2007年10月16日火曜日

竹岡に招かれて

「本橋さん、竹岡健康学園って何です?」
「色々と歴史があって一言で説明するのも難しいな・・・」

 平成17年11月12日、子ども文教委員会委員長をおおせつかっております関係で、千葉県富津市竹岡380番地にあります、豊島区立竹岡健康学園の開園70周年記念式典・学習発表会・記念祝賀会に出席してまいりました。

 この竹岡健康学園の歴史につきまして、あまりご存じない方がおられると思いますので、簡単にご説明させて頂きますと、昭和10年7月21日、皇太子殿下ご誕生記念事業の一つとして、現在の地に「豊島区立竹岡臨海学校」という名前で開校され、主に、水泳指導や海辺の自然環境を生かした理科学習の指導などを主な目的とし、夏季臨海学校として昭和14年まで機能しておりました。

 その翌年の昭和11年の冬に、いわゆる「2・26事件」が発生したわけですから、竹岡の歴史のスタートは、まさにこの日本が激動の昭和を迎えるのと時を同じくしていたということが出来ます。昭和14年5月27日からは、「東京市立竹岡養護学園」として生まれ変わり、東京の虚弱児童の健康増進と体位向上を図ることを主な目的として開園されました。時はまさに第二次世界大戦が勃発した年であり、日本ではこの2年後の昭和16年12月8日に「大東亜戦争」が開始されたわけであります。

 その後の日本は、緒戦の勝利に酔ってしまい、この先をどのようにするかはっきりとした見通しもなくズルズルと戦争を遂行し、昭和17年6月のミッドウェー海戦での連合艦隊の敗北や、昭和18年2月のガダルカナル島からの撤退が転機となり、日本の敗戦色が濃くなりはじめたわけですが、この影響は当然の事ながら竹岡養護学園にも及んでいきました。すなわち、昭和19年4月1日、東京都の学童疎開の必要性の高まりに迫られるような形で「東京都立竹岡疎開学園」が誕生したのです。

 ただし、この疎開学園は、終戦直前の昭和20年6月20日、開園の目的である、戦時中における日本の学童疎開と児童の管理・物資の調達のあり方の研究資料の提示という役割を終了したために閉鎖されました。時はまさに2ヶ月前の昭和20年4月のアメリカ軍の沖縄本島への上陸と激しい戦闘の開始があり、また、日本は戦艦大和を繰り出して最後の海上特攻隊を出撃させるも、逆に猛攻を受け、結局大和は沖縄に到達できずに撃沈されるということがあり、さらに、沖縄の大地では鉄血勤皇隊の少年達やひめゆり部隊の少女達の勇敢なる戦闘行為(沖縄では最終的には、一般住民約9万4000人・戦闘員約10万人が戦死した)があったころでした。

「まさに時代に翻弄されたといった感じですね」
「翻弄されながらも、時代は確実に『竹岡』を必要としていたよね」

 昭和21年5月27日、終戦直後の日本の児童の体位低下は甚だしいものがあり、豊島区は『教育豊島』の名の下、様々な問題をクリヤし、他区に率先して戦後初めて養護学園を開園しました。「豊島区立竹岡養護学園」の誕生です。この学園の位置づけとしては、「仰高小学校」をはじめとして、「朝日小学校」、「池袋第一小学校」、「千早小学校」のそれぞれの分校という形で歴史を刻んでいくことになりました(今日では、「仰高小学校」の分校という位置づけとなっております)。

 昭和53年4月1日、いよいよ今日の名称である「豊島区立竹岡健康学園」となりますが、これは、単に虚弱体質児童の体位向上だけに止まらず、喘息や肥満、さらにはアレルギーや偏食の子供達をも受け入れ、調和のとれた健康教育・内容豊かな健康教育を目指すところからきております。 もちろん、豊島区立の小学校の分校ですから、普通のカリキュラムに基づいた学習指導も行われます。

「よく分かりました」
「で、当日はどうでした?」

 当日の記念式典は、周年行事ではお決まりのパターン(失礼)、つまり、「開会の言葉」「国歌斉唱」「学園長挨拶」「豊島区長挨拶」「来賓祝辞」「来賓紹介」という進行でしたが、約20名の在校生の式典の最中の姿勢の良さに驚かされました。

 たいていの式典(他の周年行事はもちろん、入学式・卒業式など)でよく見かける光景は、複数の生徒が、隣の生徒とお喋りをしたり、椅子に座っているときに足を前のほうに投げ出したり、また、きちんと椅子に座っているようで両手を両膝に置いていなかったりするなどですが、ここ竹岡ではそれらが全くなかったということであります。

 また、「来賓紹介」のすぐ後に、「お祝いの言葉――在校生からの呼びかけ」があり、これまたお決まりのもので(失礼)、全在校生が一人づつ大きい声で台詞をつないで1つの文章を奏でるものですが、その一人ひとりの声がしっかりと出ていたこと、加えて、歌の部分もたった20人で歌っているとは思えないほどの声量には感嘆させられました。

 それだけではありません。この第一部の記念式典が終わった直後に、第二部として学習発表会があり、3・4年生、5年生、6年生による演劇を交えての怒涛の学習成果報告、それが終わった直後に、第三部として園庭における全在校生による一輪車の演技、それを終えるや否や、寄宿舎のフロアーにてご父兄とともに迅速に昼食をとり、第四部祝賀会のなかで「全在校生アトラクション」、その表現の部で「よさこいソーラン」を、合唱の部で「虹が」「この地球のどこかで」がそれぞれ元気よく行われました。  

 私は、このスタミナ・体力・気力が一体どうやって育まれるのか不思議でなりませんでしたが、その訳も控え室の中でウロチョロしていて目に留めた「生徒生活時程」を見て分かりました。

 全在校生は毎朝6時30分には起きて、毎夜9時00分には消灯という生活を送っているのです。規則正しい生活習慣の存在と継続が健全な精神力と肉体を育むことを思い知らされました。夜更かし朝寝坊をしていては、満足に声も出ないでしょうし、ましてや一輪車などに長時間上手に乗れるわけがありません。本当に。

 竹岡の精神を是非とも区内小学校の生徒たちに伝えたいと思った一日でした。

2005/11/1(火)

家族防弁慶たらん

「本橋さん、『豊島区子ども権利条例』」って一体何ですか?」
「正確に言うと『豊島区子どもの権利に関する条例』と言って、今年の3月にようやく素案が区長に提出されたんだよ」
 
 現在、豊島区では「豊島区子どもの権利に関する条例(素案)」が提案・制定されようとしております。これは、政府が平成6年に署名・批准した「児童の権利に関する条約」の理念を受け止め、子供達をめぐる諸問題に取り組む上で、区の基本的立場を明らかにすると共に、子供にまつわる施策全体に「子どもの権利」という視点を反映させようとするものです。

 この条例(素案)の報告書は、今年の秋の第3回定例会での提案・制定を目指し、平成15年の12月から「豊島区子どもの権利条例(仮称)検討委員会」による議論を経て、今年の3月28日に区長に提出されました。

 この条例(素案)の問題点は沢山あるので、その全部をここにお示しすることは出来ませんが、代表的な問題点を申し上げますと、①そもそもこの条例(素案)の策定・検討過程が「はじめに子どもの権利ありき」で始まってしまっていること、したがって、その筋の専門家がこの条例の「検討委員会」のメンバーの中に入っており、しかも、こともあろうに「公募区民」3人の枠の中におさまっていること、②子供達に対して必要以上の、過度の「自己決定権」「自律権」を認めてしまっていること、③この条例(素案)で設置される「子どもの権利擁護委員」は、あたかも「人権擁護法案」で言う「権利擁護委員」と同様の問題性を持つこと、などです。

「一体、どんな方が『公募区民』の中に入ってしまったんですか?」
「『DCI日本支部』の会員で、『子どもの権利』を専門に研究している学者さんだよ。何でまたこういう人がって感じだよね」

 豊島区は、平成15年12月から平成17年3月まで、約一年半にもわたる活動期間を持ち、かつこの条例(素案)の策定を担っている「豊島区子どもの権利条例(仮称)検討委員会」に、法律学や教育現場の専門家などに加えて、3名の「公募区民」をいれました。

 検討委員会の中に公募区民を入れる本区の理由は、「条例案策定の過程において、区民が積極的に主導権を持って参画していくことを重視し、・・・また、区民主体で条例案を練ることで、意見を言います的発想から脱却し、当事者能力を養っていくことを意図した『区民参加型』の手法を採用していること・・・・」、ということであります。 

 「公募区民」とは、区の政策の選択・策定を、つねにその道の専門家に独占させてしまうことによる弊害を未然に防ぐと共に、一般区民が持っている素人的・常識的感覚を積極的に活用する制度だと思います。例えば、豊島区の子育て支援策を考えるにあたって、本区在住の専業主婦の方にお越しいただいて、その方がお持ちの子育ての経験や生活の知恵を最大限出していただいて、それを政策に反映させるといった具合です。

 ところが、このたびの「豊島区子どもの権利条例(仮称)検討委員会」の「公募区民」3名の内の一名の方は、「子どもの権利」に関する専門的研究をされており、加えて、子供のための国際NGO、「DCI日本支部」の会員として活動をされております。条例案の起草部会や検討委員会の会議も終始この方のリードで進められていったと言っても過言ではなく、起草から素案の完成に至るまでかなりの影響が及んでいます。そこから、今回の条例案の策定と内容には、かなりの偏りが生じてしまっています。

