている文化に尊敬の念を持っているからです。今の日本で、はたして江戸時代の音楽をかくご家庭で流して聴いているといたことは、まずはありえないでしょう。
 そう力んで聞いては見たものの、そのご回答は極めてあっさりしたものでした。
「特に格差を感じたことはありませんし、今はむしろ、アジアの方が音楽に熱心かもしれませんね・・・」、といったものでした。
 最もこの質問から、辻井伸行さんが関連して話された事が興味津々で、ある意味で、すべての芸術家やアスリートに通じる事かもしれません。
「いつも中国や韓国のピアニストが最後のほうにまで残ってくるし、彼らは絶対優勝してやるんだといった気迫が物凄いんです。もうそれは彼らが弾いているピアノの音色でまず伝わってきます」「そういった中で、僕はいつも自分自身がピアノを弾くことを楽しんでやっている。自分らしいピアノ、自分のピアノをやることに集中することが、大切なんです」「特に、楽しんでやることがとても大事なんです」
そういった話を、身をゆすりながらしてくれました。
 既に、グレイトの域に達している感がありました。
 この若者の未来がとっても楽しみになってきましたし、この子を育てたお母様には、全国をめぐってわが子の才能を発見し、それを伸ばしたお話を講演してもらいたいものです。


※ 辻井伸行さんプロフィール
昭和63年生まれ。
平成2年  2歳 ピアノに触れる。2歳3ヶ月、母の口ずさんだ「ジングルベル」       に合わせておもちゃのピアノで演奏。
平成8年  8歳 モスクワ音楽学院大ホールで演奏。
平成10年 10歳 ピティナ・ピアノコンペティションD級で金賞。
        アメリカ(カーネギーホール)、チェコ、台湾(国家音楽庁)などでも       演奏。
平成12年 12歳 サントリーホールで初リサイタル。
平成14年 13歳 フランスで佐渡裕指揮のラムルー管弦楽団と共演。
平成14年 14歳 東京オペラシティ・コンサートホールで東京交響楽団と共        演。
平成15年 15歳 やまと郡山城大ホールでピアノリサイタル。
平成16年 16歳 東京交響楽団の定期演奏会のソリストに抜擢。
平成17年 17歳 第15回ショパン国際ピアノコンクール(ポーランド・ワルシャ       ワ)に最年少で出場。「ポーランド批評家賞」受賞。
平成19年 19歳 デビューアルバム発売。
平成20年 20歳 第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール(アメリカ・テ       キサス)で優勝。

※ バン・クライバーン国際ピアノコンクール
アメリカで開催される国際的なピアノコンクールで、チャイコフスキー国際コンクールの第1回の優勝者、バン・クライバーンを祝して、昭和37年より、原則4年ごとに開催されている。開催地はテキサス州フォートワース。
 
※ 同優勝者一覧
1962 ラルフ・ボダペク。
1966 ラドゥ・ルプー。
1969 クリスティーナ・オルティーズ。
1973 ウラディミール・ビアルド。
1977 スティーブン・デ・クローデ。
1981 アンドレ=ミシェル・シューブ。
1985 ホセ・フェガーリ。
1989 アレクセイ・スルタノフ。
1993 シモーネ・ペドローニ。
1997 ジョン・ナカマツ。
2001 スタニスラフ・ユデニチ。
    オルガ・ケルン。
2005 アレクサンダー・コブリン。
2009 辻井伸行。
    チャン・ハオチェン。

2009年7月2日木曜日

法要がつづきますね…。

ここ最近の私のスケジュール帳の中には、公務以外にも、意外と多くの法事が組み込まれておりまして、そこには「これだけはついうっかり忘れない様に…」と赤で丸印が付いています。
その法事も、確かに、私自身の仕事の関係上のものも、あるにはあります。がしかし、私の家族関係・親族関係に連なる方の法事が多いのが現状で、今は只その多さに驚いているのが正直な気持ちです。特に、7月には、私の父の一周忌と兄の7回忌があります。

つい最近あった法事は、私の叔父の一周忌でした。この叔父は、私の母の弟に当たる存在です。
私が小さい頃、特に小学生の夏休みに、この叔父のいる田舎に泊りがけで何十日と遊びにいったものでした。その際、近所にある川に釣りに連れて行ってくれたり、また、叔父はボーリングが得意だった事から、その手解きをしてくれたりと、色々と面倒を看てもらった記憶が今でも鮮明に残っています。

私にとってこの叔父の法事は、決してランキングがあるわけではありませんが、とても大事な一周忌といえました。

正午からの法要に間に合うようにと、午前10時台の池袋駅発湘南新宿ラインに飛び乗り、まずは最寄り駅に向かいました。ここ最近の私は、都内・区内での行動が中心でしたから、車窓から見ることの出来る景観の移ろい(都会のビル群―田園住宅―田んぼや畑―山々)は、しばし都会の喧騒から逃れることができたような気分でした。
最寄り駅からはタクシーで、法要が営まれるお寺さんに向かいます。若干遅参したものの、ツクネンと椅子に座り、やがて静寂の中、法要が始まりました。前方には、叔父の遺影が飾られています。もう一周忌か…。早いな…。

