2008年2月28日木曜日

冷凍餃子君

 毎日行動する上で欠かせない手帳から、いよいよ【新年会】【新春の集い】といった催し物が少なくなってまいりました。例年ですと、酒もタバコも一切と言って良いほど嗜まないのにもかかわらず、お付き合いと称して杯を重ね、帰り際には良い心もちになっていた私ですが、今年は出席する会の多さから車での移動がやたらと多く(勿論、私が運転手兼ナビゲーターです。最近うちに来る塾生はオートマ限定が多過ぎるゾ!!マニュアルをとらんかいー)、当然のことながらお酒は控えましたので、体調面・記憶面(若年痴呆?)でも、かなりしっかりとした新年会シーズンを過ごすことができました。また今年は有難くも、いろいろな団体様からお声掛けをいただき、可能な限り出席させていただいただけではなく、挨拶までさせていただけた団体さんが例年よりも多くありました。ありがとうございます。



「………さて、毎年恒例の「今年の漢字」に、「偽」が選ばれてしまい、その後の二位以下にも、「食」「嘘」「疑」が続いてしまった事にも象徴されますように、この五年間というものは、まさに日本人の食べ物に対する「安全・安心」が厳しく問われ、国民の皆様から強い叱責を受ける時代でありました。その潮流の中にあって、当協会の食品関係営業者の皆様におかれましては、「消費者の信用を勝ち取る為に!!」、また「ご自分で自身のお店を守る為に!!」、更には「自主的衛生管理を実践するお店創りをする為に!!」を合言葉に、毎日弛むことなく鋭意努力・活動されて来た事と存じます。特に、会員施設の食品衛生の向上と、自主的衛生管理の確立のために、昼夜を違わず、会員施設を巡回して衛生管理の指導・普及に取り組んでおられる「食品衛生自治指導員」の皆様方に対しましては、そのご尽力振りにただただ頭の下がる想いで一杯であります。引き続きましてのご活動に期待いたしますと共に、力強い支援システムの構築が急務と考えております。………私自身、当協会は勿論の事、ひいては食品業界全体に対しまして貢献できるよう、豊島区の保健福祉部や池袋保健所等と緊密な連携を図り、当協会会員の皆様に対しまして、食品衛生等の情報を幅広く提供してまいる覚悟であります。………」



 【食】の安全と言いますと、昨今は、【毒入り餃子】【殺人餃子】の話題が世上をかなり賑わしておりますが、この餃子の歴史は大変古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすでに食べられていた痕跡が見つかっているとのことですし、敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されたとのことです。その餃子発祥の地は中国、しかも華北の料理とされ、中国東北部で特によく食べられていたものが、戦後満州を経由して我が国に流入してきたとのことですが、物語っぽくなってしまうものの、日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされており、亡命していた朱舜水(誰ですかね?)から教わった、と伝えられております。
 日本では米飯のおかずとして食されることが多いですが、これは日本独自であり、他の国では一般的ではないようです。と言いますのも、中国の華北で食べられる餃子は主食を兼ねたものが多く、皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方の水餃子が主流で、焼き餃子はあまり食べられない。焼き餃子は残り物の餃子を焼いて食べるものであって、あまり上品な食べ物とは思われていない、と言った経緯があるからです。
 もっとも経緯とか歴史を調べて見ますと、餃子はその中国語での発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子の形に似ていることにから、縁起の良い食べ物としても珍重されており、また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願い食されます。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子を食したといわれています。



 日本の自治体の中には、栃木県宇都宮市のように、この餃子を使って町興しをしているところがあります。その宇都宮市の餃子の始まりは、かつての陸軍、しかも宇都宮出身の将兵が、満州からの帰国の際に本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれており、現在市内には餃子専門店と餃子を扱う料理店が合わせて約200軒もあり、一般的な販売価格は1人前150~200円程度と低廉で学生がおやつ代わりに食べることが出来る価格帯となっているとのこと、加えて、タレは酢だけで食する、宇都宮スタイルといわれるものがあるそうです。



~~平成2年ごろ、町興しにつながるキーワードを探していた市の職員が、総務省の「家計調査年報」において「餃子購入額」で同市は常に上位に挙がっていることに注目。餃子による町興しを提案したのがきっかけで、以来観光PRに力を入れる。平成3年には業者団体として「宇都宮餃子会」が発足。行政と民間で協力して様々な企画を仕掛けたことが功を奏し、かつて国際観光都市「日光・鬼怒川」への通過点だった宇都宮が、餃子という大きな観光資源を得ることに大成功。任意団体として発足した宇都宮餃子会は、平成13年に協同組合となり、登録商標「宇都宮餃子」の管理や組合直営店「来らっせ」3店舗(宇都宮2店、東京1店)の運営管理なども実施。現在の組合加盟店舗数は70軒を超える。JR宇都宮駅東口広場には、地元産出「大谷石」の業者によって無償で制作されたオブジェ『餃子像』が設置。ヴィーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現したユニークなもので、観光客の人気撮影スポットとなる。同時に、宇都宮駅が駅弁発祥の地(これは初めて知りました)であることから「宇都宮餃子駅弁」も企画・販売。宇都宮駅構内の立ち喰いそば屋には餃子そばというメニューがあった。秋には宇都宮餃子会を中心とする市民手作りのイベント「宇都宮餃子祭り」が定例化。協賛餃子店が市街で屋台を開き、1人前1皿100円の餃子が振る舞われる。「宇都宮餃子祭り」は毎年10月下旬~11月初旬の土日に実施。~~
 


