2008年6月3日火曜日

ムコーバ

豊島区が放置自転車対策の一環として、海外に向けて再生自転車を譲与し始めてから今年で20年が経ちましたが、このことを住民の皆さんに説明しても、いま一つピンときてくれないところがあります。
それは、放置自転車と言いますと、それが道路隅にズラッと並んで放置されていれば、救命救急の時や災害の時の救援救助の邪魔になりますし、また、それが黄色い点字ブロックの上に跨っていれば、目の不自由な方々にとって通行の邪魔者でしかありません。その意味で、放置自転車の一言からくる、ネガティブな印象が根本原因かもしれません。
 ところが、この国内において邪魔者の放置自転車も、一度お色直しをして国外に出してみるとかなりいい線をいっており、この大活躍ぶりを知っている方はそう多くはないようです。





そもそもムコーバ(MCCOBA)と言いますのは、日本語で言う「再生自転車海外譲与自治体連絡会」を、英文で表記した場合に並ぶ単語の頭文字だけを摘んだもので、その目的は、撤去された放置自転車の中で、引き取り手が無く且つまだまだ十分使えるものをメンテナンスし、再生自転車として「アジア」「アフリカ」「中南米」等の開発途上国に無償で譲与し、保健医療福祉関係に携わる人達の交通手段として利用してもらい、各国の福祉衛生の向上・発展に少しでも寄与して、日本の国際貢献・国際協力を高めるところにあります(次ページ資料図を参照)。




現在ムコーバに加盟している自治体は、全国約1800自治体ある中で13自治体と極々少なく、23区では豊島区を始め文京区・練馬区など…、また遠くの方では広島市などです。この13自治体の中で豊島区が全国に先駆けて放置自転車対策の中に「海外譲与」というオプションを設け、その実績を基に「ムコーバ」という組織を作り上げました。自治体別海外出荷台数を見ても、この20年間の総出荷台数53,175台の内、豊島区が第一位の10,656台で、第二位の川口市の7,046台、第三位の武蔵野市の4,724台を軽く押さえて、ダントツの五桁を記録しているのです。





ただし海外での評判は、何も豊島区から来た再生自転車が一番良いということはありません。それは決して残念なことではなく、むしろ「お色直し」がしっかりと、均等に出来ているからに他なりません。13自治体共通の「自転車再生整備基準」というのがありまして、海外に譲与するには、例えば、サドルが汚れていれば取り替える事とか、スタンドは必ず両立てスタンドにする事とか、後部荷台を必ず取り付ける事とかが事細かに決まっているのです。




こうして機能的に仕立て上げられた自転車が開発途上国で役に立たないわけがありません。各国には、看護師さんや助産婦さんが、素足で(?)且つ時間もかかって駆けつけていた方面が沢山あるでしょうし、また、急に容態の急変した人がいても、住民が戸板でもって人力で診療所等に運び込むことが多いでしょう。そこから、再生自転車は現地の人達から「動く宝石」「二輪救急車」「命を助ける足」、そして「神様の贈り物」とまで呼ばれ、最大級の賛辞を戴いてるとの事です。



これぞ豊島区が他の自治体に、ひいては世界に誇れる国際貢献といえるものですし、こうもヨイショされていると、是非ともこの目で現場を見てみたいものです。

お花見

4月5日、快晴の土曜日、私は生まれて始めてと言って良い、定型的な「お花見」というものに行ってまいりました。「生まれて始めて」と言いますと、「ちょっとそれ、大袈裟じゃない?」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそも基本的にアルコールやタバコ類を嗜まない私にとりまして、4月のまだ肌寒い時期に、しかも屋外で、桜を見ながら一杯やるといったことは、かなりと言いますか、ある意味思いっきり「想定外」の出来事なのであります。



実際、毎年4月の第1日曜日に、私の母校の豊島区立千川中学校校庭を使って、「4町青年会対抗ソフトボール大会」が開催され(私も高松三町目青年会のメンバーとして主に内野手で出場)、そのソフトボールの試合が終わった後、昼食をとりながら校庭にある桜を愛でることはありますが、最初から最後まで目的それ自体が桜の花を愛でながらの観光・飲食という事は、未だかつてしたことはないのであります。他方、私の家族はと言いますと、毎年4月、「千鳥が淵」に花見に行く様でして、帰ってきますと、「すごく綺麗だったよ。桜の木が見事に生い茂っていて、空が見えないくらい」との感動話を聞きます。察するに「桜ドーム」といわんばかりのその場所に私は行ったことがないのですが、もし私が見に行くとするなら、それは「靖国神社」の桜ではないか、と思っております。その靖国神社にも多くの桜がありますが、ここにある桜の内、3本のソメイヨシノ桜が、気象庁予報部の採用する「桜前線」の到来を伝える「標準木」でして、桜の開花宣言を行うための目安であることは既にご案内の通りかと存じます。