「その『DCI日本支部』というのは一体?」
「豊島区に日本支部事務所があって、この団体の代表者がまたね・・・」

 DCIとは、「子どもの権利のための国際NGO」で、「子どもの権利」を守り、発展させていくことを目的として活動しています。ただし、この団体の日本支部の代表者は、「人権」を盾にとってオウム真理教を擁護する発言をしています。勿論、オウム真理教信者に「人権」が無いとは言いません。しかし、あれだけのテロ事件を起こし、大多数の無実の人々の「人権」(特に生命・身体)を侵害した教団を「人権」と言う言葉で守ろうとするのは筋違いも甚だしいと思います。オウム真理教という、社会的制裁を受けるべき集団を擁護することに使われる「人権」という概念に対し、強い懸念を抱いてしまいます。

「だけど、子供にも人権や権利があるのは当たり前だと思うんですけど・・・・」
「そこが大事で、『子どもの権利』の中身を整理しないと議論がドンドンこんがらがっちゃうんだよね」

①保護や教育を受ける権利・法的地位(肯定)広義の「子どもの権利」
②狭義の「子どもの権利」(否定)

 議論の前提として大変重要なことを確認しておく必要があります。それは、一言で「子どもの権利」と言いましても、そこには大きく異なる二つの意味(①と②)があるということと、この①と②の意味の区別をしっかり認識しなくては、正しく「子どもの権利」を理解することが出来ないということであります。

 上記のように、①子供は子供であるがゆえに、大人から保護されるべき存在であり、その保護されるべき「権利」を「子どもの権利」というのか、あるいは、②子供も大人と同じ自立的存在であり、それゆえ大人と同じ市民的権利を享受することが出来る、その資格を「子どもの権利」というのか、同じ「子どもの権利」と言いましても、このように意味は全く異なるのであります。

(次号つづく)

2005/6/1(水)

地域防弁慶

「本橋さん、『人権擁護法案』の問題点って何処ですかね」
「何処ですかって、沢山あって面白いから自分で調べてみたら」

 最近の新聞紙面でもうお馴染みのこの法案は、2年前に既に登場しておりまして、この時は廃案になっております。それが今回は、マスコミなどをはじめとする報道機関による批判をかわすためか、「メディア規制条項」をいわば凍結して再提出しております。

 この法案は、本来ならば、今年の3月10日の自民党法務部会で了承されて、その後はお決まりのコースとして、政策審議会、総務会などを経て閣議決定、そして国会提出ということになっていたのですが、事はそうすんなりと進みませんでした。その理由は様々あるでしょうが、私自身感じますことは、自民党の若手保守派グループがこの法案の危険性・問題性に気がつき、急遽、3月8日の夜、若手グループが集まり、この法案についての分析と問題点の洗い出し作業を始めたこと、これに安倍晋三先輩が先頭にたちはじめた事が大きいと思っております。

『はい、本橋です』
『あっ本橋さん?ちょっとこっち来て手伝ってくれない?』
『おいおい、今何時だと思ってるの』

 その若手グループの中には、かつての自民党都連青年部時代の議員仲間がおり、2日後に迫った法務部会での法案承認を阻止すべく、猫の手も借りたいと言った状況を説明し始め、この法案について、憤懣やるかたない気持ちを得々とまくしたてると同時に、終始、何時ごろ党本部(永田町)に着きそう?といった感じでした。が、夜も遅く、既に寝床に潜り込んでいた私は、当然の事ながら動きようもなく(実はめんどくさかった?)、その辺のところを詫びながら携帯を切った事がありました。

 その後の流れですが、3月10日、自民党法務部会が開かれ、保守派反対グループが徹夜で作り上げた論点整理レジュメを元に大論陣を張った結果、直ぐに了承というわけにいかなくなり、その後4・5回法務部会が開かれましたが、この法案はおかしいと主張し続け、現在のところまだ法務部会で論議中という状況になっております。

 前述の都連青年部時代の友人と話をしていて、お互いに一致する問題点はどこかといいますと、それはズバリ「人権の定義は何か、またそもそも人権とは何か」という事です。

 思いますに、「人権とは何か」と人様に問われて一体何人の方が即座に、しかも明確に答えることができるのかなぁと思うくらい、この問題は実に奥深く、しかも広い意味合いを持った概念だと思います。ここらあたりを深く思索して、考え抜いた人達がその人権を語るのならともかく、そうではない一般の国民において、安易に人権という概念を使って社会生活一般を規制していく法体系を構築していくというやり方は、やはり無理があるという率直な感想を持つわけです。ですから、当然の事ながら、法案にも当然無理が出てきますし、その部分が解釈による恣意的な運用の余地を生み、やがてそれの解釈が拡大していくという事態に発展してしまうのです。

「本橋さん、もっと具体的に言ってくださいよ」
「具体的に?、自分で調べようとしないんだからもう」

 一番の論点は、国籍条項でしょう。この「人権擁護法案」では、現在別に存在する「人権擁護委員法」には存在する国籍条項が撤廃されており、日本人に限らず、外国人でも市町村長の推薦を受けて委員になることができるのですが、例えば、今日、未だに解決されてはいない「北朝鮮にる日本人拉致事件」の存在を思うとき、もし仮に、在日本朝鮮人総連合会の関係者が人権擁護委員になり、日本の政治家なり報道機関が、この拉致問題をめぐって朝鮮総連を批判したような場合、人権侵害と糾弾され、自由と民主主義国家においてまさにしっかりと守るべき言論の自由や思想・良心の自由が蔑ろにされてしまいかねません。

 それだけではありません。例えば、「靖国神社」にまつわる日本国内と近隣諸国の反応を見たとき、小泉総理が靖国神社に参拝したとして、人権擁護委員になった方から、私達の「宗教的人格権」が侵害された、ということになると、司法をも巻き込んだ揉め事となってしまいます。といいますのも、「宗教的人格権」といいますと一般の人々からはもっともらしく聞こえますが、これはまさに今法廷で議論されている事柄で、この「宗教的人格権」は果たして憲法で保障された人権といえるのかという論点に関しては、今の司法は100パーセント「ノー」、ゆえにその侵害というものはありえない、という立場を崩してはおりません。人権擁護委員の方におかれては、我良かれとして行動してみても、人権が侵害されたというとき、その侵害された人権が、そもそも本当に・正当に保護されるべき人権かどうかは、やはり司法の場でしか明らかにならないと思いますが、違うでしょうか。そのことをこの法案に出てくる「人権委員会」という所でおこなってしまってよいのでしょうか。

 そこから、この「人権委員会」が二番目の論点となるでしょう。ここでは、なんと裁判所の令状がなくても、独自に関係各所の立ち入り検査ができるようになっており、加えて、関係者の出頭要請、事情聴取や資料の押収なども出来る様になっているのです。この点について法案推進派は、これは強制ではなく、拒否することも出来るとは言ってはおりますが、正当な理由なくして拒否すれば過料が科されてしまうからくりになっており、これはあたかもはじめから言うことを聞きなさいと言ってるようなものなのです。 

 さらに問題は、法案推進派は、幼児や高齢者の虐待など、特定の人権侵害に限定的かつ慎重に運用する、と言っておりますが、法案反対派の主張、つまり幼児や高齢者の虐待については個別の法律で対処すればいいことであって、これほど問題のある法で、様々な人権問題に対して、包括的・網羅的に規制の網をかける必要はないとする意見のほうが説得力があるでしょう。

「ここまでくると、豊島区の『子ども権利条例』に・・・、何か似てるな・・・」(続く)

2005/5/1(日)

発つ鳥あとを濁さず

「本橋さん。飛ぶ鳥あとを汚さずじゃないですか?」
「いや、これでいいのさ」

 塾生にこのように切り返されて、「これでいいのさ」と言ってみたものの、実際この二つの言い方にどのような違いがあるのかは、私にはわかりません。ただ、私のイメージとしては、「発つ鳥跡を濁さず」の方は、あたかも水鳥が物静かに水面を進んでいたところ突然飛び発っていく感じなのに対して、「飛ぶ鳥あとを汚さず」の方は、大地の上で餌をついばんでいる鳥が、ある時突然羽ばたいていく感じです。つまり、前者は『水面』から、後者は、『陸地』からそれぞれ飛び立っていく場面をイメージすることが出来ると思います。

 さて、皆さんはどのように違いをお考えでしょうか?