 餃子一つでこれだけのインパクトを町に、そして全国に醸し出せるとは意外ですし、それはまた餃子というものを日本人の誰もが好物としているからでもありましょう。その食べた後の口臭が気になるという女子学生はいても、私の周囲にいる方でも餃子が嫌いな人はおりません。
 このように戦後中国から入り、日本に広まった餃子は数十年の時を経て、日本の食文化の1つとして日本流の餃子になっていると言えるでしょう。中国と日本の文化の架け橋であり、日本人が愛してきた餃子に毒が入っていたなんて、残念で仕方がありません。冷凍餃子君、君は悪くない。君の汚名を晴らす為には私はいつでも明智小五郎や金田一耕介になる覚悟だ。

2008年2月7日木曜日

舞良戸(まひらど)

  新しい年を迎え、気持ちも新たにして原稿を書いておりますと、「時折穴もあけるけど、よくもまあ続いているなぁ」と、自分で感心するときがありますし、書きたまったものを纏めて出版したら、という言葉をかけてくれる方もいます。誠に嬉しいことではありますが、いやいや、私なんぞの原稿を纏めて出版したところで読めた代物ではありません。しかも、もし三島由紀夫が生きていて、その本を読んだとしたら、私はどうされちゃうでしょうか?想像しただけでもゾッとします(私が介錯されちゃう!!)。といいますのも、彼の遺作評論であり、文学的遺書とも言える(私が勝手に思ってる?)「小説とは何か」(新潮社)の五を読む限り、とてもとても、私なんぞ本とか出版とか、口にすることすら出来ないと思うのであります。
 





  三島はその中で、小説と戯曲とを比較しながら、「小説の特徴は…生・自然・人間(動物である場合もある)のすべての表現が、言語を通じてなされており、かつ、言語を持って完結している、…」と述べ、「言語表現による最終完結性」こそが、芸術としての小説のもっとも本質的な要素であるといった発言をしております。そこから、三島は「小説は、実に自由でわがままなジャンルと考えられているだけに、この点の認識をなおざりにして書かれたものが実に多く、古い日本語の教養が崩れてゆくに従って、この認識自体が小説家の内部で日に日に衰えつつあるように思われる」と当時の小説作品群の出来映えの傾向を嘆きつつ、ひとつの家の造りのある部分を取り上げて、以下のように自説を展開しているのであります。








  「たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。一例をあげよう。『舞良戸(まひらど)』という名の戸がある。横に多数のこまかい棧のある板戸のことである。こんな戸は今では古い邸や寺などに見られるだけで、近代和風建築にはめったに見られず、ましてマンションやアパートの生活ではお目にかかれない代物である。しかし小説はマンション生活ばかり扱うべきだという規則があるわけではなく、小説家自身の過去の喚起が、小さな事物をも重要な心象たらしめるから、現代小説にだって、舞良戸が登場することは免かれない。そういうとき小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその『名』をしらねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はおわり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。……(略)……伝統によって一定期間存続され且つそれに代わる名稱ないようなものについては、作家はその『名』を指示すれば、満足すべきなのであって、それが言語表現の最終的完結性というものを保障する一つの文化的確信であるべきである。極端なことをいえば、日本歴史を信ぜずして日本語を使うことなどできよう筈がない。私は明らかに、舞良戸は、ただ『舞良戸』と書くことを以って満足する小説家である。……(略)……しかしこのごろ新人の、いや新人のみならず中堅に及ぶ作家の中にも、『舞良戸』が出てきたと仮定した場合、次のような表現をとる事例に、私はしばしばぶつかるのである。



①「横棧のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」
②「横棧戸」
③「まひらど、というのか、横棧の沢山ついた戸」





  このうち私が検事であれば、③にもっとも重い罪を課する筈であるが、それは追って説明するとして、①のように書く作家は、物を正確に見ており、過去の喚起力を持っているけれども、それだけを作家の素質と考えている怠け者であり、言語表現の最終完結性について、すなわち小説の本質について、ぞろっぺえな考えを持っているのである。彼は字引を引くこと自体を衒学的な行為と錯覚しているにちがいない。②の作家は平気で造語をする。『横棧戸』などという、サンドウィッチの一種のような言葉は日本語にはない。彼は言葉の伝統性について敬謙さを欠いた考えの持主であり、あるいは忙しすぎて、表現の厳密性に注意を払わない作家である。



  一事が万事、こういう作家に限って、決してユニークな感覚的表現はできず、他の個所では、きっと『彼女は悲しくなるほど美しい微笑をうかべて』など、使い古されたルーティーンな表現を平気で多用している筈である。彼はただ忙しいのである。③の作家にいたっては論外である。なぜ論外かというと、こういう表現をするには、いくつかの心理的蓋然性が考えられる。一つは、彼の頭に『舞良戸』という名が浮かぶには浮かんだが、字引なり何なりで確かめる労を省いて、その労を省いたという心理的経過をそのまま売り物にして、『というのか』と、責任を他に転嫁しているのである。もう一つは、実は彼が『舞良戸』という名をちゃんと知っていながら、作者自身あるいは登場人物の呑気な正確表現として、『というのか』を入れたほうが、表現が柔らかく親しみ易いものになると考えているのである。三つ目は、すべてが無意識な場合である。彼は表現の凝縮性も正確性も考えず、ただ、あいまいな心理状態を外界に投影して、外界自体をあいまいな『というのか』で満たしており、しかもすべてを無意識にやっているのである。






  私のすべての中で、この③の第三番目の場合をもっとも悪質だと思う。③の第一番目は文士気質を売り物にしているから悪く、第二番目はわざとらしい無智の衒いを、作中人物の呑気さの性格表現に利用しようと考えている点で、キザな心掛けが悪く、第三番目は、言語表現の自律性についての無反省において、作家としての根本的な過誤を犯しているからである。
私はこれらの例をすべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさという罪名に於いて弾劾する。何を些細なことを、と言われるかもしれないが、一方、もし劇作家がト書の中で、『下手に舞良戸』と指定すれば、職人はすぐに意を承けて舞良戸を制作するに決まっており、單なる技術的指定として使われた言語が、舞台ではちゃんとした物象として存在するにいたるのである。そして小説とは、そのような、ちゃんとした物象、役者がよりかかったぐらいではグラつかない本物の物象を、言語で、ただ言葉のみで創造していく芸術なのである」







  ~ は初めて「まひらど」というのを知ったわけですが、もし自分がこれを読者に伝えるとしたらどのような言語表現を用いていたでしょうか?おそらく三島検事の最も嫌う③のように記述していたかなと思います。決して私はここで小説を書いているのではありませんが、この三島の言説に触れる度に、日本語・その概念・その文章は美しいけれども難しいと、つくづく感じますと共に、私が本を出すなんて……トンデモナイー、と叫ぶのであります。
今年もまた拙いエッセイ(間違っても小説はかけません)にどうぞお付き合い下さいませ。

                                      2008年1月

2007年12月22日土曜日

テロ得?