叔父の家業は、そば粉の製粉会社でして、叔父は3代目としてマイペースで家業を切り盛りしていました。切り盛りと言いますと、大そう儲けていそうに聞こえますが、実際は異なりまして、叔父の父、つまり私の立場から言いますと、私の母方の父、祖父ということになりますが、その祖父が、「我が家で作る蕎麦粉は、大量生産して大量販売するのではない」「魂込めて・丹精込めて、少量でもいいから納得のいく蕎麦粉を作って販売する」「販路拡大も、口コミによる程度にとどめて、なにもわざわざ、チラシとかをつくって宣伝・広報をしたりもしない」との考えの持ち主でして、その考えを実直に叔父も守っていたのが実情です。

因みに、我が豊島区内にも、叔父の製粉会社の蕎麦粉を使ってくれているお蕎麦屋さんが、未だに2件あるんですよ…。その一軒は西池袋に、もう一軒は巣鴨にあります。「このお蕎麦屋さんに行けば、叔父さんの作った蕎麦が食べられる」と思うと嬉しくて仕方がありません。
長期滞在中は、子供ながらに蕎麦粉の配達を、叔父さんにくっついて手伝ったりした事がありますが、ある時は桐生方面に行ったり、またある時は宇都宮方面に行ったり、そしてまたある時は、何故かこの巣鴨方面に来てしまったりと、関東狭しと異動しまくったことがあります(この影響もあってか、大学時代の中心アルバイトが、観光バスの添乗員でした…。バイト代が出て、あちこち行けて、ご当地の食事が食べられる…、楽しかったですね~)

ある日のこと。「決して工場の建物の中に入ってはいけないよ」との叔父や祖父の言いつけを破って、従兄弟(叔父さんの子供)と一緒に工場建物内に侵入したことがあります。
当然のことながら叔父に見つかってしまい、大変キツク叱られた事があります。最も、叱られる前に、有無をも言わせずに蕎麦の実を保冷している倉庫に放り込まれるのが通例でした。この中がまた怖くて怖くて仕方がありませんでした。何せ中は真っ暗で、たった一つの、妙にぷーら・ぷーらと揺れてなかなか落ち着かない裸電球が頼りです。しかも、周りにあるのは蕎麦の実がたっぷり入った、あたかも巨大枕ともいえる蕎麦袋が幾重にも山積みされていて、しかも時折、「チュー・チュー」といった鳴き声が聞こえます。実は、都内の我が家でも全くといってよいほど見かけないネズミが(しかもデッカイ)この倉庫の中にはいたんです。「倉庫の中に入ってろー」 と言われて入れられてしまった以上は、子供心には、「一体全体いつになったら出してくれるのかなぁ…」「ひょっとしてずぅーとこの中に入れられっぱなしかなぁ…」「ネズミにかじられないかなぁ…」 そんな恐怖心で一杯一杯です。

話を工場に…。
当時の叔父の製粉工場は、古い型の機械類が多く、同時に、子供ながらに見て、かなり異様でした。と言いますのも、例えば、真夏でも工場建物内はひんやりとしていて、あたかも霊気がダダよっているみたいであること、また、工程としては、蕎麦の実を挽いていって、最終的には蕎麦粉にしていく訳ですから、天井近くに蕎麦の実をごっそりと入れ込んだ大きな木箱が装着してあり、それがふるいのような動きをして次の工程へと落としていくわけですが、このふるいの動き方がダイナミックで、異様な唸り音・響きを立てていること、さらには、工場内がそれら一連の工程を行うべく、ありとあらゆる機械・装置同士が回転ベルトで連環していて、そこに引き込まれたり、巻き込まれたりする危険があることなどなど……。
今思えば、小学生あたりがここに入っては確かに危険ですし、何時頃からか、もう叱られるのがイヤで入らなくなったことと、今度は大きくなってから、いわばお墨付きを得て見学しに入って行ったことがあるくらいです。
その後は、大学を出てからは、叔父の元へ遊びに行く回数はめっきり減りましたっけ…。

