2007年12月22日土曜日

テロ得?

 今からちょうど2ヶ月前の10月17日、日本政府は、11月1日に期限が切れる「テロ対策特別措置法」に代わる、「新テロ対策特別措置法案」を閣議決定し、国会に提出致しました。勿論、提出してはみたものの、その後の帰趨はどうなっているかと言えば、まさに予断を許さない感じがあります。それは、直近の各新聞やテレビで報道されている世論調査結果が如実に物語っているところであります。
 そこで、新法案は一体全体どういう内容のものかといいますと、国際社会の「テロとの戦い」や、わが国の生命線である原油とシーレーンの安全確保という国益の観点を踏まえた上で、引き続いてインド洋、とりわけアラビア海海域での海上自衛隊の支援活動を、給油と給水活動に限定し、その給油先も、武力行使に従事する軍艦への補給活動を排除し、テロリストの移動や武器、麻薬などの輸送を監視・摘発する海上阻止活動にかかわる他国軍の艦船に限定したものとなっております。
 

 そこから新法案は、①ここでの海上阻止活動が、国際法に基づいた乗船検査などの海上警察活動を指しており、決して武力攻撃をするものではないこと、また、②給油先も限定したことで、対イラク作戦などに対する燃料の転用防止の徹底にもつながっていること、さらに、③その期限は、文民統制をより強いものにするという意味で、1年としていること等から、現在の「テロ対策特別措置法」にも増して、国民の支持を得られるものになっていると思います。
 

 そもそも、「テロ対策特別措置法」のもとでの、海上自衛隊の艦艇による洋上給油活動の戦略的意味は、「テロとの戦い」に取り組んでいる多国籍海軍の海洋安全保障にとって極めて重要な意味を持っていることは間違いありません。
 

 といいますのも、わが国の海上自衛隊の艦艇が洋上給油している各国艦艇の受け持っている海域は、ペルシャ湾からホルムズ海峡、アラビア半島の沿岸海域、紅海からソマリア海域と極めて広範囲に及んでおりますが、もしここで洋上給油という手段を失ったとしたならば、一体どうなるでしょうか。是非、皆さんも想像して頂ければ有難いです。


 私なりに想像してみますに、洋上での給油がなくなれば、各国の艦艇は、いちいち予め定められた補給港に寄港し、燃料補給作業を行うことを余儀なくされ、その結果、時間的に大きなロスを生じさせると共に、各国の艦艇の作戦行動が当該補給港に縛られてしまい、ひいてはテロリスト達に、海上阻止活動の警戒網をくぐり抜けた、各種洋上活動を許してしまうことになると思いますし、それは我が国にとって、「テロとの戦い」の成否に関わる軍事的な欠陥をさらけ出すことを意味すると考えますが、いかがでしょう。


 数年間にわたって続けられているインド洋上、とりわけアラビア海海域での海上安全保障活動で摘発されたテロリストやテロ集団と関係する船舶数は、公開情報に限ってみますと極めて少ないことが分かります。 

 そこから、「テロ対策特別措置法」に基づく海上安全保障作戦が、テロの根絶にどの程度貢献したのか!とか、実質的に役立ってはいないのではないか!とか、費用対効果が低くて実行価値がないのではないか!といった声が聞こえてまいります。
 

 しかし、このような発言は、わが国の安全保障にまつわる軍事的な専門領域までをも、いわゆる商業、商い的視点でしか判断できない、いわゆる「平和ボケ」の典型例の一つでありまして、わが国独特の現象といわざるを得ないと思います。
 

 といいますのも、摘発ないし捕捉されたテロ分子が極めて少ないということの意味は、各国の艦艇による哨戒・警戒活動によって、テロリスト側の、洋上での活動が大幅に制約されている、抑止効果がもたらされている、と言うことが出来るからであります。各国の艦艇がアラビア海海域を常時パトロールしているがゆえに、テロ分子達による、テロリストの移動や武器弾薬の増強、麻薬や人身売買による資金稼ぎのための密貿易を抑止出来ている、という成果が上がっているという意味において、確実な「貢献」がそこにはあると、私は考えます。


 加えて、現在、各国の艦艇に対して洋上給油を行う為の部隊を展開させる能力を持っているのは、世界各国の軍事バランス上、わが国の海上自衛隊だけであり、わが国政府が国連によって支持されている「テロとの戦い」そのものを支持している以上、海上自衛隊の補給艦が各国の艦艇に給油などの支援をすることは、まさにわが国の特性を生かした、外交努力の結果生まれた国際貢献と言う事が出来ると思います。


 しかも、より重要なことは、わが国の生命線である原油とシーレーンの安全確保という国益を見据えて、今回の問題を議論することであります。わが国が輸入している原油のうち89.5パーセントは、ペルシャ湾からホルムズ海峡を抜けて、アラビア海を通過してインド洋から日本へと向かっておりますし、残りの10.5パーセントのうち、4.2パーセントは、紅海からアラビア海を横断しインド洋から日本へと向かっています。つまり、わが国が輸入する原油の93.7パーセントは、「テロとの戦い」のもと、多国籍海軍の艦艇が安全を確保してくれている海域・シーレーンを通過してもたらされてくるものです。
 

 もしもわが国の海上自衛隊の艦艇による洋上給油活動がなくなり、各国の艦艇による海上安全保障活動が停滞し、アラビア海海域でのテロリストの活動が活発になりますと、最悪の場合は、93.7パーセントの原油を、わが国は手に入れることが出来なくなる恐れが生じます。そして、わが国が常時備蓄している約半年分の原油を消費してしまった後は、生産活動も交通機関も完全に麻痺してしまい、国民の健康で文化的な生活は到底望めなくなってしまいます。
 

 わが国としましては、引き続いて各国の艦艇に対する洋上給油活動を展開することによって、自らの原油とシーレーンの安全確保という国民生活の生命線を守り、原油の安定的な獲得の維持という我が国の国民生活に直結した国益を守るという観点を常に持ち続けていかなければならないと思いますが、いかがでしょうか。
 