 今からちょうど2ヶ月前の10月17日、日本政府は、11月1日に期限が切れる「テロ対策特別措置法」に代わる、「新テロ対策特別措置法案」を閣議決定し、国会に提出致しました。勿論、提出してはみたものの、その後の帰趨はどうなっているかと言えば、まさに予断を許さない感じがあります。それは、直近の各新聞やテレビで報道されている世論調査結果が如実に物語っているところであります。
 そこで、新法案は一体全体どういう内容のものかといいますと、国際社会の「テロとの戦い」や、わが国の生命線である原油とシーレーンの安全確保という国益の観点を踏まえた上で、引き続いてインド洋、とりわけアラビア海海域での海上自衛隊の支援活動を、給油と給水活動に限定し、その給油先も、武力行使に従事する軍艦への補給活動を排除し、テロリストの移動や武器、麻薬などの輸送を監視・摘発する海上阻止活動にかかわる他国軍の艦船に限定したものとなっております。
 

 そこから新法案は、①ここでの海上阻止活動が、国際法に基づいた乗船検査などの海上警察活動を指しており、決して武力攻撃をするものではないこと、また、②給油先も限定したことで、対イラク作戦などに対する燃料の転用防止の徹底にもつながっていること、さらに、③その期限は、文民統制をより強いものにするという意味で、1年としていること等から、現在の「テロ対策特別措置法」にも増して、国民の支持を得られるものになっていると思います。
 

 そもそも、「テロ対策特別措置法」のもとでの、海上自衛隊の艦艇による洋上給油活動の戦略的意味は、「テロとの戦い」に取り組んでいる多国籍海軍の海洋安全保障にとって極めて重要な意味を持っていることは間違いありません。
 

 といいますのも、わが国の海上自衛隊の艦艇が洋上給油している各国艦艇の受け持っている海域は、ペルシャ湾からホルムズ海峡、アラビア半島の沿岸海域、紅海からソマリア海域と極めて広範囲に及んでおりますが、もしここで洋上給油という手段を失ったとしたならば、一体どうなるでしょうか。是非、皆さんも想像して頂ければ有難いです。


 私なりに想像してみますに、洋上での給油がなくなれば、各国の艦艇は、いちいち予め定められた補給港に寄港し、燃料補給作業を行うことを余儀なくされ、その結果、時間的に大きなロスを生じさせると共に、各国の艦艇の作戦行動が当該補給港に縛られてしまい、ひいてはテロリスト達に、海上阻止活動の警戒網をくぐり抜けた、各種洋上活動を許してしまうことになると思いますし、それは我が国にとって、「テロとの戦い」の成否に関わる軍事的な欠陥をさらけ出すことを意味すると考えますが、いかがでしょう。


 数年間にわたって続けられているインド洋上、とりわけアラビア海海域での海上安全保障活動で摘発されたテロリストやテロ集団と関係する船舶数は、公開情報に限ってみますと極めて少ないことが分かります。 

 そこから、「テロ対策特別措置法」に基づく海上安全保障作戦が、テロの根絶にどの程度貢献したのか!とか、実質的に役立ってはいないのではないか!とか、費用対効果が低くて実行価値がないのではないか!といった声が聞こえてまいります。
 

 しかし、このような発言は、わが国の安全保障にまつわる軍事的な専門領域までをも、いわゆる商業、商い的視点でしか判断できない、いわゆる「平和ボケ」の典型例の一つでありまして、わが国独特の現象といわざるを得ないと思います。
 

 といいますのも、摘発ないし捕捉されたテロ分子が極めて少ないということの意味は、各国の艦艇による哨戒・警戒活動によって、テロリスト側の、洋上での活動が大幅に制約されている、抑止効果がもたらされている、と言うことが出来るからであります。各国の艦艇がアラビア海海域を常時パトロールしているがゆえに、テロ分子達による、テロリストの移動や武器弾薬の増強、麻薬や人身売買による資金稼ぎのための密貿易を抑止出来ている、という成果が上がっているという意味において、確実な「貢献」がそこにはあると、私は考えます。


 加えて、現在、各国の艦艇に対して洋上給油を行う為の部隊を展開させる能力を持っているのは、世界各国の軍事バランス上、わが国の海上自衛隊だけであり、わが国政府が国連によって支持されている「テロとの戦い」そのものを支持している以上、海上自衛隊の補給艦が各国の艦艇に給油などの支援をすることは、まさにわが国の特性を生かした、外交努力の結果生まれた国際貢献と言う事が出来ると思います。


 しかも、より重要なことは、わが国の生命線である原油とシーレーンの安全確保という国益を見据えて、今回の問題を議論することであります。わが国が輸入している原油のうち89.5パーセントは、ペルシャ湾からホルムズ海峡を抜けて、アラビア海を通過してインド洋から日本へと向かっておりますし、残りの10.5パーセントのうち、4.2パーセントは、紅海からアラビア海を横断しインド洋から日本へと向かっています。つまり、わが国が輸入する原油の93.7パーセントは、「テロとの戦い」のもと、多国籍海軍の艦艇が安全を確保してくれている海域・シーレーンを通過してもたらされてくるものです。
 

