2007年11月6日火曜日

福田康夫首相登場

  9月12日、安倍晋三内閣総理大臣(首相)が突然の退陣を表明されました。その第一報を私が知ったのは、同僚議員と豊島区役所内において、廊下トンビをしていた時で、同僚議員の携帯電話に飛び込んできた情報からでした。まったくの冗談かと思いつつも、豊島区役所4階の自民党控室に戻り、すぐさまテレビをつけてみますと、既に午後2時より、退陣についての説明をする総理記者会見が行われる、との段取りも出来ていることが分かりました。その後の流れは既に皆様方もご存知の通りです。

  ~~9月23日、自民党本部において党大会に代わる両院議員総会が開会。総裁選挙の結果、福田康夫氏が第22代自民党総裁に選出される。「信頼の回復」を!!、福田新総裁は、就任後初めての記者会見でこのことを繰り返し強調するとともに、「着実に、誠実に、国民の皆様方の期待にこたえられるよう、真正面から取り組んでいくしかない」と訴え、「正攻法」で取り組んでいく方針を表明。その上で福田新総裁は、「時間はかかるかもしれない。しかし、一致結束して取り組めば、そう遠くない時期に必ず信頼は取り戻せる」との認識を示し、全党員・党友の協力を呼びかける~~。

  当日の自民党本部の総裁選会場内にいた同志の若手衆議院議員の何人かから、実際その場で福田新総裁は何と言われたのかを聞いたことをまとめてみますと、大体こんな感じのことをおっしゃられた模様です。「そう遠くない時期」と言われたようですが、衆議院議員に残された任期はもう2年足らずですから、そう悠長な姿勢ではいられないでしょうし、その意味では、自民党に残された時間は限られているはずです。加えて、参議院で野党の皆さんが過半数を占めたわけですから、真に必要な法案を与党・政府が成立させていくにはどうしたらよいか等など、福田新総裁におかれては、もう少し周辺事態の深刻さに対するご認識と、この厳しい難局を乗り切っていく強い心構えを、もっとご自身の言葉で訴えて欲しかったな・・・・・というのが、下々で支えているつもりでいる、私の感想なのであります。

  ~~9月25日、福田康夫自民党新総裁は国会で指名され、天皇陛下からの任命を受け、第91代内閣総理大臣となる。福田康夫首相は、昭和11年生まれの71歳。町村派。身長は171センチ、体重は70キロ。早稲田大学政治経済学部を卒業。趣味はクラシック音楽の鑑賞。「幻想交響曲」などの代表作があるフランスのベルリオーズ、ハンガリーのバルトークの作品などが好み。読書は分野にこだわらず多読するが、幕末から明治にかけて活躍した政治家:勝海舟が好み。歴史小説が中心。昭和53年、日中平和友好条約を締結した福田赳夫第67代内閣総理大臣のご長男。平成2年、父の政界引退後に同じ選挙区から衆議院議員に立候補、そして初当選。森内閣、小泉内閣ではともに官房長官を務める。明治18年、日本の内閣制度が出来て初の親子2代での内閣総理大臣~~。

  先程述べました23日の総裁選に先立つ、9月21日、私が所属する自民党青年局主催で、「福田康夫・麻生太郎、自民党総裁選公開討論会」が実施されましたが、そこで配られた内部資料にあった福田氏の紹介です。自民党青年局の親友達も、私の事を良く知ったもので、早速「勝海舟」のところに反応し、数名が私の顔を覗き込んでおりました。

  私自身、勝海舟の成し遂げた功績は数多くあると思います。特にその際たるものは、西郷隆盛との協議によって実現させた、慶応4年4月11日の江戸城の無血開城でしょう。同時に、彼の著作物を通じて、例えば「氷川清話」や「解難録」、そして「断腸の記」から大変多くのことを啓蒙されました。しかしそれでも、私は彼の生き方・生き様をつぶさに追っていく中に、どうしても納得できないところがあるのです(海舟ファンの方ゴメンナサイ)。といいますのも、勝海舟は、旧幕府時代には幕府の中枢に地位を占めていたわけですが、それが戊辰戦争に際しては、日本国内の平和を最優先にすべきと述べて、官軍側に抵抗しないことを訴え、自らがそのイニシアティブをとり、先程述べた江戸城無血開城などを成し遂げていきました。いわば自分自身が帰属している幕府に対して引導を渡したわけであります。勝海舟が日本国内の平和という高い理念を掲げ、江戸の民衆を戦火から守った結果・成果は最大限評価いたします。しかし、明治維新後も海軍卿を歴任する等を始め、かつての敵方である薩摩・長州の人達と共に行動を共にしつつ、かつ地位・名誉にも与る生き様に、私は納得がいかないのであります。この勝海舟と対極的な生き様をしたのが山路愛山で、彼は幕府天文方の子に生まれ、戊辰戦争の混乱の中で彰義隊に参加した父親と生き別れ、幕府崩壊後は徳川家に従い、静岡に祖父母と共に移住し、辛酸を嘗め尽くす青春時代を送るのです。私が申し上げたいのは、自分が帰属する国や地域の共同体が危機や滅亡に瀕した場合、たとえ勝算が乏しい場合であっても、その局面打開に際して、多大な苦痛や負担、それどころか己の命を棄て去る覚悟をもって努める精神が大事ではあるまいか。それは、ひとえに主君のお家の存続と名誉を求め続けて奮戦し続ける山路愛山的生き様の中に、骨太の精神として君臨しているのではあるまいか。それに対して、勝海舟的生き様は、この精神を著しく損なうものではあるまいか、ということなのであります。

  この点、大東亜戦争末期の昭和20年の東京大空襲を例に考えてみますと、この空襲によって何十万人もの非戦闘員の日本人が亡くなったわけですが、今の平成の時代に生きている私達からしますと、この昭和の大戦時代に生きていて、そして空襲で亡くなられた人達とは、個人としてはほとんど面識がないということが出来ます。それが、空襲で死亡ないし被災された方達を、私達と同じ日本国民であるとして自然と包み込み、60年以上も前の東京大空襲をあたかも私達に対する加害行為であるかのごとく受け止めてしまうのは一体何故なのか、を考えていただければ有難いです。私達は、純粋に「個人としての自己」のみで生活しているのではなく、「国民としての自己」という観点を多いに保持しながら生活していることが分かると思いますが如何でしょうか。山路愛山的生き様は、まさにこの「国民としての自己」を脈々と保ち続ける為にはどのような気構え・精神が必要かを私達に訴えているのではないでしょうか。他方、勝海舟的生き様は、えてして短期的なタイムスパン内での「個人としての自己」の便宜や、脆弱で邪まな性根を、あたかも標本として後世に伝えるだけではないでしょうか?。福田首相が、趣味的にしかも読書空間の中だけで勝海舟が好きだ、と言われるだけでしたら、私は何も言いません。しかし、その勝海舟的生き様に共感し、これからの国政運営に生かす乃至重ね合わせるところがあるとしたら、それは日本という国家と日本国民の危機を招くのではないかと私は思っております。

2007年10月

若者を連れて

  多くの方から、『議員さんって、普段は何してるの?』と聞かれて、その回答または説明にとても困る時があります。といいますのも、区議会が開会されている時や、各級の選挙がある時は、『今コレコレの委員会に所属しておりまして、コレコレこういったことを審議してますよ』とか、『今回の参議院選挙も、私は保坂三蔵さんを応援・お手伝いをしているのですが、なかなか厳しくてね』とか、案外具体的かつストレートにお答えすることができるのですが、それらの刻みの間の活動といいましたら、まさに萬相談請負人状態でありまして、それに私自身のボキャヒンが加わりますから、なんと説明したらいいのか非常に難しくなるのであります。

  もっとも、当然の事ながら、党員として議員として、私なりの問題関心・意識をもった事柄にまつわる活動もありますから、それはそれとして説明することは出来るのですが、それ以外の活動について説明したとしたら、多くの場合は、『ええっ、そんなことまで議員さんってするの?大変だね』といった驚きの声が返ってくるのかもしれません。

  夏の期間について、意外と多くの区民の皆さんが議会のない事をご存知で、この夏は何してたの?・どこ行ってきたの?的な質問攻めにあうことがよくあります。
勿論、この夏もまた例年同様、事務所の若いスタッフと共に、私は豊島区のあちらこちらを徘徊乃至出没しておりました。

  さて、豊島区にはエポック10という「男女平等推進センター」がありますが、これは一体全体何かといいますと、いわゆる男女共同参画社会を実現する為に、区民の皆さんが集い、そして出会い、さらには学び、新しい生き方を創造していく拠点でありまして、バラエティーに富んだ数多くのメニューを用意した施設でもあります。具体的には、男女平等推進乃至男女共同参画社会の形成促進にまつわる講座・講演会を開催したり、また啓発・啓蒙誌の発行や学習相談などを実施したり、さらにはドメステッック・バイオレンスなどをはじめとした女性を取り巻く様々な問題の相談を受け付けています(これはほんの一部の説明です)。