 海上自衛隊の洋上給油活動の継続は、わが国が国際社会の一員として、「テロとの戦い」に貢献するという国際的な責任を果たす意味でも、また、海上交通の安全確保というわが国の国益にも合致するという意味でも、政治的に正しい決断であると、私なんぞは思っておりますが・・・。   
少なくとも、テロリスト達が得しない方策を考え続けましょう。
~~~本年も拙いエッセイ(?)にお付き合い下さり、誠に有難う御座いました。

良い年をお迎え下さい。~~~                                                                 2007年12月

2007年12月4日火曜日

ガンバレ柏崎

  11月11日、日曜日の午前、豊島区総合グラウンドで、第4回「TEPCOフレンドリーカップ2007」という、豊島区と新潟県柏崎市との少年野球交流大会が開催されました。
この大会は、東京電力株式会社の大塚支社と柏崎刈羽原子力発電所が主催し、財団法人:社会経済生産性本部の首都圏エネルギー懇談会の共催を得て、私どもの豊島区少年野球連盟と新潟県柏崎学童野球連盟が協力するもので、首都圏で使われる電力の約2割をまかなっている柏崎刈羽原子力発電所立地地域である新潟県柏崎市という「電力の生産地」と、私達が住む首都圏の真っ只中にあります東京都豊島区という「電力の消費地」とを、少年野球というスポーツで結び合うことによって相互理解を深め、ひいては日本のエネルギー事情に小さい頃から関心を持ってもらいたいという願いを込めて行われているものです。


  当日は、困ったことに朝から生憎の雨模様でして、雨による大会への影響を少しでも抑えようと、開会式を簡潔に済ませる等して予定時刻より早目にプレイボールとしたのですが、一回の表を終わった時点で無常にも強い雨脚となり、審判部の判断でやむなく中断、選手達はアンダーシャツを取り替えてジャンパーを着るとともに、ベンチで雨が止むのをひたすら祈るという状況が2・30分続いてしまいました。


  わざわざ新潟県柏崎市から一泊二日の行程で、監督・コーチ・ご父兄の皆さん、そして選手達の総勢約60名(柏崎スターズと松浜少年野球団の2チーム)が来てくれているのです。ホスト側の豊島区少年野球連盟をはじめ、大会関係者は、雨脚が衰えたと判断するや、一目散にグラウンドに飛び出して行き、水溜りの除去や砂の入れ替え等をはじめとするグラウンド・キープ作業に取り掛かりました。内野のところの水溜りをレイキやブラシで、ファウルグラウンドのほうまで押し流してゆく人、たいして大きくもないスポンジをグラウンドに押し付け水を吸い取ってバケツに捨てている人、乾いた砂をピッチャーズ・マウンドやバッターズ・ボックスに運び、ぬかるんだ砂と入れ替えている人、各大会関係者が暗黙のうちに役割分担し、プレイ再開への道筋をつけてくれています。
 

  それらの光景を、私も手伝いながら拝見して感じたことは、わざわざ柏崎市から来てくれている、それだけの理由ではこの一連の動きぶりは出てこないな、という事でした。
大会前日の11月10日、土曜日の夕方、今大会の前夜祭とも言える「ふれあい交流会」が、サンシャインシティ・プリンスホテルの特別協力のもと、ワールドインポートマート9階さくらルームで行われました。懇談に入る前の、オープニングセレモニーでは、まず、主催者の東京電力の役員の方から、今回の新潟県中越沖地震による被災者の皆さんへのいたわりの言葉と、柏崎刈羽原子力発電所の罹災よる影響を、子供達が一生懸命取り組み、楽しみにしているこの少年野球交流大会に及ぼしてはならない旨の決意が述べられ、次に、乾杯の発声をした柏崎学童野球連盟の役員の方からは、今回来たチームの中に中越沖地震で被災したご家族が多数含まれている旨のご挨拶がありました。この時、ご挨拶した方々とそれを聞いていた皆さんに共通して去来したものは何か、それを私なりに想像しますと、様々な形で被害を受けた柏崎への優しさと労わりの想いもさることながら、日本人としてとても大切な事に無関心でありすぎたし&ありつづけたという反省の想いではないでしょうか。


  7月16日午前10時13分、新潟県中越沖地震が発生してから、柏崎刈羽原子力発電所の地震被害の映像は連日連夜テレビで報道され、「何故、地震多発国に、原発を作ったのか」とか、「原発の安全性には多大な疑問があるといわざるを得ない」といった批判が相次ぎましたが、そもそも私達は、はたして&どこまで原発についての正しい知識を持ち合わせていたでしょうか。私達は今、原発についての無関心を卒業し、国民一人ひとりが認識を深め、思考する時期がやってきたのではないでしょうか。現にアメリカでは、1979年のスリーマイル島の事故以来、原発の建設がなされてこなかったのにもかかわらず、いよいよ新たな建設計画を策定しましたし、現在世界的に、原発政策が見直されています。 
  

  特に資源に恵まれない日本では、原子力発電には、①少ない燃料で大きな発電量を作り出せること、②一度原発を建設してしまえば後はランニングコストが安いこと、③政情が安定している先進諸国から安心してウランを確保できること、④COツーの抑制効果が大きいこと、そして⑤燃料をリサイクルでこること等のメリットがあることから、2006年に「原子力立国計画」が策定され、あらためて国家戦略としての原発推進が確認されています。ところが、現実の私達の対応はどうでしたでしょうか。テレビ画面が映し出す柏崎刈羽原発の施設(実際は原子炉本体ではなく変圧器施設)から立ち上がる黒煙を見て、単純にチェルノブイリ原発事故に結び付け、そこから、海と大気へ放射能が漏れたと即断したのではないでしょうか。加えて、当時の新聞報道の姿勢はどうでしたでしょうか。新聞が持つべき、冷静に物事の事態を把握するという役割と、根拠のない不安ならばそれを取り除くという使命は、果たされなかったと評価していいでしょう。


  実際のところは、この道の専門家とも言える「IAEA」による調査で、東京電力が充分すぎるほどの耐震強度設計をしていた為に、地震被害が原子炉の安全性に影響を与えず、原子炉が安全に停止したことが分かり、その点が高く評価されておりますし、放射性物質の漏洩も基準値をはるかに下回るものであることも確認されています。いずれにしても、日本の原子力技術の高さが世界に証明されたわけでして、後に残ったのは、過度の風評被害でした。
 
 
  やれ「原発の放射能が心配」とか、「あふれる核燃料プール」などの風評が飛び舞った結果、新潟のホテルのキャンセルが多数あり、柏崎では遊覧船が運航を停止し、花火大会も中止。さらには、ある新聞報道が海外メディアの「ヘラルド・トリビューン」紙に転載されたことも手伝って、千葉県に来る予定だったセリエAのカターニャの訪日まで中止になる等、不必要な見出しにより社会不安が醸し出されてしまいました。こうして柏崎の人達が、世間から受けた損害は甚大なものがあったといえますし、特に子供達にとっては多くの楽しみが奪われてしまったことでしょう。だからこそ、一瞬でも早いプレイボールが大切だったのでした。


  私達がなすべきことは、感覚的に常識として広がってしまっている原発に対する間違いを、日本のエネルギー事情を前提に、幅広い情報と科学的見地に触れる努力をすることによって見直し、そして理解を深めることです。そのときの合言葉たりうるのは、「ガンバレ柏崎」です。

                                        
                                                  
                                      2007年11月

2007年11月6日火曜日

福田康夫首相登場

  9月12日、安倍晋三内閣総理大臣(首相)が突然の退陣を表明されました。その第一報を私が知ったのは、同僚議員と豊島区役所内において、廊下トンビをしていた時で、同僚議員の携帯電話に飛び込んできた情報からでした。まったくの冗談かと思いつつも、豊島区役所4階の自民党控室に戻り、すぐさまテレビをつけてみますと、既に午後2時より、退陣についての説明をする総理記者会見が行われる、との段取りも出来ていることが分かりました。その後の流れは既に皆様方もご存知の通りです。

  ~~9月23日、自民党本部において党大会に代わる両院議員総会が開会。総裁選挙の結果、福田康夫氏が第22代自民党総裁に選出される。「信頼の回復」を!!、福田新総裁は、就任後初めての記者会見でこのことを繰り返し強調するとともに、「着実に、誠実に、国民の皆様方の期待にこたえられるよう、真正面から取り組んでいくしかない」と訴え、「正攻法」で取り組んでいく方針を表明。その上で福田新総裁は、「時間はかかるかもしれない。しかし、一致結束して取り組めば、そう遠くない時期に必ず信頼は取り戻せる」との認識を示し、全党員・党友の協力を呼びかける~~。

  当日の自民党本部の総裁選会場内にいた同志の若手衆議院議員の何人かから、実際その場で福田新総裁は何と言われたのかを聞いたことをまとめてみますと、大体こんな感じのことをおっしゃられた模様です。「そう遠くない時期」と言われたようですが、衆議院議員に残された任期はもう2年足らずですから、そう悠長な姿勢ではいられないでしょうし、その意味では、自民党に残された時間は限られているはずです。加えて、参議院で野党の皆さんが過半数を占めたわけですから、真に必要な法案を与党・政府が成立させていくにはどうしたらよいか等など、福田新総裁におかれては、もう少し周辺事態の深刻さに対するご認識と、この厳しい難局を乗り切っていく強い心構えを、もっとご自身の言葉で訴えて欲しかったな・・・・・というのが、下々で支えているつもりでいる、私の感想なのであります。

  ~~9月25日、福田康夫自民党新総裁は国会で指名され、天皇陛下からの任命を受け、第91代内閣総理大臣となる。福田康夫首相は、昭和11年生まれの71歳。町村派。身長は171センチ、体重は70キロ。早稲田大学政治経済学部を卒業。趣味はクラシック音楽の鑑賞。「幻想交響曲」などの代表作があるフランスのベルリオーズ、ハンガリーのバルトークの作品などが好み。読書は分野にこだわらず多読するが、幕末から明治にかけて活躍した政治家:勝海舟が好み。歴史小説が中心。昭和53年、日中平和友好条約を締結した福田赳夫第67代内閣総理大臣のご長男。平成2年、父の政界引退後に同じ選挙区から衆議院議員に立候補、そして初当選。森内閣、小泉内閣ではともに官房長官を務める。明治18年、日本の内閣制度が出来て初の親子2代での内閣総理大臣~~。

  先程述べました23日の総裁選に先立つ、9月21日、私が所属する自民党青年局主催で、「福田康夫・麻生太郎、自民党総裁選公開討論会」が実施されましたが、そこで配られた内部資料にあった福田氏の紹介です。自民党青年局の親友達も、私の事を良く知ったもので、早速「勝海舟」のところに反応し、数名が私の顔を覗き込んでおりました。

  私自身、勝海舟の成し遂げた功績は数多くあると思います。特にその際たるものは、西郷隆盛との協議によって実現させた、慶応4年4月11日の江戸城の無血開城でしょう。同時に、彼の著作物を通じて、例えば「氷川清話」や「解難録」、そして「断腸の記」から大変多くのことを啓蒙されました。しかしそれでも、私は彼の生き方・生き様をつぶさに追っていく中に、どうしても納得できないところがあるのです(海舟ファンの方ゴメンナサイ)。といいますのも、勝海舟は、旧幕府時代には幕府の中枢に地位を占めていたわけですが、それが戊辰戦争に際しては、日本国内の平和を最優先にすべきと述べて、官軍側に抵抗しないことを訴え、自らがそのイニシアティブをとり、先程述べた江戸城無血開城などを成し遂げていきました。いわば自分自身が帰属している幕府に対して引導を渡したわけであります。勝海舟が日本国内の平和という高い理念を掲げ、江戸の民衆を戦火から守った結果・成果は最大限評価いたします。しかし、明治維新後も海軍卿を歴任する等を始め、かつての敵方である薩摩・長州の人達と共に行動を共にしつつ、かつ地位・名誉にも与る生き様に、私は納得がいかないのであります。この勝海舟と対極的な生き様をしたのが山路愛山で、彼は幕府天文方の子に生まれ、戊辰戦争の混乱の中で彰義隊に参加した父親と生き別れ、幕府崩壊後は徳川家に従い、静岡に祖父母と共に移住し、辛酸を嘗め尽くす青春時代を送るのです。私が申し上げたいのは、自分が帰属する国や地域の共同体が危機や滅亡に瀕した場合、たとえ勝算が乏しい場合であっても、その局面打開に際して、多大な苦痛や負担、それどころか己の命を棄て去る覚悟をもって努める精神が大事ではあるまいか。それは、ひとえに主君のお家の存続と名誉を求め続けて奮戦し続ける山路愛山的生き様の中に、骨太の精神として君臨しているのではあるまいか。それに対して、勝海舟的生き様は、この精神を著しく損なうものではあるまいか、ということなのであります。

  この点、大東亜戦争末期の昭和20年の東京大空襲を例に考えてみますと、この空襲によって何十万人もの非戦闘員の日本人が亡くなったわけですが、今の平成の時代に生きている私達からしますと、この昭和の大戦時代に生きていて、そして空襲で亡くなられた人達とは、個人としてはほとんど面識がないということが出来ます。それが、空襲で死亡ないし被災された方達を、私達と同じ日本国民であるとして自然と包み込み、60年以上も前の東京大空襲をあたかも私達に対する加害行為であるかのごとく受け止めてしまうのは一体何故なのか、を考えていただければ有難いです。私達は、純粋に「個人としての自己」のみで生活しているのではなく、「国民としての自己」という観点を多いに保持しながら生活していることが分かると思いますが如何でしょうか。山路愛山的生き様は、まさにこの「国民としての自己」を脈々と保ち続ける為にはどのような気構え・精神が必要かを私達に訴えているのではないでしょうか。他方、勝海舟的生き様は、えてして短期的なタイムスパン内での「個人としての自己」の便宜や、脆弱で邪まな性根を、あたかも標本として後世に伝えるだけではないでしょうか?。福田首相が、趣味的にしかも読書空間の中だけで勝海舟が好きだ、と言われるだけでしたら、私は何も言いません。しかし、その勝海舟的生き様に共感し、これからの国政運営に生かす乃至重ね合わせるところがあるとしたら、それは日本という国家と日本国民の危機を招くのではないかと私は思っております。

2007年10月

若者を連れて

  多くの方から、『議員さんって、普段は何してるの?』と聞かれて、その回答または説明にとても困る時があります。といいますのも、区議会が開会されている時や、各級の選挙がある時は、『今コレコレの委員会に所属しておりまして、コレコレこういったことを審議してますよ』とか、『今回の参議院選挙も、私は保坂三蔵さんを応援・お手伝いをしているのですが、なかなか厳しくてね』とか、案外具体的かつストレートにお答えすることができるのですが、それらの刻みの間の活動といいましたら、まさに萬相談請負人状態でありまして、それに私自身のボキャヒンが加わりますから、なんと説明したらいいのか非常に難しくなるのであります。

  もっとも、当然の事ながら、党員として議員として、私なりの問題関心・意識をもった事柄にまつわる活動もありますから、それはそれとして説明することは出来るのですが、それ以外の活動について説明したとしたら、多くの場合は、『ええっ、そんなことまで議員さんってするの?大変だね』といった驚きの声が返ってくるのかもしれません。

  夏の期間について、意外と多くの区民の皆さんが議会のない事をご存知で、この夏は何してたの?・どこ行ってきたの?的な質問攻めにあうことがよくあります。
勿論、この夏もまた例年同様、事務所の若いスタッフと共に、私は豊島区のあちらこちらを徘徊乃至出没しておりました。

  さて、豊島区にはエポック10という「男女平等推進センター」がありますが、これは一体全体何かといいますと、いわゆる男女共同参画社会を実現する為に、区民の皆さんが集い、そして出会い、さらには学び、新しい生き方を創造していく拠点でありまして、バラエティーに富んだ数多くのメニューを用意した施設でもあります。具体的には、男女平等推進乃至男女共同参画社会の形成促進にまつわる講座・講演会を開催したり、また啓発・啓蒙誌の発行や学習相談などを実施したり、さらにはドメステッック・バイオレンスなどをはじめとした女性を取り巻く様々な問題の相談を受け付けています(これはほんの一部の説明です)。

  そして、その講座・講演会の一環として実施されている中の一つに、「エポック10シネマ」というものがありまして、私はこの8月、エポック10シネマ第5回上映会、ウェイン・ワン監督:スーザン・サランドン主演の映画『地上より何処かで』(2000年:アメリカ)を、うちの若者数人と一緒に視察・鑑賞してまいりました。

  私の問題関心は、この映画の中で、まず男性はどのように描かれているか、次に女性はどのような境遇に置かれているか、さらにその親達や子供達の立ち位置はどうなっているか、そして家族にはどういった絆を与えているのか、というところにありました。

  それでは、今回の映画の感想はと言いますと、・・・・・・・・・・。
  いやいや私からは止めておきましょう。その代わりといってはナンですが、うちの若者達には映画を見た後、それぞれ感想文を提出させておりますので、その中で私が「良し(?)」と思った、T大学L学部1年の谷麻衣さんの感想文をお示ししたいと思います。宜しくお願いします。
今回もご一読ありがとう御座いました。

                                 平成19年9月5日
                                   文責:谷 麻衣
            「地上より何処かで」を鑑賞して

  8月22日水曜日、豊島区立男女平等推進センター(エポック10)の4階研修室2にて、午前10時から「地上より何処かで」という映画が上映された。男女平等を推進し、女性の地位向上を目指している事業のエポック10では、「映画の中の女たち」というテーマで、様々な女性の生き方が描かれた作品がいくつか定期的に上映されている。映画の中の女性たちを通して、女性の多様な生き方を考えるというのが目的のようだ。
  「地上より何処かで」という映画では、派手で奔放な性格の母アデルと、現実的で聡明な娘アンという、考え方も服の趣味も、何から何まで正反対の二人の女性を中心に、ストーリーが展開されていく。鑑賞者も女性が多く、映画の内容も、どちらかというと女性向けといった印象を受けた。
  退屈な田舎暮らしに我慢できず、再婚した夫テッドや老いた母、姉夫婦らに別れを告げ、憧れのビバリーヒルズでの暮らしを夢見て、アデルは娘のアンを連れてロサンゼルスへと向かう。夢の門出にふさわしいと、中古のベンツもなけなしの金をはたいて購入した。アデルはそれが全て娘のアンのためと思い込んでいる。だがそれも全て裏目に出て、いつも的外れな言動で娘を悩ませてしまう。そんなある日、アデルは歯科医師のジョシュと知り合い、夢中になる。だが突然連絡が取れなくなり、家の前に行ってみると、別の女性と一緒のところを見てしまう。またアンも、友人に勧められ別れた父親に電話するが、金を無心するアデルの差し金と思われ傷つく。ビバリーヒルズでの生活は、夢とはかけ離れたものばかりだった。母の愛はわかっていても、そんな母が自分の人生を台無しにしたと、憎く思い、自分の道を踏み出したい娘のアン。アンが自分で決めた大学に行きたがっていると知り、最初は大反対していたアデルだが、お金が足りないから行けないという事実を知ると、お気に入りのベンツを売ってお金を作るという、最後に母親らしい一面も見せる。アンも最初は「母が憎い」と言っていたが、最後には「いないと退屈」だと、母親の存在が絶対的なものへと変わっている。
  この映画では、依存的だった母と娘が自立していく過程と同時に、家族の感動的な絆が描かれている。だがそこに男性の影は薄い。それどころか、女性を傷つける加害者的な立場で描かれている。アデルが母親らしい愛情を見せ、最後はアンにとって絶対的なものへと変わっているのに対し、父親は久しぶりに電話をかけたアンを心無い言葉で傷つける、ひどい父親で終わってしまっている。エポック10としては、弱い女性の立場を主張する事で、男女の不平等を示唆し、女性の地位向上への意識を高めようとしたのかもしれない。
  また、非現実的で無茶ばかりしているように見えるが、周囲の目を臆することなく、自分の夢に向かって突き進む姿は、子育てや仕事に追われ、自分の事に割く時間の無い人にとっては、羨ましいともとらえられるかもしれない。だがそんなアデルのふるまいは、ラスト以外は決して母親らしいものではなかったように思う。現代の働く女性の間でも、自分の趣味などとはもちろん、仕事と子育ての両立はとても難しい問題だ。少子化で労働力不足に陥る日本にとっても、経済的な発達といった面からいえば、女性の地位向上を目指し、ジェンダーフリーを掲げる事も、過剰に反応したり、行き過ぎなければ良い事かもしれない。だが子を持つ親となった時、それはどうなのだろうか。父親の存在、母親の存在、子どもにとってはそれぞれ共に重要で、お互いに片方は持ち得ない役割というものがあるはずだ。それはお互いに協力し合い、補い合っていく必要があり、そうする事で平等となりえるものだと、私は思う。今回の鑑賞を通して、女性の地位向上、そして男女平等を目指す一方で、これまでに形成されてきた父性と母性の役割も、大事にしてゆける日本でありたい、そう思った。

2007年9月

「公」「私」混同克服の『道』