ただ、この3本のうちの1本のソメイヨシノ桜に格別思いをはせてしまうのであります。その桜の木の名は、「神雷桜」と言います。





~~~大東亜戦争末期、敗色が色濃く見え始めた戦局の中にあって、己の命と引き換えにした作戦が編み出される。「桜花」。人呼んで「人間爆弾」。「神風特攻隊」「回天特攻隊」と並び、ひとたび出撃すればもう帰還することはないという究極の作戦。「桜花」は、全長6メートル、幅5メートルの飛行機型の特攻機。約1,2トンの炸裂弾を前頭部に装着。その機体を一式陸攻爆撃機の下部に装着。敵艦を発見次第母親機から分離し、猛スピードで敵艦に体当たり攻撃をする。海軍の最高機密とされたこともあり、未だに全容は解明されておらず、なぞのベールに包まれている。
この「桜花」「一式陸攻爆撃機」「戦闘機」などで構成した部隊が、海軍きってのエリート集
団とも言われた「神雷攻撃隊」。この部隊に所属する人達の合言葉である「靖国で会おう」、その英霊達の集う場所が、靖国神社神門をくぐって右手にある3本のうちの1本、「神雷桜」。「靖国で会おう(あの神雷桜のもとで)」~~~






私自身、日本の桜について感じることは、その花びらの散り際の美しさであり、同時にその花びらの散り際の美しさと、自ら散華していった英霊の皆さん方の生き様との重なり合いです。その意味では、「お花見」自体一つの日本の文化として、これからも続いていって欲しいと考えております(私自身、宴会形式ではない散策形式のお花見は続けます)。


また、日本では4月が「新年度」といった形で一つの区切りとなっております。そこから3月・4月となりますと、ある生徒は卒業式を迎え、ある少年は入学式を迎える。
とある若者は入社式を迎え、またとある高齢者は退職を迎えるといったことが全国一斉に行われます。日本ではたまに、ある外国の例に見られるように、「9月入学」などを実施してみてはどうか、という議論が起きたりしますが、その都度曖昧に葬られてきましたし、それはむしろ自然な事と言うことができます。



「靖国で会おう」といって散華していった英霊達、特に「神雷桜」に集う英霊達のいない時期に、「入学式」や「入社式」そして「卒業式」などを移行させてどうするのですか。英霊達にその後の日本の「新陳代謝」を、きちんと報告できる季節がまさに4月であり、桜が開花した時期なのではないでしょうか。
     



4月5日のお花見場所は、千葉県幕張にあります「幕張さくら広場」で、ここには「ソメイヨシノ桜」が505本も植えられ、まさに桜一色の公園となっておりました。幕張新都心あります、松下電器社有地32,000平方メートルを、環境や地元の為に有効活用したいとの意図で、平成18年の4月に開園しました。設計者は、現代を代表する建築家の「安藤忠雄」氏で(同氏は元ポロボクサーとのこと…)、知名度とも相俟って、最近は日本で最も新しい桜の名所として話題のスポットとなっているとの事であります。


実際足を踏み入れてみますと確かに素晴らしく、505本の桜づくしによってあたり一面が淡いピンクの空間になり、そこに閉じ込められたようで気分も朗らかになっていくのを感じずにはいられませんでした。ただ惜しむらくは、505本の桜の木の殆どは、まだまだ若い樹木であることから、辺りはいわゆる植林したてのほやほやといった感じがつきまとい、天を仰げば青空が見えてしまうといった状態で、決して千鳥が淵の桜のように、天空を桜で覆うが如し、といったところがないところでしょうか。いずれにせよ5・6年先は楽しみなスポットではあります。



当日は、新進気鋭の「ソメイヨシノ桜の観光大使」の女性が花を添えてくれました。これは、豊島区観光協会が、豊島区を全国に発信するための起爆剤のひとつとして、豊島区発祥のソメイヨシノ桜をヒントに、過日行われた「ミス桜コンテスト」で優勝した女性を観光大使として任命したものです(任期は1年)。桜の観光大使の女性も、まだ任命されて日が浅いからか、しぐさの一つ一つに若干のぎこちなさがありましたが、それが返って評判を呼び、当日は記念撮影のラッシュが続いたようでした(さくら大使さんには、ソメイヨシノ桜を起点にして、豊島区を全国的に有名にして欲しいものです)。



さらに、当日のお花見に利用したバス11台のうち4台が、「天ぷら油の廃油で走る観光バス」でして、これはまだ日本には4台しかなく、いかにして燃料として使用する、使い終わった天ぷら油を回収するか、についてまだまだ課題があるものの、幾ら走っても大気汚染の原因となる硫黄酸化物はゼロで、しかも黒鉛は軽油の半分以下といったエコもの、じゃなくて、優れもの。


国内旅行は勿論のこと、各国世界への観光ツアーはこういったエコの観点から再度組み立てられていくことが大事と感じました。それがまた愛する祖国を守る為に散華していった英霊の皆さんの気持ちにも合い通じていくと思います。


今年も靖国の「神雷桜」は美しかったと聞いております。そこでは確実に凛とした英霊達の出会いが在ったことでしょう。合掌。

冷凍肉まん君まで!!

中国河北省の天洋食品の「冷凍餃子」君から農薬が検出されてから、安全で安心できる「食」の確保が注目を集めているわけですが、そこに今度は「毒入り肉まん」が登場するという、大変残念で痛ましい事態となってしまいました(中華まん好きの私としてはちっとも大袈裟ではありません)。



一連の中毒事件が、単なる天洋食品という一工場の、これまた「毒入り餃子」という一種類の食べ物の問題に止まらず、そもそも何故こうも中国社会において悪質食品・有毒食品が出てしまうのかという意味において、事件は更なる広がりと長期化の様相を帯びてまいりました。
  メタミドホスが入っていたこの肉まんは、実は平成18年8月2日に製造されており、1年半後の今年の2月2日が賞味期限に設定されておりました。今年の1月31日と2月1日(いずれも賞味期限内)に肉焼まん計12個を食べた広島県内の73歳の男性が、めまいを感じて2月1日に医療機関を受診した結果、軽症ということで済んだところから事件が発覚したとのことです。実際、事件のおきた広島県では、念のためということで調査したところ、食べ残しの肉まんから0・64ppm、未開封の同肉まんから0・55ppmのメタミドホスが検出されたとのことであります。