  そして、その講座・講演会の一環として実施されている中の一つに、「エポック10シネマ」というものがありまして、私はこの8月、エポック10シネマ第5回上映会、ウェイン・ワン監督:スーザン・サランドン主演の映画『地上より何処かで』(2000年:アメリカ)を、うちの若者数人と一緒に視察・鑑賞してまいりました。

  私の問題関心は、この映画の中で、まず男性はどのように描かれているか、次に女性はどのような境遇に置かれているか、さらにその親達や子供達の立ち位置はどうなっているか、そして家族にはどういった絆を与えているのか、というところにありました。

  それでは、今回の映画の感想はと言いますと、・・・・・・・・・・。
  いやいや私からは止めておきましょう。その代わりといってはナンですが、うちの若者達には映画を見た後、それぞれ感想文を提出させておりますので、その中で私が「良し(?)」と思った、T大学L学部1年の谷麻衣さんの感想文をお示ししたいと思います。宜しくお願いします。
今回もご一読ありがとう御座いました。

                                 平成19年9月5日
                                   文責:谷 麻衣
            「地上より何処かで」を鑑賞して

  8月22日水曜日、豊島区立男女平等推進センター(エポック10)の4階研修室2にて、午前10時から「地上より何処かで」という映画が上映された。男女平等を推進し、女性の地位向上を目指している事業のエポック10では、「映画の中の女たち」というテーマで、様々な女性の生き方が描かれた作品がいくつか定期的に上映されている。映画の中の女性たちを通して、女性の多様な生き方を考えるというのが目的のようだ。
  「地上より何処かで」という映画では、派手で奔放な性格の母アデルと、現実的で聡明な娘アンという、考え方も服の趣味も、何から何まで正反対の二人の女性を中心に、ストーリーが展開されていく。鑑賞者も女性が多く、映画の内容も、どちらかというと女性向けといった印象を受けた。
  退屈な田舎暮らしに我慢できず、再婚した夫テッドや老いた母、姉夫婦らに別れを告げ、憧れのビバリーヒルズでの暮らしを夢見て、アデルは娘のアンを連れてロサンゼルスへと向かう。夢の門出にふさわしいと、中古のベンツもなけなしの金をはたいて購入した。アデルはそれが全て娘のアンのためと思い込んでいる。だがそれも全て裏目に出て、いつも的外れな言動で娘を悩ませてしまう。そんなある日、アデルは歯科医師のジョシュと知り合い、夢中になる。だが突然連絡が取れなくなり、家の前に行ってみると、別の女性と一緒のところを見てしまう。またアンも、友人に勧められ別れた父親に電話するが、金を無心するアデルの差し金と思われ傷つく。ビバリーヒルズでの生活は、夢とはかけ離れたものばかりだった。母の愛はわかっていても、そんな母が自分の人生を台無しにしたと、憎く思い、自分の道を踏み出したい娘のアン。アンが自分で決めた大学に行きたがっていると知り、最初は大反対していたアデルだが、お金が足りないから行けないという事実を知ると、お気に入りのベンツを売ってお金を作るという、最後に母親らしい一面も見せる。アンも最初は「母が憎い」と言っていたが、最後には「いないと退屈」だと、母親の存在が絶対的なものへと変わっている。
  この映画では、依存的だった母と娘が自立していく過程と同時に、家族の感動的な絆が描かれている。だがそこに男性の影は薄い。それどころか、女性を傷つける加害者的な立場で描かれている。アデルが母親らしい愛情を見せ、最後はアンにとって絶対的なものへと変わっているのに対し、父親は久しぶりに電話をかけたアンを心無い言葉で傷つける、ひどい父親で終わってしまっている。エポック10としては、弱い女性の立場を主張する事で、男女の不平等を示唆し、女性の地位向上への意識を高めようとしたのかもしれない。
  また、非現実的で無茶ばかりしているように見えるが、周囲の目を臆することなく、自分の夢に向かって突き進む姿は、子育てや仕事に追われ、自分の事に割く時間の無い人にとっては、羨ましいともとらえられるかもしれない。だがそんなアデルのふるまいは、ラスト以外は決して母親らしいものではなかったように思う。現代の働く女性の間でも、自分の趣味などとはもちろん、仕事と子育ての両立はとても難しい問題だ。少子化で労働力不足に陥る日本にとっても、経済的な発達といった面からいえば、女性の地位向上を目指し、ジェンダーフリーを掲げる事も、過剰に反応したり、行き過ぎなければ良い事かもしれない。だが子を持つ親となった時、それはどうなのだろうか。父親の存在、母親の存在、子どもにとってはそれぞれ共に重要で、お互いに片方は持ち得ない役割というものがあるはずだ。それはお互いに協力し合い、補い合っていく必要があり、そうする事で平等となりえるものだと、私は思う。今回の鑑賞を通して、女性の地位向上、そして男女平等を目指す一方で、これまでに形成されてきた父性と母性の役割も、大事にしてゆける日本でありたい、そう思った。

2007年9月

「公」「私」混同克服の『道』

  今から三年位前でしょうか。イラクで日本人3名が、テロ集団に人質として身柄を拘束され、自衛隊の派遣・撤退が大きな争点としてマス・メディアを騒がせたことがありました。当時イラクで人質になった日本人3名は、外務省が既に十数回も「退避勧告」を出し、出来るだけのチャンネルを使って「渡航の自粛」も呼びかけていたのにも関わらず、自ら進んでイラクという危険領域に向かったのでした。それはあたかも「登山禁止令が出ている雪山への登山をあえて実行するようなもの」と言われ、そこから当時流行したのが『自己責任』と言うものでした。

  当時の名店街ニュースに、これを題材に原稿を載せてもらいましたが、そこでは『自己責任』論よりも、むしろ『公私峻別』論を語らせていただいたと記憶しております。当時の原稿には次のような一節あります。

  『私』という字のノギヘンですが、これはそもそも「稲とか麦とかの穀物類の収穫」を意味します。ツクリは『ム』ですが、これはまっすぐな釘が途中真ん中で折れたことを意味しています。まっすぐな釘は「まったく私心のないこと」を象形文字の世界では意味しますから、ツクリの『ム』とは、「その意志がくじけてよこしまな考えを持つ」と言うことになります。そこから『私』とは「収穫した作物類を全部自分のもの、つまり独り占めする」ということです。
『公』とは、『ム』の上に『ハ』が乗っかっているところから、「よこしまな心を上から押さえつけ表に出さない」と言うことを意味します。