  今から三年位前でしょうか。イラクで日本人3名が、テロ集団に人質として身柄を拘束され、自衛隊の派遣・撤退が大きな争点としてマス・メディアを騒がせたことがありました。当時イラクで人質になった日本人3名は、外務省が既に十数回も「退避勧告」を出し、出来るだけのチャンネルを使って「渡航の自粛」も呼びかけていたのにも関わらず、自ら進んでイラクという危険領域に向かったのでした。それはあたかも「登山禁止令が出ている雪山への登山をあえて実行するようなもの」と言われ、そこから当時流行したのが『自己責任』と言うものでした。

  当時の名店街ニュースに、これを題材に原稿を載せてもらいましたが、そこでは『自己責任』論よりも、むしろ『公私峻別』論を語らせていただいたと記憶しております。当時の原稿には次のような一節あります。

  『私』という字のノギヘンですが、これはそもそも「稲とか麦とかの穀物類の収穫」を意味します。ツクリは『ム』ですが、これはまっすぐな釘が途中真ん中で折れたことを意味しています。まっすぐな釘は「まったく私心のないこと」を象形文字の世界では意味しますから、ツクリの『ム』とは、「その意志がくじけてよこしまな考えを持つ」と言うことになります。そこから『私』とは「収穫した作物類を全部自分のもの、つまり独り占めする」ということです。
『公』とは、『ム』の上に『ハ』が乗っかっているところから、「よこしまな心を上から押さえつけ表に出さない」と言うことを意味します。

 つい最近、世間様を賑わせている話題の一つに、いわゆる「大相撲横綱朝青龍関問題」があります。
  ・・・・・久しぶりに東西両横綱がそろって行われた大相撲名古屋場所。新進気鋭の新横綱白鵬が登場したことで大相撲人気が上昇。最近負けこんでいる横綱朝青龍関も焦りを隠せない。もっとも千秋楽、朝青龍関は白鳳関との横綱対決を制し、3場所ぶり21度目の優勝を飾り、その存在感を天下に示す。さすが朝青龍関!と思えたのもつかの間、そそくさと母国モンゴルに帰国してしまう。腕と腰の治療で全治6週間とされ、それを母国モンゴルで治す為の帰国かと思いきや、見事なセンター・ホワードぶりを発揮してサッカー遊びに講じてしまう。ゴーーーール。ここから、「仮病疑惑」はもちろん、国技と言われる大相撲の精神・心への無理解が、日本人の反感を買ってしまう。現在、2場所連続出場停止などの処分を受け、「急性ストレス障害」と診断された朝青龍関。自宅謹慎が今も続いているものの、いまだに本人はもとより、「公」益法人(財団法人):日本相撲協会の記者会見も行われないまま、ただ月日だけが虚しく過ぎ去っている・・・・・。
  ここでも、問われているのは「公」と「私」の関係ではないかなと、私なんかは考えておりますが皆さんは如何でしょうか。
  朝青龍関の立ち居振る舞いですが、在日モンゴル大使館が日本相撲協会に対して「治療の為帰国していた朝青龍関が、サッカーに参加せざるを得ない状況を作ってしまった。大変なことになり日本相撲協会と朝青龍関にお詫びします」という謝罪文を提出していることからも伺われるように、横綱としての職務ないし公務とはまったく異なる類の、いわゆる「お遊び」であったことは確かです。しかも、その遊びの種類が、普段馴染みのないボールを使っての、体重移動の激しい、ある意味では「力士」としての生命(?)も脅かしかねない性格を持ったサッカーという球技に講じていたわけですから、国技とは、大相撲とは、そこでの横綱の使命とは何かがまったく分かってなかったと言うことが出来ます。この一連の行為は、まさに「公」よりも「私」をはるかに優先するものとして言語道断、決して許されるものではありません。
  そもそも大相撲の歴史は大変古く(古墳時代にまで遡れるとの説もあります)、しかもカミとの係り抜きには語ることが出来ません。「力士」という「ちからびと」が、拍手(かしわで)で邪悪をはらい、四股(しこ)で大地を踏み込むことにより五穀豊穣をお祈りする、究極的の神事・公的行事です。その太古から続く祈りや祈る心・精神を現代の私達にまで紡ぐ為に、「力士」たるものは髷というものを結い、土俵という「ハレ」の舞台にあがる。ついでに言えば、このカミとの係りがあるからこそ、女性が土俵へ上がることは許されないのです。朝青龍関は、この深淵なる日本の伝統文化について、早急に学ばなければなりません。
  サッカーが出来るコンディションであったのにも係らず、大相撲夏「巡業」を軽視したことは重大問題です。日本全国を練り歩く巡業は、まさに神事として五穀豊穣の願いを地方へ伝播・普及することにほかならず、それは横綱が先頭になって取り組まなくてはならない、これまた究極の「公」の営みです。これをないがしろにしたところに、多くの批判が集中することになるわけです。
  もっともその夏巡業も、当初は朝青龍関不在がどう影響するかが心配されましたが、おおむね順調のようです。特に、今回の巡業の中には、財政破綻した夕張市も含まれており、ここでの巡業は勧進元をおかず、日本相撲協会自身が出資・運営し、しかも力士達は自分たちの休養日を割り当てて、切り盛りしているとの事です。この事実を朝青龍関は知っているのでしょうか?
  先月の7日と8日の二日間、豊島区池袋本町3丁目にあります氷川神社境内で、幼児から中学生までが参加する、第34回青少年相撲大会が行われました。7日は区内小学校の5校による対抗戦、8日は個人戦がそれぞれ行われ、豆力士たちが熱戦を繰り広げたと共に、土俵際で観戦していた親御さん達の悲鳴交じりの声援が境内に木魂しました。それは、一見すると子供達が主役の単なる「余興」にしか過ぎないと思われるかも知れません。しかし私からすると、巡業の来ない地域の精一杯のささやかな公的な営みに思えて仕方がありません。豆力士から大銀杏を結う大横綱が誕生してほしいと願うばかりです。そこでこの度の名古屋場所後、新大関琴光喜が誕生しましたが、彼が相撲に取り組んだのが、小学校1年生からでした。愛知県一宮市内の佐渡ヶ嶽部屋で大関昇進を伝える使者を迎えた琴光喜関の口上は、「如何なる時も力戦奮闘し、相撲『道』に精進します」というもの。朝青龍関におかれては、日本における「公」とは何かから始めて、日本の国技である大相撲というものを、単に武術的に強ければいいと捉えるのではなく、カミとの繋がりを持った武術・体育・精神の修養、世に処する方法などを兼ねた修行として捉え、一つの『道』を極めて貰いたいものです。
2007年8月

まんが・アニメは精神文化?

  最近、知り合いの仲間たちとの雑談の中で、一泊二日で石巻市に視察に行ってきたときの話しが出ました。行きがこうで・・・・・、帰りがこうで・・・・・、あそうそう途中で・・・・・と、視察の中身を面白おかしく話してくれましたが、聞いている私の方はといいますと、このところ家族サービスが出来ていない事から、申し訳ないな・・・・・、まずいな・・・・・、という家族に対する想いが常に頭をよぎってしまい、話し相手に対して終始ぎこちなく、しかもワンテンポ遅れた相槌をしているといった有様でした(この夏は、何とか頑張って海にでも連れて行ってあげなくちゃ・・・・、早く参議院選挙終わらないかなー)。

  一通りお話を聞いた中で、特に私が関心を持ったところは、どうやら石巻市は、漫画家の「石ノ森章太郎」氏とその作品群を前面出だしながら(石ノ森萬画館)、それを街の活性化戦略に組み込んでいる・・・・・、という部分でした。

  著名な漫画家とその作品を街づくり、特に来街者の呼び込み・取り込みに組み入れている自治体は、何もこの石巻市に限っているものではなく、このほかにも、水木しげる氏とその作品群、例えば「ゲゲゲの鬼太郎」などを前面に出している鳥取県境港市をはじめ、いくつか存在しており、それなりの成果を挙げているとの報告を聞いております。中でも、マンガ・アニメという性格上、子供達からの支持は絶大なものがあるらしく、修学旅行で立ち寄るのか、あるいはお別れ遠足会で立ち寄るのかは分かりませんが、かなり遠方からも観光バスで乗り込んでくるとの事です。

  新撰組を謳って街のPRをしている「日野市」、武田信玄を打ち出している「茅野市」、家康の湯で売り出している「熱海市」といったように、いわゆる過去の歴史上の組織や人物を取り上げて、ある時はおらが村の誇り、またある時はおらが街の自慢とすることは古くから行われてきたところですが、このアニメを取り入れての街興しはここ十年位で急速に着目され始めたようです。

  私の場合は、「ミュンヘンへの道(いきなりマニアックですね・・・)」「巨人の星」「あしたのジョー」「キャプテン」「プレイボール」「おれは鉄兵」に始まり(まだまだ沢山続きますよ・・・・・なにせマンガが好きだった兄がいましたから・・・・・)、「エースを狙え」「ガラスの仮面」「あさきゆめみし」等など(二人姉がおります関係でマーガレット・少女フレンド・りぼん、よく読みましたっけ・・・・・)、若かりし頃、特に中学生・高校生あたりまで、家に帰れば何がしかの種類の週刊マンガ本が転がっているという状況も手伝って、暇さえあれば数多くのマンガや作品に触れるといった生活でした。例えば「巨人の星」です。主人公の星飛雄馬は、元読売巨人軍の名3塁手の父:星一徹に感化(※)され小さい頃より野球に打ち込むものの、生来的に球質が軽いことから、単なるミート打撃で長打を浴びてしまう、そこから、そもそもミートすらさせないようにするにはどうしたら言いかを模索、その結果大リーグボール1号を開発、一世を風靡するもやがてはライバルの阪神タイガースの花形満にホームランを打たれてしまうものの、そこからさらに這い上がり、大リーグボール2号(消える魔球)を開発、これが通用しなくなると最後に大リーグボール3号を開発、この魔球でライバルになってしまった中日ドラゴンズの伴宙太を討ち取り、完全試合を達成させると同時に、左前腕にある筋を切ってしまう・・・・・、といった様にすぐさま頭にストーリーがよぎってしまいます(この後の新巨人の星もグッときてしまいますよね、ホント)。

  このマンガが私に与えた影響は、意外と大きいと言うことが出来ます。もちろん野球好きの4歳年上の今は亡き兄の影響もありますが、私自身、単に野球を始めたことだけではなく、打ち込み始めたことに対して全力を傾けること、途中であきらめないことを始め、数多くの人生の構えをここから感じ取ったと言うことが出来ます(ちょっと、大げさ?)。
※星一徹の妻で飛雄馬とその姉の明子の母「星春江」は、星一徹とお見合い結婚をしたのですが、飛雄馬が物心つく前に病気で亡くなってしまいます(この病名が分からないんだよなー、どなたか知っていたら教えてくださいね)。
  したがって、明子には母の記憶はありますが、飛雄馬には記憶がありません。
  そして、実は、春江がまだ赤ん坊の飛雄馬のために縫った読売巨人軍のユニホームが、一徹に飛雄馬のスパルタ教育を決意させたのです。

  自治体が有名な漫画家とその作品を街づくりに活用することは結構なことかもしれませんが、その場合でも、単に有名なマンガやアニメだからとか、最も人を呼び込めるマンガやアニメだからとか、そのような観点からのみ取り入れてしまうのはいかがかなと思ってしまいます。そこには、やはりその自治体のトップたちが、住民にそして国民に対してどのようなメッセージをその漫画家・作品群を通して発信するかといった観点をきっちり打ち立てた上で企画してほしいと思います。

  加えて、作品それ自体の持つ分かりやすさも大事かなという気が致します。例えば、宮崎アニメの一つ「魔女の宅急便」です。親元から自立して、綺麗な海の良く見えるパン屋さんに下宿しながら宅配の仕事をする主人公「キキ」、ある時あるお婆さんから、自分の孫のお誕生日のために私の焼いたパイを届けてほしいと頼まれる。キキが受け取りに行ったものの、電機のオーブンが壊れていた為に諦めることに・・・・・、そのとき、釜のオーブンがあることにキキは気がつく。何とか薪を焚いてパイを時間通りに作ろうと懸命に努力、しかもお婆さん家の時計が10分遅れていることに途中で気がつく。おりしも雨が降る中、パイを濡らさないように着ている黒のワンピースのなかにパイをケースごといれ超特急。滑り込みセーフで孫の家に送り届けることが出来たものの、そのお孫さんからは、このパイ要らないのに・私このパイ嫌いなのよ、との返事受け、キキは呆然と立ち尽くす。さらには、そのお孫さんが友達のトンボの遊び仲間として再会したとき、キキの気持ちは怒りとなって心の中に現れる。その後キキの魔力は急速に衰えていくことに・・・・・。

  このあたりまで来ると、多分に私の主観が入ってきてしまっていることに気づかされます。キキの魔力が衰えてきたのは、私は他者への憎しみや怒りがそうさせてしまったと解釈しておりますが(スターウォーズの中での、フォースの力とダーク・サイドの関係と似ている)、もしかしたら定期的な魔力の維持・鍛錬不足が原因だったのかもしれません。

  それらの読み込み方は十人十色の感があるともいえそうですね。なかなか、マンガやアニメ、ひいては芸術というものを街づくりに活用するのは難しいと言えそうです。
2007年7月

「山本勘助」もいいけれど

平成19年も早二ヶ月が過ぎてしまいました。特に一月は新年会が多くある関係で、月日の経つスピードもなおさら速い感があります。加えまして、今年は春まで、わたくし的には大変忙しい年となっております。例年ですとこの時期、好きな歴史小説も数冊読んでしまっているのにもかかわらず、今年の場合は、今の所僅か一冊、しかも中途半端に読んだだけという、とても寂しい状況となっております。

「本橋さんは、歴史小説、好きですよね・・・・・」
「そうね、以前は、時代小説だったけど・・・・・」

私も昔は司馬遼太郎さん、池波正太郎さん(?)をはじめとして、時代小説をよく読んだものでした。ただ、時代小説の場合、長年親しんでいくに従い、なんだかロマンチック過ぎるところがある、といいますか、微妙にしかも理由なく美し過ぎるところがある、といいますか、そういう意味でここ違うんじゃないかなという思いを個人的に抱き始めたのをきっかけに、今は主に、第一次・第二次歴史資料に忠実に従いながら構成しつつ、作家の創作部分が最小限に抑えられている歴史小説を好んで読んでおります。例えば、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で言いますと、この中では、秋山兄弟を中心に据えながら、あくまでも日露戦争は日本国民が戦ったものだという視点が強すぎるのではないか、なぜこの作品の中には「天皇」が登場してこないのか、なぜ天皇の御前会議(当時の開戦ものを描く場合には、必ず触れるべきものでは?)が出てこないのか、これなくしてどうして当時の日本の国柄と日本人の気風を現代に伝えられるのか等々、多くの違和感を私自身は持たずにはいられないのであります。

事務所の一角には、時代小説も若干あるものの、歴史小説オンリーの本棚がありまして、細切れの暇さえ見つければ、相も変わらずに山本周五郎さん、早乙女貢さん、そして中村彰彦さんと、気に入った作家の歴史小説に触れております。そしてこの度、新しく本棚の仲間入りをしたのが、火坂雅志さんの『天地人』です。

「それって、どんな内容ですか?」
「これは『直江兼続(なおえかねつぐ)』の話だよ」

作家の火坂雅志さんご自身、越後出身の歴史小説家であり、意外と戦国乱世の時代を生き抜いていった武将の生き様を探りつつ、真の武将とは、真の為政者とはいかなるものかというテーマを掲げ、それを現代人に問いかけるといった筆致がお好きなのかなと察しましたが、この作品では、越後上杉家の執政としてまさに時代の変革期を駆け抜け、戦国きっての知将とまで言われた「直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)」の生涯がダイナミックに書かれております。ちなみに今、NHKの大河ドラマで『風林火山』が放映されており、そこでは武田信玄の参謀の「山本勘助」の生涯が描かれておりますが、時代区分的には戦国乱世で重なりつつも、直江兼続の方が、山本勘助より後に登場するといった感じでしょう。

さて、武田信玄生涯の敵とまで言われた上杉謙信と直江兼続が共に過ごした時期はそう長くはありません。上杉家の養子となったあるじ景勝(謙信の甥っ子)と共に、十代半ばで春日山城に引き取られてから、天正6年(1578年)に謙信が病死するまで、僅か4,5年ほどにしか過ぎません。しかし、最も多感な青春時代を、戦国きっての義将のもとで学んだことは、その後の直江兼続の人生に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。その義将たる上杉謙信自身は、織田信長より4歳年上で、多少の時間差はあるものの、信長と同じに、ルール無用の、下克上の申し子たちが跳梁跋扈する時代を生きている中にあって、次のようなことを言い残しているのです。

「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五つを規とし、慈愛をもって衆人を憐れむ・・・・・・『北越軍談付録 謙信公語類』」(※武将にとって兵馬の道は無論大事だが、それだけでは人の上に立つ資格があるとは言えない。仁義礼智信の精神で自らを厳しく律し、慈愛の心で民を憐れむのが、真の為政者である)。

直江兼続の、特に、義の心は、突然生まれたのではなく、そこには、彼自身が思想上の師とする上杉謙信という大きな存在がいたからに他ならないということができます。

では、義の精神とは何ぞやですが、作家の意図するところを私なりに申し上げますと、この世の中、欲のない人はいない、との前提に立ち、その出世欲とか、名誉欲、権力欲、金銭欲が人間を突き動かし、この社会を形作っている。しかし、欲得だけでは人間はケモノとなんら変わるところはない。そこで大事になってくるのが、目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きること。これこそが義の精神である、といったところでしょうか。

「なんだか『りんごの木の物語』を思い出しますね」
「同感だよ」

これは、りんごは与えるばっかりで、少年はもらうばっかりのお話ですが、この物語を日本、韓国、スウェーデンの子供達に読み聞かせて、感想文を「守屋慶子」という方がまとめた『子どもとファンタジー』という本があるのですが、その中で今の子供達を象徴しているようなデータが出ております。それは、小学校1,2年生までは、どこの国の子供達の感想文もほぼ同様で、「与えるりんごは幸せだ」と言っていますが、これが3,4年生あたりから、日本の子供達だけが「与えるりんごは損をしている。貰うばかりの少年にはムカつく」と書いてあるのです。つまり、損得の価値観が入ってしまっているわけです。他にも、例えば、永六輔さんが『女性セブン』に書いていた「いただきます論争」。これは、ある手紙を永六輔さんがTBSラジオで紹介したことに端を発しております。その手紙の内容は、ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間にうちの子にはいただきますといわせないでほしい。給食費を支払ってるんだから、言わなくてもいいではないか」というものです。その後は、反応も非常に多く、その3割は「ちゃんとお金を支払っているのだから、別にいただきますと言わなくてもいい。」という意見だったとの事です。さらには、とある自治体では、親と子の温もりとか、温かさを感じること、それが幸せの原点であるとの想いから、月に一度お弁当持参の日があったのですが、これが行政側の判断でなくなってしまった。それは「給食費を支払っているのに、弁当を作れというのならお金を返してください」と言って来る親が出てきたからとの事です。損得勘定では、本当の意味での豊な人生は送れないのに・・・・・。兼続の呟きが聞こえて来る世の中です。

2007年3月

お賀状いろいろ

「本橋さんだと、沢山年賀状が来ますでしょ」
「そうでもないよ。でも、沢山くればくるほど嬉しいもんだよね」

 今年もまた、それぞれ何がしか意味深い年賀状を受け取られた事かと思います。それは、ごく親しい友達からのは勿論、職場の上司や部下、又先生や恩師など様々な方々より、その人間関係でこそ始めてメッセージ性を高められる年賀状が何枚も届いたのではないでしょうか。年賀状の一枚一枚を読み進めていくことで気が付くことは、これによって、自分と相手方との付き合い等の記憶の喚起、又親交の中身の再確認と更なる・新しい絆づくりが繰り広げられるという事でます。しかも、面白い事に、毎年必ずと言って良いほど、「あれっ」と思う人から年賀状が来ることです。私自身、今年頂いたものの中に、昨年気まずい関係になってしまい、もうこの方との交友はないのかな、と思っていた人から年賀状を頂いたりしまして戸惑うと共に、「自分が思っているほど人は気にしては居ない」のだと感じたりしました。

「塾生のはどんなもんでしたか」
「うん、いいもんだね・・・・・」

 年賀状はどのような人から頂こうと嬉しいものですが、特にもらって嬉しくかつ楽しいのが、私のところの若者達からもらった場合です。私のところでマスメディアを通さない裸の政治を見て育っていった若者がその後どの様に青春を送っているかは知りたいところですし、きわめて端的に表現し伝えてくるその一文一文から、その若者との間にあった出来事が思い返され、そしてその思い出の上に、今まさに年賀状にしたためられている事が乗っかっていく、と言った感じでしょうか。勿論、「ああ、あの子らしい生き方をしているな」と思える場合もあれば、「えっ、あの子が」という場合もあって、トータルでとても微笑ましくなります。

「何人かの教えてくださいよ」
「じゃ、二人だけね」

  ①田中さんは明治大学の2年生の頃に私の門を叩きました。彼女からの年賀状には、「昨年は本学塾(注:本橋弘隆と共に学び育つ塾)塾生としての活動に参加できず、申し訳ありませんでした。今年は、積極的に参加したく存じます」と書いてあります。この文章はそれ自体、何の変哲もない、ごく普通の文章と評されてしまうのでしょうが、私からすると、非常に意味深いものなのです。