どうやら法要がおわりました。次は、順番にお焼香です。
独特の煙と香りが会場内を曇らせます。
哀悼の8月15日まで、こういった機会が多い私のスケジュールです。

2009年5月21日木曜日

ガーデニング・ウィーク

 5月というと、真っ先に気になってしまうのは、大型連休をどのようにして過ごすか、この一点ではないでしょうか。はたして皆さんはこの5月のゴールデンウィークをどう過ごされたのでしょうか、お聞きしたいところですね。もっとも、大型連休とは言うものの、昨今、世上を賑わす「新型インフルエンザ」の影響もあって、思っていたより遠出をする人は少なめではなかったかと推察致します。但し、海外旅行組は、大型連休に入る直近で「新型インフルエンザ」騒動が起きても、「せっかく休みをとったのだから、今さら海外行きは止められません」と言ったところでしょうね。そこから例年の如く、成田空港は賑わいを見せていたのではないかと思います。
さて、今年のゴールデン・ウィーク、我が家では一体何をして過ごしたかといいますと、ちょっとお恥ずかしいのですが、普段の日常生活で困っている事の解決、日常品として足りていないものの購入をはじめとする「生活リメイク行動」(私が勝手につけましたが、要はお買い物です)に勤しんだところです。特に、私自身に関して言えば、「長靴」の購入です。
「えっ、長靴?今時いつ履くの?」といった感じかもしれません。
確かに、私も小さい頃は、「あんな長靴なんてダサイ、絶対履くものか」などと言ってはいました。しかし、私も今年で4回り目に入った年男です。いつまでも、そのような容姿・ルックスにこだわりをもつ年でも無くなってきました(う~、寂しいねぇ~)。例えば、私自身通勤や地元回りの際には、自転車(ママチャリ)を利用するのですが、雨の降りしきる日に自転車に乗っていると、どうしてもペダルを漕ぐ足元、特に踝近くがどうしても雨でぬれてきてしまい、そのジットリ感は余り気持ちのいいものではありません。長靴があれば、靴下もズボンの裾も濡れませんし、そもそもこれまで履いていた革靴が濡れて痛むという事も無くなります。「うーむ、これは倹約にも繋がるワイ」なんて感想を漏らしながらも、「何でもっと早くから長靴を履かなかったんだろう」なんて感想を漏らす年頃です。また、私の趣味の中の一つに「観賞魚飼育」というのがありますが、この冬、我が家の池の掃除に際して使う長靴が水漏れをするので、気持ち的にも冷たくかつ寒い状況下で池の掃除をしなければならない有り様でした。
ここまで話してきますと「もっと早くに、さっさと長靴を買えばいいじゃない」といわれそうです。確かにおっしゃる通りでして、いつも道を歩いていて靴屋さんを見かけて立ち寄っては、お店のご主人に「長靴はありませんか?」と尋ねたりしていたのです。しかしいつも、「長靴は、今はもう置いてないんですよ~」と言われるのが大半で、ごく偶に「ハイ、ありますよ」と言われ、「やった!」と喜んでみても、それが調理場用の白い長靴だったりしたものでした。結構売ってないものです。いま時、長靴は…。
この大型連休に入る前に、たまたま新聞折込チラシを見ていて目に留まったのが、我が家からそう遠くないところにある大規模な・何でも有り的な「某ホームセンター」のカラー刷り広告です。そこにしっかりと載っているではありませんか、ナ・ガ・グ・ツ。しかも写真からして見事な黒光り・光沢を放っています。
「これですよ、これ。もう買いに行くしかない」
大型連休に入るや否や、荷物の沢山積める軽四自動車で買い出しに向かいました。何せ、大型連休中です。開店時間の午前10時にはしっかりと混みはじめるだろうとの予想のもとに自宅を出発し、開店とほぼ同時にこの大規模ホームセンターの屋上駐車場に滑り込んでいきました。もう次から次へと車が滑り込んでいきます。こういった光景は、よくテレビの画面で見かけるなと思いきや、日本の自動車を海外に輸出する為に、港に停泊中の大型輸送船舶に、次々に大量の自動車を積み込むときがそうですね。
満車になる手前ぎりぎりで車を置く事が出来て一安心した後、その後は早速買い物用カートを押しながら、辺りを物色し始めました。一番のお目当ては、広告にあった「紳士軽半長靴」と我が家の池の掃除用としての「紳士カラーブーツ」です。発見次第直ぐ購入したわけですが、このときの心境は、やっと目的を達成したといわんばかりの、あたかも登山家が登頂に成功した時の心境です(何で山登りをしない私がその心境がわかるのか、ちょっと不思議…)。

お目当ての買い物が済んで、後は適当にホームセンター内を見回り、さっさと帰えろうと思って外に出てみたが最後、あるわあるわ植木が、家庭果樹の苗木が、綺麗な花々が、赤玉土が、腐葉土が、堆肥が…。こうなってしまうと、私の趣味の中の一つ「家庭果樹栽培と園芸」への熱い思いが込み上げてきてしまうわけです。しかも今年は、園芸を少しでもかじっている方ならお分かりの特別な年なんです、アニバーサリーなんです。ディズニーランドの25周年にも匹敵するかも知れませんよ!!(実は、ディズニーランド、ディズニーシーの遊園も趣味です)。
実を言いますと、今年は「サフィニア20周年」なんです。
「サフィニア」とは、春から秋にかけて咲き続ける花のことです。
~鮮やかな花色、丈夫で豪華、秋まで長く咲く「サフィニアパープル」の衝撃的なデビューからはや20年。年々サフィニアを愛する者は増え続け、それに比例するかのように、毎年数々の、花への思い入れ、花との出会いからエピソードまでが育まれる。20周年を迎えた今も、新しい色、新しい商品が生まれ続け、そのラインナップは止まることを知らない。とりたてて園芸好きでない方も知っているはず。街角を歩いて周囲を見渡していると、必ずと言ってよいほど目に飛び込んでくる花。ある時は、殺風景な家の周りを華やかにし、ある時は、毎年道路沿いのフェンスに吊り下げ式で飾りたてる。日本国内はもとより、テニスの国際大会のウィンブルドンの会場や、南フランスの街に溢れている光景は定番とも言える。それほどまでに世界中で愛されている花、それがサフィニア~
大分大袈裟になってきましたね。今回私が久しぶりに買い求めてしまったのは「イエロー」「ストロベリースカッシュ」「ディープパープル」の3色ですが、ものはついでにと言う事で、今回始めてチャレンジすべく「ミリオンベル・チェリーピンク」「同・プラチナピンク」も購入してしまいました。それと後は、赤玉土25リットルを一袋買うだけです。腐葉土や堆肥・肥料だけは我が家にありますから…。
さあ~、咲かせ続けますよ~、サフィニアとミリオンベル!!
今回のゴールデンウィークは、ガーデニングウィークとなってしまいました。