 つい最近、世間様を賑わせている話題の一つに、いわゆる「大相撲横綱朝青龍関問題」があります。
  ・・・・・久しぶりに東西両横綱がそろって行われた大相撲名古屋場所。新進気鋭の新横綱白鵬が登場したことで大相撲人気が上昇。最近負けこんでいる横綱朝青龍関も焦りを隠せない。もっとも千秋楽、朝青龍関は白鳳関との横綱対決を制し、3場所ぶり21度目の優勝を飾り、その存在感を天下に示す。さすが朝青龍関!と思えたのもつかの間、そそくさと母国モンゴルに帰国してしまう。腕と腰の治療で全治6週間とされ、それを母国モンゴルで治す為の帰国かと思いきや、見事なセンター・ホワードぶりを発揮してサッカー遊びに講じてしまう。ゴーーーール。ここから、「仮病疑惑」はもちろん、国技と言われる大相撲の精神・心への無理解が、日本人の反感を買ってしまう。現在、2場所連続出場停止などの処分を受け、「急性ストレス障害」と診断された朝青龍関。自宅謹慎が今も続いているものの、いまだに本人はもとより、「公」益法人(財団法人):日本相撲協会の記者会見も行われないまま、ただ月日だけが虚しく過ぎ去っている・・・・・。
  ここでも、問われているのは「公」と「私」の関係ではないかなと、私なんかは考えておりますが皆さんは如何でしょうか。
  朝青龍関の立ち居振る舞いですが、在日モンゴル大使館が日本相撲協会に対して「治療の為帰国していた朝青龍関が、サッカーに参加せざるを得ない状況を作ってしまった。大変なことになり日本相撲協会と朝青龍関にお詫びします」という謝罪文を提出していることからも伺われるように、横綱としての職務ないし公務とはまったく異なる類の、いわゆる「お遊び」であったことは確かです。しかも、その遊びの種類が、普段馴染みのないボールを使っての、体重移動の激しい、ある意味では「力士」としての生命(?)も脅かしかねない性格を持ったサッカーという球技に講じていたわけですから、国技とは、大相撲とは、そこでの横綱の使命とは何かがまったく分かってなかったと言うことが出来ます。この一連の行為は、まさに「公」よりも「私」をはるかに優先するものとして言語道断、決して許されるものではありません。
  そもそも大相撲の歴史は大変古く(古墳時代にまで遡れるとの説もあります)、しかもカミとの係り抜きには語ることが出来ません。「力士」という「ちからびと」が、拍手(かしわで)で邪悪をはらい、四股(しこ)で大地を踏み込むことにより五穀豊穣をお祈りする、究極的の神事・公的行事です。その太古から続く祈りや祈る心・精神を現代の私達にまで紡ぐ為に、「力士」たるものは髷というものを結い、土俵という「ハレ」の舞台にあがる。ついでに言えば、このカミとの係りがあるからこそ、女性が土俵へ上がることは許されないのです。朝青龍関は、この深淵なる日本の伝統文化について、早急に学ばなければなりません。
  サッカーが出来るコンディションであったのにも係らず、大相撲夏「巡業」を軽視したことは重大問題です。日本全国を練り歩く巡業は、まさに神事として五穀豊穣の願いを地方へ伝播・普及することにほかならず、それは横綱が先頭になって取り組まなくてはならない、これまた究極の「公」の営みです。これをないがしろにしたところに、多くの批判が集中することになるわけです。
  もっともその夏巡業も、当初は朝青龍関不在がどう影響するかが心配されましたが、おおむね順調のようです。特に、今回の巡業の中には、財政破綻した夕張市も含まれており、ここでの巡業は勧進元をおかず、日本相撲協会自身が出資・運営し、しかも力士達は自分たちの休養日を割り当てて、切り盛りしているとの事です。この事実を朝青龍関は知っているのでしょうか?
  先月の7日と8日の二日間、豊島区池袋本町3丁目にあります氷川神社境内で、幼児から中学生までが参加する、第34回青少年相撲大会が行われました。7日は区内小学校の5校による対抗戦、8日は個人戦がそれぞれ行われ、豆力士たちが熱戦を繰り広げたと共に、土俵際で観戦していた親御さん達の悲鳴交じりの声援が境内に木魂しました。それは、一見すると子供達が主役の単なる「余興」にしか過ぎないと思われるかも知れません。しかし私からすると、巡業の来ない地域の精一杯のささやかな公的な営みに思えて仕方がありません。豆力士から大銀杏を結う大横綱が誕生してほしいと願うばかりです。そこでこの度の名古屋場所後、新大関琴光喜が誕生しましたが、彼が相撲に取り組んだのが、小学校1年生からでした。愛知県一宮市内の佐渡ヶ嶽部屋で大関昇進を伝える使者を迎えた琴光喜関の口上は、「如何なる時も力戦奮闘し、相撲『道』に精進します」というもの。朝青龍関におかれては、日本における「公」とは何かから始めて、日本の国技である大相撲というものを、単に武術的に強ければいいと捉えるのではなく、カミとの繋がりを持った武術・体育・精神の修養、世に処する方法などを兼ねた修行として捉え、一つの『道』を極めて貰いたいものです。
2007年8月

まんが・アニメは精神文化?

  最近、知り合いの仲間たちとの雑談の中で、一泊二日で石巻市に視察に行ってきたときの話しが出ました。行きがこうで・・・・・、帰りがこうで・・・・・、あそうそう途中で・・・・・と、視察の中身を面白おかしく話してくれましたが、聞いている私の方はといいますと、このところ家族サービスが出来ていない事から、申し訳ないな・・・・・、まずいな・・・・・、という家族に対する想いが常に頭をよぎってしまい、話し相手に対して終始ぎこちなく、しかもワンテンポ遅れた相槌をしているといった有様でした(この夏は、何とか頑張って海にでも連れて行ってあげなくちゃ・・・・、早く参議院選挙終わらないかなー)。

  一通りお話を聞いた中で、特に私が関心を持ったところは、どうやら石巻市は、漫画家の「石ノ森章太郎」氏とその作品群を前面出だしながら(石ノ森萬画館)、それを街の活性化戦略に組み込んでいる・・・・・、という部分でした。

  著名な漫画家とその作品を街づくり、特に来街者の呼び込み・取り込みに組み入れている自治体は、何もこの石巻市に限っているものではなく、このほかにも、水木しげる氏とその作品群、例えば「ゲゲゲの鬼太郎」などを前面に出している鳥取県境港市をはじめ、いくつか存在しており、それなりの成果を挙げているとの報告を聞いております。中でも、マンガ・アニメという性格上、子供達からの支持は絶大なものがあるらしく、修学旅行で立ち寄るのか、あるいはお別れ遠足会で立ち寄るのかは分かりませんが、かなり遠方からも観光バスで乗り込んでくるとの事です。

  新撰組を謳って街のPRをしている「日野市」、武田信玄を打ち出している「茅野市」、家康の湯で売り出している「熱海市」といったように、いわゆる過去の歴史上の組織や人物を取り上げて、ある時はおらが村の誇り、またある時はおらが街の自慢とすることは古くから行われてきたところですが、このアニメを取り入れての街興しはここ十年位で急速に着目され始めたようです。

  私の場合は、「ミュンヘンへの道(いきなりマニアックですね・・・)」「巨人の星」「あしたのジョー」「キャプテン」「プレイボール」「おれは鉄兵」に始まり(まだまだ沢山続きますよ・・・・・なにせマンガが好きだった兄がいましたから・・・・・)、「エースを狙え」「ガラスの仮面」「あさきゆめみし」等など(二人姉がおります関係でマーガレット・少女フレンド・りぼん、よく読みましたっけ・・・・・)、若かりし頃、特に中学生・高校生あたりまで、家に帰れば何がしかの種類の週刊マンガ本が転がっているという状況も手伝って、暇さえあれば数多くのマンガや作品に触れるといった生活でした。例えば「巨人の星」です。主人公の星飛雄馬は、元読売巨人軍の名3塁手の父:星一徹に感化(※)され小さい頃より野球に打ち込むものの、生来的に球質が軽いことから、単なるミート打撃で長打を浴びてしまう、そこから、そもそもミートすらさせないようにするにはどうしたら言いかを模索、その結果大リーグボール1号を開発、一世を風靡するもやがてはライバルの阪神タイガースの花形満にホームランを打たれてしまうものの、そこからさらに這い上がり、大リーグボール2号(消える魔球)を開発、これが通用しなくなると最後に大リーグボール3号を開発、この魔球でライバルになってしまった中日ドラゴンズの伴宙太を討ち取り、完全試合を達成させると同時に、左前腕にある筋を切ってしまう・・・・・、といった様にすぐさま頭にストーリーがよぎってしまいます(この後の新巨人の星もグッときてしまいますよね、ホント)。

  このマンガが私に与えた影響は、意外と大きいと言うことが出来ます。もちろん野球好きの4歳年上の今は亡き兄の影響もありますが、私自身、単に野球を始めたことだけではなく、打ち込み始めたことに対して全力を傾けること、途中であきらめないことを始め、数多くの人生の構えをここから感じ取ったと言うことが出来ます(ちょっと、大げさ?)。
※星一徹の妻で飛雄馬とその姉の明子の母「星春江」は、星一徹とお見合い結婚をしたのですが、飛雄馬が物心つく前に病気で亡くなってしまいます(この病名が分からないんだよなー、どなたか知っていたら教えてくださいね)。
  したがって、明子には母の記憶はありますが、飛雄馬には記憶がありません。
  そして、実は、春江がまだ赤ん坊の飛雄馬のために縫った読売巨人軍のユニホームが、一徹に飛雄馬のスパルタ教育を決意させたのです。

  自治体が有名な漫画家とその作品を街づくりに活用することは結構なことかもしれませんが、その場合でも、単に有名なマンガやアニメだからとか、最も人を呼び込めるマンガやアニメだからとか、そのような観点からのみ取り入れてしまうのはいかがかなと思ってしまいます。そこには、やはりその自治体のトップたちが、住民にそして国民に対してどのようなメッセージをその漫画家・作品群を通して発信するかといった観点をきっちり打ち立てた上で企画してほしいと思います。

  加えて、作品それ自体の持つ分かりやすさも大事かなという気が致します。例えば、宮崎アニメの一つ「魔女の宅急便」です。親元から自立して、綺麗な海の良く見えるパン屋さんに下宿しながら宅配の仕事をする主人公「キキ」、ある時あるお婆さんから、自分の孫のお誕生日のために私の焼いたパイを届けてほしいと頼まれる。キキが受け取りに行ったものの、電機のオーブンが壊れていた為に諦めることに・・・・・、そのとき、釜のオーブンがあることにキキは気がつく。何とか薪を焚いてパイを時間通りに作ろうと懸命に努力、しかもお婆さん家の時計が10分遅れていることに途中で気がつく。おりしも雨が降る中、パイを濡らさないように着ている黒のワンピースのなかにパイをケースごといれ超特急。滑り込みセーフで孫の家に送り届けることが出来たものの、そのお孫さんからは、このパイ要らないのに・私このパイ嫌いなのよ、との返事受け、キキは呆然と立ち尽くす。さらには、そのお孫さんが友達のトンボの遊び仲間として再会したとき、キキの気持ちは怒りとなって心の中に現れる。その後キキの魔力は急速に衰えていくことに・・・・・。