  田中さんは、私のもとでの研修で、特に自分自身、積極性を作り出すことに腐心していた方でした。別の言い方をすれば、自分に自信を持ちたいということです。因みに、彼女が、私の下での研修を一段落させた後書いた感想文を読み返してみますと、そこには次のように記されております。

「本橋さんの下での研修においては、むやみに『できない』と言わない事が大事だ。自分に与えられた仕事を拒否する事で何か良い事があるだろうか。いや、ない。自分の可能性が狭まるだけだ。そもそも本橋さんはこちらが学生であり、まだ仕事ができないということを理解した上で、それ相応の仕事を与えてくれているのだから、無理な要求はしていない。又、ある本に出てきた言葉だが、『不可能をつぶしていくと可能になる』のである」と。

  このような感想を読むと、本当にいい加減な研修メニューは用意出来ないなとつくづく感じます。
引き続いて彼女には(この感想文を読んではじめて私は気づかされたのですが)、こんなエピソードをしまっていたのでした。

  「本橋さんの下での研修では、『聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥』だ。2月の上旬の自民党区議団主催の集会の後、来てくださった人々に、私がお礼の電話かけを行う仕事を頼まれた。そのときに本橋さんが『零発信でかけるんだよ』とおっしゃったが、私には何のことか分からないまま『はい』と返事をして作業に取り掛かった。しかし、電話をかけれど一向につながらず、一時間ほど経ってようやく私は本橋さんに零発信の意味を尋ねた。そうすると本橋さんは苦笑しながら『分からなかったらすぐに聞いて』とおっしゃった。これこそОN=THE=JОB=TRAININGなのだろう。私はもう二度と『零発信』の意味を忘れないだろう。」と。

  ちょうど区役所の4階、自民党控室での出来事でした。私達が各種団体さんをお招きして、意見交換をしたわけですが、わざわざ来て下さったのですからお礼の電話かけをしようということになり、その日はたまたま田中くん一人、しかも、区役所備え付けの電話を使うのが始めてといった状況でした。区役所の電話は、まずは内線がメインですから、外線を使うには、相手先の電話番号の頭に、「0」を打たないといけません。それを、意味とやり方を説明せず、簡単にしかも次の動作をしながら田中くんに伝えただけでした。その結果がこうです。この一件以降、私も教え伝え方が進歩してきた事は事実です(ホント?)

  ②吉田くんは早稲田大学の2年生の頃に私の門を叩きました。彼からの年賀状には、「昨年は、サークルでの出雲大社~佐賀市役所徒歩合宿(八月)とインド旅行(11月)が良い思い出です。」と書いてあります。私は読んだとたんに噴出してしまいました。と言いますのも、彼は早稲田大学精神昂揚会と言うサークルの幹事長で、その会が年一回実施する、早稲田大学本庄キャンパス~高田馬場キャンパス大隅講堂前までの100キロハイキングの優勝者なのであります。この早稲田の百ハイは、昭和39年に第一回が実施されてから既に45回の歴史を刻むもので、「早慶戦」「早稲田際」と並んで、早稲田3大イベントの一つとなっているものです。その彼が、この百ハイに関し、熱い思いを語ったメモがありますので、ついでにご紹介しましょう。

  「最初期の百ハイはスタート地点で一枚の地図を渡され、それを頼りに大隅講堂までひたすら歩くというもので、道中には休憩所もなく、食事も出ず、参加者は夜通し歩き続けるという、まさに『己の体力の限界に挑戦する』と言うシュールかつストイックなイベントだった。そんな状況も回を重ねるごとに改善されていくが、この百ハイが現在のように『祭り』の要素を持つようになるにはまだまだ時間がかかるのである。その為には一人の男の出現を待たなければいけない・・・・・」「そして1988年・・・、一人の男が百ハイに参加する。彼の名前は大阪太郎!!ピンクの学ランに角帽で毎日登校すると言う彼の強烈な個性はこの百ハイでも強烈に発揮された!。1988年の『第26回百キロハイク』において周りがジャージと言う普通の服装の中、ただ一人、顔面真っ白の『バカ殿メイク・白鳥バレリーナ』の格好で登場!。そしてそのまま100キロを歩き切るという偉業を達成!。この彼の偉業により百ハイに『仮装』と言う新たな要素が組み込まれることになる。これを通称、『百ハイ88年革命』という」と。

 イヤー、若いっていいですねー(インドのどの辺歩いたんだろう?)。

 それでは、名店街ニュースをお読みの皆様、本年も拙いエッセイを刻む私・本橋ひろたかをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

2007年1月

師走の掃除

「本橋さん、いよいよ暮れも押し迫ってきて、何か気忙しくなってきましたね」
「そりゃ、『師走』って言うくらいだからね」
「本橋さんもやっぱり、走ってばかりですか?」
「いや、走ったりもするけど。あとは上ったり、潜ったり・・・・・」
「はあっ?」

  何と無く例年より暖かい冬のような気はするものの、寒がり屋の私にとりましては、風を引かないように気をつけている日々を送っております。しかも最近は、なんでもノロウィルスとか言う新手の感染症が広がりを見せる気配がありますので、なおさら、毎日のうがい・手洗いを欠かさぬよう気をつけております。皆様方は如何でしょうか。大事になさってください。

  さて、12月にも入り、走り回る原因といいますと、何といってもこの時期恒例となっている、各種もろもろの関係・シガラミ(?)からくる「忘年会」のハシゴでしょう。今日ぐらいはお酒をやめて、休肝日にしようと思っていても、ついついアフターファイブになると『のど湿し』『チョー軽(カル)』なら、「まいっか」と思ったが最後、「もう一軒、もう一軒」と言った具合で、気が付いたら午前2時ごろにビールとラーメンといったご経験、つまりは最後のところが「チョーカル」だったということが多いのではないでしょうか。

  ことは忘年会だけに止まらないでしょう。自宅の大掃除をいつにするかとか、暮れも押し迫る前にあそこの掃除だけは済ませておこうとか、色々と「掃除」も大きなテーマとなってと思います。

「本橋さんも掃除ってするんですか?」
「あたぼうよ!!」
「いつも事務所の掃除は僕ら塾生にやらせるのに・・・・・」

  この時期、私にとっての掃除・清掃は、非常につらいものがあるのです(塾生は見てないもんね)。

  そのキングオブ清掃原因が、樹齢300年近くになる我が家の欅です。

  この間までは、その落ち葉はきの季節が来たなと言う事が、近所のお年寄りの、毎朝午前7時ぐらいからの竹箒ではく音で分かったものでした。それを聞いて、すぐさま私も家の前の道路に飛び出て、欅の落ち葉をはき始めると言った事が何年も続いたものでした。

  ある時、黙々と欅の落ち葉をはき続けているそのお年寄りに、「毎朝すみません、うちの欅のせいで・・・・・、落ち葉はきをしていただいて・・・・・」と話しかけたところ、そのお年寄りは、「いや、関係ありません。関係ありません」と言う返事をしてくれました。この事を両親や近所にいる親戚に話すと、そのお年寄りは、どうやら旧日本陸軍の将校を勤め上げた人物だとの事です。

  勿論、様々な事情があるものの、やれ邪魔になったとか、落ち葉はきがいちいち面倒くさいからとって、ある程度年輪を重ねた樹木を簡単に切ってしまう風潮が見られる中にあって、私からは、そのお年寄りの姿勢が、今も強く印象に残っております。

「で、本橋さん、登るって事は、その欅に登って毎年伸びた枝を切るって事ですか?」
「違うよー、屋根に上るんだよ」
「はあっ?」

  何せ樹齢が樹齢ですから、高さが数十メートルあります。ですから、葉っぱが、四方八方に飛んでいくわけでして、自宅の屋根上は勿論、他人様の御家の屋根上とか、さらに三階建て住宅(今多いよなー)の屋根の上とか様々です。そういったご家庭に梯子を持って伺っては(お店をハシゴするのと意味は勿論、姿格好も全く違う)、毎年この時期、ノーギャラで落ち葉はきをするわけであります。この作業も20歳台の頃は体育会系のノリの延長ですませてこれましたが、最近40歳を過ぎてからは、高いところが妙に怖くなりまして、寂しい気持ちになってまいりました。いずれはこの作業も誰か引継いでくれると助かるのですが(ダスキン様如何?)。

  落ち葉の量も半端ではありません。多少年季のいった欅一本分の落ち葉でしょと言う無かれ、かなりの量になるものでして、11月中旬頃から始まって、毎朝約45リットル入りゴミ袋で3袋位、これが12月下旬頃まで続くのであります。もっとも、今年は暖冬のせいか、大体2袋位で済んでおります。しかし、今もこの原稿を書いている12月中旬、欅を見上げてみますと、まだ三分の一の紅葉がありますから、年明けまで落ち葉はきは続きそうです。

「全くもう、困った欅ですね。切ってしまおうとは思わないんですか」
「そりゃないよ」

  縷々申し上げた欅ですが、これを憎いとか、切ろうとか思ったことは一度もありませんし、また、かつて区側より「保護樹木」として登録しませんかと言うお誘いもありましたが、これも丁重に断っております。と言いますのも、私が小さい頃、よく祖母から「男の子が、何だこれしきの事で泣いたりして」とか、「そんなことしてたら神様から罰が当たるよ」とか、「ご先祖様がちゃんと見てくれているよ」とか言われて育ってきた経験があるのですが、その祖母もなく、他方でそれなりに一応の分別を持っていると自分では思っている今、祖母の発した言霊に変わるもの、ひいては本橋家の黙示の家訓ともいうべきものを、常に私に照射してくれているのがこの欅だと感じているからです。高校入試で頑張っていたときの自分、高校時代アメリカンフットボールで全国大会出場を決めて喜んだときの自分、その大会で一回戦負けして悔しがっていた自分、父親になった喜び・感動に包まれていた自分、これらをじっと見守り続けてくれていたのがこの欅だと、私は感じるのです。木肌をさすってみると何か気持ちが落ち着くことが多々ありますし、わが子が泣きじゃくっているとき、大きな欅を見せて、「ほら、そんなことで泣いてると、あの大きな欅さんに嫌われちゃうぞー」と言ってあやすと、子どもが泣き止んだりします。大樹が持つ目に見えない力にはは凄いものがあるなと感心します。その極めつけの一つが、伊勢神宮ではないでしょうか(赤福が楽しみですよね)。

「で、本橋さん、もう一つの、潜るって何ですか?」
「イヤー、それはー、実は池の掃除の事だけど、この話はまた今度ね」
「(まだ塾生達に錦鯉の魅力は分からないだろうな・・・・・)」

  名店街ニュースをお読みの皆様、今年一年私の拙いエッセイをご愛読いただきまして、誠に有難うございました。来年が皆様にとりまして飛翔の年となりますよう、心より念願しております。

  どうぞ、良いお年をお迎えください。

2006年12月

「品格ある街」

「わたし、住むんだったら自由ヶ丘か、吉祥寺がいいわ」
「いや、僕なら、横浜だね」
「なに言ってんの、二子玉だよ」(二子玉川のこと、初めて知りました)
「みんな聞いて!!、わたしは、たまプラーザ」(何処それ、との指摘あり)

 この秋口、私の事務所に通っている研修生達の会話に聞き耳をたてていたところ、どうやらみんなで「住んでみたい街」一位を決めているようでした。

  大変残念なことに、最後の最後まで、わがまち豊島区・池袋という地名は出てきませんで、それだけ、わがまち豊島区・池袋はいまどきの若者達、特に学生達の視野・眼中には入って来ないところなのかもしれません(何で?)。

 因みに、これは何か一言いわねばなるまいと思い、肩をイカラセながらその会話に介入した私が、「それじゃあ、君達が働いてみたいと思う街は一体何処なの?」と、問いかけてみたところ、一位が丸の内、二位が銀座、そして三位が新宿と言った具合でした。ここでもわがまち豊島区・池袋を揚げる若者は一人もおらず、私自身、あえなく自爆してしまったところです。

 ただ、こうなると私も益々黙ってはいられません。手につけていた作業を放り出して、目の前にいる若者達が、「なぜそこに住みたいのか」、また、「なぜそこで働きたいと思うのか」、を聞かないわけにはいきません。

 さて、若者達のこの点に関する返事を聞く限り、私自身、池袋を中心とした豊島区も、あながち対抗できないわけではないと感じてきます。と言いますのも、横浜に住みたいと答えた若者の、「横浜は、おしゃれで、何よりも海が近いから」と言うのは別としても、「自由が丘は、おしゃれな街だから」とか、「吉祥寺は、交通面や生活面で便利だから」と言った理由を聞く限り、あながち池袋も一工夫凝らす事で(もっとも、これが一番難しいのですが)、これらの街と戦う事ができるなと感じたからです。また、「何でそこで働いてみたいの?」との問いかけに対して返ってきた答えが、「丸の内には、ステータス感があるから」とか、「銀座だと、アフター5が充実してそうだから」とか、さらに、「新宿は、何より商業施設が充実してるから」と言った具合ですから、わがまち豊島区・池袋も、これらの街と勝負できることがはっきりしてきます。

「ところでもう一つ聞かせてよ、品格のある街一位は何処?」
「品格ある街って言われても・・・・・」
「はじめて聞きますよね、そういう表現・・・・・」
「本橋さん、それで住みたい街とか、働きたい街とかは決めませよ・・・・・」

  事務所に来る若者達にこう切り替えされ、なんとなく意気消沈してしまったわけですが、このときの若者達を支配していた雰意気は、品がある・気品漂う・品格がある、と言う事によって、一体なにを計ることができるのかと言う不透明感だったような気がします。商業施設が充実している街で働きたい、それは新宿である、したがって私は新宿で働きたい。おしゃれな街に住みたい、それは吉祥寺である、したがって私は吉祥寺で生活したい。この一連の流れの中で、「品格」というものを取り上げて、優しく抱きしめ、育て上げていくことは、かなりの努力と工夫が必要である気が致します。「品格のある街で働きたい」「品格のある街に住みたい」と言うことの中に、どのような意義を見つけ出すことが出来るのか、その事を考える事自体が、今の若者達にとっては気の重たい作業なのかもしれません。

  実際、若者達は最後まで、「品のある街」「気品漂う街」「品格の誇れる街」のイメージすらつかむ事ができないと言った感じでしたが、そのような彼ら彼女らに対して、私は、大正末期から昭和初期にかけて、駐日フランス大使を務め、詩人でもあるポール・クローデルの日本人論を話してみました。幕末から明治にかけて、多くの欧米人が日本を訪れ、彼らの多くが日本人の道徳性の高さに驚嘆したのですが、その中にあって、ポールの日本人論がひときわ光っていると思うので、いつも私は若者達に紹介しています。

『諸君、私がどうしても滅びてほしくはない一つの民族がある。それは日本だ。あれほど古い文明をそのまま今に伝えている民族は他にはいない。日本の近代における発展、それは大変目覚しいけれども、私にとっては不思議ではない。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になって急に欧米の文化を輸入しても発展したのだ。どの民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はない。しかし日本にはその資格がある。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのだ』

『彼らは貧しい。しかし高貴である』

  また、今回は次のような話もしてみました。それは、今をさかのぼる事約一世紀、日露戦争の最中に、愛媛県松山市の俘虜収容所にある病院を訪れた、イギリス人写真家、ポンティングのコメントです。

『松山で、ロシア兵達は、優しい日本の看護婦に限りない称賛を捧げた。寝たきりの患者の、かわいらしい守護天使の動作一つ一つを目で追う様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。何人かの兵士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼らの胸に突き刺さっていたのである』

  ポールと言い、ポンティングといい、僅か60年前、100年前のわれわれの父祖達はその道徳性の高さをこのように欧米人達に高く評価されていました。しかし、大変残念ながら、これが遠い過去の話になろうとしています。

  私達は今こそ立ち上がり、その復権に取り組み始めては如何でしょうか。そうするところに、「品格」とは何か?を察していく構えが出来上がっていくのではないでしょうか。

 「品格」なるもの。それは、「カリスマ」(これは、対象を見ている側が錯覚し、その存在を思い込んでしまう場合)とは違い、対象それ自体にその存在が確認されてはじめて意味のあるものです。従って、その「品格」作りには、もちろん近道などは無く、一歩一歩着実に、堅実に、そして誠実に(三実主義、私の父の哲学です。紹介させて下さい)突き進んでいくところに、知らず知らずの内に積み上っていくものだと思います。品格ある街それは・・・・・あれっ。

「あったあった、ここだ、たまプラーザ」
「やっと見つかったねー、本橋さんも地図見ますか?」
「おいおい、ちょっと、塾生たちー、みんな聞いてるのー、私のお話・・・・・」

2006年10月

皇室「戦犯」会議

「いやー、悠仁親王のお誕生、喜ばしいですね」
「この日を待っていたよ、ホント」

 今年の2月7日、秋篠宮紀子さまに第3子御懐妊の兆候が見られるという報道があってからの私は、「男の子でありますように」「親王であられますように」と、ひたすらお祈りする毎日を過ごしてまいりました。その一方、常に頭をよぎる事は何かと申しますと、女の子だったら、さぞかし皇室の皆様方は御辛いだろうなということ、特に、皇室典範改正作業が再燃するであろうことは確実ですから、女性天皇・女系天皇容認の皇室典範改正案の政府内での検討―――閣議決定―――同案の国会への提出―――国会での成立、と進めば、嫌が上でも天皇陛下が「公布」しなくてはならなくなり、その時の天皇陛下の心境を私なりに勝手に解釈しますと、まさに心中察するに余りある、と言ったところです。

「なんか、本橋さん、大袈裟ですよー」
「何言ってんの、これぞまさしく『代表的日本人』でしょうが」

  平成16年12月27日、当時の、細田官房長官が、唐突に「皇室典範に関する有識者会議」の設置を発表しましたが、それ以来、これからの皇室はどのように皇統が維持されていくのか、が世論の関心事の一つとなりました。

  最大の心配事は何かと申しますと、その会議体の構成メンバーにあることは言うまでもありません。当初の、小泉首相の決裁文によりますと、「皇位継承制度などについて、高い見識を有する人々の参集を求め、検討を行う」としていたのですが、実際はどのようなメンバーが参集したかといいますと、皇室専門家と言えるのは、日本古代史専攻で、「平安の朝廷」などの著書がある笹山晴生氏、皇室の重要事項を審議する皇室会議議員を努め、「皇室法概論」の著書がある園部逸夫氏くらいです。

  また、座長を務めた吉川弘之氏のご専門は、ロボット工学であり、こと「皇室」に関しては、大変失礼ながら「門外漢」と申し上げても宜しいかと思います。現に、吉川座長の発言で、私が新聞報道などを通じて、未だに記憶に留めているのは、平成17年6月30日の第8回会合の後に行われた記者会見です。この第8回の会合では、5月から6月にかけて実施された有識者(この中に、私の好きな小堀桂一郎先生が入られたのは良かった・・・・・)からの意見聴取で出て来た、「離脱した宮家を復帰させて、男系男子の継承を維持すべきだ」との主張を受け、安定的な皇位継承策として、これまで議論の中心部分をなしてきた「女性天皇の是非」だけではなく、「皇籍離脱した皇族の復帰などによる宮家の創設」も検討する事が決定されました。その会合後、吉川座長曰く、「皇位継承者を増やす方法は『新たに宮家を設置する』というのと、『女系天皇を認める』というのと、二つに大別されますが、どの制度ならどの程度安定するかの『安定化要因』と、社会に受け入れられるかどうかの『受容化要因』を考慮して、制度を設計したい」と。いかにもロボット工学の第一人者らしい発言をしているのです。

 そこには、女系天皇を認めてしまえば、皇室は「万世一系」という物語を失ってしまうのではないか、と言う心配・畏れ。全ての人は平等であり、民主的に物事は進み・選ばれると言った世の中にあって、天皇という絶対的な地位を守るためには悠久の歴史物語が必要なのではないか、皇祖皇統の悠久の歴史物語(神武天皇以来の血統を維持する為の営み)が失われてしまえば、天皇が天皇である由縁が不分明となってしまい、時代を経るにつれて皇室制度が不安定になるのではないか、と言った歴史や伝統に対する見識は、少しも感じ取る事はできないのです。

「こうしてみると、有識者会議の座長は問題でしたね」
「座長だけじゃないよ」

 皇室典範有識者会議の中には、政府の男女共同参画審議会会長を務め、女性学の重鎮といわれている岩男寿美子氏が入り込んでおりましたが、この方がまさに女性天皇・女系天皇容認論を終始リードすると共に、以前ご自身が編集長を務める海外向けの英文雑誌「ジャパンエコー」2月号の中で、女性天皇・女系天皇に異論を唱えられた寛仁親王殿下に対し、失礼極まりない痛烈な批判をくわえたのであります(つい最近、謝罪めいた対応をとりましたね)。

 そこでは、まず寛仁さまについて、「天皇のいとこで、女性が皇位を継承できるようにすることについて疑問の声を上げ、旧宮家や皇室の側室制度の復活を提案してきた」と指摘し、次に、「彼の時代錯誤には驚くしかない」と主張しているわけですが、しかし、寛仁さまが御自身のお考え・異論を載せた、ある福祉団体の会報の、問題とされた部分を虚心坦懐に読みますと、側室制度に言及されてはいるものの、「国内外共に、今の世相からは少々難しいかと思います」と仰っており、決して「提案」などはしてはいないのであります。事実とは全く異なることを記述し、かつ批判してまで、自分が深く関わった有識者会議の報告書を自画自賛する様は、異様としか思えません。