桜を愛でることができるなんて・・・

 お花見シーズンもこの東京では一段落して、ほとんど葉桜になってしまっている桜の木に、もはや道行く人々もあまり関心をもたない時期となりました。元来お酒やタバコを嗜まない私も、今年はたった一回こっきりではありますが、3月28日の土曜日の夕方、豊島区営グラウンドで行われた「さくら祭り」に参加してきました。
この「さくら祭り」も、昭和50年代の半ば頃に地元町会の人たちが集まって、毎年3月の最終土曜日に実施したのがきっかけと聞いております。その「さくら祭り」ですが、今回の私が参加しますグループの集合時刻は、午後7時と聞いていましたので、その10分前位に行ってみたところ、既にブルーシートがあちこちに敷かれ、その中心部前方には、特設ステージが設営されていました。当日は結構な肌寒さでしたし、また桜の花それ自体が2分咲き程度でしたので、「こりゃきっと参加者もまばらだな」と思っていましたが……、いやいやどうして、なぜかくも桜は日本人を引き付けてしまうのかと思い知らされるような参加者でした。しかも、ブルーシートの前には、何やら白っぽいプラカードが立ててあり、何か書かれています。「何が書かれているのだろう」と思って覗き込んでみると、参加町会と各種団体の名前が書かれていました。第2地区区政連絡会から4町会が、第12地区区政連絡会から2町会がそれぞれ参加し、陣取っていました。また、会場が区営グラウンドですから、豊島区体育協会のプラカードもあり、体協役員の皆さんの顔ぶれも目立ちました。
 いざ宴会に入って、私はぶるぶると震えながら、冷たいビールと日本酒、そしてお弁当を頂戴したわけですが、こういう状況ではいくらアルコールを飲んでも体が温まらないことが分かりましたし、その一方で、ほろ酔い気分で会場内をふらついている人がうらやましくも感じちゃいました。特に、しこたま飲んだ後「あの後は覚えちゃいね~」という人がいるかと思いますが、私からすれば、そういう人は、人生の達人に見えてしまいます。
会場内ステージではカラオケやコーラスで盛り上がっています。こっちは寒いぃ~。でも、お呼ばれした形での参加でしたので、むやみに帰れない経緯も抱えています。つくづく夜桜見物の場合は、時間・場所等から、しっかりと出・欠を決めなければ…、そう感じた夜でした。

今年、東京での桜の開花の具合は、特に学校などの入学シーズンに、どんぴしゃと言えるでしょう。新年度を、桜の花を愛でながら気持ちよくスタートを切った方は、さぞかし多かったかと思います。
新年度の豊島区の公立小・中学校の入学式は、4月の6・7日に行われましたが、ずれの日も桜満開の中で執り行うことができました。これも、私の記憶では珍しい部類に入る現象だと感じていますし、私自身、自分の小・中の入学式は雨の日だったと記憶しているので、うらやましい思いを抱きながら、母校の高松小・千川中の体育館内にて、音楽に合わせ手拍子をとりながら入場してくる新入生を迎えました。
この公立小・中の入学式の前になりますが、4月の2・3日と、母校の立教大学の入学式が、池袋西口にある東京芸術劇場を会場として執り行われました。大学の入学式ですから、保護者の方の数も当然増えますし、立教はこのところ学部を新設した経緯もありますので、会場の東京芸術劇場にも一度では入りきれず、各学部に分けたことは勿論、期間も2日間にわたって実施しました。このときの池袋西口公園の桜が、ぱっと見た目ですが、8分咲きといったところで、しっかりと咲き誇っている様が、その日のあっぱれな快晴とも相まってとても美しく見えました。
両日とも、豊島区やとしま未来文化財団をはじめ、地元の各種団体さん(NPO法人ゼファー池袋まちづくり、池袋西口商店街連合会、そして豊島立教会)が、新入生は勿論その保護者の皆さんに対し、さまざまな歓待を展開しました。
私は両日とも、池袋西口公園内にて毎年恒例の新入生歓迎無料ソフトドリンクのサービスをしていました。今回も、各学部の入学式が終わって、会場から出てくる新入生の波に洗われるが如くでしたが、ふと気がつくと、公園内の円形の噴水の方から、人の列が風船につながっている紐のように伸びてきていることに気がつきました。なんだろうと思って近づいてみますと、噴水の前に、白字で「立教大学『祝』入学おめでとうございます」と書かれた、紫色(立教カラー)の立て看板があり、噴水とその後方にある桜の大木を背景として記念撮影をしているのでした。「これは確かに素晴らしい思い出の一コマが撮れるな」と感じたと同時に、先端の方では既に母校の先輩が並んでいる人達の気持ちを察して、回転をよくしようと、カメラマンをしてあげていました。「本橋君も手伝いなさい!!」。先輩に促され、私も早速カメラマン(下手なんです、私)ということになりました。先輩とそれぞれ手分けして、次の撮影を待っている方のカメラマン役を順繰りに務めるという形が、誰彼と言われることなく自然と出来上がりました。
ファインダー越し(デジタルカメラ越し?)に視界に入ってくる新入生の何と初々しいことか。また、ご自身のお子さんの大学入学を祝う親御さん達の何と晴れがましい表情と雰囲気か。当日の快晴、空に向かって溢れ出る噴水の音、そして背景にそびえる桜。その場を包みこむすべてのものが、私たち新入生歓迎部隊のメンバー一同をも包み込んで、楽しくも晴れやかな気持ちにしてくれました。初日の4月2日は所用のため途中で抜けてしまったのですが、翌日もまた同様に記念撮影の列ができだろうと推測し、混雑を見込んで、私の事務所に出入りしているの若者を3人を、急遽カメラマン役として動員しました。一人は学習院大学3年生、もう二人は同じ中央大学2年生といったメンバーでしたが、三人とも一様に、自分達の頃の入学式について感想を漏らしていました。先ほどの初々しさもさることながら、こうしてOB・OGがテントを張ってまでして無料ドリンクを配ってくれるなんてなかった旨の感想を漏らしていました。
さて、新入生達が夢と希望を持って入学した後、真っ先に話題になる事柄は、なんと言っても東京6大学野球ではないでしょうか。4月の11・12日が春季リーグ第1週ですが、わが母校立教大学野球部は慶応大学と対戦、初戦は勝ったものの、第二戦を落とし、一勝一敗で迎えた第三戦の13日、慶応の投手に散発4安打に抑えられてしまい、結局12対0で大負けを喫してしまいました。
12対0かぁ~。今年は桜を十分愛でることができたし~。こんな桜の花の散り際のような負けっぷりも……、今年は許せちゃう…かも。