 もしもわが国の海上自衛隊の艦艇による洋上給油活動がなくなり、各国の艦艇による海上安全保障活動が停滞し、アラビア海海域でのテロリストの活動が活発になりますと、最悪の場合は、93.7パーセントの原油を、わが国は手に入れることが出来なくなる恐れが生じます。そして、わが国が常時備蓄している約半年分の原油を消費してしまった後は、生産活動も交通機関も完全に麻痺してしまい、国民の健康で文化的な生活は到底望めなくなってしまいます。
 

 わが国としましては、引き続いて各国の艦艇に対する洋上給油活動を展開することによって、自らの原油とシーレーンの安全確保という国民生活の生命線を守り、原油の安定的な獲得の維持という我が国の国民生活に直結した国益を守るという観点を常に持ち続けていかなければならないと思いますが、いかがでしょうか。
 

 海上自衛隊の洋上給油活動の継続は、わが国が国際社会の一員として、「テロとの戦い」に貢献するという国際的な責任を果たす意味でも、また、海上交通の安全確保というわが国の国益にも合致するという意味でも、政治的に正しい決断であると、私なんぞは思っておりますが・・・。   
少なくとも、テロリスト達が得しない方策を考え続けましょう。
~~~本年も拙いエッセイ(?)にお付き合い下さり、誠に有難う御座いました。

良い年をお迎え下さい。~~~                                                                 2007年12月

2007年12月4日火曜日

ガンバレ柏崎

  11月11日、日曜日の午前、豊島区総合グラウンドで、第4回「TEPCOフレンドリーカップ2007」という、豊島区と新潟県柏崎市との少年野球交流大会が開催されました。
この大会は、東京電力株式会社の大塚支社と柏崎刈羽原子力発電所が主催し、財団法人:社会経済生産性本部の首都圏エネルギー懇談会の共催を得て、私どもの豊島区少年野球連盟と新潟県柏崎学童野球連盟が協力するもので、首都圏で使われる電力の約2割をまかなっている柏崎刈羽原子力発電所立地地域である新潟県柏崎市という「電力の生産地」と、私達が住む首都圏の真っ只中にあります東京都豊島区という「電力の消費地」とを、少年野球というスポーツで結び合うことによって相互理解を深め、ひいては日本のエネルギー事情に小さい頃から関心を持ってもらいたいという願いを込めて行われているものです。


  当日は、困ったことに朝から生憎の雨模様でして、雨による大会への影響を少しでも抑えようと、開会式を簡潔に済ませる等して予定時刻より早目にプレイボールとしたのですが、一回の表を終わった時点で無常にも強い雨脚となり、審判部の判断でやむなく中断、選手達はアンダーシャツを取り替えてジャンパーを着るとともに、ベンチで雨が止むのをひたすら祈るという状況が2・30分続いてしまいました。


  わざわざ新潟県柏崎市から一泊二日の行程で、監督・コーチ・ご父兄の皆さん、そして選手達の総勢約60名(柏崎スターズと松浜少年野球団の2チーム)が来てくれているのです。ホスト側の豊島区少年野球連盟をはじめ、大会関係者は、雨脚が衰えたと判断するや、一目散にグラウンドに飛び出して行き、水溜りの除去や砂の入れ替え等をはじめとするグラウンド・キープ作業に取り掛かりました。内野のところの水溜りをレイキやブラシで、ファウルグラウンドのほうまで押し流してゆく人、たいして大きくもないスポンジをグラウンドに押し付け水を吸い取ってバケツに捨てている人、乾いた砂をピッチャーズ・マウンドやバッターズ・ボックスに運び、ぬかるんだ砂と入れ替えている人、各大会関係者が暗黙のうちに役割分担し、プレイ再開への道筋をつけてくれています。
 

  それらの光景を、私も手伝いながら拝見して感じたことは、わざわざ柏崎市から来てくれている、それだけの理由ではこの一連の動きぶりは出てこないな、という事でした。
大会前日の11月10日、土曜日の夕方、今大会の前夜祭とも言える「ふれあい交流会」が、サンシャインシティ・プリンスホテルの特別協力のもと、ワールドインポートマート9階さくらルームで行われました。懇談に入る前の、オープニングセレモニーでは、まず、主催者の東京電力の役員の方から、今回の新潟県中越沖地震による被災者の皆さんへのいたわりの言葉と、柏崎刈羽原子力発電所の罹災よる影響を、子供達が一生懸命取り組み、楽しみにしているこの少年野球交流大会に及ぼしてはならない旨の決意が述べられ、次に、乾杯の発声をした柏崎学童野球連盟の役員の方からは、今回来たチームの中に中越沖地震で被災したご家族が多数含まれている旨のご挨拶がありました。この時、ご挨拶した方々とそれを聞いていた皆さんに共通して去来したものは何か、それを私なりに想像しますと、様々な形で被害を受けた柏崎への優しさと労わりの想いもさることながら、日本人としてとても大切な事に無関心でありすぎたし&ありつづけたという反省の想いではないでしょうか。


  7月16日午前10時13分、新潟県中越沖地震が発生してから、柏崎刈羽原子力発電所の地震被害の映像は連日連夜テレビで報道され、「何故、地震多発国に、原発を作ったのか」とか、「原発の安全性には多大な疑問があるといわざるを得ない」といった批判が相次ぎましたが、そもそも私達は、はたして&どこまで原発についての正しい知識を持ち合わせていたでしょうか。私達は今、原発についての無関心を卒業し、国民一人ひとりが認識を深め、思考する時期がやってきたのではないでしょうか。現にアメリカでは、1979年のスリーマイル島の事故以来、原発の建設がなされてこなかったのにもかかわらず、いよいよ新たな建設計画を策定しましたし、現在世界的に、原発政策が見直されています。 
  