「なるほど、やっぱりそういうリード役がいたんですね」
「あとは、まとめ役もね」

  内閣官房副長官を8年7ヶ月も務めて、首相官邸にパイプが太く、関係省庁に睨みの効く古川貞二郎氏が、この会議の最終的なまとめ役と言われていました。と言いますのも、今ではもう関係者の証言で明らかにされていますが、この問題は実は、有識者会議の設置に先立つ7,8年も前から、内閣官房内のグループによって研究されていた事柄であり、有識者会議は、事実上、この先行していた政府の非公式研究を下敷きにした「始めに結論ありき」機関で、この一連の流れを最もよく知っているのが古川氏なのであります。

 他にもまだ問題のある方を指摘できそうです。例えば、久保正彰氏ですが、この方はギリシャ・ローマ文学を専攻・専門としており、そもそも何ゆえメンバーに選ばれたのか、皇室研究者のあいだでも判ってはおりません。

「なんだか、東京裁判っぽくなってきましたね」
「ほんと、『文明の裁き』が必要だよ」

  私達は、神武天皇以来の皇祖皇統の歴史が、男系天皇で紡いできたことを、改めて重く受け止めるべきだと思います。と同時に、「悠仁」さまというお名前に込められた、「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでほしい」との願いは、余りにも拙速すぎた皇室典範改正問題を、優しく封印してくれたことに感謝すべきではないでしょうか。

2006年9月

英霊の言の葉

「小泉総理は、今年どうするんですかね。靖国・・・・・」
「8月15日の参拝のこと? 是非公約をはたして欲しいよね」

 今年もまた鎮魂の夏がやってきましたが、小泉総裁の任期が、今年の9月までとあって、自民党総裁選で公約した、8月15日の靖国神社公式参拝問題がヒートアップしています。8月15日に行くのか否か。

 小泉総理自身、どれだけ靖国神社のことを理解しているのかは、はなはだ心もとないところがありますが、単なる政権維持のためのパフォーマンスだけで発言しているわけではなさそうです。と言いますのも、小泉総理自身が、かつて特攻隊の基地のあった知覧を訪ねた際、英霊達の遺品等をつぶさに見学した折に大粒の涙を流し、それを拭うこともしなかったという経緯を持っておられ、そのときの熱い思いが、その後の自民党総裁選の公約:靖国神社公式参拝へと、結晶化されていると思うからです。

 もっとも、小泉総理自身、靖国に関して、俄か仕立ての感は否めません。

「それはまた、どの辺りですか?」
「例えば、国立追悼施設・国立墓地を検討する、とか言ってたでしょ。」

  小泉総理は、総理総裁就任当初、「靖国問題を解決するに当たっていわれている、国立墓地ですが、色々意見をもっている方がいるから、もし創るんだったら、いいものを作りたい。私も前から考えていた。」とか、アメリカに政府要人が行った際、よく行われるアーリントン墓地での献花を思い出してか、「外国の要人が来日した際に、何の問題も無く献花できるように・・・・・」とか言われておりますが、そもそも、なぜ靖国神社ではだめなのか、私には解らないのであります。

  国立墓地を作ったとして、これは全くの「無宗教」なのでしょうか。そうだとしますと、そもそも国立であれ、何であれ「墓地」と言うものは「無宗教」で成り立つのでしょうか。国立墓地を作って、献花するなり、お参りするなりして、何か儀式めいた事をしたら、それはもう確固たる「宗教」ではないでしょうか。「墓地」を作ることそれ自体、その前提として、死者の霊魂を信じている事の証なのではないでしょうか。もし「無宗教」にこだわるとするなら、「墓地」を作ること自体意味がないと言えるのではないでしょうか。靖国神社には遺骨も位牌も無く、あるのは御神体(御剣と御鏡)だけですから、もし、国立墓地を作るとすると、その中には、遺族の下にある戦死者のお墓を掘り起こして、少し遺骨を分けてもらって、それを埋めるのでしょうか。そうした上で、「無宗教」と言う立場にたってかんがえると、遺骨の埋められた墓地は、どのような形式で慰霊されるのでしょうか。神道でもなく、キリスト教でもなく、そして仏教でもない形式というものが、はたして現世にあるのでしょうか。

「なるほど、ずいぶんと無茶な話ですね」
「でしょ。無茶な表現だってあるよ」

  小泉総理が靖国神社を参拝する際に、よく使う理由に、「『心ならずも』、先の大戦に赴き、亡くなられた方へ、哀悼の誠を捧げ、『不戦の誓い』をするために参拝する」というのがありますが、この「心ならずも」という表現に、私は違和感を抱いてしまいます。と言いますのも、「心ならずも」という表現自体に、英霊達の私的言語空間に目が奪われる一方、英霊達の公的言論空間を無視していると思うからです。  

  誰だって、本音を言えば、神風特別攻撃隊に選ばれたく無かったでしょうし、遺族の側も、もろ手を挙げてわが子を国にささげるという方もいないでしょう。私(わたくし)的には、何で俺なんだ。何でうちの子供なんだ。そういった思いがあってしかるべきです。

  私達が気をつけなくてはならないのは、英霊や遺族達の、私的発言と公的発言を良識を持って区別し、公的発言はどれかをしっかりと受け止める事です。そこには確実に、この国を守るため等、その礎となるべく進んで散華していくに際して発せられた公的言論空間があるはずです。一国の総理たるもの、公的な場においては、彼らの公的発言を斟酌すべきであり、私的発言を展開すべきではないと思います。それは、昨今の、いわゆる「富田メモ」にも言えることだと思います。どのような状況で昭和天皇のご発言をメモされたのかは分かりませんが、歴代の宮内庁の幹部の方々が指摘されるとおり、富田氏が他界されるに当たり、そのメモが公的空間に出ないよう、万全の処置・処分を講じておくべきだったと思うのです。

 もう一つ。小泉総理は、「不戦の誓い」と言われますが、果たして、「テポドン・ノドン・スカッド」と言ったミサイル狂想曲を奏でる国がお隣にいるのに、はたして「不戦の誓い」を立ててしまってよいのかということです。不戦というと、あたかも国際法上当然の権利として認められている、自衛のための武力行使まで差し控えるというメッセージを、他国に送ることになりはしないかと心配です。

 小泉総理におかれては、粛々と8・15に靖国参拝し、英霊達とお会いして欲しいと思います。

 靖国神社社務所が編集兼発行している【英霊の言の葉】(8)85頁に、昭和20年5月28日、沖縄にて戦死された、群馬県勢多郡出身の、陸軍少尉:瀬谷隆茂命の「靖国で会ひませう」というのがあります。
 
「御父さん、お母さん愈々隆茂は明日は敵艦目がけて玉砕します。
沖縄まで○○粁を翔破すべく落下タンクを吊り○○○キロの爆弾を抱いた機が、緑の飛行場で武者震ひして自分の乗って呉れるのを待つて居ります。
明日会ふ敵は戦艦か? 空母か? それとも巡洋艦か?・・・・・・。
きつと一機一艦の腕前を見せてやります。
明日は戦友が待つて居る靖国神社へ行く事が出来るのです。
日本男児と生れし本懐此れに過ぐるなし。
御父さん、お母さん、隆茂は本当に幸福です。
では又靖国でお会ひしませう。
待つて居ります。
最後に、御両親様の健勝を切にお祈りいたします。
                            隆茂
御両親様」

  ここには、この緑美しい国を守る固い決意がにじみ出ていると共に、我が愛する家族のため、自ら進んで戦地に臨んで行った先達の熱い想いが綴られていると思われますが、如何でしょうか。「心ならずも」という言い方や「不戦の誓い」は、一国の総理が軽々に口にするものではないと、私は思うのですが・・・・・・。

  8月15日、靖国でお会いしましょう。

2006年8月

我、テレビ出演ヲ『決断』ス

 名店街ニュースをお読みの皆さん、平成18年、新年明けましておめでとう御座います。本年も拙いエッセイを掲載していただけます事に、心から感謝御礼申し上げる次第で御座います。

 また、昨年、衆議院選挙がありました9月辺りから、執筆出来ない月もあり、関係各位の皆様方に多大なご迷惑をお掛けいたしました。失礼を致しました。本年はそのような事のないように努力いたしますので、引き続いてのご愛顧を心よりお願い申し上げます。

「本橋さん、見ましたよ!12チャンネルの『ザ・決断』」
「どうだった?」
「なかなかのモンでしたよ、本当に」

 平成18年1月1日、32年ぶりにテレビ番組に出演させてもらいました。それは、12チャンネルのテレビ東京で、元日の午前10時から約1時間半放送される『ザ・決断』という番組です。既にこの番組も、毎年元日のこの時間帯に放送されるようになって5回目位となり、他局がお正月もの番組を放送している中にあって、唯一といって良いほどお堅い内容のノンフィクション番組となっております。番組のコンセプトは何かと申しますと、その番組名の通り、ある時代において有名な出来事で、かつ人生において正に勝負に打って出る瞬間に焦点を当て、その時その主人公を取り巻いている状況をドラマ化しながら、関係者の貴重な証言を交えて、分析・展開していくといったところです。

 今年は何を放送したかといいますと、一つ目が「田中角栄氏の昭和47年自民党総裁選への出馬」、二つ目が、私が出演しました「小池百合子環境大臣の東京10区への選挙区替え」、三つ目が「幣原喜重郎の憲法制定」でした。

「そもそも、何で本橋さんが出演できたんですか?」
「だって小池選対の遊説責任者だったもの」
「そういえば衆院選中よくテレビに映ってましたね」

 昨年、8月8日に衆議院が解散され、いわゆる『刺客候補』が話題を独占しました。ここ東京10区においても、自民党本部の意向で『小池百合子女史』がまいりました。

 私としては、自民党の代議士が現にいることをどのようにふまえるか大変でしたが、とにもかくにも、自民党公認候補を応援する、そこで小池百合子環境大臣が自民党公認候補として決定した以上は、この方をやるのが組織に所属する者の道理だと思い、これ以降は小池大臣を支えていく事にいたしました。

 さて、小池選対において、何故か私が遊説担当責任者のお役を頂き、小池選挙のコミュニケーション戦略の司令塔として選挙戦を展開することになり、週刊誌やテレビ局との接触も数多くありました。そこで、テレビ局側が選挙戦中に交換した名刺から、たまたま私に白羽の矢を立てたといった感じだと思います。

「実際の収録ってどんな感じですか?」
「どうって事ないさ」
「またまた、緊張したんじゃないですか?」

  元日に放送された私のシーンは合計3回でしたが、実際は5つのシーンを収録しております。テレビ局には番組の編集方針がありますから、ストーリー性にかんがみて、他の2回のシーンは没にしたのでしょう。

 もっとも、収録をする1ヶ月前には番組製作者、監督、カメラマン等が私のところに来て、カメラを回しながら約2時間ぐらい、小池選挙のいきさつについて取材しており、この時の私の話を踏まえてストーリーを組み立て、ウラを取り、さらに他の人の証言を取るという作業をしておられます。ノンフィクション番組の制作ですから、私も手元に手帳を見ながら、客観的事実を時系列に沿ってお伝えしました。

  そこで、実際の収録では、もう既に番組のストーリーはほぼ出来上がっておりますから、私の役割は、かつて私が取材を受けコメントした中で、テレビスタッフが必要としているコメント部分を再び証言する事となります。しかもご丁寧に、私がコメント部分を忘れた場合を想定し、取材時の私の発言資料も用意され、「この部分を話してください」ということになるわけです。ですから収録時間は、大体30分ぐらいの早さでした。

「本橋さん、まさに時代の証言者のようでしたよ」
「そうかな」
「今度の出演は何時ですか?」

  今回はたまたまこの東京10区が全国一の注目区になった事からこのような流れになったのですが、向こう20年はこのような激しい選挙戦はないと思いますし、またあってはならないとも思っております。私のようなシモジモの議員はたまったものではありませんから。

「さっき32年ぶりと言いましたけど、昔、子役でもしてたんですか?」
「そ、それは・・・・・・」

  その昔、私が小学6年生位の頃ですから、昭和48年頃だったと思います。当時はボーリングブームでして、ありとあらゆる方がマイ・ボールを持って我が家の近くの「ハタ・スポーツプラザ」に通っていたとともに、ボウリングのテレビ中継も盛んでして、ちょうど私が原っぱ(現在の千川豊寿園のあるところ)でみんなと野球をしていたところ「○時よりハタ・スポスポーツで○○○○○」(番組名はもう忘れてしまいました)があります、とのアナウンスを聞いて、ハタ・スポーツセンターに駆けつけ、友達とテレビに常時映る座席をゲットして、観客としてテレビにただ映っただです。カメラに向かって「Vサイン」はしてませんから。

 本年の皆様方のご健康・ご多幸を祈念しつつ・・・・・。

2006年1月

2007年10月16日火曜日

竹岡に招かれて

「本橋さん、竹岡健康学園って何です?」
「色々と歴史があって一言で説明するのも難しいな・・・」

 平成17年11月12日、子ども文教委員会委員長をおおせつかっております関係で、千葉県富津市竹岡380番地にあります、豊島区立竹岡健康学園の開園70周年記念式典・学習発表会・記念祝賀会に出席してまいりました。

 この竹岡健康学園の歴史につきまして、あまりご存じない方がおられると思いますので、簡単にご説明させて頂きますと、昭和10年7月21日、皇太子殿下ご誕生記念事業の一つとして、現在の地に「豊島区立竹岡臨海学校」という名前で開校され、主に、水泳指導や海辺の自然環境を生かした理科学習の指導などを主な目的とし、夏季臨海学校として昭和14年まで機能しておりました。

 その翌年の昭和11年の冬に、いわゆる「2・26事件」が発生したわけですから、竹岡の歴史のスタートは、まさにこの日本が激動の昭和を迎えるのと時を同じくしていたということが出来ます。昭和14年5月27日からは、「東京市立竹岡養護学園」として生まれ変わり、東京の虚弱児童の健康増進と体位向上を図ることを主な目的として開園されました。時はまさに第二次世界大戦が勃発した年であり、日本ではこの2年後の昭和16年12月8日に「大東亜戦争」が開始されたわけであります。

 その後の日本は、緒戦の勝利に酔ってしまい、この先をどのようにするかはっきりとした見通しもなくズルズルと戦争を遂行し、昭和17年6月のミッドウェー海戦での連合艦隊の敗北や、昭和18年2月のガダルカナル島からの撤退が転機となり、日本の敗戦色が濃くなりはじめたわけですが、この影響は当然の事ながら竹岡養護学園にも及んでいきました。すなわち、昭和19年4月1日、東京都の学童疎開の必要性の高まりに迫られるような形で「東京都立竹岡疎開学園」が誕生したのです。

 ただし、この疎開学園は、終戦直前の昭和20年6月20日、開園の目的である、戦時中における日本の学童疎開と児童の管理・物資の調達のあり方の研究資料の提示という役割を終了したために閉鎖されました。時はまさに2ヶ月前の昭和20年4月のアメリカ軍の沖縄本島への上陸と激しい戦闘の開始があり、また、日本は戦艦大和を繰り出して最後の海上特攻隊を出撃させるも、逆に猛攻を受け、結局大和は沖縄に到達できずに撃沈されるということがあり、さらに、沖縄の大地では鉄血勤皇隊の少年達やひめゆり部隊の少女達の勇敢なる戦闘行為(沖縄では最終的には、一般住民約9万4000人・戦闘員約10万人が戦死した)があったころでした。

「まさに時代に翻弄されたといった感じですね」
「翻弄されながらも、時代は確実に『竹岡』を必要としていたよね」

 昭和21年5月27日、終戦直後の日本の児童の体位低下は甚だしいものがあり、豊島区は『教育豊島』の名の下、様々な問題をクリヤし、他区に率先して戦後初めて養護学園を開園しました。「豊島区立竹岡養護学園」の誕生です。この学園の位置づけとしては、「仰高小学校」をはじめとして、「朝日小学校」、「池袋第一小学校」、「千早小学校」のそれぞれの分校という形で歴史を刻んでいくことになりました(今日では、「仰高小学校」の分校という位置づけとなっております)。

 昭和53年4月1日、いよいよ今日の名称である「豊島区立竹岡健康学園」となりますが、これは、単に虚弱体質児童の体位向上だけに止まらず、喘息や肥満、さらにはアレルギーや偏食の子供達をも受け入れ、調和のとれた健康教育・内容豊かな健康教育を目指すところからきております。 もちろん、豊島区立の小学校の分校ですから、普通のカリキュラムに基づいた学習指導も行われます。

「よく分かりました」
「で、当日はどうでした?」

 当日の記念式典は、周年行事ではお決まりのパターン(失礼)、つまり、「開会の言葉」「国歌斉唱」「学園長挨拶」「豊島区長挨拶」「来賓祝辞」「来賓紹介」という進行でしたが、約20名の在校生の式典の最中の姿勢の良さに驚かされました。

 たいていの式典(他の周年行事はもちろん、入学式・卒業式など)でよく見かける光景は、複数の生徒が、隣の生徒とお喋りをしたり、椅子に座っているときに足を前のほうに投げ出したり、また、きちんと椅子に座っているようで両手を両膝に置いていなかったりするなどですが、ここ竹岡ではそれらが全くなかったということであります。

 また、「来賓紹介」のすぐ後に、「お祝いの言葉――在校生からの呼びかけ」があり、これまたお決まりのもので(失礼)、全在校生が一人づつ大きい声で台詞をつないで1つの文章を奏でるものですが、その一人ひとりの声がしっかりと出ていたこと、加えて、歌の部分もたった20人で歌っているとは思えないほどの声量には感嘆させられました。

 それだけではありません。この第一部の記念式典が終わった直後に、第二部として学習発表会があり、3・4年生、5年生、6年生による演劇を交えての怒涛の学習成果報告、それが終わった直後に、第三部として園庭における全在校生による一輪車の演技、それを終えるや否や、寄宿舎のフロアーにてご父兄とともに迅速に昼食をとり、第四部祝賀会のなかで「全在校生アトラクション」、その表現の部で「よさこいソーラン」を、合唱の部で「虹が」「この地球のどこかで」がそれぞれ元気よく行われました。  

 私は、このスタミナ・体力・気力が一体どうやって育まれるのか不思議でなりませんでしたが、その訳も控え室の中でウロチョロしていて目に留めた「生徒生活時程」を見て分かりました。

 全在校生は毎朝6時30分には起きて、毎夜9時00分には消灯という生活を送っているのです。規則正しい生活習慣の存在と継続が健全な精神力と肉体を育むことを思い知らされました。夜更かし朝寝坊をしていては、満足に声も出ないでしょうし、ましてや一輪車などに長時間上手に乗れるわけがありません。本当に。

 竹岡の精神を是非とも区内小学校の生徒たちに伝えたいと思った一日でした。

2005/11/1(火)

家族防弁慶たらん

「本橋さん、『豊島区子ども権利条例』」って一体何ですか?」
「正確に言うと『豊島区子どもの権利に関する条例』と言って、今年の3月にようやく素案が区長に提出されたんだよ」
 
 現在、豊島区では「豊島区子どもの権利に関する条例(素案)」が提案・制定されようとしております。これは、政府が平成6年に署名・批准した「児童の権利に関する条約」の理念を受け止め、子供達をめぐる諸問題に取り組む上で、区の基本的立場を明らかにすると共に、子供にまつわる施策全体に「子どもの権利」という視点を反映させようとするものです。

 この条例(素案)の報告書は、今年の秋の第3回定例会での提案・制定を目指し、平成15年の12月から「豊島区子どもの権利条例(仮称)検討委員会」による議論を経て、今年の3月28日に区長に提出されました。

 この条例(素案)の問題点は沢山あるので、その全部をここにお示しすることは出来ませんが、代表的な問題点を申し上げますと、①そもそもこの条例(素案)の策定・検討過程が「はじめに子どもの権利ありき」で始まってしまっていること、したがって、その筋の専門家がこの条例の「検討委員会」のメンバーの中に入っており、しかも、こともあろうに「公募区民」3人の枠の中におさまっていること、②子供達に対して必要以上の、過度の「自己決定権」「自律権」を認めてしまっていること、③この条例(素案)で設置される「子どもの権利擁護委員」は、あたかも「人権擁護法案」で言う「権利擁護委員」と同様の問題性を持つこと、などです。

「一体、どんな方が『公募区民』の中に入ってしまったんですか?」
「『DCI日本支部』の会員で、『子どもの権利』を専門に研究している学者さんだよ。何でまたこういう人がって感じだよね」

 豊島区は、平成15年12月から平成17年3月まで、約一年半にもわたる活動期間を持ち、かつこの条例(素案)の策定を担っている「豊島区子どもの権利条例(仮称)検討委員会」に、法律学や教育現場の専門家などに加えて、3名の「公募区民」をいれました。

 検討委員会の中に公募区民を入れる本区の理由は、「条例案策定の過程において、区民が積極的に主導権を持って参画していくことを重視し、・・・また、区民主体で条例案を練ることで、意見を言います的発想から脱却し、当事者能力を養っていくことを意図した『区民参加型』の手法を採用していること・・・・」、ということであります。 

 「公募区民」とは、区の政策の選択・策定を、つねにその道の専門家に独占させてしまうことによる弊害を未然に防ぐと共に、一般区民が持っている素人的・常識的感覚を積極的に活用する制度だと思います。例えば、豊島区の子育て支援策を考えるにあたって、本区在住の専業主婦の方にお越しいただいて、その方がお持ちの子育ての経験や生活の知恵を最大限出していただいて、それを政策に反映させるといった具合です。