  このあたりまで来ると、多分に私の主観が入ってきてしまっていることに気づかされます。キキの魔力が衰えてきたのは、私は他者への憎しみや怒りがそうさせてしまったと解釈しておりますが(スターウォーズの中での、フォースの力とダーク・サイドの関係と似ている)、もしかしたら定期的な魔力の維持・鍛錬不足が原因だったのかもしれません。

  それらの読み込み方は十人十色の感があるともいえそうですね。なかなか、マンガやアニメ、ひいては芸術というものを街づくりに活用するのは難しいと言えそうです。
2007年7月

「山本勘助」もいいけれど

平成19年も早二ヶ月が過ぎてしまいました。特に一月は新年会が多くある関係で、月日の経つスピードもなおさら速い感があります。加えまして、今年は春まで、わたくし的には大変忙しい年となっております。例年ですとこの時期、好きな歴史小説も数冊読んでしまっているのにもかかわらず、今年の場合は、今の所僅か一冊、しかも中途半端に読んだだけという、とても寂しい状況となっております。

「本橋さんは、歴史小説、好きですよね・・・・・」
「そうね、以前は、時代小説だったけど・・・・・」

私も昔は司馬遼太郎さん、池波正太郎さん(?)をはじめとして、時代小説をよく読んだものでした。ただ、時代小説の場合、長年親しんでいくに従い、なんだかロマンチック過ぎるところがある、といいますか、微妙にしかも理由なく美し過ぎるところがある、といいますか、そういう意味でここ違うんじゃないかなという思いを個人的に抱き始めたのをきっかけに、今は主に、第一次・第二次歴史資料に忠実に従いながら構成しつつ、作家の創作部分が最小限に抑えられている歴史小説を好んで読んでおります。例えば、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で言いますと、この中では、秋山兄弟を中心に据えながら、あくまでも日露戦争は日本国民が戦ったものだという視点が強すぎるのではないか、なぜこの作品の中には「天皇」が登場してこないのか、なぜ天皇の御前会議(当時の開戦ものを描く場合には、必ず触れるべきものでは?)が出てこないのか、これなくしてどうして当時の日本の国柄と日本人の気風を現代に伝えられるのか等々、多くの違和感を私自身は持たずにはいられないのであります。

事務所の一角には、時代小説も若干あるものの、歴史小説オンリーの本棚がありまして、細切れの暇さえ見つければ、相も変わらずに山本周五郎さん、早乙女貢さん、そして中村彰彦さんと、気に入った作家の歴史小説に触れております。そしてこの度、新しく本棚の仲間入りをしたのが、火坂雅志さんの『天地人』です。

「それって、どんな内容ですか?」
「これは『直江兼続(なおえかねつぐ)』の話だよ」

作家の火坂雅志さんご自身、越後出身の歴史小説家であり、意外と戦国乱世の時代を生き抜いていった武将の生き様を探りつつ、真の武将とは、真の為政者とはいかなるものかというテーマを掲げ、それを現代人に問いかけるといった筆致がお好きなのかなと察しましたが、この作品では、越後上杉家の執政としてまさに時代の変革期を駆け抜け、戦国きっての知将とまで言われた「直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)」の生涯がダイナミックに書かれております。ちなみに今、NHKの大河ドラマで『風林火山』が放映されており、そこでは武田信玄の参謀の「山本勘助」の生涯が描かれておりますが、時代区分的には戦国乱世で重なりつつも、直江兼続の方が、山本勘助より後に登場するといった感じでしょう。

さて、武田信玄生涯の敵とまで言われた上杉謙信と直江兼続が共に過ごした時期はそう長くはありません。上杉家の養子となったあるじ景勝(謙信の甥っ子)と共に、十代半ばで春日山城に引き取られてから、天正6年(1578年)に謙信が病死するまで、僅か4,5年ほどにしか過ぎません。しかし、最も多感な青春時代を、戦国きっての義将のもとで学んだことは、その後の直江兼続の人生に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。その義将たる上杉謙信自身は、織田信長より4歳年上で、多少の時間差はあるものの、信長と同じに、ルール無用の、下克上の申し子たちが跳梁跋扈する時代を生きている中にあって、次のようなことを言い残しているのです。

「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五つを規とし、慈愛をもって衆人を憐れむ・・・・・・『北越軍談付録 謙信公語類』」(※武将にとって兵馬の道は無論大事だが、それだけでは人の上に立つ資格があるとは言えない。仁義礼智信の精神で自らを厳しく律し、慈愛の心で民を憐れむのが、真の為政者である)。

直江兼続の、特に、義の心は、突然生まれたのではなく、そこには、彼自身が思想上の師とする上杉謙信という大きな存在がいたからに他ならないということができます。

では、義の精神とは何ぞやですが、作家の意図するところを私なりに申し上げますと、この世の中、欲のない人はいない、との前提に立ち、その出世欲とか、名誉欲、権力欲、金銭欲が人間を突き動かし、この社会を形作っている。しかし、欲得だけでは人間はケモノとなんら変わるところはない。そこで大事になってくるのが、目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きること。これこそが義の精神である、といったところでしょうか。

「なんだか『りんごの木の物語』を思い出しますね」
「同感だよ」

これは、りんごは与えるばっかりで、少年はもらうばっかりのお話ですが、この物語を日本、韓国、スウェーデンの子供達に読み聞かせて、感想文を「守屋慶子」という方がまとめた『子どもとファンタジー』という本があるのですが、その中で今の子供達を象徴しているようなデータが出ております。それは、小学校1,2年生までは、どこの国の子供達の感想文もほぼ同様で、「与えるりんごは幸せだ」と言っていますが、これが3,4年生あたりから、日本の子供達だけが「与えるりんごは損をしている。貰うばかりの少年にはムカつく」と書いてあるのです。つまり、損得の価値観が入ってしまっているわけです。他にも、例えば、永六輔さんが『女性セブン』に書いていた「いただきます論争」。これは、ある手紙を永六輔さんがTBSラジオで紹介したことに端を発しております。その手紙の内容は、ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間にうちの子にはいただきますといわせないでほしい。給食費を支払ってるんだから、言わなくてもいいではないか」というものです。その後は、反応も非常に多く、その3割は「ちゃんとお金を支払っているのだから、別にいただきますと言わなくてもいい。」という意見だったとの事です。さらには、とある自治体では、親と子の温もりとか、温かさを感じること、それが幸せの原点であるとの想いから、月に一度お弁当持参の日があったのですが、これが行政側の判断でなくなってしまった。それは「給食費を支払っているのに、弁当を作れというのならお金を返してください」と言って来る親が出てきたからとの事です。損得勘定では、本当の意味での豊な人生は送れないのに・・・・・。兼続の呟きが聞こえて来る世の中です。

2007年3月

お賀状いろいろ

「本橋さんだと、沢山年賀状が来ますでしょ」
「そうでもないよ。でも、沢山くればくるほど嬉しいもんだよね」

 今年もまた、それぞれ何がしか意味深い年賀状を受け取られた事かと思います。それは、ごく親しい友達からのは勿論、職場の上司や部下、又先生や恩師など様々な方々より、その人間関係でこそ始めてメッセージ性を高められる年賀状が何枚も届いたのではないでしょうか。年賀状の一枚一枚を読み進めていくことで気が付くことは、これによって、自分と相手方との付き合い等の記憶の喚起、又親交の中身の再確認と更なる・新しい絆づくりが繰り広げられるという事でます。しかも、面白い事に、毎年必ずと言って良いほど、「あれっ」と思う人から年賀状が来ることです。私自身、今年頂いたものの中に、昨年気まずい関係になってしまい、もうこの方との交友はないのかな、と思っていた人から年賀状を頂いたりしまして戸惑うと共に、「自分が思っているほど人は気にしては居ない」のだと感じたりしました。

「塾生のはどんなもんでしたか」
「うん、いいもんだね・・・・・」

 年賀状はどのような人から頂こうと嬉しいものですが、特にもらって嬉しくかつ楽しいのが、私のところの若者達からもらった場合です。私のところでマスメディアを通さない裸の政治を見て育っていった若者がその後どの様に青春を送っているかは知りたいところですし、きわめて端的に表現し伝えてくるその一文一文から、その若者との間にあった出来事が思い返され、そしてその思い出の上に、今まさに年賀状にしたためられている事が乗っかっていく、と言った感じでしょうか。勿論、「ああ、あの子らしい生き方をしているな」と思える場合もあれば、「えっ、あの子が」という場合もあって、トータルでとても微笑ましくなります。