  特に資源に恵まれない日本では、原子力発電には、①少ない燃料で大きな発電量を作り出せること、②一度原発を建設してしまえば後はランニングコストが安いこと、③政情が安定している先進諸国から安心してウランを確保できること、④COツーの抑制効果が大きいこと、そして⑤燃料をリサイクルでこること等のメリットがあることから、2006年に「原子力立国計画」が策定され、あらためて国家戦略としての原発推進が確認されています。ところが、現実の私達の対応はどうでしたでしょうか。テレビ画面が映し出す柏崎刈羽原発の施設(実際は原子炉本体ではなく変圧器施設)から立ち上がる黒煙を見て、単純にチェルノブイリ原発事故に結び付け、そこから、海と大気へ放射能が漏れたと即断したのではないでしょうか。加えて、当時の新聞報道の姿勢はどうでしたでしょうか。新聞が持つべき、冷静に物事の事態を把握するという役割と、根拠のない不安ならばそれを取り除くという使命は、果たされなかったと評価していいでしょう。


  実際のところは、この道の専門家とも言える「IAEA」による調査で、東京電力が充分すぎるほどの耐震強度設計をしていた為に、地震被害が原子炉の安全性に影響を与えず、原子炉が安全に停止したことが分かり、その点が高く評価されておりますし、放射性物質の漏洩も基準値をはるかに下回るものであることも確認されています。いずれにしても、日本の原子力技術の高さが世界に証明されたわけでして、後に残ったのは、過度の風評被害でした。
 
 
  やれ「原発の放射能が心配」とか、「あふれる核燃料プール」などの風評が飛び舞った結果、新潟のホテルのキャンセルが多数あり、柏崎では遊覧船が運航を停止し、花火大会も中止。さらには、ある新聞報道が海外メディアの「ヘラルド・トリビューン」紙に転載されたことも手伝って、千葉県に来る予定だったセリエAのカターニャの訪日まで中止になる等、不必要な見出しにより社会不安が醸し出されてしまいました。こうして柏崎の人達が、世間から受けた損害は甚大なものがあったといえますし、特に子供達にとっては多くの楽しみが奪われてしまったことでしょう。だからこそ、一瞬でも早いプレイボールが大切だったのでした。


  私達がなすべきことは、感覚的に常識として広がってしまっている原発に対する間違いを、日本のエネルギー事情を前提に、幅広い情報と科学的見地に触れる努力をすることによって見直し、そして理解を深めることです。そのときの合言葉たりうるのは、「ガンバレ柏崎」です。

                                        
                                                  
                                      2007年11月

2007年11月6日火曜日

福田康夫首相登場

  9月12日、安倍晋三内閣総理大臣(首相)が突然の退陣を表明されました。その第一報を私が知ったのは、同僚議員と豊島区役所内において、廊下トンビをしていた時で、同僚議員の携帯電話に飛び込んできた情報からでした。まったくの冗談かと思いつつも、豊島区役所4階の自民党控室に戻り、すぐさまテレビをつけてみますと、既に午後2時より、退陣についての説明をする総理記者会見が行われる、との段取りも出来ていることが分かりました。その後の流れは既に皆様方もご存知の通りです。

  ~~9月23日、自民党本部において党大会に代わる両院議員総会が開会。総裁選挙の結果、福田康夫氏が第22代自民党総裁に選出される。「信頼の回復」を!!、福田新総裁は、就任後初めての記者会見でこのことを繰り返し強調するとともに、「着実に、誠実に、国民の皆様方の期待にこたえられるよう、真正面から取り組んでいくしかない」と訴え、「正攻法」で取り組んでいく方針を表明。その上で福田新総裁は、「時間はかかるかもしれない。しかし、一致結束して取り組めば、そう遠くない時期に必ず信頼は取り戻せる」との認識を示し、全党員・党友の協力を呼びかける~~。

  当日の自民党本部の総裁選会場内にいた同志の若手衆議院議員の何人かから、実際その場で福田新総裁は何と言われたのかを聞いたことをまとめてみますと、大体こんな感じのことをおっしゃられた模様です。「そう遠くない時期」と言われたようですが、衆議院議員に残された任期はもう2年足らずですから、そう悠長な姿勢ではいられないでしょうし、その意味では、自民党に残された時間は限られているはずです。加えて、参議院で野党の皆さんが過半数を占めたわけですから、真に必要な法案を与党・政府が成立させていくにはどうしたらよいか等など、福田新総裁におかれては、もう少し周辺事態の深刻さに対するご認識と、この厳しい難局を乗り切っていく強い心構えを、もっとご自身の言葉で訴えて欲しかったな・・・・・というのが、下々で支えているつもりでいる、私の感想なのであります。

  ~~9月25日、福田康夫自民党新総裁は国会で指名され、天皇陛下からの任命を受け、第91代内閣総理大臣となる。福田康夫首相は、昭和11年生まれの71歳。町村派。身長は171センチ、体重は70キロ。早稲田大学政治経済学部を卒業。趣味はクラシック音楽の鑑賞。「幻想交響曲」などの代表作があるフランスのベルリオーズ、ハンガリーのバルトークの作品などが好み。読書は分野にこだわらず多読するが、幕末から明治にかけて活躍した政治家:勝海舟が好み。歴史小説が中心。昭和53年、日中平和友好条約を締結した福田赳夫第67代内閣総理大臣のご長男。平成2年、父の政界引退後に同じ選挙区から衆議院議員に立候補、そして初当選。森内閣、小泉内閣ではともに官房長官を務める。明治18年、日本の内閣制度が出来て初の親子2代での内閣総理大臣~~。