~~広島県は、この冷凍肉まんは大阪市の輸入業者ニッキートレーディングが輸入販売したものであることから、この結果を大阪市に通報。大阪市は、早速、同日(平成18年8月2日)製造の冷凍肉まんの在庫品や自主回収分を対象に検査を実施。 この結果、皮や具などから 0・22~0・64ppmのメタミドホスが検出。なお、袋からの検出はないとのこと。


これらの結果から、大阪市と広島県は、2月19日にそれぞれ記者会見を実施。『大阪市の食品輸入会社「ニッキートレーディング」が、中国・山東省の「山東仁木食品」から輸入し、広島県内などで販売した平成18年8月2日製造の冷凍「青島ニラ肉焼まん」から、0・22~0・64ppmの有機リン系殺虫剤「メタミドホス」を検出した』と発表。


なお、「山東仁木食品」は「ニッキートレーディング」のグループ会社である平成18年8月2日製造分の商品は同年8月21日に2500袋(1袋20個入り)が輸入され、大阪府など6府県の10業者に販売された。ニッキー社は今年2月17日までに74袋を自主回収したが、残りは消費されたとみられる(なんてこったー!!)~~

 




私の幼少の頃は、中華まんといえば肉まんとあんまんの2種類だけでして(確か?)、今のように様々な種類の中華まんがあって、その中からお好みで選ぶことが出来るといったことは考えられませんでした。しかも当時は、いわゆる駄菓子屋さんが根強い人気スポットとして君臨しておりまして(高松3丁目には駄菓子屋さんが2軒もありました)、中華まんでも買って食べようぜ!!と言ってのける子供は、当時としてはリッチな家庭・子供の部類に入っていたと思われます(私なんかよく友人と2人で一つを買って半分づつ、というパターンでしたっけ)。



その中華まんですが、これはそもそも小麦粉、水、塩、酵母などをこねて発酵させたふわっとした皮で、具を包んで蒸し上げた「饅頭」でして、中国で「包子」(パオズ bāozi)と呼ぶものに相当するとのことです。豚肉などを入れた肉まん(地方によっては「豚まん」と呼ばれることがある)や小豆餡のあんまんが代表格であるわけですが、最近のピザまん、カレーまん、海鮮中華まん、餃子まんなど、多様な変り種の中華まんも根強いファンをゲットしており、私もたまに食べてみますが、さらに美味しくなったな、今の子供たちは恵まれているな、と感じます。 また、まだ食べていませんが、「○○ロール」と呼ばれる細長い形状の種類もあるみたいです(?)。


その饅頭ですが、中国の明の時代に完成しました、いわゆる「三国志」(学生時代によく読みましたっけ…)の後半の部分に、実はこの「饅頭」の話が出てまいります。そして、この饅頭が、中華まんの原型であるとされております。






~~三国志に出てくる、蜀の国の元首:劉備玄徳の軍師:諸葛亮孔明は、国家3分の計(劉備玄徳の蜀・孫権の呉そして曹操の魏)を一応実現した後、周辺諸国の平定に乗り出す。やがて南蛮に到着すると、その地で「川の氾濫を治めるためには野蛮人の頭を川に投げる必要がある」との言い伝えを聞く。孔明はこの言い伝えに納得がいかず、人の頭を模した饅頭を作り、それを川に投げ込ませる。すると不思議な事に氾濫は治まってしまう。以来川の氾濫を防ぐため饅頭が投げられた。もちろん人の首を入れれば川の氾濫は静まるというのは迷信。孔明は、川の氾濫がいつの季節・時期に起きて、いつ静まるかを知っていたと思われる。同時に孔明は、蛮族を服従させるには武力より、そのような手段を用いた方が得策考えた~~
 



歴史的には(三国志演義はフィクションが多いですが…)多くの血を流さないですむようにといって発案された饅頭、そしてその後の中華まんが、今日では逆に人命を脅かす食べ物として認識され、警戒されてしまったことに、とても憤りを感じますし、加えて悲しいことは、今回の一連の冷凍餃子中毒事件に関して、中国語のインターネットサイトの掲示板で、「日本人の体質は毒に弱すぎ」とか、「日本人の生活環境は甘すぎ、ちょっとした事でも大袈裟に言う」とかの発言が出ていることです。
 


これからもまだまだこういった事件は続くでしょうが、その根本原因はどこにあるのかを私なりに探りますと、中国社会における①言論・報道・表現の自由と②司法の確立・自律・独立の2点が重要でしょう。現在の中国社会では殆ど報道の自由といったものがないため、報道機関として「正しい情報を伝える」「不正に対する監督機能を果たす」という使命が達成されていないですし、むしろすべての報道が党宣伝部にコントロールされてしまっております。そこから例えば、国内でのいくつかの雑誌や新聞社の編集長は頻繁に更迭されているとの事です。


また、司法の独立も依然未発達で、裁判・検察・警察の3作用は党中央ないし地方の政法委員会に属しています。そこから例えば、党幹部と太いパイプを持てば、法律で罰せられる対象外となり得、そこから社会の公正さは失われていき、悪質食品事件が揉み消されているといわれております。これらの二点が克服されませんと、依然として中国製品・中国食品の安全・安心性は世界から認められないのではないでしょうか。
 

今回もまた私は叫びます。冷凍肉まん君、ガンバレ。君も決して悪くない。君の汚名を晴らす為に、僕は君を食べ続けながら、いつでもポワロやコロンボになる覚悟だ。

2008年2月28日木曜日

冷凍餃子君

 毎日行動する上で欠かせない手帳から、いよいよ【新年会】【新春の集い】といった催し物が少なくなってまいりました。例年ですと、酒もタバコも一切と言って良いほど嗜まないのにもかかわらず、お付き合いと称して杯を重ね、帰り際には良い心もちになっていた私ですが、今年は出席する会の多さから車での移動がやたらと多く(勿論、私が運転手兼ナビゲーターです。最近うちに来る塾生はオートマ限定が多過ぎるゾ!!マニュアルをとらんかいー)、当然のことながらお酒は控えましたので、体調面・記憶面(若年痴呆?)でも、かなりしっかりとした新年会シーズンを過ごすことができました。また今年は有難くも、いろいろな団体様からお声掛けをいただき、可能な限り出席させていただいただけではなく、挨拶までさせていただけた団体さんが例年よりも多くありました。ありがとうございます。



