2009年3月26日木曜日

同期の結婚式にて

つい最近、私の高校・大学時代の友人の結婚式が、フォーシーズン・ホテルで執り行われました。当日の天気は?と言うと、あたかも二人の幸せぶりを私も見たいといわんばかりに、お天道様も覗き込んでいる、そんな良い天気でした。
開演時刻よりも前に到着すると、既に懐かしい仲間達がワイワイと話し合っています。新郎は高校時代野球部でしたので、野球部関係の知り合いが大きな集団を形作って思い出話をしていました。運動部仲間として私も分け入って会話に参加していると、これまた懐かしい高校の野球部の監督が到着し、会話に加わってくれました。私自身は、アメリカンフットボール部でしたので、この監督さんとは部活でのご縁はなかったのですが、それでも私には忘れられない思い出が、ご恩が、この監督さんにはあります。
~昭和49年春、豊島区立高松小学校を卒業した私は、そのまま地元の公立中学校である豊島区立千川中学校に入学。小学校時代から、学内では球技クラブを、地元の地域では、高松少年野球会に所属し、特に野球に熱中する。千川中学校に入学直後、私は我が目を疑う、いや茫然自失する。何と、野球部がない。最も、数年前までは野球部はあったとの事。しかし何故野球部が廃止されたのか、その理由は未だに謎。それまで地元の原っぱ、城北公園内にあるグラウンドにて野球三昧で過ごしてきた私にとって、心と、体が真空に。だが、発想の転換を考える。「無いものは、作れば良い」と~

入学してから驚く方がお粗末とも言えそうです。兎に角、入学直後は他のスポーツをするわけでも無く、まったりと静かにしていたものの、やがて、中学2年になると、野球部の設置に向けた活動を起こし始めました。野球好きの連中が集まり、話し合い、計画を立て、体育の先生は勿論のこと、野球やスポーツに造詣の深い先生への陳情行動を熱心に始めました。その甲斐もあってか、その効果があったのか、私が中学3年生の春から、野球部が復活する事が決まりました。その後は、廃部になった理由が、チームが弱くて一勝も出来なかったからだ等、私たちを焦らせる情報も飛び交ったり、当時の私たち部員は、こりゃ負けたらまた廃部になるぞとの危機感を持って、ようやく割り当てられたグラウンド使用日に、必死になって練習したのを思い出します。但し、悲しいかな、千川中学校の校庭の狭さと、現在のように防球ネットが無い事から、打撃練習を始め、外野へのノックも出来ないといった有様でした。そして私自身こりゃ参ったというのは、中学一年生の頃は身長が145センチメートルしかなかったのが、3年生ともなると、175センチとなり、30センチも身長が伸びており、かつてのユニフォームが着れないことでした。ユニフォームぐらい直ぐ作ったら良いのにと言われそうですが、こちらは何年振りかの野球部なんです。兎に角、体操服やジャージでも良いから練習に打ち込みたくて仕方が在りませんでした。その挙句に、練習試合の時には、少年野球をしていた時の後輩からユニフォームを借りたりしていましたっけ(ちょっと高圧的だったかも)。
~千川中学校の野球部はこうして再び再起動し、夏の大会の大会に向けて練習に明け暮れる。やがて夏の大会の抽選が行われ、初戦の相手が、豊島区立中学校適正配置計画にて今は無き、第十中学校(現在は明豊中学校)と決まる。私は、5番:ショートで先発出場。試合は、ある意味で、投手戦となる。結果は、4対1で敗戦。私の中学校での野球人生は、一敗の歴史を刻んで終わりを告げる~

今でこそ「肘を壊す」といった理由で、小中学生の投手は、カーブをはじめとした変化球を投げる事は禁止されていますが、当時は今と違って、変化球オーケーの時代でした。十中のピッチャーですが、ストーレートもコントロールもいまいちのピッチャーで、これはオーケーかなとも思っていたのですが、チョコチョコと微妙に曲がる小さなカーブ(今で言うスライダーとカーブのあいのこで「スラーブ」)を、器用に且つ要所要所で投げてきました。私への勝負球は必ずといってよいほど、このスラーブで、結局のところ3打数ノーヒット、しかもセカドゴロ2つといった、散々足る有様でした。
~中学時代の野球で不完全燃焼だった私は、高校時代は野球をやり、甲子園を目指そうと決意(ほんとに目指すだけ…)。高校受験は、第一志望群は大学受験進学校を、第二志望は東京六大学の付属を狙い、都立高校を滑り止めに。最も、都立高校を滑り止めというのも、都立さんに対して失礼な話。実際は、男女共学の都立がイヤだったのと(これまた失礼)、中学時代をやんちゃに過ごしてきたせいか内申が低く、第41群の小石川・竹早が若干厳しかったのが真相~

昭和52年春、高校一年生の私は、両翼99メートルもあるグラウンドのレフト側にある土手に座って、野球部の練習を熱心に見学していました。高校受験でしばらく遠ざかっていた懐かしいあの掛け声、そして当時高校野球に導入されたての「金属バット」の打球音がグラウンド中に響き渡っていました。ここで野球が出来るんだなと思うと、胸がワクワクしましたし、それまでの運動不足がいっぺんい吹き飛ぶような気がしました。その時です。監督が近づいてきて、話しかけてくれました。熱心に見学しているこちらの思いを察してくれたのでしょうか。早速矢継ぎ早に質問が飛んできました。「君は中学の時はどこを守っていた?」「何番を打っていた?」「100メートルは何秒で走る?」。イヤイヤ、さすがに元旦以外は休み無く、日々甲子園を目指して練習している野球部の監督さんです。その目は、私がはたして使えるか使えないかの目をしていました…。
その一方、かねてから、どうしても私に来て貰いたいと言ってくれていた部がありました。それがアメフト部です。結果的には、自分自身と折り合いをつけ、急旋回する形でアメフト部に入部し、やがて高校2年生の時に全国大会ベスト16になりました。その年野球部の方は、夏の甲子園の埼玉県大会決勝に迄いったものの、決勝戦で所沢商業に負け、あと一歩で全国大会の甲子園を逃してしまったのです。結果的には我がアメフト部の方が優ったことになります。
あの時の監督の真摯で熱心な質問攻めが無かったら…。
それから30年後の今、目の前にいる監督さんに有難くも、懐かしさの思いを込めた御挨拶と握手をさせてもらいました。
この年齢になってからの同期の結婚式って、こういった出会いがあるから嬉しいですね。