「何人かの教えてくださいよ」
「じゃ、二人だけね」

  ①田中さんは明治大学の2年生の頃に私の門を叩きました。彼女からの年賀状には、「昨年は本学塾(注:本橋弘隆と共に学び育つ塾)塾生としての活動に参加できず、申し訳ありませんでした。今年は、積極的に参加したく存じます」と書いてあります。この文章はそれ自体、何の変哲もない、ごく普通の文章と評されてしまうのでしょうが、私からすると、非常に意味深いものなのです。

  田中さんは、私のもとでの研修で、特に自分自身、積極性を作り出すことに腐心していた方でした。別の言い方をすれば、自分に自信を持ちたいということです。因みに、彼女が、私の下での研修を一段落させた後書いた感想文を読み返してみますと、そこには次のように記されております。

「本橋さんの下での研修においては、むやみに『できない』と言わない事が大事だ。自分に与えられた仕事を拒否する事で何か良い事があるだろうか。いや、ない。自分の可能性が狭まるだけだ。そもそも本橋さんはこちらが学生であり、まだ仕事ができないということを理解した上で、それ相応の仕事を与えてくれているのだから、無理な要求はしていない。又、ある本に出てきた言葉だが、『不可能をつぶしていくと可能になる』のである」と。

  このような感想を読むと、本当にいい加減な研修メニューは用意出来ないなとつくづく感じます。
引き続いて彼女には(この感想文を読んではじめて私は気づかされたのですが)、こんなエピソードをしまっていたのでした。

  「本橋さんの下での研修では、『聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥』だ。2月の上旬の自民党区議団主催の集会の後、来てくださった人々に、私がお礼の電話かけを行う仕事を頼まれた。そのときに本橋さんが『零発信でかけるんだよ』とおっしゃったが、私には何のことか分からないまま『はい』と返事をして作業に取り掛かった。しかし、電話をかけれど一向につながらず、一時間ほど経ってようやく私は本橋さんに零発信の意味を尋ねた。そうすると本橋さんは苦笑しながら『分からなかったらすぐに聞いて』とおっしゃった。これこそОN=THE=JОB=TRAININGなのだろう。私はもう二度と『零発信』の意味を忘れないだろう。」と。

  ちょうど区役所の4階、自民党控室での出来事でした。私達が各種団体さんをお招きして、意見交換をしたわけですが、わざわざ来て下さったのですからお礼の電話かけをしようということになり、その日はたまたま田中くん一人、しかも、区役所備え付けの電話を使うのが始めてといった状況でした。区役所の電話は、まずは内線がメインですから、外線を使うには、相手先の電話番号の頭に、「0」を打たないといけません。それを、意味とやり方を説明せず、簡単にしかも次の動作をしながら田中くんに伝えただけでした。その結果がこうです。この一件以降、私も教え伝え方が進歩してきた事は事実です(ホント?)

  ②吉田くんは早稲田大学の2年生の頃に私の門を叩きました。彼からの年賀状には、「昨年は、サークルでの出雲大社~佐賀市役所徒歩合宿(八月)とインド旅行(11月)が良い思い出です。」と書いてあります。私は読んだとたんに噴出してしまいました。と言いますのも、彼は早稲田大学精神昂揚会と言うサークルの幹事長で、その会が年一回実施する、早稲田大学本庄キャンパス~高田馬場キャンパス大隅講堂前までの100キロハイキングの優勝者なのであります。この早稲田の百ハイは、昭和39年に第一回が実施されてから既に45回の歴史を刻むもので、「早慶戦」「早稲田際」と並んで、早稲田3大イベントの一つとなっているものです。その彼が、この百ハイに関し、熱い思いを語ったメモがありますので、ついでにご紹介しましょう。

  「最初期の百ハイはスタート地点で一枚の地図を渡され、それを頼りに大隅講堂までひたすら歩くというもので、道中には休憩所もなく、食事も出ず、参加者は夜通し歩き続けるという、まさに『己の体力の限界に挑戦する』と言うシュールかつストイックなイベントだった。そんな状況も回を重ねるごとに改善されていくが、この百ハイが現在のように『祭り』の要素を持つようになるにはまだまだ時間がかかるのである。その為には一人の男の出現を待たなければいけない・・・・・」「そして1988年・・・、一人の男が百ハイに参加する。彼の名前は大阪太郎!!ピンクの学ランに角帽で毎日登校すると言う彼の強烈な個性はこの百ハイでも強烈に発揮された!。1988年の『第26回百キロハイク』において周りがジャージと言う普通の服装の中、ただ一人、顔面真っ白の『バカ殿メイク・白鳥バレリーナ』の格好で登場!。そしてそのまま100キロを歩き切るという偉業を達成!。この彼の偉業により百ハイに『仮装』と言う新たな要素が組み込まれることになる。これを通称、『百ハイ88年革命』という」と。

 イヤー、若いっていいですねー(インドのどの辺歩いたんだろう?)。

 それでは、名店街ニュースをお読みの皆様、本年も拙いエッセイを刻む私・本橋ひろたかをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

2007年1月

師走の掃除

「本橋さん、いよいよ暮れも押し迫ってきて、何か気忙しくなってきましたね」
「そりゃ、『師走』って言うくらいだからね」
「本橋さんもやっぱり、走ってばかりですか?」
「いや、走ったりもするけど。あとは上ったり、潜ったり・・・・・」
「はあっ?」

  何と無く例年より暖かい冬のような気はするものの、寒がり屋の私にとりましては、風を引かないように気をつけている日々を送っております。しかも最近は、なんでもノロウィルスとか言う新手の感染症が広がりを見せる気配がありますので、なおさら、毎日のうがい・手洗いを欠かさぬよう気をつけております。皆様方は如何でしょうか。大事になさってください。

  さて、12月にも入り、走り回る原因といいますと、何といってもこの時期恒例となっている、各種もろもろの関係・シガラミ(?)からくる「忘年会」のハシゴでしょう。今日ぐらいはお酒をやめて、休肝日にしようと思っていても、ついついアフターファイブになると『のど湿し』『チョー軽(カル)』なら、「まいっか」と思ったが最後、「もう一軒、もう一軒」と言った具合で、気が付いたら午前2時ごろにビールとラーメンといったご経験、つまりは最後のところが「チョーカル」だったということが多いのではないでしょうか。

  ことは忘年会だけに止まらないでしょう。自宅の大掃除をいつにするかとか、暮れも押し迫る前にあそこの掃除だけは済ませておこうとか、色々と「掃除」も大きなテーマとなってと思います。

「本橋さんも掃除ってするんですか?」
「あたぼうよ!!」
「いつも事務所の掃除は僕ら塾生にやらせるのに・・・・・」

  この時期、私にとっての掃除・清掃は、非常につらいものがあるのです(塾生は見てないもんね)。

  そのキングオブ清掃原因が、樹齢300年近くになる我が家の欅です。

  この間までは、その落ち葉はきの季節が来たなと言う事が、近所のお年寄りの、毎朝午前7時ぐらいからの竹箒ではく音で分かったものでした。それを聞いて、すぐさま私も家の前の道路に飛び出て、欅の落ち葉をはき始めると言った事が何年も続いたものでした。

  ある時、黙々と欅の落ち葉をはき続けているそのお年寄りに、「毎朝すみません、うちの欅のせいで・・・・・、落ち葉はきをしていただいて・・・・・」と話しかけたところ、そのお年寄りは、「いや、関係ありません。関係ありません」と言う返事をしてくれました。この事を両親や近所にいる親戚に話すと、そのお年寄りは、どうやら旧日本陸軍の将校を勤め上げた人物だとの事です。

  勿論、様々な事情があるものの、やれ邪魔になったとか、落ち葉はきがいちいち面倒くさいからとって、ある程度年輪を重ねた樹木を簡単に切ってしまう風潮が見られる中にあって、私からは、そのお年寄りの姿勢が、今も強く印象に残っております。

「で、本橋さん、登るって事は、その欅に登って毎年伸びた枝を切るって事ですか?」
「違うよー、屋根に上るんだよ」
「はあっ?」

  何せ樹齢が樹齢ですから、高さが数十メートルあります。ですから、葉っぱが、四方八方に飛んでいくわけでして、自宅の屋根上は勿論、他人様の御家の屋根上とか、さらに三階建て住宅(今多いよなー)の屋根の上とか様々です。そういったご家庭に梯子を持って伺っては(お店をハシゴするのと意味は勿論、姿格好も全く違う)、毎年この時期、ノーギャラで落ち葉はきをするわけであります。この作業も20歳台の頃は体育会系のノリの延長ですませてこれましたが、最近40歳を過ぎてからは、高いところが妙に怖くなりまして、寂しい気持ちになってまいりました。いずれはこの作業も誰か引継いでくれると助かるのですが(ダスキン様如何?)。