「………さて、毎年恒例の「今年の漢字」に、「偽」が選ばれてしまい、その後の二位以下にも、「食」「嘘」「疑」が続いてしまった事にも象徴されますように、この五年間というものは、まさに日本人の食べ物に対する「安全・安心」が厳しく問われ、国民の皆様から強い叱責を受ける時代でありました。その潮流の中にあって、当協会の食品関係営業者の皆様におかれましては、「消費者の信用を勝ち取る為に!!」、また「ご自分で自身のお店を守る為に!!」、更には「自主的衛生管理を実践するお店創りをする為に!!」を合言葉に、毎日弛むことなく鋭意努力・活動されて来た事と存じます。特に、会員施設の食品衛生の向上と、自主的衛生管理の確立のために、昼夜を違わず、会員施設を巡回して衛生管理の指導・普及に取り組んでおられる「食品衛生自治指導員」の皆様方に対しましては、そのご尽力振りにただただ頭の下がる想いで一杯であります。引き続きましてのご活動に期待いたしますと共に、力強い支援システムの構築が急務と考えております。………私自身、当協会は勿論の事、ひいては食品業界全体に対しまして貢献できるよう、豊島区の保健福祉部や池袋保健所等と緊密な連携を図り、当協会会員の皆様に対しまして、食品衛生等の情報を幅広く提供してまいる覚悟であります。………」



 【食】の安全と言いますと、昨今は、【毒入り餃子】【殺人餃子】の話題が世上をかなり賑わしておりますが、この餃子の歴史は大変古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすでに食べられていた痕跡が見つかっているとのことですし、敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されたとのことです。その餃子発祥の地は中国、しかも華北の料理とされ、中国東北部で特によく食べられていたものが、戦後満州を経由して我が国に流入してきたとのことですが、物語っぽくなってしまうものの、日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされており、亡命していた朱舜水(誰ですかね?)から教わった、と伝えられております。
 日本では米飯のおかずとして食されることが多いですが、これは日本独自であり、他の国では一般的ではないようです。と言いますのも、中国の華北で食べられる餃子は主食を兼ねたものが多く、皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方の水餃子が主流で、焼き餃子はあまり食べられない。焼き餃子は残り物の餃子を焼いて食べるものであって、あまり上品な食べ物とは思われていない、と言った経緯があるからです。
 もっとも経緯とか歴史を調べて見ますと、餃子はその中国語での発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子の形に似ていることにから、縁起の良い食べ物としても珍重されており、また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願い食されます。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子を食したといわれています。



 日本の自治体の中には、栃木県宇都宮市のように、この餃子を使って町興しをしているところがあります。その宇都宮市の餃子の始まりは、かつての陸軍、しかも宇都宮出身の将兵が、満州からの帰国の際に本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれており、現在市内には餃子専門店と餃子を扱う料理店が合わせて約200軒もあり、一般的な販売価格は1人前150~200円程度と低廉で学生がおやつ代わりに食べることが出来る価格帯となっているとのこと、加えて、タレは酢だけで食する、宇都宮スタイルといわれるものがあるそうです。



~~平成2年ごろ、町興しにつながるキーワードを探していた市の職員が、総務省の「家計調査年報」において「餃子購入額」で同市は常に上位に挙がっていることに注目。餃子による町興しを提案したのがきっかけで、以来観光PRに力を入れる。平成3年には業者団体として「宇都宮餃子会」が発足。行政と民間で協力して様々な企画を仕掛けたことが功を奏し、かつて国際観光都市「日光・鬼怒川」への通過点だった宇都宮が、餃子という大きな観光資源を得ることに大成功。任意団体として発足した宇都宮餃子会は、平成13年に協同組合となり、登録商標「宇都宮餃子」の管理や組合直営店「来らっせ」3店舗(宇都宮2店、東京1店)の運営管理なども実施。現在の組合加盟店舗数は70軒を超える。JR宇都宮駅東口広場には、地元産出「大谷石」の業者によって無償で制作されたオブジェ『餃子像』が設置。ヴィーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現したユニークなもので、観光客の人気撮影スポットとなる。同時に、宇都宮駅が駅弁発祥の地(これは初めて知りました)であることから「宇都宮餃子駅弁」も企画・販売。宇都宮駅構内の立ち喰いそば屋には餃子そばというメニューがあった。秋には宇都宮餃子会を中心とする市民手作りのイベント「宇都宮餃子祭り」が定例化。協賛餃子店が市街で屋台を開き、1人前1皿100円の餃子が振る舞われる。「宇都宮餃子祭り」は毎年10月下旬~11月初旬の土日に実施。~~
 


 餃子一つでこれだけのインパクトを町に、そして全国に醸し出せるとは意外ですし、それはまた餃子というものを日本人の誰もが好物としているからでもありましょう。その食べた後の口臭が気になるという女子学生はいても、私の周囲にいる方でも餃子が嫌いな人はおりません。
 このように戦後中国から入り、日本に広まった餃子は数十年の時を経て、日本の食文化の1つとして日本流の餃子になっていると言えるでしょう。中国と日本の文化の架け橋であり、日本人が愛してきた餃子に毒が入っていたなんて、残念で仕方がありません。冷凍餃子君、君は悪くない。君の汚名を晴らす為には私はいつでも明智小五郎や金田一耕介になる覚悟だ。

2008年2月7日木曜日

舞良戸(まひらど)

  新しい年を迎え、気持ちも新たにして原稿を書いておりますと、「時折穴もあけるけど、よくもまあ続いているなぁ」と、自分で感心するときがありますし、書きたまったものを纏めて出版したら、という言葉をかけてくれる方もいます。誠に嬉しいことではありますが、いやいや、私なんぞの原稿を纏めて出版したところで読めた代物ではありません。しかも、もし三島由紀夫が生きていて、その本を読んだとしたら、私はどうされちゃうでしょうか?想像しただけでもゾッとします(私が介錯されちゃう!!)。といいますのも、彼の遺作評論であり、文学的遺書とも言える(私が勝手に思ってる?)「小説とは何か」(新潮社)の五を読む限り、とてもとても、私なんぞ本とか出版とか、口にすることすら出来ないと思うのであります。
 