「で、本橋さん。今回の話はいったい何ですか?」
「そうそう、本題に入らなくちゃね」

 AP通信によりますと、旧日本軍による「南京事件」(昭和12年)を題材とした『ザ・レイプ・オブ・南京』(ベイシック・ブックス社)の著者、中国系アメリカ人のアイリス・チャン(36)さんが、アメリカ・カリフォルニア州ロスガトス近くで、自動車の中で頭を銃で撃って自殺したとの事です。

 彼女は、アメリカ・ニュージャージー州に生まれ、AP通信の記者などを経て著述業に入り、作品としては、いくつかの歴史物を手がけてきました。

 最近は大東亜戦争の中のフィリピンでの日米戦を題材としていたとの事ですが、精神状態を崩し、うつ病で入院し、退院したばかりだったとの事です。ここに謹んでご冥福をお祈りいたしたいと存じます。

 ただし、彼女の仕事それ自体、特に先ほど取り上げました『ザ・レイプ・オブ・南京』という作品は、私自身日本人として、どうしても許せない、非常に憤りの感じる代物です。この作品は、平成9年11月にアメリカで刊行され、南京事件にまつわる歴史資料、史実を曲解し、いわゆる『虐殺派』ですらさえも主張してない犠牲者数26万から34万人という数字を平然と主張しており、その内容がまたセンセーショナルなため、アメリカで大ベストセラーとなったものです。

「南京大虐殺、旧日本軍は酷い事をしましたよね」
「それが違うんだけど、分って貰えるかな」

 南京事件といいますのは、日中戦争の初期、昭和12年12月13日に、中国の当時の首都であった南京が陥落した翌日から6,7週間の間に、女・子供を含む一般市民や無抵抗な中国軍兵士、捕虜など約30万人以上が、日本軍によって殺害されたと一般に広く言われる事件で、平成15年現在でも、これは、日本がアジア諸国に対して侵したとされる最大の残虐行為事件と喧伝されている事件です。

 加えて、「南京大虐殺」について、日本政府が「あったもの」としての姿勢をとったため、昭和57年夏に起きた教科書誤報事件(教科書検定において当時の文部省の検定官が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという報道)をキッカケに、日本の全教科書に掲載される事になってしまった。

 日本政府が教科書に記述させることを指定、つまりは認定してしまったのです。それだけではありません。平成6年8月には、社会党出身の村山富市首相による戦後50年談話、いわゆる「お詫び談話」において南京大虐殺を含め、アジアでの侵略行為すべてを政府見解として認めてしまったのです。

「やっぱり酷い事したんですね」
「違うちゅーの」

 アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』の登場は、これらの一連の流れの延長線上にあると思われます。本人の話によれば、彼女自身が幼い頃に両親から聞かされていた話、つまり当時の中国の首都南京が陥落すると、日本軍兵士達によって、女・子供を含む一般市民が残虐な行為によって皆殺しにあったという話を聞かされていたものの、まだ、実際には歴史資料を調べてもいなかった。

 しかし、平成6年、在米華僑によって開催された日中戦争当時のものとされる残虐行為写真を見て、後世に残すためにこの本を世に問うた、との事です。  しかし、事件が起きた当時に記録された第一次歴史資料を集めて読んでみても、例えば、南京は、陥落当時は20万人の人々がいただけで、30万人など殺害しようがない事などが今日判明してます。

 また、南京が陥落した際に避難民を管理運営していた15人の外国人が、陥落直後から翌年2月9日までの間に記録した日本軍による暴行事件や苦情についての記録を見ても、殺人は49件のみしか確認できず、しかもこれらは全く現場検証されておらず、中国人による一方的な訴えを書き記しただけのものでした。

 加えて、後にその訴えの一部を検証した南京日本大使館員は、訴えにあるような形跡すらなかったと証言しています。さらに、平成7年に、陥落翌日から翌年までの間に、南京市および周辺を克明に記録した記録映画『南京』も発見され、その映像には、語られるような数十万人もの虐殺が行われた町とは到底考えられない、平和な南京の様子が記録されていたのです。

2004/11/1(月)

続・ベトナム研修を終えて

「本橋さん、ベトナムの『国家としての現状』も教えてくださいよ」
「いいとも。だけどこの手の話はお堅いものになるけど・・・」

 先月号で私がベトナムに視察に行ったことはご報告いたしましたが、ベトナムの現状を知りたいという方がいらっしゃったので、つまらないとは思いますがご報告させていただきます。

―――ベトナム社会主義共和国の現状―――
1 人口・・・約8,000万人
2 国土・・・約33万平方キロメートル(日本から九州を除いた面積)
3 GDP/P・・・428ドル(2002年)
4 政治体制
①共産党党員・・・264万人(人口比約3%)。政治局・・・15名。中央委員会・・・148名。書記長はノン・ドゥック・マイン(北部出身)。
②国家主席(元首)はチャン・ドゥック・ルオン(中部出身)。
③行政府首相はファン・バン・カイ(南部出身)。副首相・・・3名。閣僚・・・23名。
④国会議員数・・・498名(任期5年)。議長はグエン・バン・アン。
5 内政
①1986年以来ドイモイ(刷新)政策を堅持。1990年代半ばまで年率8~9%の成長実現。97年アジア経済危機により99年には4,8%まで減速。2000年、6,8%まで回復。2002年、7%。2003年、7,3%達成。2004年は7,5%を目標。
②共産党一党独裁支配の下、思想・表現・情報など厳しく管理。
③地域間・個人間における貧富の格差の拡大や汚職問題などが徐徐に顕在化しつつあるも、着実な経済発展が続く限り、今のところ社会不安の芽は大きくない。
④積極的対外開放政策に基づく観光客の増大がある(1995年約135万人、2002年約240万人)。
⑤外国直接投資などの結果、一般犯罪は増加しつつも、テロ・誘拐などのいわゆる政治犯罪あるいは反政府運動の兆しはない。
6 外交―――戦略的かつ現実的外交の展開
①ASEAN重視・・・アセアンこそは国際社会一般との重要な接点・窓口と認識。
②日本・アメリカ中国・ロシアとの関係を最重要視・・・まずロシアとはベトナム戦争以来の伝統的友好関係のほか、武器体系、人的関係を通じた関係は依然として強力だが、経済面での関係は年々希薄化している。つぎに中国とは歴史的・地理的関係に基づく安全保障上(中越国境問題、南沙問題)及び経済上の観点が強い。さらにアメリカとは1995年国交正常化後、2001年の通商協定締結というように順調に発展(2003年の対アメリカ輸出が飛躍的に増大し、対日輸出を超え№1)。双方とも戦争に起因する憎悪関係はもはや希薄。特に来年はベトナム戦争終結30周年。政治関係は徐々に正常化。ベトナム首相の訪米も俎上に。もっとも民主化問題・人権問題もあり、微妙な距離感が必要。最後に日本とは余計な懸念なしに信頼し、頼れる関係を目指し、ここ数年のベトナム側の対日重要視姿勢が顕著。それは『自然の同盟関係』『戦略的パートナーシップ』と表現される。
――― 以 上 ―――

「なんとなくベトナム国家のイメージがつかめました」
「そう?でも『ベトナム戦争』っていうイメージがまだ強いでしょ」

 日本人はベトナムという国についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。来年はベトナム戦争が終結して30周年となりますが、いまだにこの戦争のイメージが強いのではないでしょうか。ベトナムという国家は既に申し上げたとおり大変な親日国家ですし、日本の国益上、対中国投資に絡むリスク分散先として大きな魅力を持っています。ですから何とか両国がきっちり結び合える『もの』が必要と考えますが、そう思っていた時に私がふと思い出したのがベトナム航空の機体に描かれていた『蓮の花』です。『蓮の花』はもともと仏教の花であり、仏様は蓮の台座に座っておられます。ベトナムは人口の90%は仏教徒であり、しかも東南アジアでは珍しく日本と同じ『大乗仏教』です。またベトナム人は日本人同様「お茶」が大好きで、なかでもベトナム人にとって最も風流な「お茶」のたしなみ方は、「蓮の花のつぼみに溜まった露」、あるいは「蓮の葉っぱに溜まった露」を使ってお茶をたてることです。さらにベトナムで最も愛されているホーチミンは1890年5月19日、ベトナム中部ゲアン省の「ランセン」という村で生まれましたが、この村の名前がベトナム語ではズバリ「蓮の村」という意味なのです。今回訪問したベトナムのイメージが『戦争』から平和の象徴『蓮の花』となることを祈ってやみません。

2004/9/1(水)

ベトナム研修を終えて

「7月の半ば頃、ぜんぜん連絡がつきませんでしたけど・・・」
「うん。ちょっとベトナムに研修しに行ってたのさ」

 今年は日露戦争で日本がロシアに勝利してから100年になることは申し上げましたが、ベトナムにおきまして、やはりちょうど100年前に、「東遊運動」(ドンズー運動)といわれる、いわば「日本に学べ運動」が沸き起こりました。それはマハティールの「ルック・イースト政策」より前の事です。

 フランスは、1800年代からベトナムへの侵略を開始し、1833年フエ条約により保護国とすることによって完全な植民地としました。1904年、極東の小国、しかも長い鎖国から開国して間もない日本が、大国ロシアを打ち破ったことに感激したアジアの諸国民は少なくありませんでしたが、ベトナムでは、「ファン・ボイ・チャウ」という青年が立ち上がりました。

「誰ですか、その方。初めて聞く名前ですけど」
「まあ、聞きなさいって」

 1904年、彼は、抗仏運動のための「維新会」を結成し、翌1905年、日本の援助を求めるために日本に渡り、そこで中国の亡命革命家「梁啓超」の紹介で、「大隈重信」「犬養毅」「福島安正」「根津一」といった人物と知り合うとともに、ベトナムから日本へ留学生を送り込み、これらの留学生と語らって、「ドンズー運動」を展開しました。留学生の数は、1905年にはたった3名でしたが、1908年には200名を超え、これらの留学生は、振武学校、東京同文書院、成城学校などで研鑽をつみました。ファン・ボイ・チャウは、当初、日本からの軍事援助を目的としていましたが、自らの目で日本の現状を見るうち、人材育成の重要性に気づいたからです。