  落ち葉の量も半端ではありません。多少年季のいった欅一本分の落ち葉でしょと言う無かれ、かなりの量になるものでして、11月中旬頃から始まって、毎朝約45リットル入りゴミ袋で3袋位、これが12月下旬頃まで続くのであります。もっとも、今年は暖冬のせいか、大体2袋位で済んでおります。しかし、今もこの原稿を書いている12月中旬、欅を見上げてみますと、まだ三分の一の紅葉がありますから、年明けまで落ち葉はきは続きそうです。

「全くもう、困った欅ですね。切ってしまおうとは思わないんですか」
「そりゃないよ」

  縷々申し上げた欅ですが、これを憎いとか、切ろうとか思ったことは一度もありませんし、また、かつて区側より「保護樹木」として登録しませんかと言うお誘いもありましたが、これも丁重に断っております。と言いますのも、私が小さい頃、よく祖母から「男の子が、何だこれしきの事で泣いたりして」とか、「そんなことしてたら神様から罰が当たるよ」とか、「ご先祖様がちゃんと見てくれているよ」とか言われて育ってきた経験があるのですが、その祖母もなく、他方でそれなりに一応の分別を持っていると自分では思っている今、祖母の発した言霊に変わるもの、ひいては本橋家の黙示の家訓ともいうべきものを、常に私に照射してくれているのがこの欅だと感じているからです。高校入試で頑張っていたときの自分、高校時代アメリカンフットボールで全国大会出場を決めて喜んだときの自分、その大会で一回戦負けして悔しがっていた自分、父親になった喜び・感動に包まれていた自分、これらをじっと見守り続けてくれていたのがこの欅だと、私は感じるのです。木肌をさすってみると何か気持ちが落ち着くことが多々ありますし、わが子が泣きじゃくっているとき、大きな欅を見せて、「ほら、そんなことで泣いてると、あの大きな欅さんに嫌われちゃうぞー」と言ってあやすと、子どもが泣き止んだりします。大樹が持つ目に見えない力にはは凄いものがあるなと感心します。その極めつけの一つが、伊勢神宮ではないでしょうか(赤福が楽しみですよね)。

「で、本橋さん、もう一つの、潜るって何ですか?」
「イヤー、それはー、実は池の掃除の事だけど、この話はまた今度ね」
「(まだ塾生達に錦鯉の魅力は分からないだろうな・・・・・)」

  名店街ニュースをお読みの皆様、今年一年私の拙いエッセイをご愛読いただきまして、誠に有難うございました。来年が皆様にとりまして飛翔の年となりますよう、心より念願しております。

  どうぞ、良いお年をお迎えください。

2006年12月

「品格ある街」

「わたし、住むんだったら自由ヶ丘か、吉祥寺がいいわ」
「いや、僕なら、横浜だね」
「なに言ってんの、二子玉だよ」(二子玉川のこと、初めて知りました)
「みんな聞いて!!、わたしは、たまプラーザ」(何処それ、との指摘あり)

 この秋口、私の事務所に通っている研修生達の会話に聞き耳をたてていたところ、どうやらみんなで「住んでみたい街」一位を決めているようでした。

  大変残念なことに、最後の最後まで、わがまち豊島区・池袋という地名は出てきませんで、それだけ、わがまち豊島区・池袋はいまどきの若者達、特に学生達の視野・眼中には入って来ないところなのかもしれません(何で?)。

 因みに、これは何か一言いわねばなるまいと思い、肩をイカラセながらその会話に介入した私が、「それじゃあ、君達が働いてみたいと思う街は一体何処なの?」と、問いかけてみたところ、一位が丸の内、二位が銀座、そして三位が新宿と言った具合でした。ここでもわがまち豊島区・池袋を揚げる若者は一人もおらず、私自身、あえなく自爆してしまったところです。

 ただ、こうなると私も益々黙ってはいられません。手につけていた作業を放り出して、目の前にいる若者達が、「なぜそこに住みたいのか」、また、「なぜそこで働きたいと思うのか」、を聞かないわけにはいきません。

 さて、若者達のこの点に関する返事を聞く限り、私自身、池袋を中心とした豊島区も、あながち対抗できないわけではないと感じてきます。と言いますのも、横浜に住みたいと答えた若者の、「横浜は、おしゃれで、何よりも海が近いから」と言うのは別としても、「自由が丘は、おしゃれな街だから」とか、「吉祥寺は、交通面や生活面で便利だから」と言った理由を聞く限り、あながち池袋も一工夫凝らす事で(もっとも、これが一番難しいのですが)、これらの街と戦う事ができるなと感じたからです。また、「何でそこで働いてみたいの?」との問いかけに対して返ってきた答えが、「丸の内には、ステータス感があるから」とか、「銀座だと、アフター5が充実してそうだから」とか、さらに、「新宿は、何より商業施設が充実してるから」と言った具合ですから、わがまち豊島区・池袋も、これらの街と勝負できることがはっきりしてきます。

「ところでもう一つ聞かせてよ、品格のある街一位は何処?」
「品格ある街って言われても・・・・・」
「はじめて聞きますよね、そういう表現・・・・・」
「本橋さん、それで住みたい街とか、働きたい街とかは決めませよ・・・・・」

  事務所に来る若者達にこう切り替えされ、なんとなく意気消沈してしまったわけですが、このときの若者達を支配していた雰意気は、品がある・気品漂う・品格がある、と言う事によって、一体なにを計ることができるのかと言う不透明感だったような気がします。商業施設が充実している街で働きたい、それは新宿である、したがって私は新宿で働きたい。おしゃれな街に住みたい、それは吉祥寺である、したがって私は吉祥寺で生活したい。この一連の流れの中で、「品格」というものを取り上げて、優しく抱きしめ、育て上げていくことは、かなりの努力と工夫が必要である気が致します。「品格のある街で働きたい」「品格のある街に住みたい」と言うことの中に、どのような意義を見つけ出すことが出来るのか、その事を考える事自体が、今の若者達にとっては気の重たい作業なのかもしれません。

  実際、若者達は最後まで、「品のある街」「気品漂う街」「品格の誇れる街」のイメージすらつかむ事ができないと言った感じでしたが、そのような彼ら彼女らに対して、私は、大正末期から昭和初期にかけて、駐日フランス大使を務め、詩人でもあるポール・クローデルの日本人論を話してみました。幕末から明治にかけて、多くの欧米人が日本を訪れ、彼らの多くが日本人の道徳性の高さに驚嘆したのですが、その中にあって、ポールの日本人論がひときわ光っていると思うので、いつも私は若者達に紹介しています。

『諸君、私がどうしても滅びてほしくはない一つの民族がある。それは日本だ。あれほど古い文明をそのまま今に伝えている民族は他にはいない。日本の近代における発展、それは大変目覚しいけれども、私にとっては不思議ではない。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になって急に欧米の文化を輸入しても発展したのだ。どの民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はない。しかし日本にはその資格がある。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのだ』

『彼らは貧しい。しかし高貴である』

  また、今回は次のような話もしてみました。それは、今をさかのぼる事約一世紀、日露戦争の最中に、愛媛県松山市の俘虜収容所にある病院を訪れた、イギリス人写真家、ポンティングのコメントです。

『松山で、ロシア兵達は、優しい日本の看護婦に限りない称賛を捧げた。寝たきりの患者の、かわいらしい守護天使の動作一つ一つを目で追う様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。何人かの兵士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼らの胸に突き刺さっていたのである』

  ポールと言い、ポンティングといい、僅か60年前、100年前のわれわれの父祖達はその道徳性の高さをこのように欧米人達に高く評価されていました。しかし、大変残念ながら、これが遠い過去の話になろうとしています。

  私達は今こそ立ち上がり、その復権に取り組み始めては如何でしょうか。そうするところに、「品格」とは何か?を察していく構えが出来上がっていくのではないでしょうか。

 「品格」なるもの。それは、「カリスマ」(これは、対象を見ている側が錯覚し、その存在を思い込んでしまう場合)とは違い、対象それ自体にその存在が確認されてはじめて意味のあるものです。従って、その「品格」作りには、もちろん近道などは無く、一歩一歩着実に、堅実に、そして誠実に(三実主義、私の父の哲学です。紹介させて下さい)突き進んでいくところに、知らず知らずの内に積み上っていくものだと思います。品格ある街それは・・・・・あれっ。

「あったあった、ここだ、たまプラーザ」
「やっと見つかったねー、本橋さんも地図見ますか?」
「おいおい、ちょっと、塾生たちー、みんな聞いてるのー、私のお話・・・・・」