  先程述べました23日の総裁選に先立つ、9月21日、私が所属する自民党青年局主催で、「福田康夫・麻生太郎、自民党総裁選公開討論会」が実施されましたが、そこで配られた内部資料にあった福田氏の紹介です。自民党青年局の親友達も、私の事を良く知ったもので、早速「勝海舟」のところに反応し、数名が私の顔を覗き込んでおりました。

  私自身、勝海舟の成し遂げた功績は数多くあると思います。特にその際たるものは、西郷隆盛との協議によって実現させた、慶応4年4月11日の江戸城の無血開城でしょう。同時に、彼の著作物を通じて、例えば「氷川清話」や「解難録」、そして「断腸の記」から大変多くのことを啓蒙されました。しかしそれでも、私は彼の生き方・生き様をつぶさに追っていく中に、どうしても納得できないところがあるのです(海舟ファンの方ゴメンナサイ)。といいますのも、勝海舟は、旧幕府時代には幕府の中枢に地位を占めていたわけですが、それが戊辰戦争に際しては、日本国内の平和を最優先にすべきと述べて、官軍側に抵抗しないことを訴え、自らがそのイニシアティブをとり、先程述べた江戸城無血開城などを成し遂げていきました。いわば自分自身が帰属している幕府に対して引導を渡したわけであります。勝海舟が日本国内の平和という高い理念を掲げ、江戸の民衆を戦火から守った結果・成果は最大限評価いたします。しかし、明治維新後も海軍卿を歴任する等を始め、かつての敵方である薩摩・長州の人達と共に行動を共にしつつ、かつ地位・名誉にも与る生き様に、私は納得がいかないのであります。この勝海舟と対極的な生き様をしたのが山路愛山で、彼は幕府天文方の子に生まれ、戊辰戦争の混乱の中で彰義隊に参加した父親と生き別れ、幕府崩壊後は徳川家に従い、静岡に祖父母と共に移住し、辛酸を嘗め尽くす青春時代を送るのです。私が申し上げたいのは、自分が帰属する国や地域の共同体が危機や滅亡に瀕した場合、たとえ勝算が乏しい場合であっても、その局面打開に際して、多大な苦痛や負担、それどころか己の命を棄て去る覚悟をもって努める精神が大事ではあるまいか。それは、ひとえに主君のお家の存続と名誉を求め続けて奮戦し続ける山路愛山的生き様の中に、骨太の精神として君臨しているのではあるまいか。それに対して、勝海舟的生き様は、この精神を著しく損なうものではあるまいか、ということなのであります。

  この点、大東亜戦争末期の昭和20年の東京大空襲を例に考えてみますと、この空襲によって何十万人もの非戦闘員の日本人が亡くなったわけですが、今の平成の時代に生きている私達からしますと、この昭和の大戦時代に生きていて、そして空襲で亡くなられた人達とは、個人としてはほとんど面識がないということが出来ます。それが、空襲で死亡ないし被災された方達を、私達と同じ日本国民であるとして自然と包み込み、60年以上も前の東京大空襲をあたかも私達に対する加害行為であるかのごとく受け止めてしまうのは一体何故なのか、を考えていただければ有難いです。私達は、純粋に「個人としての自己」のみで生活しているのではなく、「国民としての自己」という観点を多いに保持しながら生活していることが分かると思いますが如何でしょうか。山路愛山的生き様は、まさにこの「国民としての自己」を脈々と保ち続ける為にはどのような気構え・精神が必要かを私達に訴えているのではないでしょうか。他方、勝海舟的生き様は、えてして短期的なタイムスパン内での「個人としての自己」の便宜や、脆弱で邪まな性根を、あたかも標本として後世に伝えるだけではないでしょうか?。福田首相が、趣味的にしかも読書空間の中だけで勝海舟が好きだ、と言われるだけでしたら、私は何も言いません。しかし、その勝海舟的生き様に共感し、これからの国政運営に生かす乃至重ね合わせるところがあるとしたら、それは日本という国家と日本国民の危機を招くのではないかと私は思っております。

2007年10月

若者を連れて

  多くの方から、『議員さんって、普段は何してるの?』と聞かれて、その回答または説明にとても困る時があります。といいますのも、区議会が開会されている時や、各級の選挙がある時は、『今コレコレの委員会に所属しておりまして、コレコレこういったことを審議してますよ』とか、『今回の参議院選挙も、私は保坂三蔵さんを応援・お手伝いをしているのですが、なかなか厳しくてね』とか、案外具体的かつストレートにお答えすることができるのですが、それらの刻みの間の活動といいましたら、まさに萬相談請負人状態でありまして、それに私自身のボキャヒンが加わりますから、なんと説明したらいいのか非常に難しくなるのであります。

  もっとも、当然の事ながら、党員として議員として、私なりの問題関心・意識をもった事柄にまつわる活動もありますから、それはそれとして説明することは出来るのですが、それ以外の活動について説明したとしたら、多くの場合は、『ええっ、そんなことまで議員さんってするの?大変だね』といった驚きの声が返ってくるのかもしれません。

  夏の期間について、意外と多くの区民の皆さんが議会のない事をご存知で、この夏は何してたの?・どこ行ってきたの?的な質問攻めにあうことがよくあります。
勿論、この夏もまた例年同様、事務所の若いスタッフと共に、私は豊島区のあちらこちらを徘徊乃至出没しておりました。

  さて、豊島区にはエポック10という「男女平等推進センター」がありますが、これは一体全体何かといいますと、いわゆる男女共同参画社会を実現する為に、区民の皆さんが集い、そして出会い、さらには学び、新しい生き方を創造していく拠点でありまして、バラエティーに富んだ数多くのメニューを用意した施設でもあります。具体的には、男女平等推進乃至男女共同参画社会の形成促進にまつわる講座・講演会を開催したり、また啓発・啓蒙誌の発行や学習相談などを実施したり、さらにはドメステッック・バイオレンスなどをはじめとした女性を取り巻く様々な問題の相談を受け付けています(これはほんの一部の説明です)。

