2007年12月4日火曜日

ガンバレ柏崎

  11月11日、日曜日の午前、豊島区総合グラウンドで、第4回「TEPCOフレンドリーカップ2007」という、豊島区と新潟県柏崎市との少年野球交流大会が開催されました。
この大会は、東京電力株式会社の大塚支社と柏崎刈羽原子力発電所が主催し、財団法人:社会経済生産性本部の首都圏エネルギー懇談会の共催を得て、私どもの豊島区少年野球連盟と新潟県柏崎学童野球連盟が協力するもので、首都圏で使われる電力の約2割をまかなっている柏崎刈羽原子力発電所立地地域である新潟県柏崎市という「電力の生産地」と、私達が住む首都圏の真っ只中にあります東京都豊島区という「電力の消費地」とを、少年野球というスポーツで結び合うことによって相互理解を深め、ひいては日本のエネルギー事情に小さい頃から関心を持ってもらいたいという願いを込めて行われているものです。


  当日は、困ったことに朝から生憎の雨模様でして、雨による大会への影響を少しでも抑えようと、開会式を簡潔に済ませる等して予定時刻より早目にプレイボールとしたのですが、一回の表を終わった時点で無常にも強い雨脚となり、審判部の判断でやむなく中断、選手達はアンダーシャツを取り替えてジャンパーを着るとともに、ベンチで雨が止むのをひたすら祈るという状況が2・30分続いてしまいました。


  わざわざ新潟県柏崎市から一泊二日の行程で、監督・コーチ・ご父兄の皆さん、そして選手達の総勢約60名(柏崎スターズと松浜少年野球団の2チーム)が来てくれているのです。ホスト側の豊島区少年野球連盟をはじめ、大会関係者は、雨脚が衰えたと判断するや、一目散にグラウンドに飛び出して行き、水溜りの除去や砂の入れ替え等をはじめとするグラウンド・キープ作業に取り掛かりました。内野のところの水溜りをレイキやブラシで、ファウルグラウンドのほうまで押し流してゆく人、たいして大きくもないスポンジをグラウンドに押し付け水を吸い取ってバケツに捨てている人、乾いた砂をピッチャーズ・マウンドやバッターズ・ボックスに運び、ぬかるんだ砂と入れ替えている人、各大会関係者が暗黙のうちに役割分担し、プレイ再開への道筋をつけてくれています。
 

  それらの光景を、私も手伝いながら拝見して感じたことは、わざわざ柏崎市から来てくれている、それだけの理由ではこの一連の動きぶりは出てこないな、という事でした。
大会前日の11月10日、土曜日の夕方、今大会の前夜祭とも言える「ふれあい交流会」が、サンシャインシティ・プリンスホテルの特別協力のもと、ワールドインポートマート9階さくらルームで行われました。懇談に入る前の、オープニングセレモニーでは、まず、主催者の東京電力の役員の方から、今回の新潟県中越沖地震による被災者の皆さんへのいたわりの言葉と、柏崎刈羽原子力発電所の罹災よる影響を、子供達が一生懸命取り組み、楽しみにしているこの少年野球交流大会に及ぼしてはならない旨の決意が述べられ、次に、乾杯の発声をした柏崎学童野球連盟の役員の方からは、今回来たチームの中に中越沖地震で被災したご家族が多数含まれている旨のご挨拶がありました。この時、ご挨拶した方々とそれを聞いていた皆さんに共通して去来したものは何か、それを私なりに想像しますと、様々な形で被害を受けた柏崎への優しさと労わりの想いもさることながら、日本人としてとても大切な事に無関心でありすぎたし&ありつづけたという反省の想いではないでしょうか。


  7月16日午前10時13分、新潟県中越沖地震が発生してから、柏崎刈羽原子力発電所の地震被害の映像は連日連夜テレビで報道され、「何故、地震多発国に、原発を作ったのか」とか、「原発の安全性には多大な疑問があるといわざるを得ない」といった批判が相次ぎましたが、そもそも私達は、はたして&どこまで原発についての正しい知識を持ち合わせていたでしょうか。私達は今、原発についての無関心を卒業し、国民一人ひとりが認識を深め、思考する時期がやってきたのではないでしょうか。現にアメリカでは、1979年のスリーマイル島の事故以来、原発の建設がなされてこなかったのにもかかわらず、いよいよ新たな建設計画を策定しましたし、現在世界的に、原発政策が見直されています。 
  

  特に資源に恵まれない日本では、原子力発電には、①少ない燃料で大きな発電量を作り出せること、②一度原発を建設してしまえば後はランニングコストが安いこと、③政情が安定している先進諸国から安心してウランを確保できること、④COツーの抑制効果が大きいこと、そして⑤燃料をリサイクルでこること等のメリットがあることから、2006年に「原子力立国計画」が策定され、あらためて国家戦略としての原発推進が確認されています。ところが、現実の私達の対応はどうでしたでしょうか。テレビ画面が映し出す柏崎刈羽原発の施設(実際は原子炉本体ではなく変圧器施設)から立ち上がる黒煙を見て、単純にチェルノブイリ原発事故に結び付け、そこから、海と大気へ放射能が漏れたと即断したのではないでしょうか。加えて、当時の新聞報道の姿勢はどうでしたでしょうか。新聞が持つべき、冷静に物事の事態を把握するという役割と、根拠のない不安ならばそれを取り除くという使命は、果たされなかったと評価していいでしょう。


  実際のところは、この道の専門家とも言える「IAEA」による調査で、東京電力が充分すぎるほどの耐震強度設計をしていた為に、地震被害が原子炉の安全性に影響を与えず、原子炉が安全に停止したことが分かり、その点が高く評価されておりますし、放射性物質の漏洩も基準値をはるかに下回るものであることも確認されています。いずれにしても、日本の原子力技術の高さが世界に証明されたわけでして、後に残ったのは、過度の風評被害でした。
 
 
  やれ「原発の放射能が心配」とか、「あふれる核燃料プール」などの風評が飛び舞った結果、新潟のホテルのキャンセルが多数あり、柏崎では遊覧船が運航を停止し、花火大会も中止。さらには、ある新聞報道が海外メディアの「ヘラルド・トリビューン」紙に転載されたことも手伝って、千葉県に来る予定だったセリエAのカターニャの訪日まで中止になる等、不必要な見出しにより社会不安が醸し出されてしまいました。こうして柏崎の人達が、世間から受けた損害は甚大なものがあったといえますし、特に子供達にとっては多くの楽しみが奪われてしまったことでしょう。だからこそ、一瞬でも早いプレイボールが大切だったのでした。


  私達がなすべきことは、感覚的に常識として広がってしまっている原発に対する間違いを、日本のエネルギー事情を前提に、幅広い情報と科学的見地に触れる努力をすることによって見直し、そして理解を深めることです。そのときの合言葉たりうるのは、「ガンバレ柏崎」です。

                                        
                                                  
                                      2007年11月