2007年11月6日火曜日

お賀状いろいろ

「本橋さんだと、沢山年賀状が来ますでしょ」
「そうでもないよ。でも、沢山くればくるほど嬉しいもんだよね」

 今年もまた、それぞれ何がしか意味深い年賀状を受け取られた事かと思います。それは、ごく親しい友達からのは勿論、職場の上司や部下、又先生や恩師など様々な方々より、その人間関係でこそ始めてメッセージ性を高められる年賀状が何枚も届いたのではないでしょうか。年賀状の一枚一枚を読み進めていくことで気が付くことは、これによって、自分と相手方との付き合い等の記憶の喚起、又親交の中身の再確認と更なる・新しい絆づくりが繰り広げられるという事でます。しかも、面白い事に、毎年必ずと言って良いほど、「あれっ」と思う人から年賀状が来ることです。私自身、今年頂いたものの中に、昨年気まずい関係になってしまい、もうこの方との交友はないのかな、と思っていた人から年賀状を頂いたりしまして戸惑うと共に、「自分が思っているほど人は気にしては居ない」のだと感じたりしました。

「塾生のはどんなもんでしたか」
「うん、いいもんだね・・・・・」

 年賀状はどのような人から頂こうと嬉しいものですが、特にもらって嬉しくかつ楽しいのが、私のところの若者達からもらった場合です。私のところでマスメディアを通さない裸の政治を見て育っていった若者がその後どの様に青春を送っているかは知りたいところですし、きわめて端的に表現し伝えてくるその一文一文から、その若者との間にあった出来事が思い返され、そしてその思い出の上に、今まさに年賀状にしたためられている事が乗っかっていく、と言った感じでしょうか。勿論、「ああ、あの子らしい生き方をしているな」と思える場合もあれば、「えっ、あの子が」という場合もあって、トータルでとても微笑ましくなります。

「何人かの教えてくださいよ」
「じゃ、二人だけね」

  ①田中さんは明治大学の2年生の頃に私の門を叩きました。彼女からの年賀状には、「昨年は本学塾(注:本橋弘隆と共に学び育つ塾)塾生としての活動に参加できず、申し訳ありませんでした。今年は、積極的に参加したく存じます」と書いてあります。この文章はそれ自体、何の変哲もない、ごく普通の文章と評されてしまうのでしょうが、私からすると、非常に意味深いものなのです。

  田中さんは、私のもとでの研修で、特に自分自身、積極性を作り出すことに腐心していた方でした。別の言い方をすれば、自分に自信を持ちたいということです。因みに、彼女が、私の下での研修を一段落させた後書いた感想文を読み返してみますと、そこには次のように記されております。

「本橋さんの下での研修においては、むやみに『できない』と言わない事が大事だ。自分に与えられた仕事を拒否する事で何か良い事があるだろうか。いや、ない。自分の可能性が狭まるだけだ。そもそも本橋さんはこちらが学生であり、まだ仕事ができないということを理解した上で、それ相応の仕事を与えてくれているのだから、無理な要求はしていない。又、ある本に出てきた言葉だが、『不可能をつぶしていくと可能になる』のである」と。

  このような感想を読むと、本当にいい加減な研修メニューは用意出来ないなとつくづく感じます。
引き続いて彼女には(この感想文を読んではじめて私は気づかされたのですが)、こんなエピソードをしまっていたのでした。

  「本橋さんの下での研修では、『聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥』だ。2月の上旬の自民党区議団主催の集会の後、来てくださった人々に、私がお礼の電話かけを行う仕事を頼まれた。そのときに本橋さんが『零発信でかけるんだよ』とおっしゃったが、私には何のことか分からないまま『はい』と返事をして作業に取り掛かった。しかし、電話をかけれど一向につながらず、一時間ほど経ってようやく私は本橋さんに零発信の意味を尋ねた。そうすると本橋さんは苦笑しながら『分からなかったらすぐに聞いて』とおっしゃった。これこそОN=THE=JОB=TRAININGなのだろう。私はもう二度と『零発信』の意味を忘れないだろう。」と。

  ちょうど区役所の4階、自民党控室での出来事でした。私達が各種団体さんをお招きして、意見交換をしたわけですが、わざわざ来て下さったのですからお礼の電話かけをしようということになり、その日はたまたま田中くん一人、しかも、区役所備え付けの電話を使うのが始めてといった状況でした。区役所の電話は、まずは内線がメインですから、外線を使うには、相手先の電話番号の頭に、「0」を打たないといけません。それを、意味とやり方を説明せず、簡単にしかも次の動作をしながら田中くんに伝えただけでした。その結果がこうです。この一件以降、私も教え伝え方が進歩してきた事は事実です(ホント?)

  ②吉田くんは早稲田大学の2年生の頃に私の門を叩きました。彼からの年賀状には、「昨年は、サークルでの出雲大社~佐賀市役所徒歩合宿(八月)とインド旅行(11月)が良い思い出です。」と書いてあります。私は読んだとたんに噴出してしまいました。と言いますのも、彼は早稲田大学精神昂揚会と言うサークルの幹事長で、その会が年一回実施する、早稲田大学本庄キャンパス~高田馬場キャンパス大隅講堂前までの100キロハイキングの優勝者なのであります。この早稲田の百ハイは、昭和39年に第一回が実施されてから既に45回の歴史を刻むもので、「早慶戦」「早稲田際」と並んで、早稲田3大イベントの一つとなっているものです。その彼が、この百ハイに関し、熱い思いを語ったメモがありますので、ついでにご紹介しましょう。

  「最初期の百ハイはスタート地点で一枚の地図を渡され、それを頼りに大隅講堂までひたすら歩くというもので、道中には休憩所もなく、食事も出ず、参加者は夜通し歩き続けるという、まさに『己の体力の限界に挑戦する』と言うシュールかつストイックなイベントだった。そんな状況も回を重ねるごとに改善されていくが、この百ハイが現在のように『祭り』の要素を持つようになるにはまだまだ時間がかかるのである。その為には一人の男の出現を待たなければいけない・・・・・」「そして1988年・・・、一人の男が百ハイに参加する。彼の名前は大阪太郎!!ピンクの学ランに角帽で毎日登校すると言う彼の強烈な個性はこの百ハイでも強烈に発揮された!。1988年の『第26回百キロハイク』において周りがジャージと言う普通の服装の中、ただ一人、顔面真っ白の『バカ殿メイク・白鳥バレリーナ』の格好で登場!。そしてそのまま100キロを歩き切るという偉業を達成!。この彼の偉業により百ハイに『仮装』と言う新たな要素が組み込まれることになる。これを通称、『百ハイ88年革命』という」と。

 イヤー、若いっていいですねー(インドのどの辺歩いたんだろう?)。

 それでは、名店街ニュースをお読みの皆様、本年も拙いエッセイを刻む私・本橋ひろたかをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

2007年1月