2006年10月

皇室「戦犯」会議

「いやー、悠仁親王のお誕生、喜ばしいですね」
「この日を待っていたよ、ホント」

 今年の2月7日、秋篠宮紀子さまに第3子御懐妊の兆候が見られるという報道があってからの私は、「男の子でありますように」「親王であられますように」と、ひたすらお祈りする毎日を過ごしてまいりました。その一方、常に頭をよぎる事は何かと申しますと、女の子だったら、さぞかし皇室の皆様方は御辛いだろうなということ、特に、皇室典範改正作業が再燃するであろうことは確実ですから、女性天皇・女系天皇容認の皇室典範改正案の政府内での検討―――閣議決定―――同案の国会への提出―――国会での成立、と進めば、嫌が上でも天皇陛下が「公布」しなくてはならなくなり、その時の天皇陛下の心境を私なりに勝手に解釈しますと、まさに心中察するに余りある、と言ったところです。

「なんか、本橋さん、大袈裟ですよー」
「何言ってんの、これぞまさしく『代表的日本人』でしょうが」

  平成16年12月27日、当時の、細田官房長官が、唐突に「皇室典範に関する有識者会議」の設置を発表しましたが、それ以来、これからの皇室はどのように皇統が維持されていくのか、が世論の関心事の一つとなりました。

  最大の心配事は何かと申しますと、その会議体の構成メンバーにあることは言うまでもありません。当初の、小泉首相の決裁文によりますと、「皇位継承制度などについて、高い見識を有する人々の参集を求め、検討を行う」としていたのですが、実際はどのようなメンバーが参集したかといいますと、皇室専門家と言えるのは、日本古代史専攻で、「平安の朝廷」などの著書がある笹山晴生氏、皇室の重要事項を審議する皇室会議議員を努め、「皇室法概論」の著書がある園部逸夫氏くらいです。

  また、座長を務めた吉川弘之氏のご専門は、ロボット工学であり、こと「皇室」に関しては、大変失礼ながら「門外漢」と申し上げても宜しいかと思います。現に、吉川座長の発言で、私が新聞報道などを通じて、未だに記憶に留めているのは、平成17年6月30日の第8回会合の後に行われた記者会見です。この第8回の会合では、5月から6月にかけて実施された有識者(この中に、私の好きな小堀桂一郎先生が入られたのは良かった・・・・・)からの意見聴取で出て来た、「離脱した宮家を復帰させて、男系男子の継承を維持すべきだ」との主張を受け、安定的な皇位継承策として、これまで議論の中心部分をなしてきた「女性天皇の是非」だけではなく、「皇籍離脱した皇族の復帰などによる宮家の創設」も検討する事が決定されました。その会合後、吉川座長曰く、「皇位継承者を増やす方法は『新たに宮家を設置する』というのと、『女系天皇を認める』というのと、二つに大別されますが、どの制度ならどの程度安定するかの『安定化要因』と、社会に受け入れられるかどうかの『受容化要因』を考慮して、制度を設計したい」と。いかにもロボット工学の第一人者らしい発言をしているのです。

 そこには、女系天皇を認めてしまえば、皇室は「万世一系」という物語を失ってしまうのではないか、と言う心配・畏れ。全ての人は平等であり、民主的に物事は進み・選ばれると言った世の中にあって、天皇という絶対的な地位を守るためには悠久の歴史物語が必要なのではないか、皇祖皇統の悠久の歴史物語(神武天皇以来の血統を維持する為の営み)が失われてしまえば、天皇が天皇である由縁が不分明となってしまい、時代を経るにつれて皇室制度が不安定になるのではないか、と言った歴史や伝統に対する見識は、少しも感じ取る事はできないのです。

「こうしてみると、有識者会議の座長は問題でしたね」
「座長だけじゃないよ」

 皇室典範有識者会議の中には、政府の男女共同参画審議会会長を務め、女性学の重鎮といわれている岩男寿美子氏が入り込んでおりましたが、この方がまさに女性天皇・女系天皇容認論を終始リードすると共に、以前ご自身が編集長を務める海外向けの英文雑誌「ジャパンエコー」2月号の中で、女性天皇・女系天皇に異論を唱えられた寛仁親王殿下に対し、失礼極まりない痛烈な批判をくわえたのであります(つい最近、謝罪めいた対応をとりましたね)。

 そこでは、まず寛仁さまについて、「天皇のいとこで、女性が皇位を継承できるようにすることについて疑問の声を上げ、旧宮家や皇室の側室制度の復活を提案してきた」と指摘し、次に、「彼の時代錯誤には驚くしかない」と主張しているわけですが、しかし、寛仁さまが御自身のお考え・異論を載せた、ある福祉団体の会報の、問題とされた部分を虚心坦懐に読みますと、側室制度に言及されてはいるものの、「国内外共に、今の世相からは少々難しいかと思います」と仰っており、決して「提案」などはしてはいないのであります。事実とは全く異なることを記述し、かつ批判してまで、自分が深く関わった有識者会議の報告書を自画自賛する様は、異様としか思えません。

「なるほど、やっぱりそういうリード役がいたんですね」
「あとは、まとめ役もね」

  内閣官房副長官を8年7ヶ月も務めて、首相官邸にパイプが太く、関係省庁に睨みの効く古川貞二郎氏が、この会議の最終的なまとめ役と言われていました。と言いますのも、今ではもう関係者の証言で明らかにされていますが、この問題は実は、有識者会議の設置に先立つ7,8年も前から、内閣官房内のグループによって研究されていた事柄であり、有識者会議は、事実上、この先行していた政府の非公式研究を下敷きにした「始めに結論ありき」機関で、この一連の流れを最もよく知っているのが古川氏なのであります。

 他にもまだ問題のある方を指摘できそうです。例えば、久保正彰氏ですが、この方はギリシャ・ローマ文学を専攻・専門としており、そもそも何ゆえメンバーに選ばれたのか、皇室研究者のあいだでも判ってはおりません。

「なんだか、東京裁判っぽくなってきましたね」
「ほんと、『文明の裁き』が必要だよ」

  私達は、神武天皇以来の皇祖皇統の歴史が、男系天皇で紡いできたことを、改めて重く受け止めるべきだと思います。と同時に、「悠仁」さまというお名前に込められた、「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでほしい」との願いは、余りにも拙速すぎた皇室典範改正問題を、優しく封印してくれたことに感謝すべきではないでしょうか。

2006年9月

英霊の言の葉

「小泉総理は、今年どうするんですかね。靖国・・・・・」
「8月15日の参拝のこと? 是非公約をはたして欲しいよね」

 今年もまた鎮魂の夏がやってきましたが、小泉総裁の任期が、今年の9月までとあって、自民党総裁選で公約した、8月15日の靖国神社公式参拝問題がヒートアップしています。8月15日に行くのか否か。

 小泉総理自身、どれだけ靖国神社のことを理解しているのかは、はなはだ心もとないところがありますが、単なる政権維持のためのパフォーマンスだけで発言しているわけではなさそうです。と言いますのも、小泉総理自身が、かつて特攻隊の基地のあった知覧を訪ねた際、英霊達の遺品等をつぶさに見学した折に大粒の涙を流し、それを拭うこともしなかったという経緯を持っておられ、そのときの熱い思いが、その後の自民党総裁選の公約:靖国神社公式参拝へと、結晶化されていると思うからです。

 もっとも、小泉総理自身、靖国に関して、俄か仕立ての感は否めません。

「それはまた、どの辺りですか?」
「例えば、国立追悼施設・国立墓地を検討する、とか言ってたでしょ。」

  小泉総理は、総理総裁就任当初、「靖国問題を解決するに当たっていわれている、国立墓地ですが、色々意見をもっている方がいるから、もし創るんだったら、いいものを作りたい。私も前から考えていた。」とか、アメリカに政府要人が行った際、よく行われるアーリントン墓地での献花を思い出してか、「外国の要人が来日した際に、何の問題も無く献花できるように・・・・・」とか言われておりますが、そもそも、なぜ靖国神社ではだめなのか、私には解らないのであります。

  国立墓地を作ったとして、これは全くの「無宗教」なのでしょうか。そうだとしますと、そもそも国立であれ、何であれ「墓地」と言うものは「無宗教」で成り立つのでしょうか。国立墓地を作って、献花するなり、お参りするなりして、何か儀式めいた事をしたら、それはもう確固たる「宗教」ではないでしょうか。「墓地」を作ることそれ自体、その前提として、死者の霊魂を信じている事の証なのではないでしょうか。もし「無宗教」にこだわるとするなら、「墓地」を作ること自体意味がないと言えるのではないでしょうか。靖国神社には遺骨も位牌も無く、あるのは御神体(御剣と御鏡)だけですから、もし、国立墓地を作るとすると、その中には、遺族の下にある戦死者のお墓を掘り起こして、少し遺骨を分けてもらって、それを埋めるのでしょうか。そうした上で、「無宗教」と言う立場にたってかんがえると、遺骨の埋められた墓地は、どのような形式で慰霊されるのでしょうか。神道でもなく、キリスト教でもなく、そして仏教でもない形式というものが、はたして現世にあるのでしょうか。

