2007年10月16日火曜日

ベトナム研修を終えて

「7月の半ば頃、ぜんぜん連絡がつきませんでしたけど・・・」
「うん。ちょっとベトナムに研修しに行ってたのさ」

 今年は日露戦争で日本がロシアに勝利してから100年になることは申し上げましたが、ベトナムにおきまして、やはりちょうど100年前に、「東遊運動」(ドンズー運動)といわれる、いわば「日本に学べ運動」が沸き起こりました。それはマハティールの「ルック・イースト政策」より前の事です。

 フランスは、1800年代からベトナムへの侵略を開始し、1833年フエ条約により保護国とすることによって完全な植民地としました。1904年、極東の小国、しかも長い鎖国から開国して間もない日本が、大国ロシアを打ち破ったことに感激したアジアの諸国民は少なくありませんでしたが、ベトナムでは、「ファン・ボイ・チャウ」という青年が立ち上がりました。

「誰ですか、その方。初めて聞く名前ですけど」
「まあ、聞きなさいって」

 1904年、彼は、抗仏運動のための「維新会」を結成し、翌1905年、日本の援助を求めるために日本に渡り、そこで中国の亡命革命家「梁啓超」の紹介で、「大隈重信」「犬養毅」「福島安正」「根津一」といった人物と知り合うとともに、ベトナムから日本へ留学生を送り込み、これらの留学生と語らって、「ドンズー運動」を展開しました。留学生の数は、1905年にはたった3名でしたが、1908年には200名を超え、これらの留学生は、振武学校、東京同文書院、成城学校などで研鑽をつみました。ファン・ボイ・チャウは、当初、日本からの軍事援助を目的としていましたが、自らの目で日本の現状を見るうち、人材育成の重要性に気づいたからです。

 こうして日本で火の手の上がった抗仏運動に危機感を抱いたフランス政府は、ベトナムにおいて日本に留学をさせている家族に対して弾圧を加える一方、日本政府に対して、日本で維新会のメンバーとしてドンズー運動に加わっているベトナム人の逮捕・引渡しを要求しました。日本政府は当時日本に滞在していた、維新会の盟主に祭り上げられていた、ベトナム・グエン王朝のクオンデー候の引渡しは拒否したものの、1909年、多くのベトナム人留学生の国外退去処分を実行しました。ファン・ボイ・チャウも、日本に大きな失望と幻滅を感じたまま、国外に退去せざるを得なくなりました。 
 
 ファン・ボイ・チャウは、その後、中国の広東において、中国の革命勢力とも協力しながら抗仏運動を続け、1917年、再び訪日しましたが、日本が欧米列強と同様に植民地帝国主義になりつつある現実を目の当たりにして、大きく失望し、滞在日数わずか二ヶ月あまりで日本を離れてしまいました。彼は、その後1925年、上海でフランス当局に逮捕され、ベトナムに連行された上で終身刑の宣告を受けましたが、ベトナム民衆の全国規模の助命嘆願運動の結果釈放され、1940年に亡くなるまでの間、フエで軟禁生活を余儀なくされました。

「どこの国でも『国造り』って大変ですね」
「でも、これって『男子の本懐』だよね」

 1900年代初頭、欧米列強に追いつかなければ自分たちが植民地にされてしまうという危機感があった日本にとって、近隣アジア諸国の独立を願う声に耳を傾ける余裕などなかったかもしれません。ただ、当時の日本の国家目標から判断して、結果的にはやむをえないプロセスをたどったとはいえ、もう少しうまい方法で支援することができたのではないでしょうか。

 さて、それから100年、長い抑圧と戦争を乗り越えたベトナムは、現在、懸命に国家造りに励んでおります。この間に登場したのが、現代ベトナムの国父とも言える故ホーチミン主席ですが、実を言いますと、故ホーチミン主席とファン・ボイ・チャウには接点があります。ファン・ボイ・チャウも故ホーチミン主席も、ベトナム、ゲアン省生まれで、故ホーチミン主席の父親とファン・ボイ・チャウとは交流があったとの事、いわばファン・ボイ・チャウの遺志が故ホーチミン主席に引き継がれたともいえるでしょう。

 ベトナムは、現在、日本を最大のパートナーとして位置づけ、われわれ日本も多額のODAをはじめ、民間の投資、技術移転などにより、力強くベトナムの経済発展に貢献しております。そして、ベトナムからの日本への留学生も最近急激に増えており、現在1300名にも達しています。

 100年前、われわれ日本人は、ベトナムの民衆の声に耳を傾けることをしませんでしたが、もう同じ誤りを繰り返してはいけないと思います。歴史のめぐり合わせといいますか、ベトナム人が今そのように語っているわけではありませんが、私には100年を経た現在がベトナムの「第二のドンズー運動」に思えて仕方ありません。私たち日本人は、100年越しのベトナム人に対する借りを返す絶好の機会と考えます。

「いやー、もうバリバリの親越家ですねー」
「そう、日本のОDAもやっぱり『親日国家』をメインにしないとね」

2004/8/1(日)