2015年4月5日日曜日

「旅立ちの日に」の季節到来≪平成27年3月≫


今年も早いもので3月を迎えました。
街を歩くと、美しくほころぶ梅の花をあちらこちらで見かけることができ、厳しい冬の寒さも日を追うごとに和らいでいます。長い冬が終わり、春が近づいているというのに、なぜか毎年物悲しい気分に襲われるのは、3月が別れの季節でもあるからでしょうか……。
 今まさに、日本列島は卒業シーズンを迎え、全国の学校等で卒業式が行われています。卒業式では、卒業生による合唱が披露される学校が多くありますが、皆さんが学生の時にはどのような歌を歌いましたか?私が児童・生徒の頃の、1970年代の定番曲は、やはり「仰げば尊し」と「蛍の光」、さらには「讃美歌○○○番」でした。
 しかし、今では人気歌手の楽曲や、英語が入った歌まで歌われているようで、「歌は世につれ、世は歌につれ」の諺そのままに、時代とともに卒業ソングもどんどん移り変わっているようです。歌というのは、それが流行した時代の出来事や思い出とともに記憶されるものです。ましてや、それが卒業式で歌った歌となれば、より強い印象をその人の中に残し、年齢を重ねても、心の中にずっと残っているのではないでしょうか。私も、自分の卒業式で歌った曲を聴くと、卒業式のことはもちろん、恩師や友人、そしてその学校で過ごした日々のことが今でも懐かしく思い出されたりします。そのように大切なものですから、卒業ソングが名曲揃いであるのも頷けますね。

さて、近年の卒業式で最もよく歌われており、主に10代・20代の若者たちの間で人気を博している卒業ソングがあることをご存知でしょうか?それは、「旅立ちの日に」という曲です。この曲は、最近の卒業ソングの人気投票では常に上位にランクインしており、また、様々なアーティストたちによってカバーもされています。2007年には、アイドルグループのSMAPがテレビコマーシャルで歌ったことでも話題になりましたね。

そんな「旅立ちの日に」ですが、実はプロの作詞家や作曲家によって生み出された曲ではありません。この曲は、ある中学校の教員たちによって作られたものなのです。今回は、そんな異色の「旅立ちの日に」誕生エピソードを皆さんにご紹介します(プロジェクトX風に…)

「旅立ちの日に」は、今から24年前の1991年に、埼玉県の秩父市立影森中学校で誕生しました。この曲の作詞者である小嶋登先生が赴任した1988年当時の影森中学校は、荒れた雰囲気で生徒達のまとまりも感じられない状態だったそうです。
そんな生徒達の校歌の歌声は、とても寂しいもので、それを聴いた小嶋先生は、「世界に一つしかない自分たちの校歌だから、もっと大きな声で歌えるといいね」と彼らに語りかけました。もとより「歌声の響く学校にしたい」という目標を持っていた小嶋先生は、歌の力を使って影森中学校を立て直そうと決め、同校の音楽教諭だった高橋(旧姓:坂本)浩美先生と協力して、合唱の機会を増やす等、粘り強く生徒達を指導し続けました。また、コーラス部の生徒達の存在も、合唱を広める上で大きなものでした。当時のコーラス部にはたった8人の女子部員しかおらず、廃部の危機でしたが、運動部の男子に応援参加を呼びかけたところ17人の男子生徒が集まり、皆でコンクールに向けて練習を重ねたそうです。コーラス部で合唱に参加した生徒達はクラスに戻ってからも合唱の楽しさを広め、そのお蔭でほかの生徒達も歌うことに対して自然と心を開いていきます。そして、小嶋先生の願い通り、歌の力によって学校も少しずつ明るくなっていったとの事です。

小嶋先生が影森中学校に赴任してから3年後の2月下旬、高橋先生は、卒業を控えた生徒達に「ありがとう」の気持ちを込めて歌をプレゼントしたいと考えました。そこで、ちょうどその年で定年退職することになっていた小嶋先生に作詞を依頼しましたが、「自分にはセンスがないから……」と断られてしまいます。
しかし、翌日高橋先生が学校へ行くと、机の上に小嶋先生が書いた詩が置いてありました。その詩を見た高橋先生はすぐに曲をつけはじめ、なんとわずか15分ほどで完成させてしまったそうです。その時のことを高橋先生は、「曲が天から降ってきたというか、湧き上がってきた感じだった」と、あるインタビューで振り返っています。
曲を聴いて喜んだ小嶋先生は、「先生達で歌って生徒に歌のプレゼントをしよう」と提案し、その年の3年生を送る会で、実際に生徒達に披露しました。先生達からの心のこもった歌を、生徒達は静かに聴いていたそうです。その後、音楽雑誌の付録として掲載されたことがきっかけとなり、「旅立ちの日に」は少しずつ全国に広がっていったわけです。

