2007年10月16日火曜日

紙幣肖像考

(2002年8月 名店街ニュースより)

――ねえねえ、今度お札が新しくなるんだって?
――そうだよ、千円・五千円・一万円札が新しく生まれ変わるらしいよ。
――へえ、楽しみだね。

 最近政府は二千円札を除く、千円札・五千円札・一万円札を二十年ぶりに一新することを決定しました。この時期の『紙幣一新』はとても重要なことだと思いますし、基本的には賛成です。というのも、ヨーロッパに目を向けてみれば、ユーロ紙幣は2002年1月の使用開始前から偽造対策を万全にとっているし、アメリカでもドル紙幣について(数年前に起きたよど号ハイジャック事件の田中義三被告達による偽米ドル事件などを契機に)対策を強化しております。このように欧米諸国が軒並み高度な偽造防止対策をして自国の通貨高権を保護する中にあって、日本はやや隙を見せており、次に本格的に狙われるのは日本だと言われているからです。その意味で、新札がどれほどの威力を発揮するかとても楽しみです。

 偽造防止・経済の活性化という新札発行の目的はきわめて重要です。しかし私が言いたいのは、果たして『肖像』まで変える必要があったのか、ということです。紙幣における『肖像』とはそもそも何か、その意義と機能は何か、紙幣が持っているメッセージを国民に伝え切ったという確信があった上での『肖像交代』なのか、ということなのです。

――なんでも一万円札の福沢諭吉は続投だってね。
――その理由がよく分らないよなー。もしかして小泉さんが同じ慶応義塾だから? ――そんなんじゃないでしょう。

 今回続投となったのは(二千円札の沖縄守礼門を除いて)一万円札の福沢諭吉だけです。この判断は妥当であり賢明なものだと考えます。  福沢諭吉は日本における最初の自由・独立な知識人であったと言えます。というのも、彼は自分がしたためた書物や新聞・雑誌などの販売代金でもって生計を立てており、誰からも資金援助を受けることなく、自由な立場で『もの申す人』であったからです。もちろん、こうした自由なる知識人は、西欧にもいたわけですが、それでもマキャベリ・ホッブス・ロックそしてルソーなどには、メディチ家や開明貴族のような何らかの後援者がいました。 やはり人間何かしらの支援を受けていればそちらよりの言動をとってしまうことが多くなるものです。それは昨今の『小泉構造改革路線』の目玉である『道路公団』の問題についての各界各層の人々の発言ひとつをとってみても明らかであり、そのせいか改革のスピードが鈍っております。しかし理想の国家像を抱きつつ必要な改革を断行するために必要な人物は、自由で独特なスタイルで資本主義・自由主義そして民主主義の原理や思想を啓蒙できるような、つまり福沢諭吉のような、思想家、ジャーナリスト、そして政治家であると思います。このような人が引き続いて出てきてほしいとの願いが『福沢諭吉』に込められているのではないでしょうか。

――あと、千円札は夏目漱石から野口英世でしょ。それから、五千円札は…えーと、あれっ、誰から樋口一葉に変わるんだっけ。
――新渡戸稲造だよっ、そんなことも知らないのー。

 今回五千円札の肖像は新渡戸稲造から樋口一葉に交代します。彼女が紙幣の肖像画に採用されるほどの文学者であることは確かであり、私も異論はありません。しかしここで私が言いたいのは、今この時点で新渡戸稲造を降板させてしまってよいのかということです。

 新渡戸と言えば彼の著書『武士道』を誰しも連想するでしょう。多くの人々がこの書物を読み影響を受けたと思われますが、意外と多くの方が誤解されている点があります。武士道というのは、『単に家臣たるもの主君に対して絶対的に服従し、昼夜を問わず滅私奉公にはげむべし』といった類のものでは決してありません。基本はあくまで武士の個人としての完成を目指すものです。具体的に言えば、主体性と見識を持った自立的な武士として、どうしても主君の命令が納得の行かない場合は、自己の意見を申し立てたりするし、主君を諫めて悪しき命令を改善する方向に持っていく努力もするものであるということです。

 今、個人の自立とか、自己責任ということがやたら強調されていますが、外務省の不祥事・企業の乱脈経営・銀行の不正融資そして国産牛肉の偽装といった事件に接するたびごとに、どうして個々の人々はそれが不正であり違法行為であるということを感じながらも、上部からの命令だからと言うことで、あるいは周りの人がみんなそれに同調しているからといって多数派の意見に流されてしまうのでしょうか。このような時代状況だからこそ、武士道における『個』の自立の問題を取り上げ、日本中で議論し、日本人と日本に即した個人のあり方を示すべきです。『新渡戸稲造』はまだまだ必要であると私は思います。

2002/8/1(木)