2014年5月17日土曜日

世越(セウォル)号ハ沈マズ≪平成26年5月≫


 韓国の社会全体を疲弊させた感の強いセウォル号海難事故から間もなく1カ月が経とうとしています。現在、韓国では事故を国家の危機と捉え、海難事故防止だけに止まらず、職業倫理や教育問題、更には社会の規律までをも見直そうと呼びかける、国家改造論議なるものが始まっているとのことです。加えて、朴政権としては国家安全マスタープラン(?)と国家安全処(?)の新設計画を策定し、安全について予算を優先的に配分すると共に、国家安全処を最高の専門家で構成するとしています。そして、これらの計画発表の席で、朴大統領は国家改造の決意を述べて、改めて国民に謝罪する予定と言われています(ここ最近は、当のご本人の謝罪が多いですね……)
 しかし、今回のセウォル号沈没事故(事件?)を踏まえた上で、韓国国民の多くが抱いている不安感を払拭するのは、決して新組織の構築でもなければ、人事の刷新でもないのではないでしょうか。
 セウォル号沈没事故合同捜査本部の分析によると、海洋警察の警備艇やヘリが現場に到着した416日午前9時半ごろ、船はまだ45度しか傾いておらず、この時点で船内に入り脱出を指示したり救出に当たったりしていれば、多くの乗客を助けることが出来た。また同45分には62度まで傾いたが、同時刻に操舵室にいた船長ら乗組員が甲板から救助船に乗り移っており、この時点でもまだ船内に進入できた可能性が高いとしています。こうした職業への誇りや意識を欠いた醜悪な行いを見るにつけ、どの国にも、いつの世にも、自己犠牲を厭わぬ英雄がいることに気づかされます。その多くは歴史を素通りしただけの、名もなき人々ですが、このような機会をみては思い出し、語り継ぐことで醜悪な行いに歯止めをかけたいものです。
 

 例えば、今年は、あの列強の脅威に立ち向かった意義を持つ日清戦争から120年となりますが、120年前の明治27(1894)917日の黄海海戦時に、大日本帝国海軍連合艦隊旗艦の防護巡洋艦の松島に乗り組み、敵艦の巨砲弾を受け瀕死の重傷を負った三等水兵の三浦虎次郎の話です。三浦は今際の際、通り掛かった旗艦松島の副長の向山慎吉少佐に、北洋艦隊旗艦の定遠が沈んだかを声を絞って尋ねます。そして敵艦隊が戦闘不能に陥った旨の返答を聞き、微笑を漏らしつつ息絶えたと言われています。この18歳の一水兵が示した愛国心と責任感には只頭が下がりますし、心打たれ泣けてもきます。120年前の国家存亡の分かれ目は、名もなき戦士による自己犠牲の数であったと言って良いでしょう。
 ちなみにキリスト教信仰者であった内村鑑三によれば、こうした自己犠牲の淵源は、日本における唯一の道徳・倫理であり、世界最高の人の道と激賞されるべき「武士道」にあるとの事です。内村鑑三曰く、「日本武士はその正義と真理のため生命を惜しまざる犠牲の精神に共鳴して神の道に従った。武士道がある限り日本は栄え、武士道がなくなるとき日本は滅びる」と。
 また、古くから中国に中華思想を植え付けられ、擬似中国=小中華に堕ちた韓国は今も昔も武士道の価値が理解できないといった点を端的述べているのが、拓殖大学の呉善花教授です。平成26421日に行われた九州正論懇話会での講演で、韓国の反日感情の背景に潜む文化・歴史に触れ、「文治主義の韓国は武士道の国・日本を野蛮な国と蔑視し『われわれが正さなければ軍国主義が復活する』と思っている」と語り、また、沈没事故で船長や主だった乗組員が真っ先に逃げ出した事実を指摘し、「極限状態でこそ社会の在り方が見える。韓国人は反日の時は団結するが、愛国心はなく、徹底的な利己主義だ」と言い切っています。なんだか韓国海洋警察に聞かせたい話ではないでしょうか。