今や卒業式の人気曲となった「旅立ちの日に」が作られた背景には、1つの中学校の先生と生徒達による、かくも素晴らしいエピソードがあったわけです。
全国で歌われている有名な合唱曲が、プロの作詞家や作曲家ではなく、現役の教員達によって作られたという事実は意外に感じられるものかもしれません。
しかし、私は、現場の人間でなければこの曲は作れなかっただろうと思います。
難しい言葉が使われておらず、学生にも理解しやすい歌詞。
夢や希望、友人について等、決して背伸びをしない等身大の中学生を描いた内容。
極端な高音や低音が使われておらず、変声期の子供達にも歌いやすいメロディーライン。
実際に現場を知っているからこそ、その場にとって最適解を作り出せる…。などなど。この曲が教えてくれていることではないでしょうか。
これは、私のように政治を担う者にとっては特に重要なことであると感じます。やはり、上から見て想像しているだけでは、現場の人々にとって真に良いものを生み出すことはできません。それに何より、実際に接した人のために何かをすると思えば、相手に対する真心も自然と生まれてきます。素人の教員たちが作ったにもかかわらず、これほどまでに愛され支持を受けている「旅立ちの日に」は、そのことの良いお手本なのです。

今年もまた巡ってきた卒業の季節。
作詞者・小嶋登先生は、2011年に惜しまれながら80歳でこの世を去りました。
しかし、彼が生徒への感謝と愛情を込めて作詞した「旅立ちの日に」は、今年も、そしてこれからも、ずっと卒業式で歌われ続けていくでしょうし、そうあることを願って止みません。
最後に、卒業を迎えた学生たちへのエールにかえて「旅立ちの日に」の一節を引用し、締めさせていただきます。

 勇気を翼に込めて 希望の風に乗り

 この広い大空に 夢を託して

聖バレンタインデー≪平成27年2月≫


光陰矢の如しとは言い得て妙で、ついこの間新年を迎えたばかりだと思っていたら、平成27年も、もう二月に入りました。相変わらず寒い日が続いています。皆様におかれましては、体調にはくれぐれもお気を付け下さい。

さて、214日はバレンタインデーでした。
バレンタインデーは2月の代表的なイベントと言ってよいでしょう。デパートをまわってみても、あちらこちらでバレンタインデー関連の広告をたくさん見かけました。214日にチョコレートを渡すというのは、それほど歴史のある慣習ではありません。
しかし、今では日本全国で市民権を得ており、すっかり、そして、ちゃっかり、社会的一大イベントとしての地位を確立しています。

当初は思いを寄せる男性に、女性がチョコレートを渡す(これを「本命チョコ」と呼ぶらしいです)というイベントでしたが、今では多様化の一途を辿っています。思いを寄せる男性だけでなく、お世話になっている男性や男性の友人にもあげる「義理チョコ」が次第に普及しました。小・中学校では男子生徒が何個もらったかで友人と争ったり、女子生徒は大量のチョコレートを学校に持ってきたりと、「質」より「量」の傾向が強くなってきたようです。学校側も対応を協議する段階になっているらしく、「チョコレートをもらえない男子生徒が出てきてしまう」という理由で、チョコレートの持参を禁じている学校も、中にはあるらしいです。

しかし、多様化の波はさらにうなりをあげ、近年では女性同士でチョコレートを渡しあう「友チョコ」や、自分へのご褒美として作ったチョコレートを自分で消費する「自己チョコ」「自分チョコ」なるものも普及しているようです。
ある情報番組でバレンタインデーの特集がされていた時、ある出演者が「今のバレンタインデーはもはやチョコの『配給』だ!」と言っていましたが、ここまで多様化してしまうと、そのような見方も確かに出来る気がします。バレンタインデーのいわば主役であり、214日には、少しソワソワして学校なり職場に向かっていた男性陣が、「友チョコ」「自己チョコ」の台頭により蚊帳の外に追いやられつつあるのですから、時代の波というのは恐ろしいものですね。

そんなバレンタインデーですが、一体その起源はどこにあるのでしょうか?

この点については諸説あり、確実な起源は未だに分かっていませんが、一説によるとその起源は3世紀の古代ローマ時代にまでさかのぼるらしいです。
この時代のローマでは214日は女神ユノの祝日でした。女神ユノは、家庭と結婚の神様です。当時のローマでは、男性と女性は別々に暮らしており、巡り会う機会はなかったそうです。
しかし、ユノの祝日である214日の翌日から「ルペルカリア祭」というお祭りが行われており、このお祭りは、男性と女性が巡り会える唯一無二の機会で、この祭りを通して出会った男女は、そのまま恋に落ち、その多くが結婚したそうです。この祭りは800年以上続けられていたものの、時の皇帝・クラウディヌスは兵士に家族が出来ると士気が下がってしまうと考え、強兵策の一つとして、結婚を禁止してしまいます。兵士たちが愛する女性に現を抜かすのを避けたかったのだと思いますが、今では考えられない話ですね。

しかし、それだけ歴史のあるお祭りで、ローマ市民にとっても貴重な出会いの場です。急に禁止と言われて黙っているはずがありません。そこで立ち上がったのがキリスト教の司祭ヴァレンチノ(バレンタイン)でした。
ヴァレンチノ司祭はこの政策に反対し、皇帝の命に反して多くの兵士たちを内密に結婚させています。これを聞いた皇帝は怒り、ヴァレンチノ司祭をローマ宗教に改宗させようとします。
しかし、ヴァレンチノ司祭は愛の尊さを説き皇帝に抵抗したため、ついには処刑されてしまいます。その処刑された日が奇しくも214日……。後世の人々はヴァレンチノ司祭の勇気ある行動に感銘を受け、ヴァレンチノ司祭を「聖バレンタイン」としてまつるようになり、処刑された214日を「聖バレンタインデー」と呼ぶようになったということです。その後、14世紀ごろからこの日が男女の恋愛に結び付けられるようになり、日本には戦後アメリカから伝わったそうです。