「なるほど、ずいぶんと無茶な話ですね」
「でしょ。無茶な表現だってあるよ」

  小泉総理が靖国神社を参拝する際に、よく使う理由に、「『心ならずも』、先の大戦に赴き、亡くなられた方へ、哀悼の誠を捧げ、『不戦の誓い』をするために参拝する」というのがありますが、この「心ならずも」という表現に、私は違和感を抱いてしまいます。と言いますのも、「心ならずも」という表現自体に、英霊達の私的言語空間に目が奪われる一方、英霊達の公的言論空間を無視していると思うからです。  

  誰だって、本音を言えば、神風特別攻撃隊に選ばれたく無かったでしょうし、遺族の側も、もろ手を挙げてわが子を国にささげるという方もいないでしょう。私(わたくし)的には、何で俺なんだ。何でうちの子供なんだ。そういった思いがあってしかるべきです。

  私達が気をつけなくてはならないのは、英霊や遺族達の、私的発言と公的発言を良識を持って区別し、公的発言はどれかをしっかりと受け止める事です。そこには確実に、この国を守るため等、その礎となるべく進んで散華していくに際して発せられた公的言論空間があるはずです。一国の総理たるもの、公的な場においては、彼らの公的発言を斟酌すべきであり、私的発言を展開すべきではないと思います。それは、昨今の、いわゆる「富田メモ」にも言えることだと思います。どのような状況で昭和天皇のご発言をメモされたのかは分かりませんが、歴代の宮内庁の幹部の方々が指摘されるとおり、富田氏が他界されるに当たり、そのメモが公的空間に出ないよう、万全の処置・処分を講じておくべきだったと思うのです。

 もう一つ。小泉総理は、「不戦の誓い」と言われますが、果たして、「テポドン・ノドン・スカッド」と言ったミサイル狂想曲を奏でる国がお隣にいるのに、はたして「不戦の誓い」を立ててしまってよいのかということです。不戦というと、あたかも国際法上当然の権利として認められている、自衛のための武力行使まで差し控えるというメッセージを、他国に送ることになりはしないかと心配です。

 小泉総理におかれては、粛々と8・15に靖国参拝し、英霊達とお会いして欲しいと思います。

 靖国神社社務所が編集兼発行している【英霊の言の葉】(8)85頁に、昭和20年5月28日、沖縄にて戦死された、群馬県勢多郡出身の、陸軍少尉:瀬谷隆茂命の「靖国で会ひませう」というのがあります。
 
「御父さん、お母さん愈々隆茂は明日は敵艦目がけて玉砕します。
沖縄まで○○粁を翔破すべく落下タンクを吊り○○○キロの爆弾を抱いた機が、緑の飛行場で武者震ひして自分の乗って呉れるのを待つて居ります。
明日会ふ敵は戦艦か? 空母か? それとも巡洋艦か?・・・・・・。
きつと一機一艦の腕前を見せてやります。
明日は戦友が待つて居る靖国神社へ行く事が出来るのです。
日本男児と生れし本懐此れに過ぐるなし。
御父さん、お母さん、隆茂は本当に幸福です。
では又靖国でお会ひしませう。
待つて居ります。
最後に、御両親様の健勝を切にお祈りいたします。
                            隆茂
御両親様」

  ここには、この緑美しい国を守る固い決意がにじみ出ていると共に、我が愛する家族のため、自ら進んで戦地に臨んで行った先達の熱い想いが綴られていると思われますが、如何でしょうか。「心ならずも」という言い方や「不戦の誓い」は、一国の総理が軽々に口にするものではないと、私は思うのですが・・・・・・。

  8月15日、靖国でお会いしましょう。

2006年8月

我、テレビ出演ヲ『決断』ス

 名店街ニュースをお読みの皆さん、平成18年、新年明けましておめでとう御座います。本年も拙いエッセイを掲載していただけます事に、心から感謝御礼申し上げる次第で御座います。

 また、昨年、衆議院選挙がありました9月辺りから、執筆出来ない月もあり、関係各位の皆様方に多大なご迷惑をお掛けいたしました。失礼を致しました。本年はそのような事のないように努力いたしますので、引き続いてのご愛顧を心よりお願い申し上げます。

「本橋さん、見ましたよ!12チャンネルの『ザ・決断』」
「どうだった?」
「なかなかのモンでしたよ、本当に」

 平成18年1月1日、32年ぶりにテレビ番組に出演させてもらいました。それは、12チャンネルのテレビ東京で、元日の午前10時から約1時間半放送される『ザ・決断』という番組です。既にこの番組も、毎年元日のこの時間帯に放送されるようになって5回目位となり、他局がお正月もの番組を放送している中にあって、唯一といって良いほどお堅い内容のノンフィクション番組となっております。番組のコンセプトは何かと申しますと、その番組名の通り、ある時代において有名な出来事で、かつ人生において正に勝負に打って出る瞬間に焦点を当て、その時その主人公を取り巻いている状況をドラマ化しながら、関係者の貴重な証言を交えて、分析・展開していくといったところです。

 今年は何を放送したかといいますと、一つ目が「田中角栄氏の昭和47年自民党総裁選への出馬」、二つ目が、私が出演しました「小池百合子環境大臣の東京10区への選挙区替え」、三つ目が「幣原喜重郎の憲法制定」でした。

「そもそも、何で本橋さんが出演できたんですか?」
「だって小池選対の遊説責任者だったもの」
「そういえば衆院選中よくテレビに映ってましたね」

 昨年、8月8日に衆議院が解散され、いわゆる『刺客候補』が話題を独占しました。ここ東京10区においても、自民党本部の意向で『小池百合子女史』がまいりました。

 私としては、自民党の代議士が現にいることをどのようにふまえるか大変でしたが、とにもかくにも、自民党公認候補を応援する、そこで小池百合子環境大臣が自民党公認候補として決定した以上は、この方をやるのが組織に所属する者の道理だと思い、これ以降は小池大臣を支えていく事にいたしました。

 さて、小池選対において、何故か私が遊説担当責任者のお役を頂き、小池選挙のコミュニケーション戦略の司令塔として選挙戦を展開することになり、週刊誌やテレビ局との接触も数多くありました。そこで、テレビ局側が選挙戦中に交換した名刺から、たまたま私に白羽の矢を立てたといった感じだと思います。

「実際の収録ってどんな感じですか?」
「どうって事ないさ」
「またまた、緊張したんじゃないですか?」

  元日に放送された私のシーンは合計3回でしたが、実際は5つのシーンを収録しております。テレビ局には番組の編集方針がありますから、ストーリー性にかんがみて、他の2回のシーンは没にしたのでしょう。

 もっとも、収録をする1ヶ月前には番組製作者、監督、カメラマン等が私のところに来て、カメラを回しながら約2時間ぐらい、小池選挙のいきさつについて取材しており、この時の私の話を踏まえてストーリーを組み立て、ウラを取り、さらに他の人の証言を取るという作業をしておられます。ノンフィクション番組の制作ですから、私も手元に手帳を見ながら、客観的事実を時系列に沿ってお伝えしました。

  そこで、実際の収録では、もう既に番組のストーリーはほぼ出来上がっておりますから、私の役割は、かつて私が取材を受けコメントした中で、テレビスタッフが必要としているコメント部分を再び証言する事となります。しかもご丁寧に、私がコメント部分を忘れた場合を想定し、取材時の私の発言資料も用意され、「この部分を話してください」ということになるわけです。ですから収録時間は、大体30分ぐらいの早さでした。

「本橋さん、まさに時代の証言者のようでしたよ」
「そうかな」
「今度の出演は何時ですか?」

  今回はたまたまこの東京10区が全国一の注目区になった事からこのような流れになったのですが、向こう20年はこのような激しい選挙戦はないと思いますし、またあってはならないとも思っております。私のようなシモジモの議員はたまったものではありませんから。

「さっき32年ぶりと言いましたけど、昔、子役でもしてたんですか?」
「そ、それは・・・・・・」

  その昔、私が小学6年生位の頃ですから、昭和48年頃だったと思います。当時はボーリングブームでして、ありとあらゆる方がマイ・ボールを持って我が家の近くの「ハタ・スポーツプラザ」に通っていたとともに、ボウリングのテレビ中継も盛んでして、ちょうど私が原っぱ(現在の千川豊寿園のあるところ)でみんなと野球をしていたところ「○時よりハタ・スポスポーツで○○○○○」(番組名はもう忘れてしまいました)があります、とのアナウンスを聞いて、ハタ・スポーツセンターに駆けつけ、友達とテレビに常時映る座席をゲットして、観客としてテレビにただ映っただです。カメラに向かって「Vサイン」はしてませんから。

 本年の皆様方のご健康・ご多幸を祈念しつつ・・・・・。

2006年1月