もっとも、最後まで乗客の避難を助けて命を失った乗組員や高校教師の、悲しい最期があったことは忘れてはならないでしょうし、彼ら彼女らの冥福を心からお祈り申し上げますと共に、その職業意識と人としての在り様には、素直に頭を垂れたいと思います。
しかし、修学旅行の高校生らの多くを船中に残したまま真っ先に逃げた船長や主だった乗組員は、海の男である船乗りという職責には、乗客の命を最優先にして船と運命を共にする存在としての期待や幻想が脈々と生きている点を看過していると言うことが出来ます。
例えば、今年は、ロシアの脅威に立ち向かった意義を持つ日露戦争から110年となりますが、今から110年前の明治37(1904)28日、日本海軍は旅順港外のロシア艦隊に夜襲をかけ、日露戦争の火蓋が切って落とされました。この旅順港攻撃によってロシア艦隊は機雷を施設して旅順港に篭ってしまうわけですが、大日本帝国海軍は、ロシア艦隊が旅順港に籠もるのならば、狭い水路に船を沈めてロシア艦隊を湾内に押し込めるべく、旅順港閉塞作戦を展開します。しかし、警戒厳重な旅順の要塞砲の目を掠めて、船を沈めボートで脱出するのは至難の業で、生きて帰ってくること自体困難な作戦でした。それでもこの決死行に2000名が志願します。第1回目の閉塞作戦はロシア軍の砲撃にさらされ閉塞船が目標に到達できずに失敗。第2回目も名将マカロフがロシア太平洋艦隊司令官に着任し、士気あがるロシア軍の前に再び失敗に終わってしまいます。その第2回目の閉塞作戦で、広瀬武夫少佐が率いる福井丸が旅順口に到達しましたものの、魚雷攻撃を受けてしまい自沈に至りました。乗組員は脱出しようとしましたが、広瀬少佐は部下の杉野一等兵曹がいないことに気づきます。広瀬少佐は沈み行く福井丸に当然の如く舞い戻って、部下の杉野を探し回りました。結局杉野を発見できず、断腸の思いで脱出用のボートに戻ったところへロシア軍の砲弾が飛来。広瀬少佐は肉片を残して海に消えるという壮絶な最期を遂げました。広瀬少佐のこの行動は広く宣伝され、軍神第一号として祀られています。なんだかセウォル号の船長に聞かせたい話ではないでしょうか。
 都合良く歴史を捏造・粉飾し、恥と思わぬ韓国に、真の武士道とは何かを説く虚しさも、深く感じるところではあります。それでも、武士道がなくなるときは、日本の滅びるときであると予見した内村鑑三の警鐘を真正面に受け止め、日本人自身が武士道を、近隣諸国に対して、ひいては国際社会で体現しなければ、韓国の醜悪な行いをあぶり出せないと言うことが出来るでしょう。朝鮮半島は、ポーランドやクルドなどと同様、複数の列強に挟まれた地政学的に世界で最も不幸な地域の一つです。日本はこの半島の人々と今後とも付き合っていかなければなりません。韓国国民性の成熟を望んでいるのは韓国人だけではないのですし、その成熟が達成された時、セウォル号は人々の心の中で、未だに航海を続けているということが出来ると思います。

2014年4月14日月曜日

集団的自衛権≪平成26年4月≫


日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している中で、安倍晋三政権は集団的自衛権の行使容認に取り組んでいます。しかし、野党だけでなく、与党の一部にも戦争する国になると反発したり、メディアの中にも軍国主義、右傾化などの言葉を使って、この取り組みを封じ込めようとする動きがみられます。国会では今、集団的自衛権行使容認が最大の焦点となっており、議論がヒートアップしているところから、国民の皆さんが、本当の国益は何かを冷静に判断できることが大事になってきていると思います。

さて、その集団的自衛権なるものですが、既にご案内のように、これは他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利をいいます。日本の場合ですと、同盟国であるアメリカが攻撃を受けた場合に、日本がこの権利を行使できるか否かが、主に争点となってきます。

この集団的自衛権については、憲法9条がハードルになり行使することができないとされていますが、これを容認するよう憲法解釈を見直そうとする議論がまさに沸き起こっています。その一つの政府の有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」が近くまとめる報告書では、昭和34年の「砂川事件」の最高裁判決文を引用することで行使容認の調整をしていると言われています。安保法制懇は、違憲立法審査権の最終権限を有する最高裁が自衛権に触れた唯一の判決であることから、集団的自衛権の行使を否定していない判決を引用して、集団的自衛権は憲法が認める必要最小限度の自衛権に含まれると結論付けると言われています。

安倍晋三首相も、某テレビ番組で、自国の存立のために必要な自衛措置は認められるとした砂川判決に触れて、集団的自衛権を否定していないことははっきりしている、と主張し、判決は個別的自衛権と集団的自衛権を区別していないものの、個別も集団も入っている、むしろ両方にかかっていると考えるのが当然だ、とも指摘しています。また、安倍首相は、近傍で起こったら助けられるけれども、遠くだったら助けられないという議論は誰もしないし、常識的な議論をすべきだと語り、集団的自衛権行使に地理的制約を加えるべきではないとの認識まで示しています

 もっとも政府・自民党では、集団的自衛権の行使について条件を付けて限定的に容認する、限定容認論が焦点となっています。この限定容認論は、行使は日本の安全保障に直接関係ある場合に限り、他国の領土・領海・領空での行使は原則として認めず、自衛隊の行動は日本の領域や公海に限るとの方向性を示したものですが、日本の平和と安全を確かなものとするには本来、包括的に行使を認め、政府に判断の余地を与えておくのが望ましいのではないでしょうか。