ちなみにバレンタインデーにチョコレートを渡すというのが定番になっていますが、実はこの風習は日本独自のものとか……。
バレンタインデーとチョコレートの連関性の起源に関しては諸説あり、分かっていませんが、デパートや製菓会社のキャンペーンがきっかけらしく「チョコレート」というのが格別深い歴史的意味を有している訳ではないようです。
さらに、驚くべきことに、当初の「女性から男性への一方的贈与」というのも日本独自だそうです。宗教的行事として始まった「聖バレンタインデー」が、わずか半世紀ほどの短期間でここまで多様化し、チョコレートの『配給』と呼ばれるほど大衆化したのも、宗教的軋轢が圧倒的に少ない日本ならではの特徴と言えるかもしれませんね。

時代が進むにつれ行事や物事が変遷を遂げていくのは不可避なことです。今後もバレンタインデーは、企業の商業戦略や消費者のニーズに合わせて、様々な変化を遂げていくでしょう。ひょっとしたらこの行事がなくなってしまうかもしれません。

しかし、私が願うのは、どのような変遷を遂げるにしろ、形骸化の一途を辿らないでほしいということです。バレンタインデーにチョコレートを贈るという風習も、友チョコや義理チョコも否定はしませんが、そもそも「聖バレンタインデー」とはどういう日であるのか、という共通認識は皆が持っていてほしいものだなと思うのです。
今から1700年も前に、自らの命を犠牲にしてまで愛の尊さを信じ、それを実践した人がいたこと。
結婚禁止という政策がまかり通っていた時代があったこと。
聖バレンタインデーが確立されるに至る歴史から私たちが学べることはきっとあるはずです。それは他の行事でも同じです。
例えば一月に行われた成人式。成人になるとはどういうことなのかを考える、昔の日本において「元服する」とはどういうことであったのかということに意識を向ける。皆がただ参加しているのでは、ただの形骸化した成人式になってしまいます。その行事が確立した歴史、その行事の本来の意味に意識を向ける。そうすることで、その行事がより深みのあるものに思えてくると思います。
ハロウィーンも節分も、皆同じ事が言えるのではないでしょうか。

「明鏡は形を照らす所以、故事は今を知る所以」(「呉志」呉主五子伝・孫奮)。
過去の膨大な出来事やそれらにまつわる人間模様といった系譜の先に、私たちの「今」があるのですから、その系譜に思いをはせることは我々現代人にとって必要なことだと強く思います。

第91回箱根駅伝≪平成27年1月≫


皆様、新年あけましておめでとうございます。本年も、昨年に引き続き「時事一滴」を、何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、この新年号をお読みの頃には、街中の門松も外され、お正月ムードも収まっていることかと思いますが、お正月の恒例のイベントの一つと言えば……、やっぱり……、何と言っても箱根駅伝でしょう。
長い歴史をもつ箱根駅伝も、今年で91回目となり、今年も若さ溢れる選手達の逞しい走りを見ることが出来ました。何かの競技に取り組むにあたって目標とすべき場があるのはとても大切でありかつ幸福なことです。
以前、とある番組で高校野球の特集をしていた時、解説者が「『甲子園』という誰もが憧れる場を目指すことが出来るというだけでも高校球児達は幸せだ!!」と言っていましたが、大学長距離界の「甲子園」は、やっぱり箱根駅伝だと思います。高校野球の甲子園と言い、大学駅伝の箱根路といい、そのスポーツの総本山ともいうべき大会は、開催場所が粋だなと感じます。

箱根駅伝の魅力は沢山あると思いますが、選手達のかける思いの大きさが、正月の箱根路をよりドラマチックなものに仕立て上げていると思います。
何かに耽溺した時の人間のパワーは本当にはかり知れず、それらがぶつかり、せめぎ合う箱根駅伝は見る者を圧倒する力を持っています。開催時期が正月というのもなんとも粋です。正月と言えばoffモードの方が多いでしょう。日常の雑事から少し距離を置ける貴重な時期に、各大学の選手達の必死の走りを見ると、何故か感動が心に伝わりやすい気がします。こたつでくつろぎながら箱根駅伝を見てパワーをもらい、一年の英気を養う……。日本人の生活にここまでマッチしたイベントもそう多くはないだろうと思っています。

そんな今年の箱根駅伝。
話題をさらったのは青山学院大学でした。
優勝からは毎年縁の無かった大学が往路、復路共に優勝。さらには10時間50分を切る10時間4927秒という驚異的とも言えるタイムでゴールしたのですから、まさに「圧巻」の一言に尽きます。5区を走った神野大地君の、他を寄せ付けない激走を筆頭に、どの区間でもミスのない走りをみせ、箱根路を制しました。そんな青山学院大学を率いた原晋(はらすすむ)監督に、昨今、注目が集まっています。サラリーマン出身という異色の経歴。そして常識に縛られないユニークな指導法で、見事に青山学院大学を、悲願の箱根初制覇へと導いた監督です。