  そして、その講座・講演会の一環として実施されている中の一つに、「エポック10シネマ」というものがありまして、私はこの8月、エポック10シネマ第5回上映会、ウェイン・ワン監督:スーザン・サランドン主演の映画『地上より何処かで』(2000年:アメリカ)を、うちの若者数人と一緒に視察・鑑賞してまいりました。

  私の問題関心は、この映画の中で、まず男性はどのように描かれているか、次に女性はどのような境遇に置かれているか、さらにその親達や子供達の立ち位置はどうなっているか、そして家族にはどういった絆を与えているのか、というところにありました。

  それでは、今回の映画の感想はと言いますと、・・・・・・・・・・。
  いやいや私からは止めておきましょう。その代わりといってはナンですが、うちの若者達には映画を見た後、それぞれ感想文を提出させておりますので、その中で私が「良し(?)」と思った、T大学L学部1年の谷麻衣さんの感想文をお示ししたいと思います。宜しくお願いします。
今回もご一読ありがとう御座いました。

                                 平成19年9月5日
                                   文責:谷 麻衣
            「地上より何処かで」を鑑賞して

  8月22日水曜日、豊島区立男女平等推進センター(エポック10)の4階研修室2にて、午前10時から「地上より何処かで」という映画が上映された。男女平等を推進し、女性の地位向上を目指している事業のエポック10では、「映画の中の女たち」というテーマで、様々な女性の生き方が描かれた作品がいくつか定期的に上映されている。映画の中の女性たちを通して、女性の多様な生き方を考えるというのが目的のようだ。
  「地上より何処かで」という映画では、派手で奔放な性格の母アデルと、現実的で聡明な娘アンという、考え方も服の趣味も、何から何まで正反対の二人の女性を中心に、ストーリーが展開されていく。鑑賞者も女性が多く、映画の内容も、どちらかというと女性向けといった印象を受けた。
  退屈な田舎暮らしに我慢できず、再婚した夫テッドや老いた母、姉夫婦らに別れを告げ、憧れのビバリーヒルズでの暮らしを夢見て、アデルは娘のアンを連れてロサンゼルスへと向かう。夢の門出にふさわしいと、中古のベンツもなけなしの金をはたいて購入した。アデルはそれが全て娘のアンのためと思い込んでいる。だがそれも全て裏目に出て、いつも的外れな言動で娘を悩ませてしまう。そんなある日、アデルは歯科医師のジョシュと知り合い、夢中になる。だが突然連絡が取れなくなり、家の前に行ってみると、別の女性と一緒のところを見てしまう。またアンも、友人に勧められ別れた父親に電話するが、金を無心するアデルの差し金と思われ傷つく。ビバリーヒルズでの生活は、夢とはかけ離れたものばかりだった。母の愛はわかっていても、そんな母が自分の人生を台無しにしたと、憎く思い、自分の道を踏み出したい娘のアン。アンが自分で決めた大学に行きたがっていると知り、最初は大反対していたアデルだが、お金が足りないから行けないという事実を知ると、お気に入りのベンツを売ってお金を作るという、最後に母親らしい一面も見せる。アンも最初は「母が憎い」と言っていたが、最後には「いないと退屈」だと、母親の存在が絶対的なものへと変わっている。
  この映画では、依存的だった母と娘が自立していく過程と同時に、家族の感動的な絆が描かれている。だがそこに男性の影は薄い。それどころか、女性を傷つける加害者的な立場で描かれている。アデルが母親らしい愛情を見せ、最後はアンにとって絶対的なものへと変わっているのに対し、父親は久しぶりに電話をかけたアンを心無い言葉で傷つける、ひどい父親で終わってしまっている。エポック10としては、弱い女性の立場を主張する事で、男女の不平等を示唆し、女性の地位向上への意識を高めようとしたのかもしれない。
  また、非現実的で無茶ばかりしているように見えるが、周囲の目を臆することなく、自分の夢に向かって突き進む姿は、子育てや仕事に追われ、自分の事に割く時間の無い人にとっては、羨ましいともとらえられるかもしれない。だがそんなアデルのふるまいは、ラスト以外は決して母親らしいものではなかったように思う。現代の働く女性の間でも、自分の趣味などとはもちろん、仕事と子育ての両立はとても難しい問題だ。少子化で労働力不足に陥る日本にとっても、経済的な発達といった面からいえば、女性の地位向上を目指し、ジェンダーフリーを掲げる事も、過剰に反応したり、行き過ぎなければ良い事かもしれない。だが子を持つ親となった時、それはどうなのだろうか。父親の存在、母親の存在、子どもにとってはそれぞれ共に重要で、お互いに片方は持ち得ない役割というものがあるはずだ。それはお互いに協力し合い、補い合っていく必要があり、そうする事で平等となりえるものだと、私は思う。今回の鑑賞を通して、女性の地位向上、そして男女平等を目指す一方で、これまでに形成されてきた父性と母性の役割も、大事にしてゆける日本でありたい、そう思った。

2007年9月

「公」「私」混同克服の『道』

  今から三年位前でしょうか。イラクで日本人3名が、テロ集団に人質として身柄を拘束され、自衛隊の派遣・撤退が大きな争点としてマス・メディアを騒がせたことがありました。当時イラクで人質になった日本人3名は、外務省が既に十数回も「退避勧告」を出し、出来るだけのチャンネルを使って「渡航の自粛」も呼びかけていたのにも関わらず、自ら進んでイラクという危険領域に向かったのでした。それはあたかも「登山禁止令が出ている雪山への登山をあえて実行するようなもの」と言われ、そこから当時流行したのが『自己責任』と言うものでした。