石破茂幹事長も、某テレビ番組で、集団的自衛権行使を容認した際の自衛隊の活動範囲について、限定すべきではないとの考えを示し、「地球の裏まで行くことは普通考えられないが、日本に対して非常に重大な影響を与える事態であれば、行くことを完全に排除はしない」と述べています。また、高市早苗政調会長は記者会見で、集団的自衛権の行使を容認した場合の自衛隊の活動範囲について「例えば日本海だけというような地理的な縛り方は非常に難しい」と述べています。

ところが、菅義偉官房長官は、某テレビ番組で、自衛隊の活動範囲が地球の裏側にまで及ぶかどうかに関し、「あり得ないとはっきり言い切れる」と明言しちゃっていますし、岩屋毅安全保障調査会長も、某テレビ番組で、「他国の領土、領海、領空に立ち入らないと決めるのも一つの考え方だ」と述べています。

こうして自民党内でも様々な意見が噴出しているわけですが、議論を落ち着かせるためには、この権利の性格と国益を見据えた省察が必要かと思います。そもそも集団的自衛権は、あくまでも日本が持つ権利であって、日本が他国の戦争に参加しなければならない義務とは異なります。行使するとしても、ここには日本の国益にかなうかという政策的判断が強く働きます。その判断が明らかに誤っていれば、世論の理解は得られるはずもなく、その判断を下した時の政権は間違いなく交代させられます。そうである以上は、時の政府の判断はかなり謙抑的かつ慎重にならざるを得ないでしょう。あらかじめ具体的な状況が分からないのにもかかわらず、自衛隊が地球の裏側に行けないという性格のものではありません。 地理的な概念に縛られず、放置すれば日本の国益を侵害しかねない事態には、集団的自衛権を行使すべきだと率直に言い表してどこがいけないのでしょうか。むしろ、地理的な概念にとらわれる方がかえって危険だということができるでしょう。放置すれば日本の国益にかかわるか否か、といった観点からこの問題は議論すべきなのではないでしょか。確かに、地球の裏側まで自衛隊が行かなければならない事態は現時点では想定しづらいでしょう。しかし、あらかじめ地球の裏側まで行かないと宣言する必要はあるのでしょうか。ここまで来たら相手は来ないとの情報をさらしてよいのでしょうか。

なぜ、憲法解釈を見直してまで集団的自衛権の行使を可能にすべきなのかと言えば、これまでは想定し得なかった速度で、我が国を取り巻く安全保障環境が激変しているからです。中国は急速な軍拡と海洋進出を強めており、北朝鮮は着々と核・ミサイル開発を進めています。サイバー攻撃は陸海空・宇宙に次ぐ第5の戦闘領域と位置付けられています。そして自他共に世界の警察官と認めてきた米国は、その役割を終えようとしています(失礼)。日米両政府が、自衛隊と米軍の役割を定める日米防衛協力のための指針(ガイドライン)を再改定するのは、中国による高圧的な海洋進出に対処するためです。平成9年の前回改定は朝鮮半島有事を念頭にしたものであり、日本の役割はあくまでも後方支援にすぎず、そこには中国と対峙する意識はほとんどありませんでした。それが今、日本は中国や北朝鮮の軍事的脅威にさらされ、その最前線に立たなければならなくなっており、日本はその後の17年間で想定し得なかった周辺事態に直面しているのです。そこから、地球の裏側で日本の国益に重大な影響を及ぼす事態は絶対にないと断言できるものではありません。地球の裏側論は、あくまでも行使容認を日本の自衛に関わる事態に限定し、米軍の軍事行動に無制限で追従しないという空気を、分かりやすく伝えるところに使命があり、地球の裏側に行ける・行けないと論争を続けることは、日本の国益を守るという観点からすれば、不毛な議論でしかない……、と思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。

2014年4月2日水曜日

「竹林はるか遠く」は大丈夫?≪平成26年3月≫

 ここ最近、ソチ・オリンピック・パラリンピックでの日本選手の活躍を通して、多くの感動を頂戴して幸せ気分に浸れたのもつかの間……。千葉県柏市での通り魔事件の発生など、今一つ気分がすぐれなくなってきた中で、とうとう恥ずかしい事件が起きてしまいました。それは東京の図書館で「アンネの日記」やその関連図書が破損された、「アンネの日記破損事件」のことです。
 これまでに被害が確認されたものとしては、「アンネの日記」「アンネ・フランクの生涯」「少女アンネ その足跡」などアンネ・フランクにまつわるものが目立っていますが、中には「私はホロコーストを見た」とか「アウシュヴィッツの手紙」など一般的なユダヤ人迫害に関する書籍もあったとのことです。
 

 既にご案内の通り、「アンネの日記」は、大勢の人々に愛されている作品であり、ここ50年間で全世界で良く読まれた書籍ランキングの第10位です(ちなみに第1位が『聖書』、第2位が『毛沢東語録』です)
 遥か昔、私もこの書籍に親しんだ記憶があります。
 第二次世界大戦があった約70年前、ドイツの政党「ナチス」の差別から逃げるため、家族と一緒にオランダのアムステルダムに移り住んだ13歳のアンネ・フランク(ユダヤ人の女の子)。この子が隠れ家で暮らした2年間の生活を書いた日記です。
 当時のドイツはオランダを支配して、ユダヤ人への差別を続けた為、表立った日常活動は著しく制約され、その多くは隠れ家生活となってしまいます。そこで感じた怖さや希望、家族への熱い思いが、少女目線で描かれています。アンネはその後、捕まり、15歳で亡くなってしまいます。この日記は、戦争終結後、生き延びたアンネの父親が本にしたものです。
 