 ところが、このたびの「豊島区子どもの権利条例(仮称)検討委員会」の「公募区民」3名の内の一名の方は、「子どもの権利」に関する専門的研究をされており、加えて、子供のための国際NGO、「DCI日本支部」の会員として活動をされております。条例案の起草部会や検討委員会の会議も終始この方のリードで進められていったと言っても過言ではなく、起草から素案の完成に至るまでかなりの影響が及んでいます。そこから、今回の条例案の策定と内容には、かなりの偏りが生じてしまっています。

「その『DCI日本支部』というのは一体?」
「豊島区に日本支部事務所があって、この団体の代表者がまたね・・・」

 DCIとは、「子どもの権利のための国際NGO」で、「子どもの権利」を守り、発展させていくことを目的として活動しています。ただし、この団体の日本支部の代表者は、「人権」を盾にとってオウム真理教を擁護する発言をしています。勿論、オウム真理教信者に「人権」が無いとは言いません。しかし、あれだけのテロ事件を起こし、大多数の無実の人々の「人権」(特に生命・身体)を侵害した教団を「人権」と言う言葉で守ろうとするのは筋違いも甚だしいと思います。オウム真理教という、社会的制裁を受けるべき集団を擁護することに使われる「人権」という概念に対し、強い懸念を抱いてしまいます。

「だけど、子供にも人権や権利があるのは当たり前だと思うんですけど・・・・」
「そこが大事で、『子どもの権利』の中身を整理しないと議論がドンドンこんがらがっちゃうんだよね」

①保護や教育を受ける権利・法的地位(肯定)広義の「子どもの権利」
②狭義の「子どもの権利」(否定)

 議論の前提として大変重要なことを確認しておく必要があります。それは、一言で「子どもの権利」と言いましても、そこには大きく異なる二つの意味(①と②)があるということと、この①と②の意味の区別をしっかり認識しなくては、正しく「子どもの権利」を理解することが出来ないということであります。

 上記のように、①子供は子供であるがゆえに、大人から保護されるべき存在であり、その保護されるべき「権利」を「子どもの権利」というのか、あるいは、②子供も大人と同じ自立的存在であり、それゆえ大人と同じ市民的権利を享受することが出来る、その資格を「子どもの権利」というのか、同じ「子どもの権利」と言いましても、このように意味は全く異なるのであります。

(次号つづく)

2005/6/1(水)

地域防弁慶

「本橋さん、『人権擁護法案』の問題点って何処ですかね」
「何処ですかって、沢山あって面白いから自分で調べてみたら」

 最近の新聞紙面でもうお馴染みのこの法案は、2年前に既に登場しておりまして、この時は廃案になっております。それが今回は、マスコミなどをはじめとする報道機関による批判をかわすためか、「メディア規制条項」をいわば凍結して再提出しております。

 この法案は、本来ならば、今年の3月10日の自民党法務部会で了承されて、その後はお決まりのコースとして、政策審議会、総務会などを経て閣議決定、そして国会提出ということになっていたのですが、事はそうすんなりと進みませんでした。その理由は様々あるでしょうが、私自身感じますことは、自民党の若手保守派グループがこの法案の危険性・問題性に気がつき、急遽、3月8日の夜、若手グループが集まり、この法案についての分析と問題点の洗い出し作業を始めたこと、これに安倍晋三先輩が先頭にたちはじめた事が大きいと思っております。

『はい、本橋です』
『あっ本橋さん?ちょっとこっち来て手伝ってくれない?』
『おいおい、今何時だと思ってるの』

 その若手グループの中には、かつての自民党都連青年部時代の議員仲間がおり、2日後に迫った法務部会での法案承認を阻止すべく、猫の手も借りたいと言った状況を説明し始め、この法案について、憤懣やるかたない気持ちを得々とまくしたてると同時に、終始、何時ごろ党本部(永田町)に着きそう?といった感じでした。が、夜も遅く、既に寝床に潜り込んでいた私は、当然の事ながら動きようもなく(実はめんどくさかった?)、その辺のところを詫びながら携帯を切った事がありました。

 その後の流れですが、3月10日、自民党法務部会が開かれ、保守派反対グループが徹夜で作り上げた論点整理レジュメを元に大論陣を張った結果、直ぐに了承というわけにいかなくなり、その後4・5回法務部会が開かれましたが、この法案はおかしいと主張し続け、現在のところまだ法務部会で論議中という状況になっております。

 前述の都連青年部時代の友人と話をしていて、お互いに一致する問題点はどこかといいますと、それはズバリ「人権の定義は何か、またそもそも人権とは何か」という事です。

 思いますに、「人権とは何か」と人様に問われて一体何人の方が即座に、しかも明確に答えることができるのかなぁと思うくらい、この問題は実に奥深く、しかも広い意味合いを持った概念だと思います。ここらあたりを深く思索して、考え抜いた人達がその人権を語るのならともかく、そうではない一般の国民において、安易に人権という概念を使って社会生活一般を規制していく法体系を構築していくというやり方は、やはり無理があるという率直な感想を持つわけです。ですから、当然の事ながら、法案にも当然無理が出てきますし、その部分が解釈による恣意的な運用の余地を生み、やがてそれの解釈が拡大していくという事態に発展してしまうのです。

「本橋さん、もっと具体的に言ってくださいよ」
「具体的に?、自分で調べようとしないんだからもう」

 一番の論点は、国籍条項でしょう。この「人権擁護法案」では、現在別に存在する「人権擁護委員法」には存在する国籍条項が撤廃されており、日本人に限らず、外国人でも市町村長の推薦を受けて委員になることができるのですが、例えば、今日、未だに解決されてはいない「北朝鮮にる日本人拉致事件」の存在を思うとき、もし仮に、在日本朝鮮人総連合会の関係者が人権擁護委員になり、日本の政治家なり報道機関が、この拉致問題をめぐって朝鮮総連を批判したような場合、人権侵害と糾弾され、自由と民主主義国家においてまさにしっかりと守るべき言論の自由や思想・良心の自由が蔑ろにされてしまいかねません。

 それだけではありません。例えば、「靖国神社」にまつわる日本国内と近隣諸国の反応を見たとき、小泉総理が靖国神社に参拝したとして、人権擁護委員になった方から、私達の「宗教的人格権」が侵害された、ということになると、司法をも巻き込んだ揉め事となってしまいます。といいますのも、「宗教的人格権」といいますと一般の人々からはもっともらしく聞こえますが、これはまさに今法廷で議論されている事柄で、この「宗教的人格権」は果たして憲法で保障された人権といえるのかという論点に関しては、今の司法は100パーセント「ノー」、ゆえにその侵害というものはありえない、という立場を崩してはおりません。人権擁護委員の方におかれては、我良かれとして行動してみても、人権が侵害されたというとき、その侵害された人権が、そもそも本当に・正当に保護されるべき人権かどうかは、やはり司法の場でしか明らかにならないと思いますが、違うでしょうか。そのことをこの法案に出てくる「人権委員会」という所でおこなってしまってよいのでしょうか。

 そこから、この「人権委員会」が二番目の論点となるでしょう。ここでは、なんと裁判所の令状がなくても、独自に関係各所の立ち入り検査ができるようになっており、加えて、関係者の出頭要請、事情聴取や資料の押収なども出来る様になっているのです。この点について法案推進派は、これは強制ではなく、拒否することも出来るとは言ってはおりますが、正当な理由なくして拒否すれば過料が科されてしまうからくりになっており、これはあたかもはじめから言うことを聞きなさいと言ってるようなものなのです。 

 さらに問題は、法案推進派は、幼児や高齢者の虐待など、特定の人権侵害に限定的かつ慎重に運用する、と言っておりますが、法案反対派の主張、つまり幼児や高齢者の虐待については個別の法律で対処すればいいことであって、これほど問題のある法で、様々な人権問題に対して、包括的・網羅的に規制の網をかける必要はないとする意見のほうが説得力があるでしょう。

「ここまでくると、豊島区の『子ども権利条例』に・・・、何か似てるな・・・」(続く)

2005/5/1(日)

発つ鳥あとを濁さず

「本橋さん。飛ぶ鳥あとを汚さずじゃないですか?」
「いや、これでいいのさ」

 塾生にこのように切り返されて、「これでいいのさ」と言ってみたものの、実際この二つの言い方にどのような違いがあるのかは、私にはわかりません。ただ、私のイメージとしては、「発つ鳥跡を濁さず」の方は、あたかも水鳥が物静かに水面を進んでいたところ突然飛び発っていく感じなのに対して、「飛ぶ鳥あとを汚さず」の方は、大地の上で餌をついばんでいる鳥が、ある時突然羽ばたいていく感じです。つまり、前者は『水面』から、後者は、『陸地』からそれぞれ飛び立っていく場面をイメージすることが出来ると思います。

 さて、皆さんはどのように違いをお考えでしょうか?

「で、本橋さん。今回の話はいったい何ですか?」
「そうそう、本題に入らなくちゃね」

 AP通信によりますと、旧日本軍による「南京事件」(昭和12年)を題材とした『ザ・レイプ・オブ・南京』(ベイシック・ブックス社)の著者、中国系アメリカ人のアイリス・チャン(36)さんが、アメリカ・カリフォルニア州ロスガトス近くで、自動車の中で頭を銃で撃って自殺したとの事です。

 彼女は、アメリカ・ニュージャージー州に生まれ、AP通信の記者などを経て著述業に入り、作品としては、いくつかの歴史物を手がけてきました。

 最近は大東亜戦争の中のフィリピンでの日米戦を題材としていたとの事ですが、精神状態を崩し、うつ病で入院し、退院したばかりだったとの事です。ここに謹んでご冥福をお祈りいたしたいと存じます。

 ただし、彼女の仕事それ自体、特に先ほど取り上げました『ザ・レイプ・オブ・南京』という作品は、私自身日本人として、どうしても許せない、非常に憤りの感じる代物です。この作品は、平成9年11月にアメリカで刊行され、南京事件にまつわる歴史資料、史実を曲解し、いわゆる『虐殺派』ですらさえも主張してない犠牲者数26万から34万人という数字を平然と主張しており、その内容がまたセンセーショナルなため、アメリカで大ベストセラーとなったものです。

「南京大虐殺、旧日本軍は酷い事をしましたよね」
「それが違うんだけど、分って貰えるかな」

 南京事件といいますのは、日中戦争の初期、昭和12年12月13日に、中国の当時の首都であった南京が陥落した翌日から6,7週間の間に、女・子供を含む一般市民や無抵抗な中国軍兵士、捕虜など約30万人以上が、日本軍によって殺害されたと一般に広く言われる事件で、平成15年現在でも、これは、日本がアジア諸国に対して侵したとされる最大の残虐行為事件と喧伝されている事件です。

 加えて、「南京大虐殺」について、日本政府が「あったもの」としての姿勢をとったため、昭和57年夏に起きた教科書誤報事件(教科書検定において当時の文部省の検定官が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという報道)をキッカケに、日本の全教科書に掲載される事になってしまった。

 日本政府が教科書に記述させることを指定、つまりは認定してしまったのです。それだけではありません。平成6年8月には、社会党出身の村山富市首相による戦後50年談話、いわゆる「お詫び談話」において南京大虐殺を含め、アジアでの侵略行為すべてを政府見解として認めてしまったのです。

「やっぱり酷い事したんですね」
「違うちゅーの」

 アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』の登場は、これらの一連の流れの延長線上にあると思われます。本人の話によれば、彼女自身が幼い頃に両親から聞かされていた話、つまり当時の中国の首都南京が陥落すると、日本軍兵士達によって、女・子供を含む一般市民が残虐な行為によって皆殺しにあったという話を聞かされていたものの、まだ、実際には歴史資料を調べてもいなかった。

 しかし、平成6年、在米華僑によって開催された日中戦争当時のものとされる残虐行為写真を見て、後世に残すためにこの本を世に問うた、との事です。  しかし、事件が起きた当時に記録された第一次歴史資料を集めて読んでみても、例えば、南京は、陥落当時は20万人の人々がいただけで、30万人など殺害しようがない事などが今日判明してます。

 また、南京が陥落した際に避難民を管理運営していた15人の外国人が、陥落直後から翌年2月9日までの間に記録した日本軍による暴行事件や苦情についての記録を見ても、殺人は49件のみしか確認できず、しかもこれらは全く現場検証されておらず、中国人による一方的な訴えを書き記しただけのものでした。

 加えて、後にその訴えの一部を検証した南京日本大使館員は、訴えにあるような形跡すらなかったと証言しています。さらに、平成7年に、陥落翌日から翌年までの間に、南京市および周辺を克明に記録した記録映画『南京』も発見され、その映像には、語られるような数十万人もの虐殺が行われた町とは到底考えられない、平和な南京の様子が記録されていたのです。

2004/11/1(月)

続・ベトナム研修を終えて

「本橋さん、ベトナムの『国家としての現状』も教えてくださいよ」
「いいとも。だけどこの手の話はお堅いものになるけど・・・」

 先月号で私がベトナムに視察に行ったことはご報告いたしましたが、ベトナムの現状を知りたいという方がいらっしゃったので、つまらないとは思いますがご報告させていただきます。

―――ベトナム社会主義共和国の現状―――
1 人口・・・約8,000万人
2 国土・・・約33万平方キロメートル(日本から九州を除いた面積)
3 GDP/P・・・428ドル(2002年)
4 政治体制
①共産党党員・・・264万人(人口比約3%)。政治局・・・15名。中央委員会・・・148名。書記長はノン・ドゥック・マイン(北部出身)。
②国家主席(元首)はチャン・ドゥック・ルオン(中部出身)。
③行政府首相はファン・バン・カイ(南部出身)。副首相・・・3名。閣僚・・・23名。
④国会議員数・・・498名(任期5年)。議長はグエン・バン・アン。
5 内政
①1986年以来ドイモイ(刷新)政策を堅持。1990年代半ばまで年率8~9%の成長実現。97年アジア経済危機により99年には4,8%まで減速。2000年、6,8%まで回復。2002年、7%。2003年、7,3%達成。2004年は7,5%を目標。
②共産党一党独裁支配の下、思想・表現・情報など厳しく管理。
③地域間・個人間における貧富の格差の拡大や汚職問題などが徐徐に顕在化しつつあるも、着実な経済発展が続く限り、今のところ社会不安の芽は大きくない。
④積極的対外開放政策に基づく観光客の増大がある(1995年約135万人、2002年約240万人)。
⑤外国直接投資などの結果、一般犯罪は増加しつつも、テロ・誘拐などのいわゆる政治犯罪あるいは反政府運動の兆しはない。
6 外交―――戦略的かつ現実的外交の展開
①ASEAN重視・・・アセアンこそは国際社会一般との重要な接点・窓口と認識。
②日本・アメリカ中国・ロシアとの関係を最重要視・・・まずロシアとはベトナム戦争以来の伝統的友好関係のほか、武器体系、人的関係を通じた関係は依然として強力だが、経済面での関係は年々希薄化している。つぎに中国とは歴史的・地理的関係に基づく安全保障上(中越国境問題、南沙問題)及び経済上の観点が強い。さらにアメリカとは1995年国交正常化後、2001年の通商協定締結というように順調に発展(2003年の対アメリカ輸出が飛躍的に増大し、対日輸出を超え№1)。双方とも戦争に起因する憎悪関係はもはや希薄。特に来年はベトナム戦争終結30周年。政治関係は徐々に正常化。ベトナム首相の訪米も俎上に。もっとも民主化問題・人権問題もあり、微妙な距離感が必要。最後に日本とは余計な懸念なしに信頼し、頼れる関係を目指し、ここ数年のベトナム側の対日重要視姿勢が顕著。それは『自然の同盟関係』『戦略的パートナーシップ』と表現される。
――― 以 上 ―――

「なんとなくベトナム国家のイメージがつかめました」
「そう?でも『ベトナム戦争』っていうイメージがまだ強いでしょ」

 日本人はベトナムという国についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。来年はベトナム戦争が終結して30周年となりますが、いまだにこの戦争のイメージが強いのではないでしょうか。ベトナムという国家は既に申し上げたとおり大変な親日国家ですし、日本の国益上、対中国投資に絡むリスク分散先として大きな魅力を持っています。ですから何とか両国がきっちり結び合える『もの』が必要と考えますが、そう思っていた時に私がふと思い出したのがベトナム航空の機体に描かれていた『蓮の花』です。『蓮の花』はもともと仏教の花であり、仏様は蓮の台座に座っておられます。ベトナムは人口の90%は仏教徒であり、しかも東南アジアでは珍しく日本と同じ『大乗仏教』です。またベトナム人は日本人同様「お茶」が大好きで、なかでもベトナム人にとって最も風流な「お茶」のたしなみ方は、「蓮の花のつぼみに溜まった露」、あるいは「蓮の葉っぱに溜まった露」を使ってお茶をたてることです。さらにベトナムで最も愛されているホーチミンは1890年5月19日、ベトナム中部ゲアン省の「ランセン」という村で生まれましたが、この村の名前がベトナム語ではズバリ「蓮の村」という意味なのです。今回訪問したベトナムのイメージが『戦争』から平和の象徴『蓮の花』となることを祈ってやみません。

2004/9/1(水)

ベトナム研修を終えて

「7月の半ば頃、ぜんぜん連絡がつきませんでしたけど・・・」
「うん。ちょっとベトナムに研修しに行ってたのさ」

 今年は日露戦争で日本がロシアに勝利してから100年になることは申し上げましたが、ベトナムにおきまして、やはりちょうど100年前に、「東遊運動」(ドンズー運動)といわれる、いわば「日本に学べ運動」が沸き起こりました。それはマハティールの「ルック・イースト政策」より前の事です。

 フランスは、1800年代からベトナムへの侵略を開始し、1833年フエ条約により保護国とすることによって完全な植民地としました。1904年、極東の小国、しかも長い鎖国から開国して間もない日本が、大国ロシアを打ち破ったことに感激したアジアの諸国民は少なくありませんでしたが、ベトナムでは、「ファン・ボイ・チャウ」という青年が立ち上がりました。

「誰ですか、その方。初めて聞く名前ですけど」
「まあ、聞きなさいって」

 1904年、彼は、抗仏運動のための「維新会」を結成し、翌1905年、日本の援助を求めるために日本に渡り、そこで中国の亡命革命家「梁啓超」の紹介で、「大隈重信」「犬養毅」「福島安正」「根津一」といった人物と知り合うとともに、ベトナムから日本へ留学生を送り込み、これらの留学生と語らって、「ドンズー運動」を展開しました。留学生の数は、1905年にはたった3名でしたが、1908年には200名を超え、これらの留学生は、振武学校、東京同文書院、成城学校などで研鑽をつみました。ファン・ボイ・チャウは、当初、日本からの軍事援助を目的としていましたが、自らの目で日本の現状を見るうち、人材育成の重要性に気づいたからです。

 こうして日本で火の手の上がった抗仏運動に危機感を抱いたフランス政府は、ベトナムにおいて日本に留学をさせている家族に対して弾圧を加える一方、日本政府に対して、日本で維新会のメンバーとしてドンズー運動に加わっているベトナム人の逮捕・引渡しを要求しました。日本政府は当時日本に滞在していた、維新会の盟主に祭り上げられていた、ベトナム・グエン王朝のクオンデー候の引渡しは拒否したものの、1909年、多くのベトナム人留学生の国外退去処分を実行しました。ファン・ボイ・チャウも、日本に大きな失望と幻滅を感じたまま、国外に退去せざるを得なくなりました。 
 
 ファン・ボイ・チャウは、その後、中国の広東において、中国の革命勢力とも協力しながら抗仏運動を続け、1917年、再び訪日しましたが、日本が欧米列強と同様に植民地帝国主義になりつつある現実を目の当たりにして、大きく失望し、滞在日数わずか二ヶ月あまりで日本を離れてしまいました。彼は、その後1925年、上海でフランス当局に逮捕され、ベトナムに連行された上で終身刑の宣告を受けましたが、ベトナム民衆の全国規模の助命嘆願運動の結果釈放され、1940年に亡くなるまでの間、フエで軟禁生活を余儀なくされました。

「どこの国でも『国造り』って大変ですね」
「でも、これって『男子の本懐』だよね」

 1900年代初頭、欧米列強に追いつかなければ自分たちが植民地にされてしまうという危機感があった日本にとって、近隣アジア諸国の独立を願う声に耳を傾ける余裕などなかったかもしれません。ただ、当時の日本の国家目標から判断して、結果的にはやむをえないプロセスをたどったとはいえ、もう少しうまい方法で支援することができたのではないでしょうか。

 さて、それから100年、長い抑圧と戦争を乗り越えたベトナムは、現在、懸命に国家造りに励んでおります。この間に登場したのが、現代ベトナムの国父とも言える故ホーチミン主席ですが、実を言いますと、故ホーチミン主席とファン・ボイ・チャウには接点があります。ファン・ボイ・チャウも故ホーチミン主席も、ベトナム、ゲアン省生まれで、故ホーチミン主席の父親とファン・ボイ・チャウとは交流があったとの事、いわばファン・ボイ・チャウの遺志が故ホーチミン主席に引き継がれたともいえるでしょう。