 こうして日本で火の手の上がった抗仏運動に危機感を抱いたフランス政府は、ベトナムにおいて日本に留学をさせている家族に対して弾圧を加える一方、日本政府に対して、日本で維新会のメンバーとしてドンズー運動に加わっているベトナム人の逮捕・引渡しを要求しました。日本政府は当時日本に滞在していた、維新会の盟主に祭り上げられていた、ベトナム・グエン王朝のクオンデー候の引渡しは拒否したものの、1909年、多くのベトナム人留学生の国外退去処分を実行しました。ファン・ボイ・チャウも、日本に大きな失望と幻滅を感じたまま、国外に退去せざるを得なくなりました。 
 
 ファン・ボイ・チャウは、その後、中国の広東において、中国の革命勢力とも協力しながら抗仏運動を続け、1917年、再び訪日しましたが、日本が欧米列強と同様に植民地帝国主義になりつつある現実を目の当たりにして、大きく失望し、滞在日数わずか二ヶ月あまりで日本を離れてしまいました。彼は、その後1925年、上海でフランス当局に逮捕され、ベトナムに連行された上で終身刑の宣告を受けましたが、ベトナム民衆の全国規模の助命嘆願運動の結果釈放され、1940年に亡くなるまでの間、フエで軟禁生活を余儀なくされました。

「どこの国でも『国造り』って大変ですね」
「でも、これって『男子の本懐』だよね」

 1900年代初頭、欧米列強に追いつかなければ自分たちが植民地にされてしまうという危機感があった日本にとって、近隣アジア諸国の独立を願う声に耳を傾ける余裕などなかったかもしれません。ただ、当時の日本の国家目標から判断して、結果的にはやむをえないプロセスをたどったとはいえ、もう少しうまい方法で支援することができたのではないでしょうか。

 さて、それから100年、長い抑圧と戦争を乗り越えたベトナムは、現在、懸命に国家造りに励んでおります。この間に登場したのが、現代ベトナムの国父とも言える故ホーチミン主席ですが、実を言いますと、故ホーチミン主席とファン・ボイ・チャウには接点があります。ファン・ボイ・チャウも故ホーチミン主席も、ベトナム、ゲアン省生まれで、故ホーチミン主席の父親とファン・ボイ・チャウとは交流があったとの事、いわばファン・ボイ・チャウの遺志が故ホーチミン主席に引き継がれたともいえるでしょう。

 ベトナムは、現在、日本を最大のパートナーとして位置づけ、われわれ日本も多額のODAをはじめ、民間の投資、技術移転などにより、力強くベトナムの経済発展に貢献しております。そして、ベトナムからの日本への留学生も最近急激に増えており、現在1300名にも達しています。

 100年前、われわれ日本人は、ベトナムの民衆の声に耳を傾けることをしませんでしたが、もう同じ誤りを繰り返してはいけないと思います。歴史のめぐり合わせといいますか、ベトナム人が今そのように語っているわけではありませんが、私には100年を経た現在がベトナムの「第二のドンズー運動」に思えて仕方ありません。私たち日本人は、100年越しのベトナム人に対する借りを返す絶好の機会と考えます。

「いやー、もうバリバリの親越家ですねー」
「そう、日本のОDAもやっぱり『親日国家』をメインにしないとね」

2004/8/1(日)

乃木ビールが飲みたい

「本橋君は、『東郷ビール』を飲んだことがあるかね?」
「えーと。『養老ビール』なら飲んだことがありますが・・・」

 あちこちで様々な地域活動団体の総会が開催され、それぞれの団体が新年度のスタートをスムーズに切られたことかと思います。私自身、いくつかの団体の総会に出席させていただき、今年もまたドキッとする話をして下さる方との出会いを頂戴し、改めて自分の浅学非才ぶりを思い知らされました。とくに御高齢の方が多くおられる団体となるともう近現代史の授業状態になってしまいます。80歳代半ばの方でしたら「大東亜戦争」をご存知でしょうし、その年代のお父さんともなると「日露戦争」をご存知かと思われます。そういえば今年は確か「日露戦争百周年」にあたりますね。

海外旅行をしていて、鮮烈な思い出が2回ほどあるんだなー」
「どんな思い出ですか?」
「うん、一つは『フィンランド』に行ったとき、あんときゃ一瞬心臓が止まるような感じがしたな」

 私も話を聞いて驚きましたが、その方が20年近く前、「フィンランド」を訪れたとき、空港からヘルシンキに向かう途中、真っ白い大きな工場とおぼしき建物の上に、「東郷平八郎元帥」の巨大な肖像画が立っていたので、思わず添乗員に「あれは何だ」と聞いたところ、フィンランドでは「アドミラル・トーゴー」と名付けたビールが製造されており、大勢の国民に愛飲されているとのことです。

 フィンランドは約1500キロの東の国境線をロシアと接し、19世紀を通じて大国ロシア帝政の圧制に苦しみ、100年後のロシア革命によってようやく独立するわけですが、独立するまでは、いつも自分達の目の前を居丈高に徘徊していたロシアのバルチック艦隊を疎ましく思っていたことでしょう。そのバルチック艦隊を日本海海戦で一瞬のうちに海底の藻屑に葬った海将東郷平八郎をたたえ、それが『東郷ビール』誕生のきっかけとなったわけです。

「二つ目は『トルコ』に行ったときだな、あんときゃ度肝を抜かれた」
「どんな事があったんですか?」

 私も話を聞いて感心しましたが、その方が同じく20年ぐらい前、「トルコ」を旅行したとき、高台に「黒海」を眺望できる公園があると聞いたのでエッチラ・ホッチラ上っていったところ、銃を肩に掛けた2人のトルコ兵の若者と出会い、2人の若者はニコニコしながら近づいてきて話しかけてきたとの事です。

『貴方は日本人か』
『そうだ』
『日本人は偉い、ロシアをやっつけたのだから』

 トルコもまたロシアと国境を接し、かつてオスマン・トルコ帝国時代は黒海の奥深くにまで勢力を伸ばしていましたが、19世紀に入って黒海を巡る両国の争いが絶えなくなり、特に、トルコ帝国を「貧窮の病人」と呼んだニコライ1世はその分割を画策し、次々とトルコの勢力圏を侵食し、ついに19世紀半ばにクリミヤ戦争が勃発します。その結果、トルコ艦隊は黒海海戦でロシア艦隊に全滅させられたのですが、その苦い国家の歴史をその若い兵士達は知っているわけです。その事を踏まえた上で、クリミヤ戦争から約50年後、極東の名もなき小国がトルコの宿敵ロシアに勝利し、あまつさえロシアの大艦隊を潰滅させた日本への畏敬の想いがこの若者の口をついて出たのでしょう。また、トルコの街には「東郷通り」・「児玉通り」そして「乃木通り」と名付けられた道路があるのです。

「この2つの国の国民の歴史観・歴史認識はたいしたもんだと思うよ」
「私もお話を聞いて共鳴するところがあります」

 20年ぐらい前と言うと私はまだ大学生ぐらいでしたが、当時の私の歴史認識はお粗末なものだったと言えますから、さきのトルコ兵の若者と議論しようものなら「歴史観喪失の透明人間」と思われてしまうかもしれませんし、また、もし今現在の日本の大学生と議論させようものなら、「それ」が空中に浮遊していると受け止められかねないでしょう。まさに近現代史教育を意図的に回避してきたツケがまわってきたといえますし、逆に『トルコ』はそこをしっかりとやってきたのでしょう。

 司馬遼太郎は、明治の日本人、特に日露戦争までの日本人は偉かったと評価しながらも、日露戦争後から昭和20年の終戦までを「奇胎」の40年間と表現してこの頃の日本人、とくに国家指導者層を痛烈に消極評価していますが、歴史的事実は見る人によって大きく変化しますし、同じ人物についても異なったいくつもの小説が生まれたりします。司馬の「殉死」などによる評価がいわゆる「乃木希典愚将論」なるものを生み出しましたが、現在は新しい史料が発見されこのような評価は払拭されようとしています。もし『フィンランド』なら、間違いなく『乃木ビール』が誕生し、『東郷ビール』とのハーフ・アンド・ハーフも発売されているかも知れませんね!!