 豊島区内でも発生しているこの事件。
 その報道機関の報道ぶりを振り返ってみますと……。
 220日東京都内の複数の図書館で「アンネの日記」や関連書籍のページが破られる被害が相次いでいることが判明。221日菅義偉官房長官が「極めて遺憾で恥ずべきこと」と非難。222日確認された被害が300冊を超える。224日警視庁が器物損壊容疑などでの捜査開始。227日東京都豊島区の書店でも破損されたことが判明(捜査関係者によると、被害にあったのは大手書店チェーン「ジュンク堂書店」池袋本店。1月中旬と221日、3階の売り場でそれぞれ「アンネの日記」1冊が破られているのを店員が見つけ、22日に警視庁目白署に被害届を提出)37日警視庁が豊島区の書店への建造物侵入容疑で30代の男を逮捕(捜査一課が店内の防犯カメラを調べたところ、2冊目が発見された21日と、それ以前の2月中旬にジュンク堂書店を訪れ、同関連本のある348階などを行き来する不審な男がいたことが判明。いずれも被害のあった書棚近くに足を運ぶ。22日には店内で勝手にビラを張っていたことも確認。無断でビラを張るという、書籍購入などの「本来の目的」以外の目的で書店に侵入したとして、建造物侵入容疑で逮捕)313日逮捕された30代の無職男の自宅から、関連本の切れ端などが見つからなかったことが判明。しかも、自宅のパソコンにはインターネットの接続履歴が残っておらず、捜査一課は男が切れ端を廃棄し、履歴を消去するなどの証拠隠滅を図った可能性があると見做す……。

 さて、現時点では、こういった流れでこの「アンネの日記破損事件」は推移してきています。もちろん、ここ最近にも、捜査の進捗状況にも多くの変化があるかと思われます。
 

 いずれにせよ、豊島区も力を注いでいる文化、これを育み伝え、言論活動を支える書籍を損ない、自由な読書を妨げる愚かな行為ということが出来ますし、かつ、特定の本をねらう執拗かつ悪質なもので、再発防止のためにも一刻も早い解決を望むものです。日本図書館協会も「貴重な図書館の蔵書を破損させることは、市民の読書活動を阻害するもので極めて遺憾」との声明を出しています。

 ところで、この事件の場合は、国際関係への影響も懸念されます。
 実際のところ、書籍破損の被害が同書やユダヤ人迫害を扱った本などに集中していることから、海外でもこの事件は報道され、注目もされてしまっています。ユダヤ系人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は「衝撃と深い懸念」を表明していますし、欧米では、今回の破損行為は反ユダヤ主義的なものではないかとの見方も出てきているそうで、そうであるとすれば、日本のソフト・パワーやイメージを損ないかねません。
 さまざまな考え方の本や資料が広く公開される図書ないし読書環境の役割には大きいものがあります。本を守ることは伸び伸びとした自由な言論につながりますから、これを妨げる行為は決して許されるものではありません。
 もっとも、最近の共同通信によれば、今のところイスラエル政府からの抗議は無く、日本に詳しいイスラエルの有識者は「イスラエルには日本と反ユダヤ主義を結び付ける人はあまり多くない」と説明してくれていますし、ヘブライ大のニシム・オトマズギン准教授という方は「アンネの日記が多くの日本人に読まれていることはイスラエルでもよく知られている」また「ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人に査証を発給し、多くの命を救った元駐リトアニア領事代理の故杉原千畝氏のことを知るイスラエル人も少なくない」といってくれております。
 これはこれで大変有難いことですし、後は、このような事件の模倣犯が出ない事を祈るのみです。
 と言いますのも、ここ最近、私が読んだ本で感銘をうけた作品の一つに『竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』というものがあります。
 「在米韓国人が猛抗議」とか、「全米中学校の教材から排除運動」とか、1986年に米国で刊行されたこの書籍は、その20年後に突然、理不尽な嵐に巻き込まれ、同様の動きが「慰安婦問題」という形で世界中に広がる最中、本書の出版が発表されるや、予約の段階でアマゾンランキング総合1位を記録し、今もって口コミで広がり続けております。
 著者は昭和8年、青森生まれ。父が満鉄職員のため、生後間もなく家族で朝鮮半島北部の羅南に移住。戦況が悪化した昭和20年、当時11歳だった著者は母と5歳年上の姉の女3人だけで半島を逃避行します。
 本書は、この時の体験を米国在住の著者が子供たちに分かりやすく伝えたいと、少女の目線から平易な英語でつづった物語です。抗日武装勢力に追われ、命の危険に幾たびも遭遇、その上乏しい食糧で、死と隣り合わせの日々が連続。危機意識の低い今の日本人(失礼)には学ぶことが多いと思われます。
 戦後の記録的なベストセラーとなった藤原ていさんの『流れる星は生きている』、世界中で読まれている『アンネの日記』などに「匹敵する戦争体験記」というありがたい感想も各方面からいただいているとのことです。
 本書に一貫して流れているテーマは「戦争の悲惨さと平和の尊さ」、そして特に、ともに苦難を乗り越える母と姉との「家族愛」。
 問題となった朝鮮人に関する描写の適否は、読者の判断に任せたいと思いますが、刊行から四半世紀を経て、この貴重な物語が日本語で読めるようになったことを素直に喜びたいですし、この作品が破損されない事を、切に切に、願うものです(ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著&監訳、都竹恵子訳)