2009年3月26日木曜日

教室パトロール

1月の下旬から2月の中旬にかけて、いわゆる「学校参観週間」と「道徳授業地区公開講座」が、豊島区内の小・中学校において行われました。これに参加された方々もいらっしゃるかと思いますが(どういう感想をもたれましたか?)、私自身も、2月6日に行われたそれらに、事務所に来ている若者達を連れて、午前中は区内某中学校のを、そして午後は2つの区内某小学校のを、それぞれ参観してまいりました。
そこで何を見て、何を感じたかと言いますと・・・・。
いやいや、今の子供たちを取り巻く環境は甚だ厳しいものがある、そう巷で言われて久しいですが、こと教育の基本中の基本ともいえる「学校教師の質」の劣化を大きく問題視せざるを得ない、と言いますか、それはもう危機的状況・危険水域に来ていると体感してまいりました。
本区で熱心に展開しているこの学校参観週間ですが、これは「授業の様子を公開する事で、学校・家庭・地域の連携を深め、開かれた学校づくりを一層推進することが目的」とされてはいるものの、余り成功しているとは思えません。今回のは、第3学期ですが、私自身、暇を見つけては第1学期・第2学期と、地元の母校の小・中学校をはじめとして、その周辺にある小・中学校(隣接校)までつぶさに参観しておりますが、如何せん参観者が少なすぎます。ここでは、毎度御馴染み(失礼!)のいつもの方々(PTAの役員・青少年育成委員・民生委員・町会役員)がふらっと来て、さくっと参観して、ハイおしまい、といった具合で終わっているのが殆どです。もっともっと工夫の余地が、大いに有りといえます。いっそのこと、としまケーブルテレビでも入れて、今行われている授業風景を放映して、多くの区民の皆さんにも見てもらって、「生徒としてわきまえなければならないこと」「先生としてなさねばならないこと」、これらを一緒に考えてもらう機会が必要ではないでしょうか。それ位の事をしなければ、戦後の日本の発展を下支えした教育は溶解していくに違いありません。
何か、本橋さん大袈裟じゃないですかぁ~。一体全体何が授業中行われているんですか?
そう聞かれそうですね。まあ、行われている(作為)、と言うより、行われていない(不作為)のが問題と言う事でしょうか。詳しくはこの後の、一緒に参観した若者の感想に委ねたいと思いますが、端的にいいますと、公立の小・中学校の先生におかれましては、もっともっと毅然とした態度を生徒に対してとってほしいと言う事です。これは男性教諭・女性教諭を問いません。兎に角生徒に対して甘すぎると言う事です。しかも、若者の書いた出来事は、その時間内なら、何時でも・誰でもが参観することの出来る、学校参観時の出来事ですから、これが、そうではない普段の授業の時だったら、一体全体教室内はどうなっちゃっているんだろうと不安で仕方がありません。いっそのこと教室パトロール(○○エンジェルスみたいな?)でもしたい位です。
平成19年2月5日に、文部科学省は、現場の教師が少しでも毅然とした「指導」が出来るようにと、いわゆる「体罰」基準を通達しました。その詳細は避けますが、肉体的苦痛を与えるものでない限り、放課後の居残り指導や、授業中の今日室内での起立命令を体罰としないなど、生徒を指導するにあたって先生が萎縮しないように、分かりやすくポイントを示しております。勿論、杓子定規的・画一的に大鉈を振るえるものではなく、現場がケース・バイ・ケースで判断するという大原則が極めて重要である事には変わりがないでしょうが、現場の先生におかれましては、この通知を熟読吟味していただき、生徒指導にブレることなく、毅然とした姿勢でもって臨んでいただきたいと、切に願う次第であります。