 ベトナムは、現在、日本を最大のパートナーとして位置づけ、われわれ日本も多額のODAをはじめ、民間の投資、技術移転などにより、力強くベトナムの経済発展に貢献しております。そして、ベトナムからの日本への留学生も最近急激に増えており、現在1300名にも達しています。

 100年前、われわれ日本人は、ベトナムの民衆の声に耳を傾けることをしませんでしたが、もう同じ誤りを繰り返してはいけないと思います。歴史のめぐり合わせといいますか、ベトナム人が今そのように語っているわけではありませんが、私には100年を経た現在がベトナムの「第二のドンズー運動」に思えて仕方ありません。私たち日本人は、100年越しのベトナム人に対する借りを返す絶好の機会と考えます。

「いやー、もうバリバリの親越家ですねー」
「そう、日本のОDAもやっぱり『親日国家』をメインにしないとね」

2004/8/1(日)

乃木ビールが飲みたい

「本橋君は、『東郷ビール』を飲んだことがあるかね?」
「えーと。『養老ビール』なら飲んだことがありますが・・・」

 あちこちで様々な地域活動団体の総会が開催され、それぞれの団体が新年度のスタートをスムーズに切られたことかと思います。私自身、いくつかの団体の総会に出席させていただき、今年もまたドキッとする話をして下さる方との出会いを頂戴し、改めて自分の浅学非才ぶりを思い知らされました。とくに御高齢の方が多くおられる団体となるともう近現代史の授業状態になってしまいます。80歳代半ばの方でしたら「大東亜戦争」をご存知でしょうし、その年代のお父さんともなると「日露戦争」をご存知かと思われます。そういえば今年は確か「日露戦争百周年」にあたりますね。

海外旅行をしていて、鮮烈な思い出が2回ほどあるんだなー」
「どんな思い出ですか?」
「うん、一つは『フィンランド』に行ったとき、あんときゃ一瞬心臓が止まるような感じがしたな」

 私も話を聞いて驚きましたが、その方が20年近く前、「フィンランド」を訪れたとき、空港からヘルシンキに向かう途中、真っ白い大きな工場とおぼしき建物の上に、「東郷平八郎元帥」の巨大な肖像画が立っていたので、思わず添乗員に「あれは何だ」と聞いたところ、フィンランドでは「アドミラル・トーゴー」と名付けたビールが製造されており、大勢の国民に愛飲されているとのことです。

 フィンランドは約1500キロの東の国境線をロシアと接し、19世紀を通じて大国ロシア帝政の圧制に苦しみ、100年後のロシア革命によってようやく独立するわけですが、独立するまでは、いつも自分達の目の前を居丈高に徘徊していたロシアのバルチック艦隊を疎ましく思っていたことでしょう。そのバルチック艦隊を日本海海戦で一瞬のうちに海底の藻屑に葬った海将東郷平八郎をたたえ、それが『東郷ビール』誕生のきっかけとなったわけです。

「二つ目は『トルコ』に行ったときだな、あんときゃ度肝を抜かれた」
「どんな事があったんですか?」

 私も話を聞いて感心しましたが、その方が同じく20年ぐらい前、「トルコ」を旅行したとき、高台に「黒海」を眺望できる公園があると聞いたのでエッチラ・ホッチラ上っていったところ、銃を肩に掛けた2人のトルコ兵の若者と出会い、2人の若者はニコニコしながら近づいてきて話しかけてきたとの事です。

『貴方は日本人か』
『そうだ』
『日本人は偉い、ロシアをやっつけたのだから』

 トルコもまたロシアと国境を接し、かつてオスマン・トルコ帝国時代は黒海の奥深くにまで勢力を伸ばしていましたが、19世紀に入って黒海を巡る両国の争いが絶えなくなり、特に、トルコ帝国を「貧窮の病人」と呼んだニコライ1世はその分割を画策し、次々とトルコの勢力圏を侵食し、ついに19世紀半ばにクリミヤ戦争が勃発します。その結果、トルコ艦隊は黒海海戦でロシア艦隊に全滅させられたのですが、その苦い国家の歴史をその若い兵士達は知っているわけです。その事を踏まえた上で、クリミヤ戦争から約50年後、極東の名もなき小国がトルコの宿敵ロシアに勝利し、あまつさえロシアの大艦隊を潰滅させた日本への畏敬の想いがこの若者の口をついて出たのでしょう。また、トルコの街には「東郷通り」・「児玉通り」そして「乃木通り」と名付けられた道路があるのです。

「この2つの国の国民の歴史観・歴史認識はたいしたもんだと思うよ」
「私もお話を聞いて共鳴するところがあります」

 20年ぐらい前と言うと私はまだ大学生ぐらいでしたが、当時の私の歴史認識はお粗末なものだったと言えますから、さきのトルコ兵の若者と議論しようものなら「歴史観喪失の透明人間」と思われてしまうかもしれませんし、また、もし今現在の日本の大学生と議論させようものなら、「それ」が空中に浮遊していると受け止められかねないでしょう。まさに近現代史教育を意図的に回避してきたツケがまわってきたといえますし、逆に『トルコ』はそこをしっかりとやってきたのでしょう。

 司馬遼太郎は、明治の日本人、特に日露戦争までの日本人は偉かったと評価しながらも、日露戦争後から昭和20年の終戦までを「奇胎」の40年間と表現してこの頃の日本人、とくに国家指導者層を痛烈に消極評価していますが、歴史的事実は見る人によって大きく変化しますし、同じ人物についても異なったいくつもの小説が生まれたりします。司馬の「殉死」などによる評価がいわゆる「乃木希典愚将論」なるものを生み出しましたが、現在は新しい史料が発見されこのような評価は払拭されようとしています。もし『フィンランド』なら、間違いなく『乃木ビール』が誕生し、『東郷ビール』とのハーフ・アンド・ハーフも発売されているかも知れませんね!!

「本橋君は、『染井桜』を飲んだことがあるかね?」(えっ、まだ続くの・・・)

2004/6/1(火)

「官民格差是正」もホドホドに

「本橋さん。こりゃないですよー」
「ほんと。私たち公務員志望としてはガッカリです」

 私の事務所に通う学生の多くは公務員志望ですが、どうやら彼ら彼女らは、豊島区が向う2年間職員採用をストップしたことが気に入らないみたいです。

 確かに、「自治体」とは、社会的実在として存在し、これを祖先からしっかりと世襲して、未来の子孫に引き渡さなければならず、その大切な担い手を2年間に亘って採用しないと言うことは極めて由々しきことです。採用自体をしなければ、有能な人材との出会いもないわけですし、職員構成も高齢化のピラミッド構造を増幅させてしまいます。

「本橋さん。何とかしてくださいよー」
「そうですよ。私は本橋さんがいる豊島区志望なんですから」

 しかし、平成16年度予算特別委員会における私との質疑応答において、この「2年間新規採用ゼロ」については、理事者として「苦渋の決断」をしたことがうかがえましたし、また公務員それ自体の人員削減は必要であるとの国民合意があると思われる昨今では、豊島区の方針はぎりぎりのところで合理性を見出せると思います。

「えっー、それじゃ本橋さんは公務員の給与削減・勧奨退職も賛成ですか?」
「もう本橋さんの所で学ばないからー」
「そうだー、公務員志望者の敵!!」

 ここまで過激なことを私に向かって言うこの学生達はいったい何者かといいますと、私自身これからは学生の段階で「裸の政治」を見せたい・伝えたいとの想いから、5年前より日本全国から学生を「本学塾(本橋ひろたかと共に学ぶ塾)」塾生として受け入れており、ここで上下関係なしで「裸の政治」を語り合ったりしております。

 今回平成16年春季では8名の若者が私の塾の門をたたき、面接の結果全員合格となり、私の下で政治を学んでおります。(平成18年3月現在、4名)特に、この時期は第1回定例会と重なり、塾生には私が所属している「区民都市整備委員会」「予算特別委員会」のすべてを傍聴させ、彼ら彼女らはそこでの公務員のありのままの仕事振りを見て、「やりがいがある」「時代の歯車を動かす仕事だ」などの感想を私に伝えてきました。塾生たちはどうやら「公務員」と言う職業に感情移入してしまったようです。

 それはそれとしまして、私は「勧奨退職」についてはこの場では言及いたしませんが、「職員給料削減」については一言だけ言わせていただきたいと思います。

 平成八年、厚生省(今は厚生労働省)の汚職事件が発生しました。それは、埼玉県の特別養護老人ホームの建設をめぐって、厚生省内の汚職疑惑が発覚し、業者からマンション購入資金を受け取ったなどとして、岡光序治事務次官(当時)が逮捕されたと言うものです。何故に厚生省の事務次官ともあろう人物が個人的な蓄財に走ってしまい、挙句の果てには法に触れることまでやってしまったのか。そこをしっかりと分析して、今後に展開することが大事だと思います。

 私は、ポイントは昭和61年に行われた「公務員共済組合」の年金の引き下げにあると見ております。改定前の公務員年金は、退職時の俸給が基準となって算定されていましたが、改定によって在職期間の平均俸給額によって決められ、退職時の役職とはあまり比例しなくなってしまいました。加えて、改定前に採用された人の年金も引き下げられたことは、あたかも「遡及処罰禁止の原則」に現れている法の精神にもとると言えます。

 年金を下げられると、公務員としては国家・国民のために懸命に働いたとしても、こと退職後となると悠々自適に暮らせないわけですから、ついつい将来のことを考えて行動してしまうことは無理もないとおもいます。 もちろん、岡光次官の一件は犯罪であり、決して許されるものではありません。しかし、彼を批判するだけでは何の解決にもつながらないと言うことです。

 そもそも日本の官吏に対しては、一般人にはない年金(恩給)が与えられていましたが、これはなぜかと言えば、まさに天下・国家のために老後の心配もなく懸命になって働いてもらえるようにする、私利私欲や下品な立ち居振る舞いをしないようにする。この目的からすれば、公務員の年金を一般の社会福祉の視点で考え、「官民格差是正」という錦の御旗の見地からいじることは如何なものかと思います。

 また、岡光事件をもう少し見てみますと、彼は大体6000万円の蓄財をしたわけですが、そのための手段として、特別養護老人ホームの建設などに絡んで約10億円もの余計な補助金を国家に使わせてしまっております。彼の不正蓄財には10億円の税金が原資となっているわけです。

 このような構図は、いわゆる「特殊法人」への天下りについても言えるでしょう。例えば、天下り先で年間1000万円の給料が支払われているとすれば、オフィスの経費や、お抱え運転手や秘書の人件費と言った具合に、それ以上のお金が使われているわけです。

 汚職や天下りを防ごうとするのならば、公務員が蓄財に走らずに職務をまっとうできる環境を作る必要があります。そのためには、むやみやたらと公務員の給料や年金を下げてはいけません。むしろ大幅な人員削減をしながら、給料や年金を上げる方策を考える方が得策だとおもいます。

「さすが本橋さん、公務員の味方!!」
「私、これからも本橋さんの下で学びます」

おいおい、この上げ下げは何なの?

2004/3/1(月)

街づくり&国づくり

「あっ、安倍さんがしゃべってるー。次は小泉さんだー。」
「なんだ、安部晋三幹事長、小泉純一郎総裁を見るの初めて?」
「そりゃそうですよ。なんてったって、僕達まだ学生ですから」

 平成16年1月16日、第70回自由民主党大会が、JR品川駅西口にある新高輪プリンスホテルで開かれ、かねてより一緒に行きたがっていた学生たちを連れて参加してきました。その日の安倍幹事長の挨拶や小泉総理の演説は、自衛隊のイラク派遣が国論を二分し、かつ秒読み段階に来ていることもあってか、ボルテージがひと際上がったものとなっており、特に小泉総理がしゃべっているとき、前列に陣取っている多数の国会議員が「そうだー」などと合いの手を入れ、会場の雰囲気はいやがおうにも熱くなりました。これらの光景を目の当たりに見た学生たちも党大会の熱気に戸惑っておりました。

「おっ、安倍さんがこっちに来たー。」
「向こうで小泉さんと記念写真が撮れるって、行こう、行こう」

 私自身は党大会には何度も出席しているのと、都連の青年部の副部長をている関係で、党の幹部とは会う機会があるので、取り立てて感動はなかったのですが、初めて参加した学生たちにとってはとても新鮮で且つ刺激的だったことは確かでしょう。第1部の党大会に引き続いて、第2部の懇親会では、会場の一角に小泉総裁との写真撮影コーナーが設けられ、ある学生は一緒に記念撮影をするどころか、小泉総理と握手をして会話も楽しんでくる始末です。それでもここへ来て多くの第一線で活躍している政治家を生で見て、生の声を聞いて、この学生たちは何かをつかんでくれるだろう。私にはない新しい感性でこの時空を捕らえてくれるに違いない。後で話を聞くのがとても楽しみだ。そう思って私はテーブルに陣取って彼らの荷物の見張り役をしておりました。

「いやー、楽しかったです」
「いい思い出になりました」

 この党大会についてどう思ったか後で自由に喋ってもらったときに出てきた彼らの多くの感想です。これ以上は彼らのためにもここでは申し上げることはできません。と同時に、それは常日頃の私の彼らに対する教え方・導き方が悪かったことを意味します。ここで、「なぜ」、と思ってみても仕方がありません。私の学生に対する政治の伝え方の幼稚さに原因があるわけですから・・・・・・・。

 ただ、私が学生たちに期待したことをここであえて申し述べさせていただくと、それは自民党の幹部達の話を聞いて、「この国のかたちをどうするのか」という問いかけへの、彼らなりの挑戦の言葉・言説を聞かせてもらいたかったという点につきます。

 昨年の11月の総選挙を思い起こしてみますと、そもそも政治というものが、国家の基本・土台となるべき事柄に取り組むことが主眼であって、政権公約に関しても、そのためにどうするかが議論されてしかるべきでしょう。その意味では、当時の総選挙における格闘の政権公約は、いかにして濃く見抜けするかが最大関心となってしまっていたのではないでしょうか。公約の1番目が「高速道路の無料化」という占拠というのは、ある意味では異常としかいえません。本来なら、わが国が国際社会の中でどのような役割を果たすのか、その原則をしっかりと明記すること、大きなテーマは憲法改正ですが、9条の解釈をわかりやすいものにし、同時に自衛隊の存在と役割をここにしっかりと位置づけること、そして国家が存続していくためには教育の問題に取り組まなくてはなりません。日本人が持っている粘り強さとか、我慢図よさとか、この持ち味を失ってはならない、その意味で、教育基本法の改正や現場の教育の問題が重要な論点と成っていることです。

 加えて、さらに突っ込んだ議論をいたしますと、あくまでも現実を踏まえたうえで議論を構築してほしいということです。えてして、憲法改正と9条を絡めると、やれ「自分たちの国は自分たちで守ろう」とか、「小型核兵器ぐらい持つことによってわが国も核抑止力を持つべきだ」とかいった議論が出てきてしまいがちです。しかし、わが国のおかれたさまざまな現実を踏まえるならば、「自分たちの国は自分たちで守る」という近代国家の建前を踏まえつつも、これからの安全保障の実態は「自分たちの国は自分たちだけで守れるわけではなく、他国との強調を必要とする」という結論に至るでしょう。テロリズムへの対応は、まさにその典型的な事例です。

 さらに、「この国のかたち」を形成していくに当たっては、もう国民意識の中の「亀裂」めいたものを消して温存させてはならないということです。この典型的な事例が、いわゆる集団的自衛権の問題ではないかと思います。現在の政府公式見解は「集団的自衛権は保有してはいるものの、その行使は憲法上禁止されている」というものですが、これ自体まさに、広範な国民の合意を形成しきれないでなし崩し的にことを進めてきてしまった結果でしょう。現に、その亀裂のせいで安全保障政策の領域で本来は必要とされる選択を下せないという局面がいくつも続いたことを忘れてはなりません。また、内閣法制局に解釈させてしまってよいのかということも大問題です。やはり政治家が直接国民に語るべきです。

「本橋さん、何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「別にー、今日は楽しかったねー。これから事務所に帰って勉強しようね」

2004/2/1(日)

新暦ライフに旧暦を

昨年は私にとりましてはまさに変転の年で御座いましたが、皆さんにとりましてはどのような一年でしたでしょうか、お伺いいたします。私自身、何とか無事に乗り切ることが出来ましたが、これも皆々様のお陰だと感謝御礼申し上げる次第です。

今年もどうぞ宜しくお願い致します。

「本橋さん、僕の地元のカレンダー持って来ました。使って下さい。」
「ありがとう。使ってみるよ。」
「このカレンダーは地元ですごい人気なんです。」
「へぇー、そう。あれっ…、これ平成16年の9月までしかないじゃない。」
「当たり前じゃないですか。」

 この時期になりますと、とかく真新しいカレンダーが世の中をでまわり、今年一年どのようなカレンダーを使おうか、頭を悩ます方もいらっしゃるかと思いますが、皆さんはもうお決まりになったでしょうか。

 ちなみに私の場合は、色々なカレンダーを収集するのが一種の趣味なのですが、実際のところは毎年使うカレンダーを某生命保険会社発行のものと決めておりまして、そのカレンダーが到着するや否や、まずすべてをバラしてしまい、1月から順番に12月までのすべてを事務所の和室の欄間のところに一気に張り巡らせております。こうすることによってその一年の活動スケジュールが頭の中でまるで宙を飛び交うようになって非常に便利なのであります。

 さて、今まで様々なカレンダーを集めてきましたが、そのほとんどは、新年の1月が一枚目にきて、その後順番にその年の12月までが綴じられたものとなっております。

 しかしこの度、私の「本学塾」に愛媛県西条市出身の学生さんが入塾しまして、その学生が私にくれたカレンダーが、なんと前年の10月が一年のスタートで、翌年の9月が一年の終わりとなっているのであります。

「あれっ、本橋さん。こういうカレンダー見るの初めてですか?」
「もちろんはじめてだよ。」

 意外と知られてはいないとのことですが、愛媛県西条市の「西条まつり」は、毎年10月の14・15・16日に行われる歴史と由緒ある秋祭りです。「新居浜まつり」と並んで「西条まつり」は、まさに愛媛を起点として日本全土を熱くすると言ってもいいのではないでしょうか。「太鼓台」10台、「だんじり」100台、「御神輿」4台そして「子ども太鼓台」6台が街にくりだす様は豪快の一言で、それらに参加する人の数は1万人、見物客が毎年約15万人で、西条市の人口の3倍もの人が、この3日間に集中するとのことです。特に、「だんじり」においては担ぎ手が酒をアオッテからくりだすためとても危険で、一昨年には死傷者を出しています。

今年、私はこれにぜひ参加したいと思っております。

「沢山カレンダーが在りますねー。本橋さん、これは何ですか?」
「旧暦カレンダーだよ。今お薦めだよ。」

 バブルがはじけた頃でしょうか、旧暦が見直されるようになり、ここ一・二年、様々な趣向を凝らした旧暦カレンダーが出回っております。実のところ、私自身、旧暦ファンでして、初めは私の生活に旧暦を組み入れて、私だけの秘密として楽しんでおりましたが、今は親しい友人たちとも感動を共にするようにしておる次第です。(ちょっと、大げさですかね・・・)

 月の満ち欠けを基準にして太陽の運行による季節の変化を取り入れた旧暦は、古代中国で生まれ、東アジアで広く使われてきました。日本では明治の初めまで1200年以上にわたって使用されてきたのですが、いわゆる文明開化と共にグレゴリオ暦と呼ばれる太陽暦(新暦)に取って代わられました。太陽暦は、私達のような農耕民族の生活から割り出されたものではないので、季節感がほぼ一ヶ月以上先行してしまっております。これに対して、旧暦は月の満ち欠けのリズムを基にして、農業や漁業の現場で経験則的に使われてきたもので、それぞれの季節感も十分に取り入れられております。旧暦を生活に取り入れるメリットは沢山あると思います。例えば、栄養があって値段も安い「旬」の時期は旧暦に照らせばまず間違いないでしょう。ハウス物ではない、本当の旬の食材をきちんと選べば、おいしく、安く、しかも健康にもよい一石三鳥の食生活が送れると思います。また、旧暦は季節とともに歩みますから、旧暦で衣替えをし、本当の季節にあった服装でいれば、冷暖房も控えられるので「自然にやさしい生活」が送れるのではないでしょうか。

 自然のサイクルにあった「スローライフ」を送ってみてはいかがでしょうか。そのためにも旧暦はとても役に立つと思いますし、使い方を工夫すれば、きっと暮らしの中に何か新しい発見、感動、そして別の世界が見えてくること間違いなしです。

新年は是非「旧暦ライフ」を楽しんでみて下さい。

2004/1/1(木)

ロシアから反省を込めて

――本橋さん、ロシアに行ってきたんだって?
――行ってきたよ。初日2日目はウラジオストックで、3日目4日目がハバロフスクだったけど、ロシアはとにかく良かったよ~。萩生田部長は行った事ある?今度の自民党青年部の海外研修はロシアにしようよ。

 毎年夏、私達自民党東京都連青年部は海外視察研修を行います。しかし今年の研修はは色々な事情が加わって冬季に延期実施することになりました。実際のところ、この夏には重要な市長選挙が都内にいくつかあったため、選挙活動の最前線に駆り出される私たち青年部員にとってはかえってこの決断は良かったのではないかと思います。そして、青年部長で八王子市選出の萩生田光一都議会議員が、この度の衆議院議員選挙に自民党公認で出馬することになりました。青年部副部長として長年部長を支えてきた私にとっては、海外視察によって忙殺されることなく後援会活動に専念することが出来て良かったなと思っています。

