2007年11月6日火曜日

「山本勘助」もいいけれど

平成19年も早二ヶ月が過ぎてしまいました。特に一月は新年会が多くある関係で、月日の経つスピードもなおさら速い感があります。加えまして、今年は春まで、わたくし的には大変忙しい年となっております。例年ですとこの時期、好きな歴史小説も数冊読んでしまっているのにもかかわらず、今年の場合は、今の所僅か一冊、しかも中途半端に読んだだけという、とても寂しい状況となっております。

「本橋さんは、歴史小説、好きですよね・・・・・」
「そうね、以前は、時代小説だったけど・・・・・」

私も昔は司馬遼太郎さん、池波正太郎さん(?)をはじめとして、時代小説をよく読んだものでした。ただ、時代小説の場合、長年親しんでいくに従い、なんだかロマンチック過ぎるところがある、といいますか、微妙にしかも理由なく美し過ぎるところがある、といいますか、そういう意味でここ違うんじゃないかなという思いを個人的に抱き始めたのをきっかけに、今は主に、第一次・第二次歴史資料に忠実に従いながら構成しつつ、作家の創作部分が最小限に抑えられている歴史小説を好んで読んでおります。例えば、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で言いますと、この中では、秋山兄弟を中心に据えながら、あくまでも日露戦争は日本国民が戦ったものだという視点が強すぎるのではないか、なぜこの作品の中には「天皇」が登場してこないのか、なぜ天皇の御前会議(当時の開戦ものを描く場合には、必ず触れるべきものでは?)が出てこないのか、これなくしてどうして当時の日本の国柄と日本人の気風を現代に伝えられるのか等々、多くの違和感を私自身は持たずにはいられないのであります。

事務所の一角には、時代小説も若干あるものの、歴史小説オンリーの本棚がありまして、細切れの暇さえ見つければ、相も変わらずに山本周五郎さん、早乙女貢さん、そして中村彰彦さんと、気に入った作家の歴史小説に触れております。そしてこの度、新しく本棚の仲間入りをしたのが、火坂雅志さんの『天地人』です。

「それって、どんな内容ですか?」
「これは『直江兼続(なおえかねつぐ)』の話だよ」

作家の火坂雅志さんご自身、越後出身の歴史小説家であり、意外と戦国乱世の時代を生き抜いていった武将の生き様を探りつつ、真の武将とは、真の為政者とはいかなるものかというテーマを掲げ、それを現代人に問いかけるといった筆致がお好きなのかなと察しましたが、この作品では、越後上杉家の執政としてまさに時代の変革期を駆け抜け、戦国きっての知将とまで言われた「直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)」の生涯がダイナミックに書かれております。ちなみに今、NHKの大河ドラマで『風林火山』が放映されており、そこでは武田信玄の参謀の「山本勘助」の生涯が描かれておりますが、時代区分的には戦国乱世で重なりつつも、直江兼続の方が、山本勘助より後に登場するといった感じでしょう。

さて、武田信玄生涯の敵とまで言われた上杉謙信と直江兼続が共に過ごした時期はそう長くはありません。上杉家の養子となったあるじ景勝(謙信の甥っ子)と共に、十代半ばで春日山城に引き取られてから、天正6年(1578年)に謙信が病死するまで、僅か4,5年ほどにしか過ぎません。しかし、最も多感な青春時代を、戦国きっての義将のもとで学んだことは、その後の直江兼続の人生に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。その義将たる上杉謙信自身は、織田信長より4歳年上で、多少の時間差はあるものの、信長と同じに、ルール無用の、下克上の申し子たちが跳梁跋扈する時代を生きている中にあって、次のようなことを言い残しているのです。

「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五つを規とし、慈愛をもって衆人を憐れむ・・・・・・『北越軍談付録 謙信公語類』」(※武将にとって兵馬の道は無論大事だが、それだけでは人の上に立つ資格があるとは言えない。仁義礼智信の精神で自らを厳しく律し、慈愛の心で民を憐れむのが、真の為政者である)。

直江兼続の、特に、義の心は、突然生まれたのではなく、そこには、彼自身が思想上の師とする上杉謙信という大きな存在がいたからに他ならないということができます。

では、義の精神とは何ぞやですが、作家の意図するところを私なりに申し上げますと、この世の中、欲のない人はいない、との前提に立ち、その出世欲とか、名誉欲、権力欲、金銭欲が人間を突き動かし、この社会を形作っている。しかし、欲得だけでは人間はケモノとなんら変わるところはない。そこで大事になってくるのが、目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きること。これこそが義の精神である、といったところでしょうか。

「なんだか『りんごの木の物語』を思い出しますね」
「同感だよ」

これは、りんごは与えるばっかりで、少年はもらうばっかりのお話ですが、この物語を日本、韓国、スウェーデンの子供達に読み聞かせて、感想文を「守屋慶子」という方がまとめた『子どもとファンタジー』という本があるのですが、その中で今の子供達を象徴しているようなデータが出ております。それは、小学校1,2年生までは、どこの国の子供達の感想文もほぼ同様で、「与えるりんごは幸せだ」と言っていますが、これが3,4年生あたりから、日本の子供達だけが「与えるりんごは損をしている。貰うばかりの少年にはムカつく」と書いてあるのです。つまり、損得の価値観が入ってしまっているわけです。他にも、例えば、永六輔さんが『女性セブン』に書いていた「いただきます論争」。これは、ある手紙を永六輔さんがTBSラジオで紹介したことに端を発しております。その手紙の内容は、ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間にうちの子にはいただきますといわせないでほしい。給食費を支払ってるんだから、言わなくてもいいではないか」というものです。その後は、反応も非常に多く、その3割は「ちゃんとお金を支払っているのだから、別にいただきますと言わなくてもいい。」という意見だったとの事です。さらには、とある自治体では、親と子の温もりとか、温かさを感じること、それが幸せの原点であるとの想いから、月に一度お弁当持参の日があったのですが、これが行政側の判断でなくなってしまった。それは「給食費を支払っているのに、弁当を作れというのならお金を返してください」と言って来る親が出てきたからとの事です。損得勘定では、本当の意味での豊な人生は送れないのに・・・・・。兼続の呟きが聞こえて来る世の中です。

2007年3月