2007年10月16日火曜日

竹岡に招かれて

「本橋さん、竹岡健康学園って何です?」
「色々と歴史があって一言で説明するのも難しいな・・・」

 平成17年11月12日、子ども文教委員会委員長をおおせつかっております関係で、千葉県富津市竹岡380番地にあります、豊島区立竹岡健康学園の開園70周年記念式典・学習発表会・記念祝賀会に出席してまいりました。

 この竹岡健康学園の歴史につきまして、あまりご存じない方がおられると思いますので、簡単にご説明させて頂きますと、昭和10年7月21日、皇太子殿下ご誕生記念事業の一つとして、現在の地に「豊島区立竹岡臨海学校」という名前で開校され、主に、水泳指導や海辺の自然環境を生かした理科学習の指導などを主な目的とし、夏季臨海学校として昭和14年まで機能しておりました。

 その翌年の昭和11年の冬に、いわゆる「2・26事件」が発生したわけですから、竹岡の歴史のスタートは、まさにこの日本が激動の昭和を迎えるのと時を同じくしていたということが出来ます。昭和14年5月27日からは、「東京市立竹岡養護学園」として生まれ変わり、東京の虚弱児童の健康増進と体位向上を図ることを主な目的として開園されました。時はまさに第二次世界大戦が勃発した年であり、日本ではこの2年後の昭和16年12月8日に「大東亜戦争」が開始されたわけであります。

 その後の日本は、緒戦の勝利に酔ってしまい、この先をどのようにするかはっきりとした見通しもなくズルズルと戦争を遂行し、昭和17年6月のミッドウェー海戦での連合艦隊の敗北や、昭和18年2月のガダルカナル島からの撤退が転機となり、日本の敗戦色が濃くなりはじめたわけですが、この影響は当然の事ながら竹岡養護学園にも及んでいきました。すなわち、昭和19年4月1日、東京都の学童疎開の必要性の高まりに迫られるような形で「東京都立竹岡疎開学園」が誕生したのです。

 ただし、この疎開学園は、終戦直前の昭和20年6月20日、開園の目的である、戦時中における日本の学童疎開と児童の管理・物資の調達のあり方の研究資料の提示という役割を終了したために閉鎖されました。時はまさに2ヶ月前の昭和20年4月のアメリカ軍の沖縄本島への上陸と激しい戦闘の開始があり、また、日本は戦艦大和を繰り出して最後の海上特攻隊を出撃させるも、逆に猛攻を受け、結局大和は沖縄に到達できずに撃沈されるということがあり、さらに、沖縄の大地では鉄血勤皇隊の少年達やひめゆり部隊の少女達の勇敢なる戦闘行為(沖縄では最終的には、一般住民約9万4000人・戦闘員約10万人が戦死した)があったころでした。

「まさに時代に翻弄されたといった感じですね」
「翻弄されながらも、時代は確実に『竹岡』を必要としていたよね」

 昭和21年5月27日、終戦直後の日本の児童の体位低下は甚だしいものがあり、豊島区は『教育豊島』の名の下、様々な問題をクリヤし、他区に率先して戦後初めて養護学園を開園しました。「豊島区立竹岡養護学園」の誕生です。この学園の位置づけとしては、「仰高小学校」をはじめとして、「朝日小学校」、「池袋第一小学校」、「千早小学校」のそれぞれの分校という形で歴史を刻んでいくことになりました(今日では、「仰高小学校」の分校という位置づけとなっております)。

 昭和53年4月1日、いよいよ今日の名称である「豊島区立竹岡健康学園」となりますが、これは、単に虚弱体質児童の体位向上だけに止まらず、喘息や肥満、さらにはアレルギーや偏食の子供達をも受け入れ、調和のとれた健康教育・内容豊かな健康教育を目指すところからきております。 もちろん、豊島区立の小学校の分校ですから、普通のカリキュラムに基づいた学習指導も行われます。

「よく分かりました」
「で、当日はどうでした?」

 当日の記念式典は、周年行事ではお決まりのパターン(失礼)、つまり、「開会の言葉」「国歌斉唱」「学園長挨拶」「豊島区長挨拶」「来賓祝辞」「来賓紹介」という進行でしたが、約20名の在校生の式典の最中の姿勢の良さに驚かされました。

 たいていの式典(他の周年行事はもちろん、入学式・卒業式など)でよく見かける光景は、複数の生徒が、隣の生徒とお喋りをしたり、椅子に座っているときに足を前のほうに投げ出したり、また、きちんと椅子に座っているようで両手を両膝に置いていなかったりするなどですが、ここ竹岡ではそれらが全くなかったということであります。

 また、「来賓紹介」のすぐ後に、「お祝いの言葉――在校生からの呼びかけ」があり、これまたお決まりのもので(失礼)、全在校生が一人づつ大きい声で台詞をつないで1つの文章を奏でるものですが、その一人ひとりの声がしっかりと出ていたこと、加えて、歌の部分もたった20人で歌っているとは思えないほどの声量には感嘆させられました。

 それだけではありません。この第一部の記念式典が終わった直後に、第二部として学習発表会があり、3・4年生、5年生、6年生による演劇を交えての怒涛の学習成果報告、それが終わった直後に、第三部として園庭における全在校生による一輪車の演技、それを終えるや否や、寄宿舎のフロアーにてご父兄とともに迅速に昼食をとり、第四部祝賀会のなかで「全在校生アトラクション」、その表現の部で「よさこいソーラン」を、合唱の部で「虹が」「この地球のどこかで」がそれぞれ元気よく行われました。  

 私は、このスタミナ・体力・気力が一体どうやって育まれるのか不思議でなりませんでしたが、その訳も控え室の中でウロチョロしていて目に留めた「生徒生活時程」を見て分かりました。

 全在校生は毎朝6時30分には起きて、毎夜9時00分には消灯という生活を送っているのです。規則正しい生活習慣の存在と継続が健全な精神力と肉体を育むことを思い知らされました。夜更かし朝寝坊をしていては、満足に声も出ないでしょうし、ましてや一輪車などに長時間上手に乗れるわけがありません。本当に。

 竹岡の精神を是非とも区内小学校の生徒たちに伝えたいと思った一日でした。

2005/11/1(火)