「本橋君は、『染井桜』を飲んだことがあるかね?」(えっ、まだ続くの・・・)

2004/6/1(火)

「官民格差是正」もホドホドに

「本橋さん。こりゃないですよー」
「ほんと。私たち公務員志望としてはガッカリです」

 私の事務所に通う学生の多くは公務員志望ですが、どうやら彼ら彼女らは、豊島区が向う2年間職員採用をストップしたことが気に入らないみたいです。

 確かに、「自治体」とは、社会的実在として存在し、これを祖先からしっかりと世襲して、未来の子孫に引き渡さなければならず、その大切な担い手を2年間に亘って採用しないと言うことは極めて由々しきことです。採用自体をしなければ、有能な人材との出会いもないわけですし、職員構成も高齢化のピラミッド構造を増幅させてしまいます。

「本橋さん。何とかしてくださいよー」
「そうですよ。私は本橋さんがいる豊島区志望なんですから」

 しかし、平成16年度予算特別委員会における私との質疑応答において、この「2年間新規採用ゼロ」については、理事者として「苦渋の決断」をしたことがうかがえましたし、また公務員それ自体の人員削減は必要であるとの国民合意があると思われる昨今では、豊島区の方針はぎりぎりのところで合理性を見出せると思います。

「えっー、それじゃ本橋さんは公務員の給与削減・勧奨退職も賛成ですか?」
「もう本橋さんの所で学ばないからー」
「そうだー、公務員志望者の敵!!」

 ここまで過激なことを私に向かって言うこの学生達はいったい何者かといいますと、私自身これからは学生の段階で「裸の政治」を見せたい・伝えたいとの想いから、5年前より日本全国から学生を「本学塾(本橋ひろたかと共に学ぶ塾)」塾生として受け入れており、ここで上下関係なしで「裸の政治」を語り合ったりしております。

 今回平成16年春季では8名の若者が私の塾の門をたたき、面接の結果全員合格となり、私の下で政治を学んでおります。(平成18年3月現在、4名)特に、この時期は第1回定例会と重なり、塾生には私が所属している「区民都市整備委員会」「予算特別委員会」のすべてを傍聴させ、彼ら彼女らはそこでの公務員のありのままの仕事振りを見て、「やりがいがある」「時代の歯車を動かす仕事だ」などの感想を私に伝えてきました。塾生たちはどうやら「公務員」と言う職業に感情移入してしまったようです。

 それはそれとしまして、私は「勧奨退職」についてはこの場では言及いたしませんが、「職員給料削減」については一言だけ言わせていただきたいと思います。

 平成八年、厚生省(今は厚生労働省)の汚職事件が発生しました。それは、埼玉県の特別養護老人ホームの建設をめぐって、厚生省内の汚職疑惑が発覚し、業者からマンション購入資金を受け取ったなどとして、岡光序治事務次官(当時)が逮捕されたと言うものです。何故に厚生省の事務次官ともあろう人物が個人的な蓄財に走ってしまい、挙句の果てには法に触れることまでやってしまったのか。そこをしっかりと分析して、今後に展開することが大事だと思います。

 私は、ポイントは昭和61年に行われた「公務員共済組合」の年金の引き下げにあると見ております。改定前の公務員年金は、退職時の俸給が基準となって算定されていましたが、改定によって在職期間の平均俸給額によって決められ、退職時の役職とはあまり比例しなくなってしまいました。加えて、改定前に採用された人の年金も引き下げられたことは、あたかも「遡及処罰禁止の原則」に現れている法の精神にもとると言えます。

 年金を下げられると、公務員としては国家・国民のために懸命に働いたとしても、こと退職後となると悠々自適に暮らせないわけですから、ついつい将来のことを考えて行動してしまうことは無理もないとおもいます。 もちろん、岡光次官の一件は犯罪であり、決して許されるものではありません。しかし、彼を批判するだけでは何の解決にもつながらないと言うことです。

 そもそも日本の官吏に対しては、一般人にはない年金(恩給)が与えられていましたが、これはなぜかと言えば、まさに天下・国家のために老後の心配もなく懸命になって働いてもらえるようにする、私利私欲や下品な立ち居振る舞いをしないようにする。この目的からすれば、公務員の年金を一般の社会福祉の視点で考え、「官民格差是正」という錦の御旗の見地からいじることは如何なものかと思います。

 また、岡光事件をもう少し見てみますと、彼は大体6000万円の蓄財をしたわけですが、そのための手段として、特別養護老人ホームの建設などに絡んで約10億円もの余計な補助金を国家に使わせてしまっております。彼の不正蓄財には10億円の税金が原資となっているわけです。

 このような構図は、いわゆる「特殊法人」への天下りについても言えるでしょう。例えば、天下り先で年間1000万円の給料が支払われているとすれば、オフィスの経費や、お抱え運転手や秘書の人件費と言った具合に、それ以上のお金が使われているわけです。

 汚職や天下りを防ごうとするのならば、公務員が蓄財に走らずに職務をまっとうできる環境を作る必要があります。そのためには、むやみやたらと公務員の給料や年金を下げてはいけません。むしろ大幅な人員削減をしながら、給料や年金を上げる方策を考える方が得策だとおもいます。

「さすが本橋さん、公務員の味方!!」
「私、これからも本橋さんの下で学びます」

おいおい、この上げ下げは何なの?

2004/3/1(月)

街づくり&国づくり

「あっ、安倍さんがしゃべってるー。次は小泉さんだー。」
「なんだ、安部晋三幹事長、小泉純一郎総裁を見るの初めて?」
「そりゃそうですよ。なんてったって、僕達まだ学生ですから」

 平成16年1月16日、第70回自由民主党大会が、JR品川駅西口にある新高輪プリンスホテルで開かれ、かねてより一緒に行きたがっていた学生たちを連れて参加してきました。その日の安倍幹事長の挨拶や小泉総理の演説は、自衛隊のイラク派遣が国論を二分し、かつ秒読み段階に来ていることもあってか、ボルテージがひと際上がったものとなっており、特に小泉総理がしゃべっているとき、前列に陣取っている多数の国会議員が「そうだー」などと合いの手を入れ、会場の雰囲気はいやがおうにも熱くなりました。これらの光景を目の当たりに見た学生たちも党大会の熱気に戸惑っておりました。

「おっ、安倍さんがこっちに来たー。」
「向こうで小泉さんと記念写真が撮れるって、行こう、行こう」

 私自身は党大会には何度も出席しているのと、都連の青年部の副部長をている関係で、党の幹部とは会う機会があるので、取り立てて感動はなかったのですが、初めて参加した学生たちにとってはとても新鮮で且つ刺激的だったことは確かでしょう。第1部の党大会に引き続いて、第2部の懇親会では、会場の一角に小泉総裁との写真撮影コーナーが設けられ、ある学生は一緒に記念撮影をするどころか、小泉総理と握手をして会話も楽しんでくる始末です。それでもここへ来て多くの第一線で活躍している政治家を生で見て、生の声を聞いて、この学生たちは何かをつかんでくれるだろう。私にはない新しい感性でこの時空を捕らえてくれるに違いない。後で話を聞くのがとても楽しみだ。そう思って私はテーブルに陣取って彼らの荷物の見張り役をしておりました。

「いやー、楽しかったです」
「いい思い出になりました」

 この党大会についてどう思ったか後で自由に喋ってもらったときに出てきた彼らの多くの感想です。これ以上は彼らのためにもここでは申し上げることはできません。と同時に、それは常日頃の私の彼らに対する教え方・導き方が悪かったことを意味します。ここで、「なぜ」、と思ってみても仕方がありません。私の学生に対する政治の伝え方の幼稚さに原因があるわけですから・・・・・・・。

 ただ、私が学生たちに期待したことをここであえて申し述べさせていただくと、それは自民党の幹部達の話を聞いて、「この国のかたちをどうするのか」という問いかけへの、彼らなりの挑戦の言葉・言説を聞かせてもらいたかったという点につきます。

 昨年の11月の総選挙を思い起こしてみますと、そもそも政治というものが、国家の基本・土台となるべき事柄に取り組むことが主眼であって、政権公約に関しても、そのためにどうするかが議論されてしかるべきでしょう。その意味では、当時の総選挙における格闘の政権公約は、いかにして濃く見抜けするかが最大関心となってしまっていたのではないでしょうか。公約の1番目が「高速道路の無料化」という占拠というのは、ある意味では異常としかいえません。本来なら、わが国が国際社会の中でどのような役割を果たすのか、その原則をしっかりと明記すること、大きなテーマは憲法改正ですが、9条の解釈をわかりやすいものにし、同時に自衛隊の存在と役割をここにしっかりと位置づけること、そして国家が存続していくためには教育の問題に取り組まなくてはなりません。日本人が持っている粘り強さとか、我慢図よさとか、この持ち味を失ってはならない、その意味で、教育基本法の改正や現場の教育の問題が重要な論点と成っていることです。

 加えて、さらに突っ込んだ議論をいたしますと、あくまでも現実を踏まえたうえで議論を構築してほしいということです。えてして、憲法改正と9条を絡めると、やれ「自分たちの国は自分たちで守ろう」とか、「小型核兵器ぐらい持つことによってわが国も核抑止力を持つべきだ」とかいった議論が出てきてしまいがちです。しかし、わが国のおかれたさまざまな現実を踏まえるならば、「自分たちの国は自分たちで守る」という近代国家の建前を踏まえつつも、これからの安全保障の実態は「自分たちの国は自分たちだけで守れるわけではなく、他国との強調を必要とする」という結論に至るでしょう。テロリズムへの対応は、まさにその典型的な事例です。

 さらに、「この国のかたち」を形成していくに当たっては、もう国民意識の中の「亀裂」めいたものを消して温存させてはならないということです。この典型的な事例が、いわゆる集団的自衛権の問題ではないかと思います。現在の政府公式見解は「集団的自衛権は保有してはいるものの、その行使は憲法上禁止されている」というものですが、これ自体まさに、広範な国民の合意を形成しきれないでなし崩し的にことを進めてきてしまった結果でしょう。現に、その亀裂のせいで安全保障政策の領域で本来は必要とされる選択を下せないという局面がいくつも続いたことを忘れてはなりません。また、内閣法制局に解釈させてしまってよいのかということも大問題です。やはり政治家が直接国民に語るべきです。