(ちなみに、萩生田光一都議は学生時代に当時の黒須隆一都議の秘書として活躍した後、若干27歳で八王子市議会議員、38歳で都議会議員となり、まさに自民党の若手ホープの中心人物です。思想的にも地域や国の伝統や慣習そして歴史を大切にしつつもこれをしっかりと子孫に伝えていく事が大事であるという立場の政治家です) 

――ロシアの極東を視察してみて何か得ることはあった?
――あったよ。あの時はドキッとしたね。

 今回の視察行程の中で特に楽しみだったのはハバロフスク市の初等学校への訪問でした。ここは日本でいういわゆる『小・中・高一貫教育』をしている公立教育機関であり、世に言う『勉強の出来る、いいところのおぼっちゃま・おじょうちゃま』の通っている学校とのことです。

 ドキッとしたこと。それは確か高校の方の授業風景を見学していた時でしたが、ある教室内で一通り授業の進め方など説明を受けた後、我々に対して何か質問がありますかと担任の先生が生徒達に言ったところ、ある女子生徒がすうっと手を挙げ『日本ではいつの段階から哲学を学びますか?』と聞いてきました。こちらとしてはその質問の趣旨がどういう事であるか痛いほど分りながらも、『大学からが一般ですが、私立高校では選択科目として哲学があります』と応えるのが精一杯だったような気がします。 

 時はいまだに北朝鮮問題が大きく議論されており、日本政府は最近、北が核実験をした場合の対応を発表したところですが、それよりもまして何故日本は主権国家として拉致されてしまった自国民を救出せずに放置したままだったのか。拉致の事実を北が認めたのだから救出しに軍隊を派遣しないのか。軍隊がないのなら、あっても派遣できないなら国家として溶解しているとしか言いようがないのではないか。また、そもそも日本は国家としての哲学があるのですかと。

 他方で時はまさに衆議院議員選挙実施へと確実に向かっておりますが、こと選挙におけます自民党の候補者選びについても考えるべき点があるのではないかなといった感があります。

-----えっ、本橋さん、俺じゃ駄目って事?
------いやいや、萩生田部長はOKだよ。青年部あげて応援するさ。

 つい最近土屋義彦知事の辞職に伴う埼玉県知事選挙が行われ、自民党の候補者は惨敗をしてしまいました。当のご本人は豊島区立時習小学校の卒業生でしたので私も親近感を持って応援した次第であります。ところでこの選挙の候補者の中には、いわゆる『ジェンダー・フリー知事候補者』も存在していたのであり、自民党の一部県議の中にはこの候補者を擁立しようという動きを見せていた事実があります。もっとも、結果的には、この候補者が埼玉県副知事の頃、逮捕された土屋知事の娘の市川桃子と極めて親しい関係があったことが理由となって,この話はつぶれたわけですが、知事選でも閣僚人事でも、スキャンダルの後は女性を起用してダーティ・イメージからの回復を図ると言う手法は如何なものか。今回はたまたまダーティな土屋親娘に近すぎたからこの『ジェンダー・フリー知事候補者』の擁立を自民党は見送りましたが、もし仮にこのような事情がなければ擁立していたと言うことであり、それはつまり選挙に勝てればフェミニスト知事だろうがジェンダー・フリー知事だろうが構ったことではない。勝てば官軍、負ければ賊軍。自民党はかくも哲学のない政党になってしまったのでしょう。大変残念で仕方ありません。

日本政府・自民党に哲学を。
そのために、本橋ひろたかに力を。

2003/9/1(月)

オニギリVSおむすび

(2002年08月 名店街ニュースより)

――作業終了~。休憩!!昼飯!!
――いやぁ、腹減った。さ~て、オニギリ、オニギリ

 この8月の上旬、私は富山県で山林の草刈りボランティアをしてまいりました。大自然の山の中に、碁盤上の交差点のように杉の木の苗木が植えられていて、その成長が下草によって妨げられないようにするための活動です。林業の世界では欠かす事のできない作業です。草刈りはとてもきつい肉体労働であり、また危険で、汚い作業です。

 なぜか私は参加した先の草刈部隊の副隊長に任命されてしまいました。なんでだろ…。

――副隊長、飯食わないの?
――食べるよ、おむすび。

 この草刈ボランティア活動の昼食メニューはいつも『おむすび』、しかも一人2個と決まっておりまして、ただひたすら下草刈り作業をしている我々にとって唯一のお楽しみなのです。当日の食事当番の方はその唯一のお楽しみの『おむすび』を、ごはんの程よい炊き加減・海苔の巻き加減と塩の配分に気を遣いながら、頬張り易い三角形に作っていきます、まさに気持ちを、心を込めて、手に盛ったごはんを両手で結ぶのです。 

――きょうのオニギリは最高!
――うん、このおむすびは美味い!!

 最近の日本語の乱れ方は『大変困った』を通り越して、『一体どうするの』、といった感があります。本屋さんに行くと『声に出して読みたい日本語』『皆さんこれが敬語ですよ』といった書籍が入り口近くのコーナーに今もって平積みされている事からも分かります。

 たしかに言語は時代によって変遷してゆきます。とりわけ最近はグローバル・スタンダードなどどいった横文字を始めとした文化が日本語の領域にまで進出してきています。困った事ではありますが、この言葉でなければ伝えきれないというものならば、横文字でも止むを得ないでしょう。しかし、日本にいて日本語で表現できる事柄ならば是非とも日本語で表現してもらいたいのです。私が主張したいことは、同じ事柄を複数の日本語で表現することができる場合であっても、さらにその中からより日本の伝統や慣習、日本人の魂や心に応えてくれる表現・言葉を採用して欲しいと言うことです。 

――副隊長、オニギリを『おむすび』と言おうが、『オニギリ』と言おうがカマへンヤないですか。同じ事でっしゃろ。
――いやいや、これはやっぱり『おむすび』だよ。
――なんででっかいなー。関東だからでっか。

 『オニギリ』と言う呼び方は、私のような感性の持ち主からするとどうしても納得する事のできないものなのです。ちなみに、適当な辞書で調べてみると、その多くが「握り飯の丁寧語、おむすび」となっていますが、そのなかの小学館・2001年2月20日発行の日本国語大辞典第2版第2巻によれば、「自分の手を握り締める事をいう幼児語」となっており、その後に続けて、藤森秀夫の童謡「手のなるもみぢ、お握り上手」が載っていました。つまりは、『オニギリ』は、赤ちゃん相手の必須用語なのであって、赤ちゃんが自分の手を握り締めることを示しており、お母さんからすれば、『はいはい、オニギリですよー、はい、ニギニギしてごらんなさい』とあやしながら赤ちゃんにプラスチック製の小さなおもちゃを握らせたりするわけです。まさに『オニギリ』は『おしゃぶり』と並んで乳幼児のための大切な小さなおもちゃなのです。

 加えて、「にぎる」は、本来片手を使う「つかむ」に類似の片手の動作を示します。そこから、「にぎりめし」は、ご飯を片手でわしづかみにしてほおばる食べ方と、その食べ物をしめす表現手段として最適と言えます。 他方で、片手ではなく両手を使う動作は「むすぶ」が最適でしょう。 また、食べ物で「にぎり」は、一般には江戸前の「にぎりずし」の「すし」を言いますし、しかも、先ほど申し上げた乳幼児の話もあることから、関東方面では『オニギリ』では変な感じになってしまい、そこから『おむすび』が本流となったと思います。対して関西方面では、「すし」と言えば「押し寿司」の事を一般に指し、「江戸前の握り寿司」がなかったから『オニギリ』が本流となったのではないかなと思われます。

遠足の日や運動会の日など、『おむすび』は母と子・祖母と孫達の心を結び。

お祭りの日にあっては隣近所・地域の人達の心を結ぶ。

又あるときには自然災害の時など、見知らぬ人達同士の心を結ぶ。

それは、米で育ち、米で生きてきた日本人にとってかけがいのない食べ物。

命を支え、活動の力を生み、人と人、心と心を結びつける食べ物。

作る人と食べる人との心を結ぶ最高・最良の食べ物。だから私は『おむすび』なのです。

――副隊長、もう分りました。これからは『おむすび』でいきましょ。私のほうから隊のみんなにいっときましょ。
――分ってくれたか。よし、休憩止め―――。作業開始―――。

2003/8/14(木)

夫婦別姓の罠

――去年だったかなあ。法務省が自民党に出してきた『夫婦別姓・選択制案』、あれはどうなったの?
――平たく言えば、ポシャリました。
――なんで?

 この案について説明しましょう。

 夫婦は自由意志で同姓・別姓を選択でき、どちらを選択しても対等の扱いが保障される。そして

子供の姓は第一子の出生時に決め、兄弟姉妹の姓は同じにする
②一度届け出た後は、別姓――同姓、同姓――別姓への変更は認めない
③既婚者でも制度導入後2年以内に届け出れば別姓夫婦になれる

というものです。

 確かに、自民党内でも、夫婦による選択制である点を高く評価し、一人っ子の家庭が増える中で結婚促進策になるという意見もありました。しかし、その時点では、そもそも基本の選択制を真っ向から否定する意見が強かったため、案は結局了承されませんでした。

――それじゃあ、現時点ではどういう政治状況になってるの?
――今は、今年の4月に法務省から自民党に出された『例外的夫婦別姓制(案)』を検討している、といったところです。

 この案は、夫婦の自由意志で同姓か別姓かを決める、という基本を堅持しながらも、まず同姓が原則で、別姓は例外とする。そして、上述②の『姓の変更』のうち、別姓から同姓への変更だけを認める、というものです。

 最も今のところ、この法務省案をこのまま了承するような雰囲気ではありません。この法案に対して好意的な立場の人達も、さらに手直しをして、

  (明・砲浪板躡枷十蠅竜・弔・・廚任△・
 ◆‐綵勠・痢崙麈・崗鮃燹廚郎鐔盛ぁヲ 

という案を提示しています。他方で、この法案に対して反対の立場に立っている人達の意見は、そもそも夫婦別姓を認めないというものから、別姓それ自体は認めるものの、それは民法の改正ではなくして『旧姓の通称使用を認める戸籍法の改正』でいくのがよいのではないかというものまで、いろいろあります。

――いろいろな意見が出てくるけど、キチンと結論付けはしないとね。これまでのような『問題先送り政治』はもう流行らないでしょ。
――そうだよね…

 この問題は、結婚によって主として姓の変わる女性の不便や不利益を救済するものとして提議されてきたものです。しかしより根底には、家族をめぐる価値観の問題が横たわっていると思います。そして私が何よりも残念でならないことは、今の夫婦別姓論には『家庭の中における子どもの教育の問題』について触れられていない、その意味では、夫婦別姓論は大人中心の議論のように思えてならない、ということです。今日の子どもの教育・家庭教育の重要性を踏まえたうえで、夫婦同姓か別姓かの議論を是非とも展開してもらいのです。

 そこで、『子ども』に目を向けてみましょう。家庭の中における子供の教育の要諦はどこにあるのかと言えば、家庭教育というものが、家族が一緒になって実生活をする事によって行われるものである以上、『生活が教育する』というところにそれはあると思われます。しかも、家族が一緒に生活するという『一緒に』が家庭教育にとってきわめて重要だと思います。ちなみに、ここで言う『一緒に』という事の意味は、例えば、親が子供と一緒に食事をして、一緒にお風呂に入り、一緒に会話を楽しみ、一緒に就寝する、という事です。

 この「一緒に」の生活があることは、単に物理的に一緒にいることを超えて、精神的な『一緒に』を形作り、やがては『絆』へと発展していくでしょう。その最たるものが『愛』という事になるのではないでしょうか。この『愛』こそが教育の基本だと私は思います。皇室にあっては、『愛子』様と言う命名の持つメッセージ、プロ野球にあっては、『ジャイアンツ愛』をスローガンに掲げた原辰徳巨人軍監督のセ・リーグ優勝という事実、何か時代の声として受け止めてしまうのは大袈裟でしょうか。

 さて、夫婦別姓になってしまうと、親と姓が『一緒』でないという違和感を幼い子が抱くのが自然であり、これはそもそも理屈ではないでしょう。また、どうしてお父さん(お母さん)と姓が違うのだろうと疑問を抱かない方がむしろおかしいでしょう。こうした違和感・疑問が家族の一体感、『一緒に』の精神、ひいては『愛』にヒビ割れを生じさせる事になってしまうと思います。姓は別でも心は一緒と反論されそうですが、物心ついたばかりの子供にそれが通じるはずはないと思います。また、そのことを子供に納得させること自体、寂しいものを感じてしまうのは私だけでしょうか…。

2002/10/1(火)

日本海VS東海

 (名店街ニュース 2002年9月より)

――♪♪夢にー、敗れぇー、恋にもー敗れぇー、傷つきぃーながらぁー、一人ぃーしょんぼりぃー、夜汽車に乗ったー♪♪♪
――何の歌、それ?
――北島三郎の『日本海』だよ。
――へぇ、久しぶりだね。本橋の演歌。

 最近カラオケボックスに行くと、私はよく北島三郎の『日本海』という演歌を歌います。結婚するまでの十八番は新沼謙二の『嫁に来ないか』だったのですが、実際に嫁さんが来てくれてからはラルクアンシエル、T―ボラン、グレイ等々の中で気に入ったものを適当に歌っているといった感じです。しかし、韓国との間でおきている『日本海』の名称問題が最近クローズアップされるようになってからは、もっぱら昔のど演歌時代に戻り、サブちゃんのこの歌を気に入って歌っているフリをしながら、仲間たちに対してさりげなく日本の国家主権意識を今まで以上に持ち合わせてもらおうと画策しているのです。

 海の名称については世界中でさまざまな論争が巻き起こっています。例えば、イギリスが『ドーバー海峡』と呼ぶ海峡を、フランスでは『カレー海峡』と主張しています。中東の『ペルシャ湾』については、イランの対岸のアラブ諸国は『アラビア湾』と呼んでおり、地図などに名称の併記を要求しています。

 このような動きを見れば、日本も韓国側の要求を受け入れて、『東海』とするか、または譲歩案として『日本海・東海』の併記とするかといった提案が、一見もっともらしく出てきそうではあります。しかしこのような結論は断じてあってはなりません。

――おいおい、俺たちカラオケしに来てるのに。
――なんか、演説会っぽくなっちゃたな。

 そもそも『日本海』の名称問題が表面化したきっかけは何でしょうか。それは、国際水路機関(IHO)が、来年改訂予定の海図『大洋と海の境界』の最終稿から『日本海』を載せたページを削除し、8月10日頃にIHO加盟72カ国に対してその内容の是非を問う書簡を配布した事に始まります。もちろん、その背後にあるのは韓国政府の働きかけです。彼らの主張は『日本海という呼称が正式登録された1929年のIHO会合当時、朝鮮半島は日本の植民地支配下にあり、独立国としてそもそも異議を唱える事が出来ず、そのまま日本海という名称が一般化してしまった。歴史的には、日本海より、東海・東洋海・朝鮮海の呼称が古くから使われていた。』というものです。

 これに対して、日本政府の主張は『日本海は17世紀初頭、イタリア人宣教師の手による世界地図に登場し、その後、18世紀までは中国海・東洋海・朝鮮海などの表記もあったものの18世紀末以降は日本海が定着しているといった歴史がある』というものですが、果たして説得力があるでしょうか。ましてやこの問題を扱うのはどこかと言えば、外務省です。外務省はかつて、国際的認知のある『東シナ海』を、中国側が自国の視点からのみ名付けた名称である『東海』と呼んでいるからといってあっさりとそれに従い『東シナ海』を『東海』としてしまったと言う前科があるのです。韓国政府はこの事実をしっかりと見抜いた上で日本にプレッシャーをかけ続けることでしょう。

――それじゃぁ、『東シナ海』が中国の『東海』となってるとすると…
――まいったな、『日本海』は韓国の『東海』になっちゃうんだ。

 そこで諦める事はありません。やれ何世紀までは何と呼ばれていたとか、何世紀からはどこと併記されていたかとか、細かく歴史書を調べ上げてまで研究し、理論武装しなければならないと言う問題ではないと私は考えます。

 地球上のいわゆる5大陸が出現し完成するまでの地殻変動を想像してください。大昔、日本はユーラシア大陸とくっついたままでした。その時存在したのは『太平洋』だけです。やがて地殻変動が続き、ユーラシア大陸から日本が離れてゆき、同時に徐々にユーラシア大陸と日本との間に一定の面積をもった『海域』が出来てきます。それが今の『日本海』です。すなわち、日本が出来なければそこに在るのはただの『太平洋』であり、日本が出来たがゆえにある海域が生じたわけなのです。従って、日本が出来た事が原因で発生した海域という意味で『日本海』と命名されるのは当たり前だと私は考えるのです。

 外務省が是非ともこの当然の事実を韓国政府に対して主張する事を私は願ってやまないのですが、果たしてどうなる事やら…

2002/9/1(日)

紙幣肖像考

(2002年8月 名店街ニュースより)

――ねえねえ、今度お札が新しくなるんだって?
――そうだよ、千円・五千円・一万円札が新しく生まれ変わるらしいよ。
――へえ、楽しみだね。

 最近政府は二千円札を除く、千円札・五千円札・一万円札を二十年ぶりに一新することを決定しました。この時期の『紙幣一新』はとても重要なことだと思いますし、基本的には賛成です。というのも、ヨーロッパに目を向けてみれば、ユーロ紙幣は2002年1月の使用開始前から偽造対策を万全にとっているし、アメリカでもドル紙幣について(数年前に起きたよど号ハイジャック事件の田中義三被告達による偽米ドル事件などを契機に)対策を強化しております。このように欧米諸国が軒並み高度な偽造防止対策をして自国の通貨高権を保護する中にあって、日本はやや隙を見せており、次に本格的に狙われるのは日本だと言われているからです。その意味で、新札がどれほどの威力を発揮するかとても楽しみです。

 偽造防止・経済の活性化という新札発行の目的はきわめて重要です。しかし私が言いたいのは、果たして『肖像』まで変える必要があったのか、ということです。紙幣における『肖像』とはそもそも何か、その意義と機能は何か、紙幣が持っているメッセージを国民に伝え切ったという確信があった上での『肖像交代』なのか、ということなのです。

――なんでも一万円札の福沢諭吉は続投だってね。
――その理由がよく分らないよなー。もしかして小泉さんが同じ慶応義塾だから? ――そんなんじゃないでしょう。

 今回続投となったのは(二千円札の沖縄守礼門を除いて)一万円札の福沢諭吉だけです。この判断は妥当であり賢明なものだと考えます。  福沢諭吉は日本における最初の自由・独立な知識人であったと言えます。というのも、彼は自分がしたためた書物や新聞・雑誌などの販売代金でもって生計を立てており、誰からも資金援助を受けることなく、自由な立場で『もの申す人』であったからです。もちろん、こうした自由なる知識人は、西欧にもいたわけですが、それでもマキャベリ・ホッブス・ロックそしてルソーなどには、メディチ家や開明貴族のような何らかの後援者がいました。 やはり人間何かしらの支援を受けていればそちらよりの言動をとってしまうことが多くなるものです。それは昨今の『小泉構造改革路線』の目玉である『道路公団』の問題についての各界各層の人々の発言ひとつをとってみても明らかであり、そのせいか改革のスピードが鈍っております。しかし理想の国家像を抱きつつ必要な改革を断行するために必要な人物は、自由で独特なスタイルで資本主義・自由主義そして民主主義の原理や思想を啓蒙できるような、つまり福沢諭吉のような、思想家、ジャーナリスト、そして政治家であると思います。このような人が引き続いて出てきてほしいとの願いが『福沢諭吉』に込められているのではないでしょうか。

――あと、千円札は夏目漱石から野口英世でしょ。それから、五千円札は…えーと、あれっ、誰から樋口一葉に変わるんだっけ。
――新渡戸稲造だよっ、そんなことも知らないのー。

 今回五千円札の肖像は新渡戸稲造から樋口一葉に交代します。彼女が紙幣の肖像画に採用されるほどの文学者であることは確かであり、私も異論はありません。しかしここで私が言いたいのは、今この時点で新渡戸稲造を降板させてしまってよいのかということです。

 新渡戸と言えば彼の著書『武士道』を誰しも連想するでしょう。多くの人々がこの書物を読み影響を受けたと思われますが、意外と多くの方が誤解されている点があります。武士道というのは、『単に家臣たるもの主君に対して絶対的に服従し、昼夜を問わず滅私奉公にはげむべし』といった類のものでは決してありません。基本はあくまで武士の個人としての完成を目指すものです。具体的に言えば、主体性と見識を持った自立的な武士として、どうしても主君の命令が納得の行かない場合は、自己の意見を申し立てたりするし、主君を諫めて悪しき命令を改善する方向に持っていく努力もするものであるということです。

 今、個人の自立とか、自己責任ということがやたら強調されていますが、外務省の不祥事・企業の乱脈経営・銀行の不正融資そして国産牛肉の偽装といった事件に接するたびごとに、どうして個々の人々はそれが不正であり違法行為であるということを感じながらも、上部からの命令だからと言うことで、あるいは周りの人がみんなそれに同調しているからといって多数派の意見に流されてしまうのでしょうか。このような時代状況だからこそ、武士道における『個』の自立の問題を取り上げ、日本中で議論し、日本人と日本に即した個人のあり方を示すべきです。『新渡戸稲造』はまだまだ必要であると私は思います。

2002/8/1(木)

はじめに

このたび、日々の物事に対する雑感や私の哲学などをより深く皆様に伝えていくために、blogを立ち上げることに致しました。

今後、興味を持ったこと、名店街ニュースに書いている事などをこのブログに書いていきたいと思います。このブログを通して、より多くの方々と繋がるきっかけになればと思っております。

2002/7/1(月)