  三島はその中で、小説と戯曲とを比較しながら、「小説の特徴は…生・自然・人間(動物である場合もある)のすべての表現が、言語を通じてなされており、かつ、言語を持って完結している、…」と述べ、「言語表現による最終完結性」こそが、芸術としての小説のもっとも本質的な要素であるといった発言をしております。そこから、三島は「小説は、実に自由でわがままなジャンルと考えられているだけに、この点の認識をなおざりにして書かれたものが実に多く、古い日本語の教養が崩れてゆくに従って、この認識自体が小説家の内部で日に日に衰えつつあるように思われる」と当時の小説作品群の出来映えの傾向を嘆きつつ、ひとつの家の造りのある部分を取り上げて、以下のように自説を展開しているのであります。








  「たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。一例をあげよう。『舞良戸(まひらど)』という名の戸がある。横に多数のこまかい棧のある板戸のことである。こんな戸は今では古い邸や寺などに見られるだけで、近代和風建築にはめったに見られず、ましてマンションやアパートの生活ではお目にかかれない代物である。しかし小説はマンション生活ばかり扱うべきだという規則があるわけではなく、小説家自身の過去の喚起が、小さな事物をも重要な心象たらしめるから、現代小説にだって、舞良戸が登場することは免かれない。そういうとき小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその『名』をしらねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はおわり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。……(略)……伝統によって一定期間存続され且つそれに代わる名稱ないようなものについては、作家はその『名』を指示すれば、満足すべきなのであって、それが言語表現の最終的完結性というものを保障する一つの文化的確信であるべきである。極端なことをいえば、日本歴史を信ぜずして日本語を使うことなどできよう筈がない。私は明らかに、舞良戸は、ただ『舞良戸』と書くことを以って満足する小説家である。……(略)……しかしこのごろ新人の、いや新人のみならず中堅に及ぶ作家の中にも、『舞良戸』が出てきたと仮定した場合、次のような表現をとる事例に、私はしばしばぶつかるのである。



①「横棧のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」
②「横棧戸」
③「まひらど、というのか、横棧の沢山ついた戸」





  このうち私が検事であれば、③にもっとも重い罪を課する筈であるが、それは追って説明するとして、①のように書く作家は、物を正確に見ており、過去の喚起力を持っているけれども、それだけを作家の素質と考えている怠け者であり、言語表現の最終完結性について、すなわち小説の本質について、ぞろっぺえな考えを持っているのである。彼は字引を引くこと自体を衒学的な行為と錯覚しているにちがいない。②の作家は平気で造語をする。『横棧戸』などという、サンドウィッチの一種のような言葉は日本語にはない。彼は言葉の伝統性について敬謙さを欠いた考えの持主であり、あるいは忙しすぎて、表現の厳密性に注意を払わない作家である。



  一事が万事、こういう作家に限って、決してユニークな感覚的表現はできず、他の個所では、きっと『彼女は悲しくなるほど美しい微笑をうかべて』など、使い古されたルーティーンな表現を平気で多用している筈である。彼はただ忙しいのである。③の作家にいたっては論外である。なぜ論外かというと、こういう表現をするには、いくつかの心理的蓋然性が考えられる。一つは、彼の頭に『舞良戸』という名が浮かぶには浮かんだが、字引なり何なりで確かめる労を省いて、その労を省いたという心理的経過をそのまま売り物にして、『というのか』と、責任を他に転嫁しているのである。もう一つは、実は彼が『舞良戸』という名をちゃんと知っていながら、作者自身あるいは登場人物の呑気な正確表現として、『というのか』を入れたほうが、表現が柔らかく親しみ易いものになると考えているのである。三つ目は、すべてが無意識な場合である。彼は表現の凝縮性も正確性も考えず、ただ、あいまいな心理状態を外界に投影して、外界自体をあいまいな『というのか』で満たしており、しかもすべてを無意識にやっているのである。






  私のすべての中で、この③の第三番目の場合をもっとも悪質だと思う。③の第一番目は文士気質を売り物にしているから悪く、第二番目はわざとらしい無智の衒いを、作中人物の呑気さの性格表現に利用しようと考えている点で、キザな心掛けが悪く、第三番目は、言語表現の自律性についての無反省において、作家としての根本的な過誤を犯しているからである。
私はこれらの例をすべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさという罪名に於いて弾劾する。何を些細なことを、と言われるかもしれないが、一方、もし劇作家がト書の中で、『下手に舞良戸』と指定すれば、職人はすぐに意を承けて舞良戸を制作するに決まっており、單なる技術的指定として使われた言語が、舞台ではちゃんとした物象として存在するにいたるのである。そして小説とは、そのような、ちゃんとした物象、役者がよりかかったぐらいではグラつかない本物の物象を、言語で、ただ言葉のみで創造していく芸術なのである」







  ~ は初めて「まひらど」というのを知ったわけですが、もし自分がこれを読者に伝えるとしたらどのような言語表現を用いていたでしょうか?おそらく三島検事の最も嫌う③のように記述していたかなと思います。決して私はここで小説を書いているのではありませんが、この三島の言説に触れる度に、日本語・その概念・その文章は美しいけれども難しいと、つくづく感じますと共に、私が本を出すなんて……トンデモナイー、と叫ぶのであります。
今年もまた拙いエッセイ(間違っても小説はかけません)にどうぞお付き合い下さいませ。

                                      2008年1月