高梨沙羅選手、お疲れ様≪平成26年2月≫

 ソチ冬季五輪のノルディックスキー・ジャンプ女子で4位となった高梨沙羅選手が成田空港に帰国しました。空港に居合わせた大勢の人たちから拍手を浴びたそうで、その際には、緊張感から解放されたように柔らかな表情になったとのことです。
 高梨選手は、ジャンプ女子が初めて正式採用されて行われたソチ五輪の優勝候補だったわけですが、残念ながらメダルには届きませんでした。空港で報道陣から、「五輪で得たものは何か」を聞かれ「最初に頭に浮かんだのは感謝という言葉。たくさんの人たちに応援していただいた。でもベストを尽くすことができず、結果も残せず、今は申し訳ない気持ちでいっぱいです」と心境を吐露したそうですし、同時に、「五輪では後悔する気持ちもあるので、ソチで出来なかったことをW杯へ引きずらないように練習して、レベルアップしたいです」と、2季連続の総合優勝がかかるW杯に向けて、精一杯気持ちを切り替えようとしていたとのことです。
 何ともしっかりした17歳ですね……。

やっぱり五輪には魔物が潜んでいるのでしょうか……。
実際のところ、2回とも本来のジャンプにはほど遠く後半の伸びを欠いていたのは、素人の私でさえも分かりました。今季のW杯での成績は、13戦で10勝です。この1度も表彰台を逃さなかった若き女王(?)は、この憧れの夢舞台で、ひょっとしたら、その重圧(?)から歯車が狂ってしまったのかもしれません。
それぞれの選手のジャンプが終わり、初代女王が決まった瞬間、高梨選手は勝者に拍手を送り祝福したあと、顔を手で覆って立ち尽くしたと報道されていました。しかもこれまでライバルとしてしのぎを削っってきたサラ・ヘンドリクソン選手(米国)が真っ先に駆け寄ってきてくれたそうですし、旧知の田中温子選手(カナダ)には「頑張ったよ」と言われ抱きしめられ、7位の伊藤選手とは「また一緒に来よう」とともに涙にくれたとか……。楽しみにしていた五輪は、17歳の乙女にとっては、さぞかし苦いものとなってしまったかもしれませんね……。それでも、各種の報道を集めてくると、「自分の準備不足だと思うし、まだまだ練習が足りなかった」と、強い追い風を受けたことなど言い訳がましいことは口にしなかったそうですし、「もっともっと強くなりたい。今回の悔しさをバネにしていいところをみせたい」と、4年後の平昌(ピョンチャン)五輪での雪辱をきっぱりと、しかも凛々しく誓ったそうです。
五輪での借りは五輪で返す。
新たな目標に向けて再スタートしたと受け止めても良いのではないでしょうか。