学校参観
辻 綾香(中央大学)
豊島区立某中学校一年二組の国語の授業を参観しました。

生徒→教室に入る前からざわついていた。入ってしばらくは、私たちの存在が気になったようだが、しばらくすると友人との私語に没頭し始めた。さらに、隣だけにとどまらず、列を超えてまで、私語をしている。その私語の声も大きく、私たちがはっきりとその内容を、聞き取れるほどであった。特に、後ろのほうにいた男子生徒三人は、先生に背を向けるような形で、体系を組んでおり、聞きたくもない話題で盛り上がっていた。完全に、授業そっちのけであった。他にも、あちこちで私語のグループができており、はっきり言って、生徒たちのやりたい放題という印象を受けた。教師が授業の途中で、教科書の音読テープを流してからも、私語の多さは変わらなかった。

教師→先ほど前述したように、教室に入る前からとても騒がしかったので、てっきり自習なのかと思っていた。しかし、教壇には教師が立っていた。教師は、「静かに」と言うのでもなく、ただ淡々と自分の業務である授業を、こなしているだけ、というふうに私の目には映った。それが、あまりに私語が多くて、手に負えない状況にまで、きているからなのだろうか。教師は半分私語を、というか生徒を無視しているようにもみえる。また、比較的教師の近くにいるおとなしそうな前方の生徒には、働きかけをするが、私が一番目についた後ろの方の男子三人には、一度も注意はしなかった。私が、この教師の立場だとしたら、確かにあまり関わりあいをもちたくはないグループではあるが。注意すべき生徒が、注意をしにくい後ろの方にいる席順にも問題があるのでは、と感じた。そして、生徒の私語に教師が加わって、一緒になって楽しんでいる場面も見受けられ、教師としての風格が、既に危うくなっていた。
 感想→私の中学校は、とても規則が厳しかったので、この学校を視察して、カルチャーショックを感じた。鞄指定、キーホルダー禁止、ブレザーを着ずにセーターで授業を受けるなど、言語道断という学校で育った私からすると、この学校の習慣?を受け入れることは、難しい。どちらがいいとは言えないが、もう少し、教師が権限を使って注意をするくらいはいいと思った。学校に入った時は、とても、綺麗で清潔、明るい色調も手伝って開放感に満ち溢れており、よい印象を受けただけに、授業の質とのギャップを色濃く感じてしまった。

同期の結婚式にて

つい最近、私の高校・大学時代の友人の結婚式が、フォーシーズン・ホテルで執り行われました。当日の天気は?と言うと、あたかも二人の幸せぶりを私も見たいといわんばかりに、お天道様も覗き込んでいる、そんな良い天気でした。
開演時刻よりも前に到着すると、既に懐かしい仲間達がワイワイと話し合っています。新郎は高校時代野球部でしたので、野球部関係の知り合いが大きな集団を形作って思い出話をしていました。運動部仲間として私も分け入って会話に参加していると、これまた懐かしい高校の野球部の監督が到着し、会話に加わってくれました。私自身は、アメリカンフットボール部でしたので、この監督さんとは部活でのご縁はなかったのですが、それでも私には忘れられない思い出が、ご恩が、この監督さんにはあります。
~昭和49年春、豊島区立高松小学校を卒業した私は、そのまま地元の公立中学校である豊島区立千川中学校に入学。小学校時代から、学内では球技クラブを、地元の地域では、高松少年野球会に所属し、特に野球に熱中する。千川中学校に入学直後、私は我が目を疑う、いや茫然自失する。何と、野球部がない。最も、数年前までは野球部はあったとの事。しかし何故野球部が廃止されたのか、その理由は未だに謎。それまで地元の原っぱ、城北公園内にあるグラウンドにて野球三昧で過ごしてきた私にとって、心と、体が真空に。だが、発想の転換を考える。「無いものは、作れば良い」と~