彼について語る上で欠かせないのが「サラリーマンであった」という経歴でしょう。高校時代から駅伝選手としての道は歩んでいたものの、大学では箱根駅伝とは縁がなく、中国電力に入社し、陸上部に入部したものの、適宜怪我に苦しみ、わずか5年で引退。その後は営業職に就きサラリーマン生活を送っていたというのです。営業マンとして大きな実績をあげ、軌道に乗ってきた頃、青山学院から監督の誘いがかかります。ここで引き受けるか断るかというのは非常に難しい問題で、当時相当悩んだとのことです。

しかし、現役時代、何も成し遂げることが出来なかった陸上に対して、何かを残したいと腹をくくり、当時は弱小大学だった青山学院の監督就任を決意します。
その決断力と行動力には頭が下がります。おしなべて人間は「安定」の二文字には弱い生き物で、一度安定を手にしてしまうとなかなかそこから抜け出そうとしないものです。現状に満足し、向上心を失ってしまったら、その先の成長は、あまり望めないものではないでしょうか。向上心を持って、現状に甘んじない自制心と向上心を持つこと。「人間至る処青山あり」の言葉通り常に先を見据え羽ばたいていくこと。そういったことの大切さを原監督の経歴は物語ってくれているような気がします。

原監督はその指導方針もまたユニークでした。
それが顕著に表れているのが、今年度の青山学院のスローガンでしょう。その名も「ワクワク大作戦」。他のライバル校が厳粛なスローガンを掲げる中、かなり緩いスローガンで箱根に挑んだのです。スクールカラーに合うような、見ているものを楽しませるようなレースを!!という思いで付けたこのスローガン。結果的に、5区の山登りで驚異的な逆転劇を見せ、見ているものを引き付けるようなレース展開が生まれました。

しかもその裏には、選手たち一人一人の自主性に重きを置いた、原監督なりの指導がありました。目標設定からそれに至るプロセスまで、全て選手自身に考えさせる。これは、従来の強豪校では有り得なかった指導方針だそうで、これでもって原監督はチームをまとめ上げ、箱根駅伝制覇へと導いたのです。
確かに、「常識」や「慣習」は大切ですし、それに従うべき場面も数多く存在するでしょう。しかし、100%それが正しいとも限りません。柔軟な発想で、常に新しい可能性を切り拓いていく。こういった指導改革は、営業マンという原監督独特の経験があったから出来たのかもしれませんね。陸上も営業も変わらない!!と語っていた原監督の姿が、妙に印象的でした。彼の姿を見ていると、どんな経験も無駄にしてはならないなと、改めて強く思います。一見些事に思えるようなことでも、それがどこで生きてくるかは分かりませんからね。

そんな中、私が感動した点は、「環境」という要因に屈さず、むしろそれを最大限生かして栄冠を手に入れた原監督の芯の強さです。優勝はおろか箱根駅伝への出場すら厳しかった時代。練習するにも練習設備すら満足になかった時代。規律を持たせることすら難しかったチーム状況。正直言って、監督業を諦める理由はいくらでもあったはずです。しかし、それでも挫けることなく挑み続けました。こちらから規律が持たせられないなら、むしろ選手達の自主性を重んじることで、選手達から規律を産み出させました。与えられた環境に不平を言わず、むしろその環境をどう生かすかを考えるという発想の転換。出来ないことを環境や人材といった外的要因のせいにせず、可能性を見つけ出し邁進することが肝要なのだということを教えられた気がします。

現状に甘んじない向上心。
常識にとらわれない発想力。
環境のせいにせず、可能性を切り拓いていく精神力。
年頭に当たり、改めて大切なことを教わった気がします。
原監督を始め、青山学院大学の関係各位の皆さん!!本当におめでとう。
箱根路を走った選手達と、彼らを支えたチームの皆さん!!本当にお疲れ様でした。
平成27年が始まりました。
今かけている襷にさらに汗を染み込ませるも良し、心機一転新しい襷をかけるも良し。
原監督のような心を忘れず、力強く歩んでいきたいですね。

悲劇は繰り返さないこと≪平成26年12月≫

 東日本大震災の津波で死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の児童のご遺族の皆さんが立ちあがっています。石巻市と宮城県に、合計23億円の損害賠償を求めた訴えを提起して、それが仙台地方裁判所に係属しているのです。
 その裁判の口頭弁論がつい最近開かれまして、ご遺族の皆さんから(ご遺族は4家族7人が意見陳述)「津波到来は想定できなかったという市の主張に怒りと失望を禁じ得ない」と、悲しみを抑え込みつつも、ある意味では激しく法廷にて意見陳述されたとのことです。法廷内のやり取りでは、例えば、6年生の三男、雄樹君=当時(12)=を亡くした佐藤和隆さん(47)は、地震発生直後に教諭が「津波が来ますよ。山に逃げますか」と教頭に尋ねたとの証言があると陳述した上で「教職員は津波が来ると考えていたことは明らかである。市の主張は遺族をばかにしている」と、遣る瀬無い思いで陳述したとのことです。

訴状によれば、学校側は地震発生直後、大津波警報などで危険を予見できたのに児童を校舎の裏山など高台に避難させず、安全配慮義務を怠ったことは明らかであり、津波が来るまでの約45分間、児童らを校庭に待機させ続けた点に、大きな責任があると記されているそうです。

今回の、この損害賠償を求めた訴訟では、ご遺族が「まさに人災」「守れた命だった」と意見陳述しているのに対して、市側は、「津波の予見はできず過失はなかった」として争う姿勢を明確に示すとともに、県も、請求棄却を求めています。