そうした中、ソチ冬季五輪日本選手団の橋本聖子団長の鼻息は荒く、過日の記者会見でも、序盤戦の有望種目で金メダルを逃したことについて触れつつも、過去最高だった長野五輪の、金メダル5個を超えるチャレンジは続けますと宣言すると共に、これから期待される種目があるので、チームジャパン一丸となっていけば大丈夫と話し、目標を変更しない考えをあらためて示してくれました。
これはこれで良い意味で選手達の気持を引き締める効果を生むのではないでしょうか……。高梨選手に対しても、4位に敗れたものの、日本の皆さんの期待を背負って一生懸命頑張った。重圧を支えてあげられなかったと反省している、とかばいつつ、4年後へのプラス材料と受け止めてほしい、と次回平昌五輪での雪辱に期待していました。
それにしても、誰もがその実力を認める高梨選手が、なぜオリンピックでは表彰台にすら上がることができなかったのでしょうか。
プロの目から見れば、要因はきっといくつもあることでしょう。踏み切りのタイミングは完璧だったのかとか、緊張はなかったのかとか……。
そうした中、読売新聞の朝刊でしたが、長野オリンピック団体金メダリストの斉藤浩哉さんが、何度読んでも私には分からない話をしていました。まず、高梨選手は、表彰台に上がった3選手とは異なり、ただ一人2本ともに追い風でのジャンプとなったことだそうです。ジャンプが、気象条件が大きく影響する競技であることは昔から言われてきました。向かい風なら飛距離が出やすくなりますし、追い風なら失速しやすくなります。そうした意味では、理不尽な競技といえます。そして、その不公平さをあらためようと、ルールも改正されて出来たのが「ウインド・ファクター」だそうで、風の強さに応じて、向かい風なら減点、追い風なら加点するといったものだそうです。この「ウインドファクター」ルールによって一見、向かい風、追い風による不公平は消えたようにも見えますが……。その一方で、高梨選手は、今回2本ともテレマークを入れることができませんでした。テレマークができないと、飛型点は下がります。もともと高梨選手は、テレマークを苦手としていたのは有名で(失礼)、ワールドカップ総合優勝を果たした昨シーズンも、世界選手権ではテレマークの優劣で2位に終わっています。それが今シーズンは開幕前からテレマークができるように努力し、その成果は試合で確実に表れはじめ、ワールドカップでは飛距離で劣っても優勝する大会もありました。それが、この日は、そのテレマークが入れられなかったのです。そこには追い風が影響していたと、斉藤氏は語っています。つまり、追い風によって、飛距離を伸ばしきれなかったし、テレマークを入れにくくなり、飛型点も低くなったのだと……。そうなると…、イラシュコは別にして、フォクト、マテルには飛型点の差がなければ負けていないことになります。高梨選手はワールドカップでは、108110点といった飛型点を得ることも珍しくはありません。総合して考えれば、テレマークを入れられずに飛型点で劣ったということでしょう。その要因に、上位3名の選手と違い、2本ともに追い風を受けたことがあったということです。先程の「ウインドファクター」ではカバーしきれないマイナスの影響を被った。これはジャンプという競技ならではかもしれない。そう斉藤氏は伝えていました……。

かつては、男子のみのスポーツだったスキーのジャンプ競技。これがどのような来歴を経て今に至ったのでしょうか。
女子ジャンプ界のパイオニアの山田いずみさん。長野五輪のテストジャンパーを務めた葛西賀子さん。知られざる情熱の系譜がそこには点在し、「女子にジャンプはできない」といった当時の常識を覆すために、先人達が超えてきた壁の高さが、想像以上のものだったことが、ここ最近の各種報道で明らかにされています。切迫した危機は何度もあったものの、その都度、凜とした姿勢でその苦境を越え、彼女ら女子ジャンパーは軽やかに空へテイクオフしていきました。山田いずみさんが、初めてノーマルヒルの公式大会を飛んだのが1992年の15日だそうで、そこから積み重ねた女子ジャンパーたちの何千、何万ものテイクオフが、高梨選手ら現代の代表選手をより遠くまで運んでいたと言えそうです……。
お帰りなさい、高梨沙羅選手。
そして何よりも、お疲れ様でした。

2020東京五輪≪平成25年12月≫

 97日、アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスで2020年夏季五輪の開催都市を決める国際オリンピック委員会総会が行われ、開催都市が東京に決定。東京は決選投票でイスタンブールを破り、1964年以来2度目となる開催を決めました。日本での五輪開催は1972年の札幌、1998年の長野の冬季五輪と合わせて4度目の開催となります。

これを受け、7年後に向けて日本は大盛り上がり。その発表の瞬間、早朝にも関わらず、ツイッターやフェイスブックなど、SNSのタイムラインは東京五輪の話題一色となりました。そうした歓喜の声と同時に、7年後の自分や自身の子供たちの姿を思い描くコメントも多く見られました。自国開催の決定は、普段スポーツにあまり関心のない人の胸をも躍らせ、多くの日本人を高揚させたのではないでしょうか…。

このように五輪は、私たちに夢や希望を与えるイベントであります。ですが一方で、気になるのが経済効果でしょう。ニュース記事を読むと、3兆円から150兆円まで様々な経済効果を試算する数字が飛び交い、頭が少々混乱気味の人もいるのではないでしょうか。
結局、2020年の東京五輪は日本の景気にどういう影響を与え、私たちの暮らしにどのような変化をもたらすのでしょうか…?。例えば、地下鉄が24時間運行になるなど、東京のインフラが再整備されると、地方経済がさらに疲弊するのではないかと考えます。また、五輪特需の建設ラッシュが予測されますが、被災地の復興もあるため、建設労働者が足りていない状況も事実です。資材もそれほど十分ではないので、材費が高騰する可能性もあります(う~む、豊島区としても頭が痛い…)

実際、東京都は約4000億円の五輪基金を積んでいますが、日本は赤字国家であり、財政赤字が膨らめば、金利高騰につながります。そこで大事なのは、五輪開催を準備するにあたって、地方の疲弊や被災地の状況を決して忘れてはいけないということではないでしょうか。五輪開催を機に温泉や観光資源といった日本の良さを世界に知ってもらい、国土の狭さを逆に利用して、東京から全国各地の観光地へ導くような取り組みを考えることも大事ではないかと思います。