「本橋さん、何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「別にー、今日は楽しかったねー。これから事務所に帰って勉強しようね」

2004/2/1(日)

新暦ライフに旧暦を

昨年は私にとりましてはまさに変転の年で御座いましたが、皆さんにとりましてはどのような一年でしたでしょうか、お伺いいたします。私自身、何とか無事に乗り切ることが出来ましたが、これも皆々様のお陰だと感謝御礼申し上げる次第です。

今年もどうぞ宜しくお願い致します。

「本橋さん、僕の地元のカレンダー持って来ました。使って下さい。」
「ありがとう。使ってみるよ。」
「このカレンダーは地元ですごい人気なんです。」
「へぇー、そう。あれっ…、これ平成16年の9月までしかないじゃない。」
「当たり前じゃないですか。」

 この時期になりますと、とかく真新しいカレンダーが世の中をでまわり、今年一年どのようなカレンダーを使おうか、頭を悩ます方もいらっしゃるかと思いますが、皆さんはもうお決まりになったでしょうか。

 ちなみに私の場合は、色々なカレンダーを収集するのが一種の趣味なのですが、実際のところは毎年使うカレンダーを某生命保険会社発行のものと決めておりまして、そのカレンダーが到着するや否や、まずすべてをバラしてしまい、1月から順番に12月までのすべてを事務所の和室の欄間のところに一気に張り巡らせております。こうすることによってその一年の活動スケジュールが頭の中でまるで宙を飛び交うようになって非常に便利なのであります。

 さて、今まで様々なカレンダーを集めてきましたが、そのほとんどは、新年の1月が一枚目にきて、その後順番にその年の12月までが綴じられたものとなっております。

 しかしこの度、私の「本学塾」に愛媛県西条市出身の学生さんが入塾しまして、その学生が私にくれたカレンダーが、なんと前年の10月が一年のスタートで、翌年の9月が一年の終わりとなっているのであります。

「あれっ、本橋さん。こういうカレンダー見るの初めてですか?」
「もちろんはじめてだよ。」

 意外と知られてはいないとのことですが、愛媛県西条市の「西条まつり」は、毎年10月の14・15・16日に行われる歴史と由緒ある秋祭りです。「新居浜まつり」と並んで「西条まつり」は、まさに愛媛を起点として日本全土を熱くすると言ってもいいのではないでしょうか。「太鼓台」10台、「だんじり」100台、「御神輿」4台そして「子ども太鼓台」6台が街にくりだす様は豪快の一言で、それらに参加する人の数は1万人、見物客が毎年約15万人で、西条市の人口の3倍もの人が、この3日間に集中するとのことです。特に、「だんじり」においては担ぎ手が酒をアオッテからくりだすためとても危険で、一昨年には死傷者を出しています。

今年、私はこれにぜひ参加したいと思っております。

「沢山カレンダーが在りますねー。本橋さん、これは何ですか?」
「旧暦カレンダーだよ。今お薦めだよ。」

 バブルがはじけた頃でしょうか、旧暦が見直されるようになり、ここ一・二年、様々な趣向を凝らした旧暦カレンダーが出回っております。実のところ、私自身、旧暦ファンでして、初めは私の生活に旧暦を組み入れて、私だけの秘密として楽しんでおりましたが、今は親しい友人たちとも感動を共にするようにしておる次第です。(ちょっと、大げさですかね・・・)

 月の満ち欠けを基準にして太陽の運行による季節の変化を取り入れた旧暦は、古代中国で生まれ、東アジアで広く使われてきました。日本では明治の初めまで1200年以上にわたって使用されてきたのですが、いわゆる文明開化と共にグレゴリオ暦と呼ばれる太陽暦(新暦)に取って代わられました。太陽暦は、私達のような農耕民族の生活から割り出されたものではないので、季節感がほぼ一ヶ月以上先行してしまっております。これに対して、旧暦は月の満ち欠けのリズムを基にして、農業や漁業の現場で経験則的に使われてきたもので、それぞれの季節感も十分に取り入れられております。旧暦を生活に取り入れるメリットは沢山あると思います。例えば、栄養があって値段も安い「旬」の時期は旧暦に照らせばまず間違いないでしょう。ハウス物ではない、本当の旬の食材をきちんと選べば、おいしく、安く、しかも健康にもよい一石三鳥の食生活が送れると思います。また、旧暦は季節とともに歩みますから、旧暦で衣替えをし、本当の季節にあった服装でいれば、冷暖房も控えられるので「自然にやさしい生活」が送れるのではないでしょうか。

 自然のサイクルにあった「スローライフ」を送ってみてはいかがでしょうか。そのためにも旧暦はとても役に立つと思いますし、使い方を工夫すれば、きっと暮らしの中に何か新しい発見、感動、そして別の世界が見えてくること間違いなしです。

新年は是非「旧暦ライフ」を楽しんでみて下さい。

2004/1/1(木)

ロシアから反省を込めて

――本橋さん、ロシアに行ってきたんだって?
――行ってきたよ。初日2日目はウラジオストックで、3日目4日目がハバロフスクだったけど、ロシアはとにかく良かったよ~。萩生田部長は行った事ある?今度の自民党青年部の海外研修はロシアにしようよ。

 毎年夏、私達自民党東京都連青年部は海外視察研修を行います。しかし今年の研修はは色々な事情が加わって冬季に延期実施することになりました。実際のところ、この夏には重要な市長選挙が都内にいくつかあったため、選挙活動の最前線に駆り出される私たち青年部員にとってはかえってこの決断は良かったのではないかと思います。そして、青年部長で八王子市選出の萩生田光一都議会議員が、この度の衆議院議員選挙に自民党公認で出馬することになりました。青年部副部長として長年部長を支えてきた私にとっては、海外視察によって忙殺されることなく後援会活動に専念することが出来て良かったなと思っています。

(ちなみに、萩生田光一都議は学生時代に当時の黒須隆一都議の秘書として活躍した後、若干27歳で八王子市議会議員、38歳で都議会議員となり、まさに自民党の若手ホープの中心人物です。思想的にも地域や国の伝統や慣習そして歴史を大切にしつつもこれをしっかりと子孫に伝えていく事が大事であるという立場の政治家です) 

――ロシアの極東を視察してみて何か得ることはあった?
――あったよ。あの時はドキッとしたね。

 今回の視察行程の中で特に楽しみだったのはハバロフスク市の初等学校への訪問でした。ここは日本でいういわゆる『小・中・高一貫教育』をしている公立教育機関であり、世に言う『勉強の出来る、いいところのおぼっちゃま・おじょうちゃま』の通っている学校とのことです。

 ドキッとしたこと。それは確か高校の方の授業風景を見学していた時でしたが、ある教室内で一通り授業の進め方など説明を受けた後、我々に対して何か質問がありますかと担任の先生が生徒達に言ったところ、ある女子生徒がすうっと手を挙げ『日本ではいつの段階から哲学を学びますか?』と聞いてきました。こちらとしてはその質問の趣旨がどういう事であるか痛いほど分りながらも、『大学からが一般ですが、私立高校では選択科目として哲学があります』と応えるのが精一杯だったような気がします。 

 時はいまだに北朝鮮問題が大きく議論されており、日本政府は最近、北が核実験をした場合の対応を発表したところですが、それよりもまして何故日本は主権国家として拉致されてしまった自国民を救出せずに放置したままだったのか。拉致の事実を北が認めたのだから救出しに軍隊を派遣しないのか。軍隊がないのなら、あっても派遣できないなら国家として溶解しているとしか言いようがないのではないか。また、そもそも日本は国家としての哲学があるのですかと。

 他方で時はまさに衆議院議員選挙実施へと確実に向かっておりますが、こと選挙におけます自民党の候補者選びについても考えるべき点があるのではないかなといった感があります。

-----えっ、本橋さん、俺じゃ駄目って事?
------いやいや、萩生田部長はOKだよ。青年部あげて応援するさ。

 つい最近土屋義彦知事の辞職に伴う埼玉県知事選挙が行われ、自民党の候補者は惨敗をしてしまいました。当のご本人は豊島区立時習小学校の卒業生でしたので私も親近感を持って応援した次第であります。ところでこの選挙の候補者の中には、いわゆる『ジェンダー・フリー知事候補者』も存在していたのであり、自民党の一部県議の中にはこの候補者を擁立しようという動きを見せていた事実があります。もっとも、結果的には、この候補者が埼玉県副知事の頃、逮捕された土屋知事の娘の市川桃子と極めて親しい関係があったことが理由となって,この話はつぶれたわけですが、知事選でも閣僚人事でも、スキャンダルの後は女性を起用してダーティ・イメージからの回復を図ると言う手法は如何なものか。今回はたまたまダーティな土屋親娘に近すぎたからこの『ジェンダー・フリー知事候補者』の擁立を自民党は見送りましたが、もし仮にこのような事情がなければ擁立していたと言うことであり、それはつまり選挙に勝てればフェミニスト知事だろうがジェンダー・フリー知事だろうが構ったことではない。勝てば官軍、負ければ賊軍。自民党はかくも哲学のない政党になってしまったのでしょう。大変残念で仕方ありません。

日本政府・自民党に哲学を。
そのために、本橋ひろたかに力を。

2003/9/1(月)

オニギリVSおむすび

(2002年08月 名店街ニュースより)

――作業終了~。休憩!!昼飯!!
――いやぁ、腹減った。さ~て、オニギリ、オニギリ

 この8月の上旬、私は富山県で山林の草刈りボランティアをしてまいりました。大自然の山の中に、碁盤上の交差点のように杉の木の苗木が植えられていて、その成長が下草によって妨げられないようにするための活動です。林業の世界では欠かす事のできない作業です。草刈りはとてもきつい肉体労働であり、また危険で、汚い作業です。

 なぜか私は参加した先の草刈部隊の副隊長に任命されてしまいました。なんでだろ…。

――副隊長、飯食わないの?
――食べるよ、おむすび。

 この草刈ボランティア活動の昼食メニューはいつも『おむすび』、しかも一人2個と決まっておりまして、ただひたすら下草刈り作業をしている我々にとって唯一のお楽しみなのです。当日の食事当番の方はその唯一のお楽しみの『おむすび』を、ごはんの程よい炊き加減・海苔の巻き加減と塩の配分に気を遣いながら、頬張り易い三角形に作っていきます、まさに気持ちを、心を込めて、手に盛ったごはんを両手で結ぶのです。 

――きょうのオニギリは最高!
――うん、このおむすびは美味い!!

