2007年10月16日火曜日

夫婦別姓の罠

――去年だったかなあ。法務省が自民党に出してきた『夫婦別姓・選択制案』、あれはどうなったの?
――平たく言えば、ポシャリました。
――なんで?

 この案について説明しましょう。

 夫婦は自由意志で同姓・別姓を選択でき、どちらを選択しても対等の扱いが保障される。そして

子供の姓は第一子の出生時に決め、兄弟姉妹の姓は同じにする
②一度届け出た後は、別姓――同姓、同姓――別姓への変更は認めない
③既婚者でも制度導入後2年以内に届け出れば別姓夫婦になれる

というものです。

 確かに、自民党内でも、夫婦による選択制である点を高く評価し、一人っ子の家庭が増える中で結婚促進策になるという意見もありました。しかし、その時点では、そもそも基本の選択制を真っ向から否定する意見が強かったため、案は結局了承されませんでした。

――それじゃあ、現時点ではどういう政治状況になってるの?
――今は、今年の4月に法務省から自民党に出された『例外的夫婦別姓制(案)』を検討している、といったところです。

 この案は、夫婦の自由意志で同姓か別姓かを決める、という基本を堅持しながらも、まず同姓が原則で、別姓は例外とする。そして、上述②の『姓の変更』のうち、別姓から同姓への変更だけを認める、というものです。

 最も今のところ、この法務省案をこのまま了承するような雰囲気ではありません。この法案に対して好意的な立場の人達も、さらに手直しをして、

  (明・砲浪板躡枷十蠅竜・弔・・廚任△・
 ◆‐綵勠・痢崙麈・崗鮃燹廚郎鐔盛ぁヲ 

という案を提示しています。他方で、この法案に対して反対の立場に立っている人達の意見は、そもそも夫婦別姓を認めないというものから、別姓それ自体は認めるものの、それは民法の改正ではなくして『旧姓の通称使用を認める戸籍法の改正』でいくのがよいのではないかというものまで、いろいろあります。

――いろいろな意見が出てくるけど、キチンと結論付けはしないとね。これまでのような『問題先送り政治』はもう流行らないでしょ。
――そうだよね…

 この問題は、結婚によって主として姓の変わる女性の不便や不利益を救済するものとして提議されてきたものです。しかしより根底には、家族をめぐる価値観の問題が横たわっていると思います。そして私が何よりも残念でならないことは、今の夫婦別姓論には『家庭の中における子どもの教育の問題』について触れられていない、その意味では、夫婦別姓論は大人中心の議論のように思えてならない、ということです。今日の子どもの教育・家庭教育の重要性を踏まえたうえで、夫婦同姓か別姓かの議論を是非とも展開してもらいのです。

 そこで、『子ども』に目を向けてみましょう。家庭の中における子供の教育の要諦はどこにあるのかと言えば、家庭教育というものが、家族が一緒になって実生活をする事によって行われるものである以上、『生活が教育する』というところにそれはあると思われます。しかも、家族が一緒に生活するという『一緒に』が家庭教育にとってきわめて重要だと思います。ちなみに、ここで言う『一緒に』という事の意味は、例えば、親が子供と一緒に食事をして、一緒にお風呂に入り、一緒に会話を楽しみ、一緒に就寝する、という事です。

 この「一緒に」の生活があることは、単に物理的に一緒にいることを超えて、精神的な『一緒に』を形作り、やがては『絆』へと発展していくでしょう。その最たるものが『愛』という事になるのではないでしょうか。この『愛』こそが教育の基本だと私は思います。皇室にあっては、『愛子』様と言う命名の持つメッセージ、プロ野球にあっては、『ジャイアンツ愛』をスローガンに掲げた原辰徳巨人軍監督のセ・リーグ優勝という事実、何か時代の声として受け止めてしまうのは大袈裟でしょうか。

 さて、夫婦別姓になってしまうと、親と姓が『一緒』でないという違和感を幼い子が抱くのが自然であり、これはそもそも理屈ではないでしょう。また、どうしてお父さん(お母さん)と姓が違うのだろうと疑問を抱かない方がむしろおかしいでしょう。こうした違和感・疑問が家族の一体感、『一緒に』の精神、ひいては『愛』にヒビ割れを生じさせる事になってしまうと思います。姓は別でも心は一緒と反論されそうですが、物心ついたばかりの子供にそれが通じるはずはないと思います。また、そのことを子供に納得させること自体、寂しいものを感じてしまうのは私だけでしょうか…。

2002/10/1(火)