2007年12月22日土曜日

テロ得?

 今からちょうど2ヶ月前の10月17日、日本政府は、11月1日に期限が切れる「テロ対策特別措置法」に代わる、「新テロ対策特別措置法案」を閣議決定し、国会に提出致しました。勿論、提出してはみたものの、その後の帰趨はどうなっているかと言えば、まさに予断を許さない感じがあります。それは、直近の各新聞やテレビで報道されている世論調査結果が如実に物語っているところであります。
 そこで、新法案は一体全体どういう内容のものかといいますと、国際社会の「テロとの戦い」や、わが国の生命線である原油とシーレーンの安全確保という国益の観点を踏まえた上で、引き続いてインド洋、とりわけアラビア海海域での海上自衛隊の支援活動を、給油と給水活動に限定し、その給油先も、武力行使に従事する軍艦への補給活動を排除し、テロリストの移動や武器、麻薬などの輸送を監視・摘発する海上阻止活動にかかわる他国軍の艦船に限定したものとなっております。
 

 そこから新法案は、①ここでの海上阻止活動が、国際法に基づいた乗船検査などの海上警察活動を指しており、決して武力攻撃をするものではないこと、また、②給油先も限定したことで、対イラク作戦などに対する燃料の転用防止の徹底にもつながっていること、さらに、③その期限は、文民統制をより強いものにするという意味で、1年としていること等から、現在の「テロ対策特別措置法」にも増して、国民の支持を得られるものになっていると思います。
 

 そもそも、「テロ対策特別措置法」のもとでの、海上自衛隊の艦艇による洋上給油活動の戦略的意味は、「テロとの戦い」に取り組んでいる多国籍海軍の海洋安全保障にとって極めて重要な意味を持っていることは間違いありません。
 

 といいますのも、わが国の海上自衛隊の艦艇が洋上給油している各国艦艇の受け持っている海域は、ペルシャ湾からホルムズ海峡、アラビア半島の沿岸海域、紅海からソマリア海域と極めて広範囲に及んでおりますが、もしここで洋上給油という手段を失ったとしたならば、一体どうなるでしょうか。是非、皆さんも想像して頂ければ有難いです。


 私なりに想像してみますに、洋上での給油がなくなれば、各国の艦艇は、いちいち予め定められた補給港に寄港し、燃料補給作業を行うことを余儀なくされ、その結果、時間的に大きなロスを生じさせると共に、各国の艦艇の作戦行動が当該補給港に縛られてしまい、ひいてはテロリスト達に、海上阻止活動の警戒網をくぐり抜けた、各種洋上活動を許してしまうことになると思いますし、それは我が国にとって、「テロとの戦い」の成否に関わる軍事的な欠陥をさらけ出すことを意味すると考えますが、いかがでしょう。


 数年間にわたって続けられているインド洋上、とりわけアラビア海海域での海上安全保障活動で摘発されたテロリストやテロ集団と関係する船舶数は、公開情報に限ってみますと極めて少ないことが分かります。 

 そこから、「テロ対策特別措置法」に基づく海上安全保障作戦が、テロの根絶にどの程度貢献したのか!とか、実質的に役立ってはいないのではないか!とか、費用対効果が低くて実行価値がないのではないか!といった声が聞こえてまいります。
 

 しかし、このような発言は、わが国の安全保障にまつわる軍事的な専門領域までをも、いわゆる商業、商い的視点でしか判断できない、いわゆる「平和ボケ」の典型例の一つでありまして、わが国独特の現象といわざるを得ないと思います。
 

 といいますのも、摘発ないし捕捉されたテロ分子が極めて少ないということの意味は、各国の艦艇による哨戒・警戒活動によって、テロリスト側の、洋上での活動が大幅に制約されている、抑止効果がもたらされている、と言うことが出来るからであります。各国の艦艇がアラビア海海域を常時パトロールしているがゆえに、テロ分子達による、テロリストの移動や武器弾薬の増強、麻薬や人身売買による資金稼ぎのための密貿易を抑止出来ている、という成果が上がっているという意味において、確実な「貢献」がそこにはあると、私は考えます。


 加えて、現在、各国の艦艇に対して洋上給油を行う為の部隊を展開させる能力を持っているのは、世界各国の軍事バランス上、わが国の海上自衛隊だけであり、わが国政府が国連によって支持されている「テロとの戦い」そのものを支持している以上、海上自衛隊の補給艦が各国の艦艇に給油などの支援をすることは、まさにわが国の特性を生かした、外交努力の結果生まれた国際貢献と言う事が出来ると思います。


 しかも、より重要なことは、わが国の生命線である原油とシーレーンの安全確保という国益を見据えて、今回の問題を議論することであります。わが国が輸入している原油のうち89.5パーセントは、ペルシャ湾からホルムズ海峡を抜けて、アラビア海を通過してインド洋から日本へと向かっておりますし、残りの10.5パーセントのうち、4.2パーセントは、紅海からアラビア海を横断しインド洋から日本へと向かっています。つまり、わが国が輸入する原油の93.7パーセントは、「テロとの戦い」のもと、多国籍海軍の艦艇が安全を確保してくれている海域・シーレーンを通過してもたらされてくるものです。
 

 もしもわが国の海上自衛隊の艦艇による洋上給油活動がなくなり、各国の艦艇による海上安全保障活動が停滞し、アラビア海海域でのテロリストの活動が活発になりますと、最悪の場合は、93.7パーセントの原油を、わが国は手に入れることが出来なくなる恐れが生じます。そして、わが国が常時備蓄している約半年分の原油を消費してしまった後は、生産活動も交通機関も完全に麻痺してしまい、国民の健康で文化的な生活は到底望めなくなってしまいます。
 

 わが国としましては、引き続いて各国の艦艇に対する洋上給油活動を展開することによって、自らの原油とシーレーンの安全確保という国民生活の生命線を守り、原油の安定的な獲得の維持という我が国の国民生活に直結した国益を守るという観点を常に持ち続けていかなければならないと思いますが、いかがでしょうか。
 

 海上自衛隊の洋上給油活動の継続は、わが国が国際社会の一員として、「テロとの戦い」に貢献するという国際的な責任を果たす意味でも、また、海上交通の安全確保というわが国の国益にも合致するという意味でも、政治的に正しい決断であると、私なんぞは思っておりますが・・・。   
少なくとも、テロリスト達が得しない方策を考え続けましょう。
~~~本年も拙いエッセイ(?)にお付き合い下さり、誠に有難う御座いました。