まずもって、普段通りに先生の言うことを素直に聞いて、その指示に従ってついていった子供達が、とっても哀れで心が痛みます。ひとつの判断の遅れは、かくも取り返しのつかない事態ないし結果を導くものかと、茫然自失の思いでいっぱいです。まさに人災の極みここに至れりということが出来ると思いますが…。

これまでも、津波犠牲者のご遺族から、管理者等に損害賠償を求めた訴訟の判決は3件出てきています。津波は予見できたとして賠償を命じたケースがあれば、その予見はできなかったとして請求棄却をしたケースもあります。大川小学校では津波で在籍児童108人中70人がお亡くなりになり、4人が行方不明となっています。本当に悲惨な出来事では、そのスケールの大きさに圧倒されると共に、ここで予見可能性が否定されれば請求棄却というのも、なんだか納得がいきませんし、その結論は受け入れがたい気持ちでいっぱいになります。時代劇にも出てくる大岡越前の守忠相なら、一体全体どのような裁きをするでしょうか……。

そうした中、大川小学校の卒業生達が、震災を忘れないでほしいということで、現存している校舎群を保存してほしい旨、東京都内のとあるシンポジウムで発表したとのことです。校舎群の保存については、ご遺族の中においても賛否両論があるらしく、適宜、ご遺族はもちろんのこと、地域住民の皆さんからも意見を聞くなどしながら、保存の適否を考える活動が続いているそうです。

校舎を残したいと考えている人がいても、それは決して不自然なことではありません。と言いますのも、大切でやるべきことの一つに、今回の震災による悲劇をしっかりと語り継いでいくことが挙げられると思うからです。

もっとも、現実はかなり厳しいものがあるようで、震災遺構の保存の可否を検討するべく出来上がった宮城県の有識者会議においては、被災校舎を議論の対象外としているとのことです。その一方で、全長24キロと国内最大級の規模から万里の長城とも呼ばれ、東日本大震災の津波で破壊された岩手県宮古市田老地区の巨大防潮堤の一部の方は、震災遺構として保存することが決まったそうです。田老の防潮堤は高さが約10メートル。海側と陸側の2つがX字形に交差する設計となっていて、交差部分を中心に約60メートルにわたって残す方針だそうです。保存を求めていた宮古市の熱い要望が、県を突き動かしたわけですね。

国レベルでは、被災した1市町村につき1つの震災遺構の保存費用を一部負担する方針を出しており、宮古市では、田老地区の「たろう観光ホテル」がこの枠組みで保存されることが既に決まっていて、防潮堤の具体的な保存方法や財源については今後、国や宮古市と協議して決めるとのことです。

 今年の初秋、被災3県を視察してきましたが、その視察先の中に、大川小学校を入れました。実際、現地に到着してみてガランとした校舎の傷み具合ないし破壊され具合を見て感じたことは、ものすごい津波が一瞬のうちに子供達を飲み込むと共に、そこでの朗らかに遊び賑わう日常をも消滅させたといった印象です。現場には、慰霊碑が建てられており、そこにはお亡くなりになった児童生徒の名前が刻まれていましたし、校舎には人が入れないようにロープが張り巡らされていたと同時に、そのロープの至る所に、漫画のイラストの描かれた風鈴がいくつもくくりつけられて、そよ風に揺れて音を奏でていたのが、もの悲しさに拍車をかけていました。