入学してから驚く方がお粗末とも言えそうです。兎に角、入学直後は他のスポーツをするわけでも無く、まったりと静かにしていたものの、やがて、中学2年になると、野球部の設置に向けた活動を起こし始めました。野球好きの連中が集まり、話し合い、計画を立て、体育の先生は勿論のこと、野球やスポーツに造詣の深い先生への陳情行動を熱心に始めました。その甲斐もあってか、その効果があったのか、私が中学3年生の春から、野球部が復活する事が決まりました。その後は、廃部になった理由が、チームが弱くて一勝も出来なかったからだ等、私たちを焦らせる情報も飛び交ったり、当時の私たち部員は、こりゃ負けたらまた廃部になるぞとの危機感を持って、ようやく割り当てられたグラウンド使用日に、必死になって練習したのを思い出します。但し、悲しいかな、千川中学校の校庭の狭さと、現在のように防球ネットが無い事から、打撃練習を始め、外野へのノックも出来ないといった有様でした。そして私自身こりゃ参ったというのは、中学一年生の頃は身長が145センチメートルしかなかったのが、3年生ともなると、175センチとなり、30センチも身長が伸びており、かつてのユニフォームが着れないことでした。ユニフォームぐらい直ぐ作ったら良いのにと言われそうですが、こちらは何年振りかの野球部なんです。兎に角、体操服やジャージでも良いから練習に打ち込みたくて仕方が在りませんでした。その挙句に、練習試合の時には、少年野球をしていた時の後輩からユニフォームを借りたりしていましたっけ(ちょっと高圧的だったかも)。
~千川中学校の野球部はこうして再び再起動し、夏の大会の大会に向けて練習に明け暮れる。やがて夏の大会の抽選が行われ、初戦の相手が、豊島区立中学校適正配置計画にて今は無き、第十中学校(現在は明豊中学校)と決まる。私は、5番:ショートで先発出場。試合は、ある意味で、投手戦となる。結果は、4対1で敗戦。私の中学校での野球人生は、一敗の歴史を刻んで終わりを告げる~

今でこそ「肘を壊す」といった理由で、小中学生の投手は、カーブをはじめとした変化球を投げる事は禁止されていますが、当時は今と違って、変化球オーケーの時代でした。十中のピッチャーですが、ストーレートもコントロールもいまいちのピッチャーで、これはオーケーかなとも思っていたのですが、チョコチョコと微妙に曲がる小さなカーブ(今で言うスライダーとカーブのあいのこで「スラーブ」)を、器用に且つ要所要所で投げてきました。私への勝負球は必ずといってよいほど、このスラーブで、結局のところ3打数ノーヒット、しかもセカドゴロ2つといった、散々足る有様でした。
~中学時代の野球で不完全燃焼だった私は、高校時代は野球をやり、甲子園を目指そうと決意(ほんとに目指すだけ…)。高校受験は、第一志望群は大学受験進学校を、第二志望は東京六大学の付属を狙い、都立高校を滑り止めに。最も、都立高校を滑り止めというのも、都立さんに対して失礼な話。実際は、男女共学の都立がイヤだったのと(これまた失礼)、中学時代をやんちゃに過ごしてきたせいか内申が低く、第41群の小石川・竹早が若干厳しかったのが真相~

昭和52年春、高校一年生の私は、両翼99メートルもあるグラウンドのレフト側にある土手に座って、野球部の練習を熱心に見学していました。高校受験でしばらく遠ざかっていた懐かしいあの掛け声、そして当時高校野球に導入されたての「金属バット」の打球音がグラウンド中に響き渡っていました。ここで野球が出来るんだなと思うと、胸がワクワクしましたし、それまでの運動不足がいっぺんい吹き飛ぶような気がしました。その時です。監督が近づいてきて、話しかけてくれました。熱心に見学しているこちらの思いを察してくれたのでしょうか。早速矢継ぎ早に質問が飛んできました。「君は中学の時はどこを守っていた?」「何番を打っていた?」「100メートルは何秒で走る?」。イヤイヤ、さすがに元旦以外は休み無く、日々甲子園を目指して練習している野球部の監督さんです。その目は、私がはたして使えるか使えないかの目をしていました…。
その一方、かねてから、どうしても私に来て貰いたいと言ってくれていた部がありました。それがアメフト部です。結果的には、自分自身と折り合いをつけ、急旋回する形でアメフト部に入部し、やがて高校2年生の時に全国大会ベスト16になりました。その年野球部の方は、夏の甲子園の埼玉県大会決勝に迄いったものの、決勝戦で所沢商業に負け、あと一歩で全国大会の甲子園を逃してしまったのです。結果的には我がアメフト部の方が優ったことになります。
あの時の監督の真摯で熱心な質問攻めが無かったら…。
それから30年後の今、目の前にいる監督さんに有難くも、懐かしさの思いを込めた御挨拶と握手をさせてもらいました。
この年齢になってからの同期の結婚式って、こういった出会いがあるから嬉しいですね。

2009年1月16日金曜日

また大河ドラマ…始めますか

新春を迎え、名店街ニュースをお読みの皆様方におかれましては、益々ご健勝の事とお慶び申し上げます。もっとも、アメリカのサブプライム・ローン問題に端を発した世界的な金融危機は、需要の減少や株価の下落をもたらし、企業や消費者の心理は冷え込んでしまっているのが現状です。名店街の皆様方におかれましては、言葉では語り尽くせない非常に厳しい現実の真っただ中におられるかと思います。ただただ実りの多い丑年になります事を祈念いたしております。






さて、昨年のNHK大河ドラマは、薩摩藩の島津家から徳川13代将軍「家定」の正室・御台所となり、夫の死後も激動の幕末を徳川の人間として生き抜いた「天璋院篤姫」の波乱に満ちた人生を描いたものでした。
~幕末の動乱期。薩摩の大地で桜島の噴煙を見ながら錦江湾で遊ぶ純朴で活発な少女がいた。やがて彼女はいきなり徳川家将軍の正室になり、俗に3000人の女性がいるという大奥を束ねる人生を歩む。藩主の島津斉彬からは将軍のお世継についての密命をも帯びる。もっともこのお世継問題は思うようにはいかず、一年半で夫に先立たれてしまう。