良い年をお迎え下さい。~~~                                                                 2007年12月

2007年12月4日火曜日

ガンバレ柏崎

  11月11日、日曜日の午前、豊島区総合グラウンドで、第4回「TEPCOフレンドリーカップ2007」という、豊島区と新潟県柏崎市との少年野球交流大会が開催されました。
この大会は、東京電力株式会社の大塚支社と柏崎刈羽原子力発電所が主催し、財団法人:社会経済生産性本部の首都圏エネルギー懇談会の共催を得て、私どもの豊島区少年野球連盟と新潟県柏崎学童野球連盟が協力するもので、首都圏で使われる電力の約2割をまかなっている柏崎刈羽原子力発電所立地地域である新潟県柏崎市という「電力の生産地」と、私達が住む首都圏の真っ只中にあります東京都豊島区という「電力の消費地」とを、少年野球というスポーツで結び合うことによって相互理解を深め、ひいては日本のエネルギー事情に小さい頃から関心を持ってもらいたいという願いを込めて行われているものです。


  当日は、困ったことに朝から生憎の雨模様でして、雨による大会への影響を少しでも抑えようと、開会式を簡潔に済ませる等して予定時刻より早目にプレイボールとしたのですが、一回の表を終わった時点で無常にも強い雨脚となり、審判部の判断でやむなく中断、選手達はアンダーシャツを取り替えてジャンパーを着るとともに、ベンチで雨が止むのをひたすら祈るという状況が2・30分続いてしまいました。