 大川小学校の悲劇を繰り返さない。

 これは、子供達を震災などから守る際の合言葉にしなくてはなりませんね。

赤サンゴもそうだけど・・・≪平成26年11月≫


この数年の間に、中国という人口13億人を超える国家が、無秩序にどんどんと膨張し、国外へと溢れ出し、周辺国家を浸食しているがごとき状態が生まれています。
しかも事ここに至っては、中国政府が自国民の経済的な利益を欲する衝動を抑えることも難しくなってきている模様です。それは中国政府自体が、自国民のそうしたオーバーフローをコントロールすることができない局面が多く見受けられるとともに、むしろ不満が政府へ向かわないようにするだけで精一杯と見受けられるからです。その場合のシワ寄せは……、いつも日本をはじめとする周辺国家群に押し寄せて来るのですが……(何と言うこと!!)
このところ、小笠原諸島や伊豆諸島周辺の日本の領海および排他的経済水域に、中国漁船が大挙して押し寄せ、高値で取引される赤サンゴを、堂々と密漁しています。これ自体、日本の法令やEEZを定めた国連海洋法条約に明白に違反する行為ですから、中国政府は、自国の漁民の恥ずべき行為を直ちにやめさせなければならないのが筋というものです(もっとも、押し寄せた大多数の漁船に対する日本側の取り締まりが、後手後手に回ったことは、大変残念でしたね)、そもそも中国政府が、自国民による海洋(?)ルール破りを封じるためにも、毅然とした態度で、取り締まりや摘発を実行しなければならないはずです。
その密漁目的とみられる中国漁船ですが、何でも9月頃から目立ち始めたそうです。10月末からは200隻以上に激増したとの事ですから、日本政府は中国側に対して、再発防止を強く求めていくとともに、もし誠意をみせないのならば、中国に対し、より高いレベルでの強い抗議が必要でしょう。
また、さらなる課題としては、罰則の強化があるでしょう。と言いますのも、逮捕された密漁船の船長が釈放時に払う「担保金」が、密漁の「もうけ」と比べて著しく低いことが、確実に犯罪の抑止効果を失わせているからです。担保金の具体的な金額は非公表との事ですが、違反の類型、程度、回数などを考慮して金額が決まるそうで、関係者によると、EEZでの無許可操業は400万円前後、立ち入り検査拒否は数十万円が相場だそうです。密漁の対象となっている赤サンゴは「宝石サンゴ」と呼ばれ、とりわけ日本産は品質が良く装飾品として中国や台湾の富裕層に人気が高いそうでして、日本珊瑚商工協同組合によると、卸値はこの10年で約5倍に上昇し、平成24年の平均取引額は1キロ約150万円に上るとの事です。密漁を繰り返し、数千万円の荒稼ぎをするケースも珍しくないとのことですから、担保金の額が、密漁者が得る違法利益に比べて低すぎるのは極めて問題と言うことが出来ますね。
密猟漁船団は、小笠原諸島の父島からも見えたりして、父島の皆さんは恐怖感を抱くとともに、彼らの上陸などの不測事態に備えて警戒態勢を取っているそうです。当然のことながら、島民の漁業やホエールウオッチングなど観光産業への影響が懸念され始めています。島民の生活を脅かす由々しき事態ではありますが、海上保安庁は水産庁とともに、5隻の船舶により密漁の警戒に当たるのが限界だそうです。そこから想像できることとして、これほどの数の漁船団となると、単なる密漁とは考え難いこと、また、中国から2000キロ以上も離れているため、燃料代だけで300万円もかかること、さらに、既に海保により密漁と検査忌避罪で5隻ほど拿捕されているにもかかわらず、漁船団はなお出没海域を拡大し活動を続けていること、次に、存在を誇示するかのように地元漁船に近づいて来ること、そして、日本政府は中国側に密漁船の抑止を求めているのにも拘らず、中国側による密漁抑止の動きは消極的であること等から、むしろ、中国当局が関与しているのではないかということです。
ある意味、尖閣諸島との絡みで、海保の機動力を冷徹に試す為に、尖閣から離れた小笠原海域に大漁船団を投入したのではあるまいかということです。いかに海保が勢力を増強しても、大量の漁船を使った中国による攪乱への対処は難しいと言えます。あたかも、中国の要求を受け入れて尖閣の領有権問題の存在を認めなければ、日本の海を混乱に陥れるという脅迫行為とも受け取れます。
こうしてみますと、有事体制の整備は不可欠であるということが出来ます。しかも、有事に発展する前に対処する能力を持つことが極めて重要です。密漁船や不審船の対策において、広範囲の監視と機動的な展開が可能な自衛隊と、警察権を持つ海保、警察の連携体制を作ることが必要で、いわゆるグレーゾーンに対応する法整備が求められます。 根本的に日本の沿岸警備体制の見直しを進めなければなりませんし、その点は既に、海保と海自はソマリア沖海賊対策において、自衛艦に海上保安官が同乗し、法の執行に備えた連携体制をとっているところです。外国船の密漁に対しても、自衛艦に海上保安官が同乗する施策をとれば、機動的に海洋警備を行うことが可能になるでしょう。さらに、政府が進める地方創生の中核に離島の振興を置いて、インフラや社会システムの整備を進めることで、住民による監視を行き届けさせ、他国が侵入できない環境を作ることも重要です。
赤サンゴも、もちろんですが、国家の総力を挙げて、島そして海を守る体制整備が急務な昨今です。
【担保金】 日本のEEZで無許可操業などの違反により逮捕された外国人船長が釈放条件として支払う事実上の罰金。支払いを保証する書面の提供があった場合も釈放される。平成8年に日本が批准した国連海洋法条約に伴い制定された漁業主権法に規定されている。
【赤サンゴ】主に日本近海の水深100メートル以上の深海に生息するサンゴ。硬質で磨くと光沢が出ることから「宝石サンゴ」とも呼ばれる。ネックレスや数珠に加工されるほか、大きく完全な形のものは観賞用になる。赤色が濃いほど価値が高く、中国ではアクセサリーのほか、魔よけなどとしても用いられている。

それは無いでしょ≪平成26年10月≫


産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が書いた朴槿恵韓国大統領に関するコラムをめぐる問題で、いよいよソウル中央地検は、情報通信網を通して虚偽の事実を際立たせた等として、加藤氏を、情報通信網利用促進および情報保護などに関する法律(情報通信網法)における、「名誉毀損の罪」で在宅起訴しました。
加藤氏は、これまでに計3回、ソウル中央地検に出頭させられ、地検側は、情報通信網法違反(名誉毀損)の容疑で、地検側の通訳を介して、記事の作成経緯などについて聴取したとのことです。そこにおいて、加藤氏側は、朴槿恵政権を揺るがした、韓国旅客船セウォル号の沈没事故当日に、朴大統領がどこでどう対処したかを伝えるのは、公益にかなうニュースだと考えた旨を、滔々と説明したそうです。

さて、既にご案内のように、83日のことですが、産経新聞はウェブサイトのMSN産経ニュースに、「追跡~ソウル発、朴槿恵大統領が旅客船セウォル号沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」と題した加藤氏のコラムを掲載しました。これが、そもそものはじまりということが出来ます。ここで加藤氏は、今年416日、旅客船「セウォル号」の沈没事故が発生した際、韓国の朴槿恵大統領が何をしていたかについて、718日付の韓国紙、朝鮮日報に掲載された記事の情報に基づいてコラムを執筆したにすぎなかったのですが……。