  当時の名店街ニュースに、これを題材に原稿を載せてもらいましたが、そこでは『自己責任』論よりも、むしろ『公私峻別』論を語らせていただいたと記憶しております。当時の原稿には次のような一節あります。

  『私』という字のノギヘンですが、これはそもそも「稲とか麦とかの穀物類の収穫」を意味します。ツクリは『ム』ですが、これはまっすぐな釘が途中真ん中で折れたことを意味しています。まっすぐな釘は「まったく私心のないこと」を象形文字の世界では意味しますから、ツクリの『ム』とは、「その意志がくじけてよこしまな考えを持つ」と言うことになります。そこから『私』とは「収穫した作物類を全部自分のもの、つまり独り占めする」ということです。
『公』とは、『ム』の上に『ハ』が乗っかっているところから、「よこしまな心を上から押さえつけ表に出さない」と言うことを意味します。

 つい最近、世間様を賑わせている話題の一つに、いわゆる「大相撲横綱朝青龍関問題」があります。
  ・・・・・久しぶりに東西両横綱がそろって行われた大相撲名古屋場所。新進気鋭の新横綱白鵬が登場したことで大相撲人気が上昇。最近負けこんでいる横綱朝青龍関も焦りを隠せない。もっとも千秋楽、朝青龍関は白鳳関との横綱対決を制し、3場所ぶり21度目の優勝を飾り、その存在感を天下に示す。さすが朝青龍関!と思えたのもつかの間、そそくさと母国モンゴルに帰国してしまう。腕と腰の治療で全治6週間とされ、それを母国モンゴルで治す為の帰国かと思いきや、見事なセンター・ホワードぶりを発揮してサッカー遊びに講じてしまう。ゴーーーール。ここから、「仮病疑惑」はもちろん、国技と言われる大相撲の精神・心への無理解が、日本人の反感を買ってしまう。現在、2場所連続出場停止などの処分を受け、「急性ストレス障害」と診断された朝青龍関。自宅謹慎が今も続いているものの、いまだに本人はもとより、「公」益法人(財団法人):日本相撲協会の記者会見も行われないまま、ただ月日だけが虚しく過ぎ去っている・・・・・。
  ここでも、問われているのは「公」と「私」の関係ではないかなと、私なんかは考えておりますが皆さんは如何でしょうか。
  朝青龍関の立ち居振る舞いですが、在日モンゴル大使館が日本相撲協会に対して「治療の為帰国していた朝青龍関が、サッカーに参加せざるを得ない状況を作ってしまった。大変なことになり日本相撲協会と朝青龍関にお詫びします」という謝罪文を提出していることからも伺われるように、横綱としての職務ないし公務とはまったく異なる類の、いわゆる「お遊び」であったことは確かです。しかも、その遊びの種類が、普段馴染みのないボールを使っての、体重移動の激しい、ある意味では「力士」としての生命(?)も脅かしかねない性格を持ったサッカーという球技に講じていたわけですから、国技とは、大相撲とは、そこでの横綱の使命とは何かがまったく分かってなかったと言うことが出来ます。この一連の行為は、まさに「公」よりも「私」をはるかに優先するものとして言語道断、決して許されるものではありません。
  そもそも大相撲の歴史は大変古く(古墳時代にまで遡れるとの説もあります)、しかもカミとの係り抜きには語ることが出来ません。「力士」という「ちからびと」が、拍手(かしわで)で邪悪をはらい、四股(しこ)で大地を踏み込むことにより五穀豊穣をお祈りする、究極的の神事・公的行事です。その太古から続く祈りや祈る心・精神を現代の私達にまで紡ぐ為に、「力士」たるものは髷というものを結い、土俵という「ハレ」の舞台にあがる。ついでに言えば、このカミとの係りがあるからこそ、女性が土俵へ上がることは許されないのです。朝青龍関は、この深淵なる日本の伝統文化について、早急に学ばなければなりません。
  サッカーが出来るコンディションであったのにも係らず、大相撲夏「巡業」を軽視したことは重大問題です。日本全国を練り歩く巡業は、まさに神事として五穀豊穣の願いを地方へ伝播・普及することにほかならず、それは横綱が先頭になって取り組まなくてはならない、これまた究極の「公」の営みです。これをないがしろにしたところに、多くの批判が集中することになるわけです。
  もっともその夏巡業も、当初は朝青龍関不在がどう影響するかが心配されましたが、おおむね順調のようです。特に、今回の巡業の中には、財政破綻した夕張市も含まれており、ここでの巡業は勧進元をおかず、日本相撲協会自身が出資・運営し、しかも力士達は自分たちの休養日を割り当てて、切り盛りしているとの事です。この事実を朝青龍関は知っているのでしょうか?
  先月の7日と8日の二日間、豊島区池袋本町3丁目にあります氷川神社境内で、幼児から中学生までが参加する、第34回青少年相撲大会が行われました。7日は区内小学校の5校による対抗戦、8日は個人戦がそれぞれ行われ、豆力士たちが熱戦を繰り広げたと共に、土俵際で観戦していた親御さん達の悲鳴交じりの声援が境内に木魂しました。それは、一見すると子供達が主役の単なる「余興」にしか過ぎないと思われるかも知れません。しかし私からすると、巡業の来ない地域の精一杯のささやかな公的な営みに思えて仕方がありません。豆力士から大銀杏を結う大横綱が誕生してほしいと願うばかりです。そこでこの度の名古屋場所後、新大関琴光喜が誕生しましたが、彼が相撲に取り組んだのが、小学校1年生からでした。愛知県一宮市内の佐渡ヶ嶽部屋で大関昇進を伝える使者を迎えた琴光喜関の口上は、「如何なる時も力戦奮闘し、相撲『道』に精進します」というもの。朝青龍関におかれては、日本における「公」とは何かから始めて、日本の国技である大相撲というものを、単に武術的に強ければいいと捉えるのではなく、カミとの繋がりを持った武術・体育・精神の修養、世に処する方法などを兼ねた修行として捉え、一つの『道』を極めて貰いたいものです。
2007年8月