また、2012年のロンドン五輪も日本と同様、コンパクトな五輪をうたっていました。
そのロンドンは五輪開催後、公共事業の増加により、五輪までの数年間は成長率の増加が望めたはずですが、英国は五輪の直前まで、3四半期連続でマイナス成長を続けていました。五輪開催時の3カ月のみ、年率3.0%の成長を見込めました。ですがその後、失業率が改善したわけでもなく、大きく経済成長を遂げたとも言えません。

五輪全体の経済効果は約26000億円で、ロンドン五輪の政府の歳出額は約14000億円だそうです。「半径8キロ以内での開催」とうたう東京はロンドンよりもっとコンパクトになるので、やはり経済効果もそれほど期待できないと考えられます。

では2020年の五輪を、私たちはどのような位置づけで捉えれば、有意義なものになるのでしょうか。五輪の経済効果云々という議論をするよりも、せっかく開催できるのですから、成熟した社会の中での五輪の在り方にこだわればいいのだと思います。例えば、日本が避けて通れない「超高齢化社会を見越した五輪の在り方」といったコンセプトもありでしょう。

前回の東京五輪にはなかったパラリンピックを開催するのですから、地下鉄やバス、五輪施設などのインフラにバリアフリーを施すということも1つの手でしょう。世界各国から集まるパラリンピックのアスリートも移動しやすいし、「世界一高齢者が住みやすい街」を目標にすれば、高齢者が街に出やすくなるなど、五輪閉幕後の超高齢化社会にも貢献できるはずです。これは、1つのロールモデルとして世界に発信できるでしょう。

そして、せっかくのスポーツの祭典なのですから、これを契機にスポーツインフラも平準的に整えることができたらいいなと思います。子供たちへのスポーツ育成はもちろん、高齢者向けの運動施設やサービスなどを今以上に設ける。そうすることで、多くの人が運動をして健康寿命が延びれば、医療費や介護費用の軽減にもつながるはずでは…。

そのためにも、五輪後は安価な使用料で運動できるような、ランニングコストを抑えたスポーツ施設やサービスを整えることが大事です。使用料が高くて誰も利用せず、毎年赤字が膨らむような施設では、せっかく五輪開催の機会をつかんだのに本末転倒です。

 1998年の長野冬季五輪では、施設整備などの巨額資金がかかり、県債残高を抱えてしまいました。その時に建設されたスケートリンクなどの関連施設の維持費は、毎年9億円かかるそうです。しかし、実際の施設収入はわずかに足らず。その差額は自治体が負担しています。このような例を見ても、五輪後の活用を見越した施設建設を期待したいですね。

 また、子供たちにとって、五輪は夢や希望が詰まった未来を想像できる貴重な機会です。そのワクワクした気持ちは、きっと大人になっても忘れることなく、次の世代へと引き継がれるような動機づけにもなるでしょう。

 そして、超高齢化社会を迎えるこのタイミングの五輪開催だからこそ、これを契機に、私たち大人も未来を描けるような五輪開催を切に願います。

東日本大震災の復興の過程を通して、スポーツの力は我々に元気や活力を与えてくれました(最近では楽天イーグルス)。これからの日本の真の復興のためにも、世界最大の祭典と言えるオリンピック・パラリンピックの力が必要となってくるでしょう。そして、この大会開催を通じて、アジア近隣諸国及び、世界中の国々から寄せられた多大なる支援に対して、感謝の気持ちを示していくこともできます。

また、様々な困難に直面している世界の人々へ、日本人がその価値を再認識した「絆」を共有することで、エールを送りたいと思います。平和な社会の実現に向けて、手を携え、その実現に向けて貢献していきましょう。

世界中から訪れるアスリート、競技関係者、マスコミ関係者、観客など多くの来訪者を、食事や宿泊、輸送や安全対策などの万全の準備と、日本ならではのおもてなしの心をもって迎えたいと思います。伝統的な日本文化のみならず、日本が持つ革新性や最先端の科学技術を体感してもらい、日本の存在感・素晴らしさを世界に示していけたら素敵ですね。 

バイトテロについて≪平成25年9月≫

 SNSが発展しインターネット時代と言われている近年。特に、ツイッターやフェイスブックは得たい情報をリアルタイムで知ることが出来たり、自分の近況を報告することが出来たりと色々と便利になっています。
 しかしその一方で、近頃では、神社の境内で全裸になった画像や、飲食店のアルバイト先での不適切な画像を、今どきの学生が無造作に投稿する「バカッター」と呼ばれる問題が相次いでいます。

 中でも、注目したいのが「バイトテロ」です。
 バイトテロとは、主にツイッターなどで飲食店のアルバイト学生などが不適切な画像を投稿して店の信用を落とす事を言います。しかも深刻な問題として、こういった書き込みを特に問題視していない学生が一部で存在していることでしょう。