密命とは違う後継将軍家茂に嫁いできた孝明天皇の妹・和宮との関係に悩みながら、実家の薩摩藩の軍勢に攻め立てられる徳川家を必死で守ろうとする。
 自分の身内である天皇家と敵対することになってしまった和宮との関係も和らぎ、今度は共通の敵となってしまったかつての身内(薩摩軍と管軍)に対して、二人は一緒に、必死に徳川家を守り抜こうとする。その結果、江戸城の無血開城。徳川家の血筋の死守。そして、後継者の育成に余生を捧げ、47歳の生涯を閉じる~






このNHK大河ドラマの「篤姫」ですが、かなり視聴率も良かったらしく、年末恒例の総集編も「分かってるけど見ちゃったよ~」といった方も多かったのではないでしょうか(私もはじめて総集編で「篤姫」を見たクチです)。この「篤姫」ですが、皆さんはどのような思い入れをしながらご覧になられたのでしょうか。
 えっ。そう言うお前はどうだったのかって? 私はと言いますと、実はここ数年、NHKの大河ドラマはパスしていたところがありました。と言いますのも、なんだかんだと言いましても、大河ドラマ、特に歴史上の人物をダイナミックに取り扱う長編歴史時代劇の分野においては、何よりもキャスティングの面と、史実にかなった時代考証に注目するところがありまして、ここ数年は配役に重厚さが感じられなかったり、その時代考証と認識に戸惑いを覚えたりして…、加えて、私自身が最後に夢中になって見た大河ドラマが、西郷隆盛や大久保利通など、薩摩藩士が続々と出てくる「飛ぶが如く」(司馬遼太郎作)で、これでもう幕末・明治期のものはいいかな、そんな印象を持ってもいたからです。


今回もシーズン中は全くと言ってよいほど「篤姫」を見てはいませんでしたが、「えっ、面白いですよ」とか、「なんだ、お前見てないの」といったご意見をいただきましたので、安直ではありますが、総集編で視聴させていただいた次第なのです。





それにしても、なぜ「篤姫」だったんでしょうかね。これまでの大河ドラマを見て私なりに感じていることは、「国取り物語」や「天と地と」、そして「風林火山」といったものに代表されるように、あくまでも主役は信長・秀吉・家康の3大スターから、源義経・足利尊氏・武田信玄・上杉謙信・赤穂浪士・伊達政宗などの超有名人であって、「篤姫」の存在は、少なくとも私からすれば、「マイナー」でしかありませんでした(「篤姫」ファンの皆さんゴメンナサイ)。それは、例えば「和宮様御留」(有吉佐和子作)を読んでみても分かります。「篤姫」は、江戸城で孤立するかわいそうな皇女・和宮に辛く当り散らす、言ってみれば姑根性丸出しの嫌みな女性という印象がすでに定着しているともいえ、大衆的人気とは程遠い存在と言ってよいのではないかなと……。
そうした中で、ポイント・視点のおきどころが、今回の「篤姫」の脚本担当者のコメントにあると私は思っております。





~この国が混乱を極めていた時代に、最後まで「誇り」と「覚悟」を失わな
かった女性、篤姫。愛する故郷である薩摩が、そして皮肉にも婚礼の仕度
役だった西郷吉之助(隆盛)が刃を向けて来た時、実家よりも婚家を守り
通そうとしたその姿勢に、日本人が失ってしまった、そして今の日本人に
何よりも必要な「何か」が秘められているのではあるまいか~






この「篤姫」脚本担当者のコメントを読んだ時に、私がフッと思い出したことがあります。それは高校・大学時代の頃よく読んだ「福田恆存」の言葉でした。(うろ覚えではありますが…)「生産という局面で人はつながり、消費という局面で人は孤独になる」 例えば、家業が魚屋さんだとして、そこではお父さんがお店の奥で魚をさばいたり・焼いたり、お母さんは店先でお客さんを呼び込んだり、品物の受け渡しをしたり、夕方になって家に帰って来た子供は、お店にいるお父さん・お母さんを手伝ったり、あるいはお母さんに代わって夕飯の準備をしたり、まさに親御さんの仕事・家業のお手伝いをしたりする。こういった生産という関わり合いがあって、親子の絆・紐帯といったものが育まれたりする…。他方、家業の手伝いもせずに、ただ単に学校に行っているだけ、そして家に帰ってきたら自分の部屋でパソコンをいじっているだけの子供を想像した時、そこに生まれるものは独立しあった・解体された個の存在でしかない…。




家とか家族というものには、プライベートな面(消費的)がある事は勿論ですが、それ以外にも公的な面(生産的)も併せ持った、社会を構成する人間集団の最小基本単位であることを私達は再認識しなければならないということや、現代の複雑な社会構造のなかにあって、家とか家族はどうあるべきかを考えるきっかけにしたい。このあたりが「篤姫」という大河ドラマの見所だったのではないかと、私なんぞは感じております(今年は我が家でこの答えを見つけ出したいものですね)。
いやいや、総集編でこれだけ大河ドラマにはまってしまいますと……。
今年始まったばかりの「直江兼続」も楽しみになってしまいました。
また大河ドラマを見はじめましょうかね…。