  わざわざ新潟県柏崎市から一泊二日の行程で、監督・コーチ・ご父兄の皆さん、そして選手達の総勢約60名(柏崎スターズと松浜少年野球団の2チーム)が来てくれているのです。ホスト側の豊島区少年野球連盟をはじめ、大会関係者は、雨脚が衰えたと判断するや、一目散にグラウンドに飛び出して行き、水溜りの除去や砂の入れ替え等をはじめとするグラウンド・キープ作業に取り掛かりました。内野のところの水溜りをレイキやブラシで、ファウルグラウンドのほうまで押し流してゆく人、たいして大きくもないスポンジをグラウンドに押し付け水を吸い取ってバケツに捨てている人、乾いた砂をピッチャーズ・マウンドやバッターズ・ボックスに運び、ぬかるんだ砂と入れ替えている人、各大会関係者が暗黙のうちに役割分担し、プレイ再開への道筋をつけてくれています。
 

  それらの光景を、私も手伝いながら拝見して感じたことは、わざわざ柏崎市から来てくれている、それだけの理由ではこの一連の動きぶりは出てこないな、という事でした。
大会前日の11月10日、土曜日の夕方、今大会の前夜祭とも言える「ふれあい交流会」が、サンシャインシティ・プリンスホテルの特別協力のもと、ワールドインポートマート9階さくらルームで行われました。懇談に入る前の、オープニングセレモニーでは、まず、主催者の東京電力の役員の方から、今回の新潟県中越沖地震による被災者の皆さんへのいたわりの言葉と、柏崎刈羽原子力発電所の罹災よる影響を、子供達が一生懸命取り組み、楽しみにしているこの少年野球交流大会に及ぼしてはならない旨の決意が述べられ、次に、乾杯の発声をした柏崎学童野球連盟の役員の方からは、今回来たチームの中に中越沖地震で被災したご家族が多数含まれている旨のご挨拶がありました。この時、ご挨拶した方々とそれを聞いていた皆さんに共通して去来したものは何か、それを私なりに想像しますと、様々な形で被害を受けた柏崎への優しさと労わりの想いもさることながら、日本人としてとても大切な事に無関心でありすぎたし&ありつづけたという反省の想いではないでしょうか。


  7月16日午前10時13分、新潟県中越沖地震が発生してから、柏崎刈羽原子力発電所の地震被害の映像は連日連夜テレビで報道され、「何故、地震多発国に、原発を作ったのか」とか、「原発の安全性には多大な疑問があるといわざるを得ない」といった批判が相次ぎましたが、そもそも私達は、はたして&どこまで原発についての正しい知識を持ち合わせていたでしょうか。私達は今、原発についての無関心を卒業し、国民一人ひとりが認識を深め、思考する時期がやってきたのではないでしょうか。現にアメリカでは、1979年のスリーマイル島の事故以来、原発の建設がなされてこなかったのにもかかわらず、いよいよ新たな建設計画を策定しましたし、現在世界的に、原発政策が見直されています。 
  

  特に資源に恵まれない日本では、原子力発電には、①少ない燃料で大きな発電量を作り出せること、②一度原発を建設してしまえば後はランニングコストが安いこと、③政情が安定している先進諸国から安心してウランを確保できること、④COツーの抑制効果が大きいこと、そして⑤燃料をリサイクルでこること等のメリットがあることから、2006年に「原子力立国計画」が策定され、あらためて国家戦略としての原発推進が確認されています。ところが、現実の私達の対応はどうでしたでしょうか。テレビ画面が映し出す柏崎刈羽原発の施設(実際は原子炉本体ではなく変圧器施設)から立ち上がる黒煙を見て、単純にチェルノブイリ原発事故に結び付け、そこから、海と大気へ放射能が漏れたと即断したのではないでしょうか。加えて、当時の新聞報道の姿勢はどうでしたでしょうか。新聞が持つべき、冷静に物事の事態を把握するという役割と、根拠のない不安ならばそれを取り除くという使命は、果たされなかったと評価していいでしょう。


  実際のところは、この道の専門家とも言える「IAEA」による調査で、東京電力が充分すぎるほどの耐震強度設計をしていた為に、地震被害が原子炉の安全性に影響を与えず、原子炉が安全に停止したことが分かり、その点が高く評価されておりますし、放射性物質の漏洩も基準値をはるかに下回るものであることも確認されています。いずれにしても、日本の原子力技術の高さが世界に証明されたわけでして、後に残ったのは、過度の風評被害でした。
 
 
  やれ「原発の放射能が心配」とか、「あふれる核燃料プール」などの風評が飛び舞った結果、新潟のホテルのキャンセルが多数あり、柏崎では遊覧船が運航を停止し、花火大会も中止。さらには、ある新聞報道が海外メディアの「ヘラルド・トリビューン」紙に転載されたことも手伝って、千葉県に来る予定だったセリエAのカターニャの訪日まで中止になる等、不必要な見出しにより社会不安が醸し出されてしまいました。こうして柏崎の人達が、世間から受けた損害は甚大なものがあったといえますし、特に子供達にとっては多くの楽しみが奪われてしまったことでしょう。だからこそ、一瞬でも早いプレイボールが大切だったのでした。


  私達がなすべきことは、感覚的に常識として広がってしまっている原発に対する間違いを、日本のエネルギー事情を前提に、幅広い情報と科学的見地に触れる努力をすることによって見直し、そして理解を深めることです。そのときの合言葉たりうるのは、「ガンバレ柏崎」です。

                                        
                                                  
                                      2007年11月