 最近の日本語の乱れ方は『大変困った』を通り越して、『一体どうするの』、といった感があります。本屋さんに行くと『声に出して読みたい日本語』『皆さんこれが敬語ですよ』といった書籍が入り口近くのコーナーに今もって平積みされている事からも分かります。

 たしかに言語は時代によって変遷してゆきます。とりわけ最近はグローバル・スタンダードなどどいった横文字を始めとした文化が日本語の領域にまで進出してきています。困った事ではありますが、この言葉でなければ伝えきれないというものならば、横文字でも止むを得ないでしょう。しかし、日本にいて日本語で表現できる事柄ならば是非とも日本語で表現してもらいたいのです。私が主張したいことは、同じ事柄を複数の日本語で表現することができる場合であっても、さらにその中からより日本の伝統や慣習、日本人の魂や心に応えてくれる表現・言葉を採用して欲しいと言うことです。 

――副隊長、オニギリを『おむすび』と言おうが、『オニギリ』と言おうがカマへンヤないですか。同じ事でっしゃろ。
――いやいや、これはやっぱり『おむすび』だよ。
――なんででっかいなー。関東だからでっか。

 『オニギリ』と言う呼び方は、私のような感性の持ち主からするとどうしても納得する事のできないものなのです。ちなみに、適当な辞書で調べてみると、その多くが「握り飯の丁寧語、おむすび」となっていますが、そのなかの小学館・2001年2月20日発行の日本国語大辞典第2版第2巻によれば、「自分の手を握り締める事をいう幼児語」となっており、その後に続けて、藤森秀夫の童謡「手のなるもみぢ、お握り上手」が載っていました。つまりは、『オニギリ』は、赤ちゃん相手の必須用語なのであって、赤ちゃんが自分の手を握り締めることを示しており、お母さんからすれば、『はいはい、オニギリですよー、はい、ニギニギしてごらんなさい』とあやしながら赤ちゃんにプラスチック製の小さなおもちゃを握らせたりするわけです。まさに『オニギリ』は『おしゃぶり』と並んで乳幼児のための大切な小さなおもちゃなのです。

 加えて、「にぎる」は、本来片手を使う「つかむ」に類似の片手の動作を示します。そこから、「にぎりめし」は、ご飯を片手でわしづかみにしてほおばる食べ方と、その食べ物をしめす表現手段として最適と言えます。 他方で、片手ではなく両手を使う動作は「むすぶ」が最適でしょう。 また、食べ物で「にぎり」は、一般には江戸前の「にぎりずし」の「すし」を言いますし、しかも、先ほど申し上げた乳幼児の話もあることから、関東方面では『オニギリ』では変な感じになってしまい、そこから『おむすび』が本流となったと思います。対して関西方面では、「すし」と言えば「押し寿司」の事を一般に指し、「江戸前の握り寿司」がなかったから『オニギリ』が本流となったのではないかなと思われます。

遠足の日や運動会の日など、『おむすび』は母と子・祖母と孫達の心を結び。

お祭りの日にあっては隣近所・地域の人達の心を結ぶ。

又あるときには自然災害の時など、見知らぬ人達同士の心を結ぶ。

それは、米で育ち、米で生きてきた日本人にとってかけがいのない食べ物。

命を支え、活動の力を生み、人と人、心と心を結びつける食べ物。

作る人と食べる人との心を結ぶ最高・最良の食べ物。だから私は『おむすび』なのです。

――副隊長、もう分りました。これからは『おむすび』でいきましょ。私のほうから隊のみんなにいっときましょ。
――分ってくれたか。よし、休憩止め―――。作業開始―――。

2003/8/14(木)

夫婦別姓の罠

――去年だったかなあ。法務省が自民党に出してきた『夫婦別姓・選択制案』、あれはどうなったの?
――平たく言えば、ポシャリました。
――なんで?

 この案について説明しましょう。

 夫婦は自由意志で同姓・別姓を選択でき、どちらを選択しても対等の扱いが保障される。そして

子供の姓は第一子の出生時に決め、兄弟姉妹の姓は同じにする
②一度届け出た後は、別姓――同姓、同姓――別姓への変更は認めない
③既婚者でも制度導入後2年以内に届け出れば別姓夫婦になれる

というものです。

 確かに、自民党内でも、夫婦による選択制である点を高く評価し、一人っ子の家庭が増える中で結婚促進策になるという意見もありました。しかし、その時点では、そもそも基本の選択制を真っ向から否定する意見が強かったため、案は結局了承されませんでした。

――それじゃあ、現時点ではどういう政治状況になってるの?
――今は、今年の4月に法務省から自民党に出された『例外的夫婦別姓制(案)』を検討している、といったところです。

 この案は、夫婦の自由意志で同姓か別姓かを決める、という基本を堅持しながらも、まず同姓が原則で、別姓は例外とする。そして、上述②の『姓の変更』のうち、別姓から同姓への変更だけを認める、というものです。

 最も今のところ、この法務省案をこのまま了承するような雰囲気ではありません。この法案に対して好意的な立場の人達も、さらに手直しをして、

  (明・砲浪板躡枷十蠅竜・弔・・廚任△・
 ◆‐綵勠・痢崙麈・崗鮃燹廚郎鐔盛ぁヲ 

という案を提示しています。他方で、この法案に対して反対の立場に立っている人達の意見は、そもそも夫婦別姓を認めないというものから、別姓それ自体は認めるものの、それは民法の改正ではなくして『旧姓の通称使用を認める戸籍法の改正』でいくのがよいのではないかというものまで、いろいろあります。

――いろいろな意見が出てくるけど、キチンと結論付けはしないとね。これまでのような『問題先送り政治』はもう流行らないでしょ。
――そうだよね…

 この問題は、結婚によって主として姓の変わる女性の不便や不利益を救済するものとして提議されてきたものです。しかしより根底には、家族をめぐる価値観の問題が横たわっていると思います。そして私が何よりも残念でならないことは、今の夫婦別姓論には『家庭の中における子どもの教育の問題』について触れられていない、その意味では、夫婦別姓論は大人中心の議論のように思えてならない、ということです。今日の子どもの教育・家庭教育の重要性を踏まえたうえで、夫婦同姓か別姓かの議論を是非とも展開してもらいのです。

 そこで、『子ども』に目を向けてみましょう。家庭の中における子供の教育の要諦はどこにあるのかと言えば、家庭教育というものが、家族が一緒になって実生活をする事によって行われるものである以上、『生活が教育する』というところにそれはあると思われます。しかも、家族が一緒に生活するという『一緒に』が家庭教育にとってきわめて重要だと思います。ちなみに、ここで言う『一緒に』という事の意味は、例えば、親が子供と一緒に食事をして、一緒にお風呂に入り、一緒に会話を楽しみ、一緒に就寝する、という事です。

 この「一緒に」の生活があることは、単に物理的に一緒にいることを超えて、精神的な『一緒に』を形作り、やがては『絆』へと発展していくでしょう。その最たるものが『愛』という事になるのではないでしょうか。この『愛』こそが教育の基本だと私は思います。皇室にあっては、『愛子』様と言う命名の持つメッセージ、プロ野球にあっては、『ジャイアンツ愛』をスローガンに掲げた原辰徳巨人軍監督のセ・リーグ優勝という事実、何か時代の声として受け止めてしまうのは大袈裟でしょうか。

 さて、夫婦別姓になってしまうと、親と姓が『一緒』でないという違和感を幼い子が抱くのが自然であり、これはそもそも理屈ではないでしょう。また、どうしてお父さん(お母さん)と姓が違うのだろうと疑問を抱かない方がむしろおかしいでしょう。こうした違和感・疑問が家族の一体感、『一緒に』の精神、ひいては『愛』にヒビ割れを生じさせる事になってしまうと思います。姓は別でも心は一緒と反論されそうですが、物心ついたばかりの子供にそれが通じるはずはないと思います。また、そのことを子供に納得させること自体、寂しいものを感じてしまうのは私だけでしょうか…。

2002/10/1(火)

日本海VS東海

 (名店街ニュース 2002年9月より)