事が大きくなった原因は、もっと違うところにあるとも言えそうです。と言いますのも、そもそも、加藤氏を韓国検察が在宅起訴する発端となったコラムそれ自体は、あくまでも産経のウェブサイトに日本語で掲載されたものであり、かつそれは日本国内の読者に向けて発信されたものだったのです。
しかし、そこはSNSの世界です。
なにがしかの意図を持ってそれを最大限活用しようとする動きが出てくることは、ある意味自然な流れなのかもしれません。
まさにそのコラムに着目し、無断で韓国語に全文翻訳し、あまつさえ恣意的論評を加えた上で、韓国のサイトに載せたのが、インターネット媒体の「ニュースプロ」という存在でした。この媒体は、いまだに実態は不明の様ですが、なんでもアメリカを拠点とする非営利の翻訳専門報道機関だそうで、外国で報道された韓国関連ニュースを、翻訳家が韓国語に訳しているそうです。韓国メディアの調査によりますと、約20人の翻訳チームがいるとされ、基本的には、朴槿恵大統領や現政権に否定的な立場を取っているとのことです。なんともまあ、コマッタ媒体の目に止まってしまったものです。しかも、その手際の良さと言えば……。

加藤氏のコラムが83日の正午に、産経新聞のサイトに掲載されるや否や、ニュースプロは翌日の4日の正午前には、朴大統領をおとしめる内容の独自の論評もしっかり付けたうえで、全訳記事を載せたのです。
そこから、まず、加藤氏が執筆したコラムをめぐり、大統領支持派の市民団体から、名誉毀損の容疑で刑事告発がなされ、韓国検察当局は、この告発を受け、加藤氏を事情聴取します。次に、これら一連の動きにあわせて、野党など反政権サイドが、朴大統領への批判材料として最大限利用し始めます。中でも、韓国の最大野党、新政治民主連合の某議員は、加藤氏がコラムの中で書いた「朴大統領の噂」について、「大統領が恋愛をしていたという話」などと踏み込んで語り、朴大統領を揶揄したとのことです。これに対して、朴大統領は烈火のごとく反発し、「国民を代表する大統領に対する冒涜的な発言は度を超えている」と、語気を強めて非難したそうです。さらには、韓国の司法に関しては、これまでも韓国ウォッチャーなどから、時の政権や世論の動向に影響を受けやすいと指摘されていますから、検察側の起訴決定の裏には、朴大統領の怒りが影響していると見ることもできるでしょう。
ちなみに、この点について「朝生」の司会で有名な田原総一郎氏は、「李明博政権末期、韓国憲法裁判所が、慰安婦問題で日本に具体的な措置をとらないのは憲法違反としたころから韓国の司法はおかしくなっていると思っていたが、今回の措置はまさにそのおかしさの表れといえる」と述べています。
この度の在宅起訴で、これから公判が開かれることになるわけですが、韓国は日本と同じ三審制を採っており、韓国司法関係者によりますと、被告側が否認している事件では、判決が出るまで一般的に8カ月ほどかかるとのことです。一審が無罪でも、検察側が控訴する可能性は十分ありうるので、最終審までもつれ込めば、数年に及ぶことも想定されます。その一方で、検察側が被害者と位置付ける、朴槿恵大統領が処罰を望まないと意思を表明すれば、公判は途中でも終結するとか……。

そもそも加藤氏のコラムは、基本的に韓国の大手紙、朝鮮日報の引用に基づいているものです。朝鮮日報の記事が嘘だと思いながら引用したのなら問題でしょうが、そうでないのなら、少なくとも日本においては名誉毀損にはならないのではないでしょうか。
と言いますのも、日本では公共の利害に関するものや公益を図る目的で行ったことは、真実性の証明があれば罰しないとされています。それは、あまりにも名誉毀損の範囲を広げてしまうと、表現の自由や報道の自由を損ねることになり、狭めれば人権侵害を許容することになる為、バランスが図られているからです。
日本では、韓国大統領に関するコラムは、公益を図る目的の範疇にあるでしょうし、さらに、コラムの中で、真偽不明であることにも言及していますから、断定した場合よりも名誉毀損の程度は低いでしょう。そこから、日本では起訴しない事例ということが出来るのではないでしょうか。
裏返して見れば、起訴は報道に萎縮的効果を与え、取材の自由、表現の自由を権力によって規制することにほかなりません。この度の起訴は、権力にとって不都合なことを書くなら、表現の自由は制限されるということを、韓国政府が自ら宣言したようなものです。韓国政府におかれては、是非とも冷静になって、加藤氏に対する起訴が、自由で公平な国家であろう韓国の評判に、どう否定的な影響を与えるかについて熟考することを勧めたいところです。
確かに、日本と韓国の間には歴史問題などの難題が山積し、決して良好な関係にあるとは言い難いかもしれません。しかし、それでも、自由と民主、そして法の支配といった普遍的価値観を共有する東アジアの盟友であることに変わりはありません(?)
報道、言論の自由は、民主主義の根幹をなすものです。
政権に不都合な報道に対して公権力の行使で対処するのは、まるで独裁国家のやり口と言うことが出来ます。
重ねて申しますが、加藤氏に対する起訴処分は、撤回すべきです。

