2009年11月15日日曜日

子供達の人権メッセを聞いて

 9月12日、小雨が降りしきる中、豊島公会堂におきまして、豊島区と豊島区教育委員会もそれぞれ主催者と後援者のひとりとなり、「第16回子どもたちの人権メッセージ発表会」が盛大に執り行われました。この発表会の前に公務があったため、私自身の会場入りは、確か午後1時半頃だったと記憶しています。入った時にちょうど発表していたのが、5番の杉並区立大宮小学校6年生の女の子による「人権侵害について」でした。受付で貰ったプログラムを開いて、それぞれの子供達が発表するメッセージの題名に目を通していくと・・・。さすがに「人権メッセージ発表会」と銘打っているだけあって、「人権」という言葉があちこちの子供達のメッセージ題名に使われております。はたして本当にここにいる子供達は、「人権」を正しく使いこなせているか。使いこなせるのは大学で法学部にでも入ってからで良いとしても、正しく使える為の前提知識をどれだけ学校から、家庭から教わっているのか。一抹の不安を感じないわけにはいきませんでした。この段階でまずしっかりと学習しなければ、これから思春期を迎えていくにしたがって、権利、権利と駄々をこねる若者に育ってしまいかねません・・・・・・。
 このような発表会で出会う親御さんの中には、「既に、人は生まれながらにして人権というものがあり、その中には当然子供の権利が保障されているんです」といった趣旨の発言をされる方が大変多いです。勿論、私自身、「人権」とか「子供の権利」とかを否定するつもりはありません。
ただ、今一度、「人権」とは、「権利」とは何か、という命題に向き合って、しっかりと思索して欲しいと思っております。その思索を経由した後に、「人権」とか、「権利」とかを語っていただきたいな・・・、そう切に思う次第です。と言いますのも、それらは過分に濫用の危険があり、中でも特に「人権」は暴走する危険をはらんだ西洋近代の「発明品」であることを肝に銘じていただきたいのです。
「人権」は暴走する。また「人権」は西洋近代の「発明品」である。そう申しましたが、それまではどうであったでしょうか。皆さんご承知の通り、どんな時代のどんな文化においても、「権利」の主張には必ず根拠が必要でした。例えば、まず始めに契約が結ばれて、そして自分はこれこれの仕事をしたからこれこれの取り分がある、と主張するのが、まさに「権利」でした。あるいは、伝統ある古来の慣習を根拠として「権利」が主張されることもありましたし、さらには、キリスト教に基づいた「自然法」のように、「神の掟を忠実に守ること」と「神の与えた権利を有すること」とが表裏一体となっている場合もありました。いずれにしても、単に個人が何かを欲すれば、それが「権利」と認められる、などということはありえなかったのですが、これを全て覆したのが、「人権」概念の発明者のトマス・ホッブスであり、その半世紀あとに登場した、ジョン・ロックです。

 ~我が国の憲法に採用されているのが、「ジョン・ロック版」の人権思想。また、ホッブス自身、「人権」(自然権)が個人の意志と欲望以外の根拠を持たないものゆえ、本質的に暴走の危険を秘めている。それに手綱をかけて本来の個人の幸福追求・実現へと向かわせるのが国家・政府の責務と危険性を認識。にもかかわらず、その危険性の認識をぼやかしてしまったのがジョン・ロック。ロックは「人権」を「神によって与えられた有難い権利」としながら、そこに当然伴うべき「神への義務」の方はあっさりと無視。「ロック版」人権概念は、一方では個人の意志と欲望をそのままに認めながら、そのことの持つ危険性は一切考えないというもの。
  現在、人権の概念はフェミニズムの主張などを容れて、止めどもなく拡大。それはまさに個人の欲求の他、いかなる根拠も必要としないという、ロック版人権概念の基本構造に基づく。
 
「人権」とか「子供の権利」とかの定義や内容は、きわめて曖昧であり、ありとあらゆる子供達の権利行使が、ある子供の、またはある個人・団体の恣意に基づいて行われる危険を払拭できないところがあります。その典型例ともいえる事件が、約9年前に起きた、東京都国立市立第二小学校での、学校長に対する土下座要求事件だと言えるでしょう。私達大人は、今一度冷静に「人権」とは、「権利」とは如何なるものなのかを問い続け、これらがもつ危険性に常に配慮し、国家や自治体が「人権」や「権利」を謳うないし扱うに際しては、事前の学習やレクチャーをしっかりと十二分に行うと共に、極力それは謙抑的かつ慎重に展開すべきだと思います。
この度の子供達の発表の中で、私なりに気になったことがいくつかありますが、ここでは紙面の都合で一つ取り上げたいと思います。特に「いじめ」とか「ケンカ」、そして「差別」といったキーワードを駆使して発表されたものを聞いていて感じた事ですが、「相手にも『人権』があるんだから、いじめたり、暴力を振るったり、差別してはいけないよ」と言った類の主張です。要は、子供を人権・権利の主体と捉えることで、いわゆる「虐待問題」などを解決しようとする姿勢ですが、私はこういった主張や取り組みは見るべき視点を誤っていると思っています。その事はとりわけ「高齢者に対する虐待」の問題を考えてみればよろしいでしょう。高齢者の方は、当然のことながら大人ですから、完全無欠の権利を有する主体ということが出来ます。相対する方も、お互いが「人権」とか「権利」を有していると了解して社会活動をしています。それなのになぜ、権利主体との了解のある高齢者に対して、家族などによる虐待やいじめが増えているのでしょうか。「子供同士でもお互い『人権』があるんだからね。いじめたらダメよ」、そう主張する方は、いま申し上げた「高齢者虐待」がなぜ起こるのかをどう説明されるのでしょうか。およそ虐待というものは、何も、相手方が権利を持っているかどうかでその抑制が左右される代物ではないと思います。大切な事は、虐待される人に権利があるかどうかではなく、また、虐待する人を単純に非難する事でもなく、そもそも虐待しないですむ状況や、環境を作ることではないでしょうか。虐待してしまう人も介護に悩んでいるのでしょう。なぜ虐待するか、何故いじめるのかを理解しないと、適切な対策は生まれないと考えます。ここで再度確認したいことは、子供が必要としているのは「人権」や「権利」の名の下に生じる「利益」ではないということ、子供が最も必要としているのは、親との「関係」なのだということであります。すなわち、保護者、学校、地域が連携を強め、みんなで子どもを守り育てようという姿勢・構えであります。子どもを巡る環境の悪化は、大人が子どもを守り育てるという当たり前の義務を果たさなくなったことが原因です。私は「人権」とか、「権利」という一見すばらしいものであるような言葉を万能薬のように使って問題を解決しようとするのではなく、一つ一つの問題に対する具体的な施策を地道に実施していくことこそ問題の解決に最も効果的かつ効率の良いやり方であると信じております。