 平成25911日付けの日経流通新聞では、いわゆる「バカッター」について特集しています。
 日経流通新聞が楽天リサーチの協力を得て全国の大学生と専門学校生200人に対して、一連の悪ふざけ写真の投稿について調査したところ、4分の3が「あってはならないことだと感じる」と回答。その反面、「面白い」が2%、「騒ぐほどの問題ではない」が9%と、1割以上が容認姿勢を見せました。大半の学生は、書き込みを問題だと感じているのは事実としても、その「1割」に当たる学生が取り返しのつかない結果を引き起こしているようです。
 その例として実際に起きた事件を取り上げたいと思います。
 1つの例としては、ツイッターをめぐる炎上騒動に見舞われた東京都多摩市のそば店「泰尚」です。こちらのお店では、201389日にアルバイトの男性が大型食器洗い機に足を入れて横たわる写真をツイッターに投稿して炎上しました。
 そして、910日時点で店の壁には、「閉店 この度、一部の従業員達(多摩大学学生)による不衛生な行為により営業を停止させて頂く事になりました。皆様には深くおわび申し上げると共に永きに渡りご愛顧頂きまして本当にありがとうございました」という紙が張られ、閉店へと追い込まれてしまいました。

また、この他にも大手ハンバーガーチェーン・バーガーキングの従業員が、床に大量に敷き詰めたバンズの上で寝そべる写真を投稿したり、ピザーラの店員と思われるアルバイト従業員が店内でシンクに入ったり冷蔵庫に入ったりとやりたい放題やっている写真がツイッターやブログなどに掲載され炎上したという事件も起こっています。

 これらの事件の動向を見て、多くの人が「このような写真をインターネットで公開したら非難が集まるのは当たり前なのになぜ?」という感想を漏らしています。
ですが、彼らは非難が集まるなどとは考えていないのではないでしょうか。
まるで仲間内で連絡を取っているような感覚でいて、Twitterは不特定多数の人に公開されていることに気づいていない。つまり、バイト先をクビになるだけでなく、親兄弟や学校等に迷惑がかかったり、場合によっては損害賠償請求を求められたり、などと非常に深刻な問題になるという想像力が及んでいないのかもしれません。これはむしろ、ネット上の騒ぎ以上にモラルやマナーの面で根深い問題がある可能性も考えられます。

 この一連の事件は「スクールカースト」が一因ではないか、とも言われています。
 スクールカーストとは、平成1819年頃にメディアで使われるようになった言葉で、学校内での序列のことです。
 学校ではイケメンやスポーツができる、勉強ができるなどの学生が上位のカーストになりますが、面白い学生も上に行けるとのことです。昔から学校内での序列はありましたが、最近の若者はスクールカーストという言葉ができてしまうほど、仲間内での序列を強く意識せざるを得ない環境にあるのです。

これに加え、スマートフォンの普及でこの現象がさらに可視化したのではないかと思われます。なぜなら、スマートフォンによりネットに画像を投稿する手間が簡略化し、この画像を投稿したらどのような反応が返ってくるかということを考える時間も余裕もないと思われるからです。彼らは、自らを「武勇伝」「若者の元気の発露」等として許容されるべきものと考えているのではないでしょうか。

 まるで連鎖反応のごとく、同種の事件が毎日のように起きている今日この頃。
 もはや、破壊願望ではなく「破壊」、悪ふざけではなく「テロ」、そのように言うしかない現象と感じる人が多くなってきているでしょう。
 一方で、企業側の対応も、ついに「冷蔵庫に入りません」という内容の誓約書を書かせるところまできているそうです。そのようなことは常識でわかるだろう、というような社会や組織の「常識」に訴えることを諦めて、「法律」で対処するというわけです。

 勿論、バイトテロはお店側だけの被害や責任というわけにもいきません。
 同じ職場で一生懸命働いていた人は職を失ってしまったり、そこまでは至らなくても顧客や周囲からの信用を損ねることになります。
 大学生であれば、その大学の品位をも落としたことになるでしょうから、そうした学生には大学側から然るべき措置が取られることは間違いないでしょう。無期停学処分なら甘いもので最悪は除籍にもなるのではないでしょうか。また、学校教育でどのようなことをしているのか。ということにもなりますから他の学生にも多大な迷惑がかかることは間違いありません。
 そしてその一方、消費者側は立て続けに起こるこうした事件に不安を感じ、飲食店の利用を控えるという事態にも繋がりかねません。

 バイトテロの解決に向けた取り組みとしては、アルバイトのモラルやマナーを徹底的に正すしかないでしょうし、人件費をかけても従業員教育を徹底する等、教育体制や仕組みを作る必要があるでしょう。
 SNSの正しい使い方の教育(?)も徹底すべきでしょう。加えて、今後は全従業員から企業コンプライアンスに関する誓約書をとる、または衛生教育などの再徹底などが必要となってくるでしょう。
 夏目漱石さんがツイッターをしていたら……。
「とかくこの世は住みにくい…」(草枕)
 漱石さんのつぶやきが聞こえます。