マスメディアによる名誉回復を祈る≪平成26年9月≫


東京電力福島第1原発事故をめぐって、政府が吉田昌郎所長(当時)への聞き取り調査の結果をまとめた吉田調書について、朝日新聞社が11日午後7時半から、記者会見を開いたことは、既にご案内の通りです。
問題とされている記事は、今年520付の朝刊で、調書は非公開扱いになっている中で、所長命令に違反、原発撤退という大見出しで、大々的に取り上げているものです。朝日新聞が問題にした点は、東日本大震災から4日が経過した平成23315日の朝の、第1原発の所員の対応でした。第1原発の所員の9割にあたる約650人が、吉田氏の待機命令に違反。10キロ離れた福島第2原発へ撤退と断じた上で、東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。葬られた命令違反。このように東京電力の事故対応ぶりを大いに批判したわけです。
ところが……です。
朝日新聞の記事に対して、産経新聞は818日付の朝刊で、命令違反の撤退はなしと、解釈が正反対の内容の記事を報じました。この動きに、他社も追随するかのように、NHKは824日、読売新聞と共同通信は830日、いずれも命令違反ではないと指摘しております。特に、私も購読している読売新聞は、社説の中で「朝日新聞の報道内容は解せない」と明確な疑問を読者に滔々と訴えていました。
朝日新聞の報道が出た際、当時現場にいた所員からは怒りの声が広がったといわれています。特に、吉田氏の遺族の心労は大きく、涙を流したとも言われています。私自身も、311後、視察で何度も福島に足を運び、現場の皆さんからのお話を聞いてきただけに、この度の記者会見で朝日新聞のトップが何を語るのか、大いに注目したところです。
東京・築地の記者会見場。木村伊量社長ら幹部が姿を現し、冒頭より語り始めました。「朝日新聞は東京電力の事故調査委員会が行った吉田所長への聴取、いわゆる吉田調書について政府が非公開としていた段階で独自に入手致しまして、520日付で第一報を報じました。その内容は315日朝、東電社員の9割にあたる650人社員が、吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発に撤退をしたというものでした」「吉田所長の発言を紹介して、過酷な事故の教訓を引き出し、政府に全文公開を求める内容でした。しかし、その後の社内での精査の結果、吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、命令違反で撤退という表現を使った結果、多くの東電社員らがその場から逃げ出したかのような印象を与える間違った記事だと判断致しました。『命令違反で撤退』の表現を取り消すとともに、読者および東電のみなさまに深くおわびを申し上げます」。
その後、木村社長は着席して語り続けます。「これに伴い、報道部門の最高責任者であります、杉浦信之編集担当の職を解き、関係者を厳正に処罰致します」「むろん経営トップとして私の責任も逃れません。報道にとどまらず、朝日新聞に対する読者の信頼を大きく傷つけた危機だと重く受け止めており、私が先頭に立って、編集部門の抜本改革など、再生に向けておおよその道筋をつけた後、速やかに進退について決断します。その間は社長報酬を全額返納します」「吉田調書は朝日新聞が独自取材に基づいて報道しなければ、その内容が世に知らされることはなかったかもしれませんでした。世に問うことの意義を大きく感じていたものであるだけに、誤った内容の報道になったことは痛恨の極みでございます」「現時点では、記者の思い込みやチェック不足が原因と考えていますが、信頼回復と再生のための委員会を早急に立ち上げ、あらゆる観点から問題点をあぶりだし、読者のみなさまの信頼回復に何が必要か、検討してもらいます」「同時に誤った記事がもたらした影響について、第三者機関に審理を申立てました。速やかな審理をお願いし、その結果は紙面でお伝えします」と。
記者会見全体を通じて、なんか人ごとのような語り口にがっかりするとともに、下のものを辞めさせて、自分が残って改革に勤しむというのもおかしいと感じたものです。あなたの時の不祥事でしょうに……。
そもそも普通の人が逃げるところに、東電社員の皆さんは行かれたわけです。そういった方々が、吉田昌郎所長の命令に違反して、逃げるということはないのでは……。そういった思いから、朝日新聞の報道は当初からおかしいとと思っていました。
私が知っているエピソードの一つを紹介しますと、1号機が水素爆発した311の翌日の12日、上司から、現場は極めて危ないと連絡を受けて関東地方の自宅に一旦帰ったものの、13日に、その上司から、原発に戻ってくれと要請されたので、妻と2人の幼い子供を残し、現場に向かった東電社員がいます。自分がやらなければ、一体誰がやるのだとの気概のもと、現場に到着するや否や、がれきをかきわけて、外部電源を原発につなぐための分電盤を運んだとのことでした。その際のたった1時間の作業で、被曝線量は8ミリシーベルトを超えていたそうです。
こうした数多くの無名戦士が、それぞれの立ち位置で、爆発が止められればいいと思って献身的に作業をしていたわけです。朝日新聞が、所長命令に違反と報じたときの、東電社員の皆さんの悔しさが目に浮かんでなりません。
吉田さんは、さぞかしいい人だったのでしょう。朝日新聞がどう報じようが訂正しようが、彼らの功績は変わらないことでしょう。多くの東電社員が、いまだに原発を離れることなく、除染作業の指揮に汗を流していのですから……。朝日新聞の手による彼らの名誉回復を切に願ってなりません。