――♪♪夢にー、敗れぇー、恋にもー敗れぇー、傷つきぃーながらぁー、一人ぃーしょんぼりぃー、夜汽車に乗ったー♪♪♪
――何の歌、それ?
――北島三郎の『日本海』だよ。
――へぇ、久しぶりだね。本橋の演歌。

 最近カラオケボックスに行くと、私はよく北島三郎の『日本海』という演歌を歌います。結婚するまでの十八番は新沼謙二の『嫁に来ないか』だったのですが、実際に嫁さんが来てくれてからはラルクアンシエル、T―ボラン、グレイ等々の中で気に入ったものを適当に歌っているといった感じです。しかし、韓国との間でおきている『日本海』の名称問題が最近クローズアップされるようになってからは、もっぱら昔のど演歌時代に戻り、サブちゃんのこの歌を気に入って歌っているフリをしながら、仲間たちに対してさりげなく日本の国家主権意識を今まで以上に持ち合わせてもらおうと画策しているのです。

 海の名称については世界中でさまざまな論争が巻き起こっています。例えば、イギリスが『ドーバー海峡』と呼ぶ海峡を、フランスでは『カレー海峡』と主張しています。中東の『ペルシャ湾』については、イランの対岸のアラブ諸国は『アラビア湾』と呼んでおり、地図などに名称の併記を要求しています。

 このような動きを見れば、日本も韓国側の要求を受け入れて、『東海』とするか、または譲歩案として『日本海・東海』の併記とするかといった提案が、一見もっともらしく出てきそうではあります。しかしこのような結論は断じてあってはなりません。

――おいおい、俺たちカラオケしに来てるのに。
――なんか、演説会っぽくなっちゃたな。

 そもそも『日本海』の名称問題が表面化したきっかけは何でしょうか。それは、国際水路機関(IHO)が、来年改訂予定の海図『大洋と海の境界』の最終稿から『日本海』を載せたページを削除し、8月10日頃にIHO加盟72カ国に対してその内容の是非を問う書簡を配布した事に始まります。もちろん、その背後にあるのは韓国政府の働きかけです。彼らの主張は『日本海という呼称が正式登録された1929年のIHO会合当時、朝鮮半島は日本の植民地支配下にあり、独立国としてそもそも異議を唱える事が出来ず、そのまま日本海という名称が一般化してしまった。歴史的には、日本海より、東海・東洋海・朝鮮海の呼称が古くから使われていた。』というものです。

 これに対して、日本政府の主張は『日本海は17世紀初頭、イタリア人宣教師の手による世界地図に登場し、その後、18世紀までは中国海・東洋海・朝鮮海などの表記もあったものの18世紀末以降は日本海が定着しているといった歴史がある』というものですが、果たして説得力があるでしょうか。ましてやこの問題を扱うのはどこかと言えば、外務省です。外務省はかつて、国際的認知のある『東シナ海』を、中国側が自国の視点からのみ名付けた名称である『東海』と呼んでいるからといってあっさりとそれに従い『東シナ海』を『東海』としてしまったと言う前科があるのです。韓国政府はこの事実をしっかりと見抜いた上で日本にプレッシャーをかけ続けることでしょう。

――それじゃぁ、『東シナ海』が中国の『東海』となってるとすると…
――まいったな、『日本海』は韓国の『東海』になっちゃうんだ。

 そこで諦める事はありません。やれ何世紀までは何と呼ばれていたとか、何世紀からはどこと併記されていたかとか、細かく歴史書を調べ上げてまで研究し、理論武装しなければならないと言う問題ではないと私は考えます。

 地球上のいわゆる5大陸が出現し完成するまでの地殻変動を想像してください。大昔、日本はユーラシア大陸とくっついたままでした。その時存在したのは『太平洋』だけです。やがて地殻変動が続き、ユーラシア大陸から日本が離れてゆき、同時に徐々にユーラシア大陸と日本との間に一定の面積をもった『海域』が出来てきます。それが今の『日本海』です。すなわち、日本が出来なければそこに在るのはただの『太平洋』であり、日本が出来たがゆえにある海域が生じたわけなのです。従って、日本が出来た事が原因で発生した海域という意味で『日本海』と命名されるのは当たり前だと私は考えるのです。

 外務省が是非ともこの当然の事実を韓国政府に対して主張する事を私は願ってやまないのですが、果たしてどうなる事やら…

2002/9/1(日)

紙幣肖像考

(2002年8月 名店街ニュースより)

――ねえねえ、今度お札が新しくなるんだって?
――そうだよ、千円・五千円・一万円札が新しく生まれ変わるらしいよ。
――へえ、楽しみだね。

 最近政府は二千円札を除く、千円札・五千円札・一万円札を二十年ぶりに一新することを決定しました。この時期の『紙幣一新』はとても重要なことだと思いますし、基本的には賛成です。というのも、ヨーロッパに目を向けてみれば、ユーロ紙幣は2002年1月の使用開始前から偽造対策を万全にとっているし、アメリカでもドル紙幣について(数年前に起きたよど号ハイジャック事件の田中義三被告達による偽米ドル事件などを契機に)対策を強化しております。このように欧米諸国が軒並み高度な偽造防止対策をして自国の通貨高権を保護する中にあって、日本はやや隙を見せており、次に本格的に狙われるのは日本だと言われているからです。その意味で、新札がどれほどの威力を発揮するかとても楽しみです。

 偽造防止・経済の活性化という新札発行の目的はきわめて重要です。しかし私が言いたいのは、果たして『肖像』まで変える必要があったのか、ということです。紙幣における『肖像』とはそもそも何か、その意義と機能は何か、紙幣が持っているメッセージを国民に伝え切ったという確信があった上での『肖像交代』なのか、ということなのです。

――なんでも一万円札の福沢諭吉は続投だってね。
――その理由がよく分らないよなー。もしかして小泉さんが同じ慶応義塾だから? ――そんなんじゃないでしょう。

 今回続投となったのは(二千円札の沖縄守礼門を除いて)一万円札の福沢諭吉だけです。この判断は妥当であり賢明なものだと考えます。  福沢諭吉は日本における最初の自由・独立な知識人であったと言えます。というのも、彼は自分がしたためた書物や新聞・雑誌などの販売代金でもって生計を立てており、誰からも資金援助を受けることなく、自由な立場で『もの申す人』であったからです。もちろん、こうした自由なる知識人は、西欧にもいたわけですが、それでもマキャベリ・ホッブス・ロックそしてルソーなどには、メディチ家や開明貴族のような何らかの後援者がいました。 やはり人間何かしらの支援を受けていればそちらよりの言動をとってしまうことが多くなるものです。それは昨今の『小泉構造改革路線』の目玉である『道路公団』の問題についての各界各層の人々の発言ひとつをとってみても明らかであり、そのせいか改革のスピードが鈍っております。しかし理想の国家像を抱きつつ必要な改革を断行するために必要な人物は、自由で独特なスタイルで資本主義・自由主義そして民主主義の原理や思想を啓蒙できるような、つまり福沢諭吉のような、思想家、ジャーナリスト、そして政治家であると思います。このような人が引き続いて出てきてほしいとの願いが『福沢諭吉』に込められているのではないでしょうか。

――あと、千円札は夏目漱石から野口英世でしょ。それから、五千円札は…えーと、あれっ、誰から樋口一葉に変わるんだっけ。
――新渡戸稲造だよっ、そんなことも知らないのー。

 今回五千円札の肖像は新渡戸稲造から樋口一葉に交代します。彼女が紙幣の肖像画に採用されるほどの文学者であることは確かであり、私も異論はありません。しかしここで私が言いたいのは、今この時点で新渡戸稲造を降板させてしまってよいのかということです。

 新渡戸と言えば彼の著書『武士道』を誰しも連想するでしょう。多くの人々がこの書物を読み影響を受けたと思われますが、意外と多くの方が誤解されている点があります。武士道というのは、『単に家臣たるもの主君に対して絶対的に服従し、昼夜を問わず滅私奉公にはげむべし』といった類のものでは決してありません。基本はあくまで武士の個人としての完成を目指すものです。具体的に言えば、主体性と見識を持った自立的な武士として、どうしても主君の命令が納得の行かない場合は、自己の意見を申し立てたりするし、主君を諫めて悪しき命令を改善する方向に持っていく努力もするものであるということです。

 今、個人の自立とか、自己責任ということがやたら強調されていますが、外務省の不祥事・企業の乱脈経営・銀行の不正融資そして国産牛肉の偽装といった事件に接するたびごとに、どうして個々の人々はそれが不正であり違法行為であるということを感じながらも、上部からの命令だからと言うことで、あるいは周りの人がみんなそれに同調しているからといって多数派の意見に流されてしまうのでしょうか。このような時代状況だからこそ、武士道における『個』の自立の問題を取り上げ、日本中で議論し、日本人と日本に即した個人のあり方を示すべきです。『新渡戸稲造』はまだまだ必要であると私は思います。

2002/8/1(木)

はじめに

このたび、日々の物事に対する雑感や私の哲学などをより深く皆様に伝えていくために、blogを立ち上げることに致しました。

今後、興味を持ったこと、名店街ニュースに書いている事などをこのブログに書いていきたいと思います。このブログを通して、より多くの方々と繋がるきっかけになればと思っております。

2002/7/1(月)