7月12日、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の首席代表会合が、「消化不良」のまま閉幕してしまいました。拉致事件の早期解決のため北朝鮮に対する経済制裁措置の一部解除に反対する行動が全国各地で起こっているなかにあって、この会合の内容を新聞報道で知ったとき、何かシラッとしたものを感じたのは私だけではなかったのではないでしょうか。と言いますのも、北朝鮮の核計画申告の検証方法は、細部にわたってまで合意出来なかったわけですし、そうなると日本政府はかねてからこの細部についての合意作りが先決問題としていたわけですから、必然的に検証の時期も遅れてしまうことになります。
さて、先月の11日と12日に、約9ヵ月ぶりとも言える、日朝公式実務者協議が北京で開かれました。当時の私の記憶には、昨年の9月に、拉致問題を「私の手で解決したい」と、ご本人としては珍しく断定調で明言された、当時首相就任直前の福田康夫自民党総裁の言葉が強く残っています。そこから、先月の北京での実務者協議で、「拉致問題」の解決をはじめ、これからどう日朝関係が進展していくのかを、日本人の一人として大いに期待していたところでした。
しかし、実際はどうでしたでしょうか。
すでにご案内のように、北朝鮮は「拉致は解決済み」という立場を変更して「再調査」をすること、また日航機「よど号」乗っ取り犯とその家族を引渡すことを約束し、他方、我が国は、経済制裁措置の一部解除を実施することを約束しました。これを受けて、米国政府は、6月26日に、テロ支援国指定解除を議会に通告したとのことであります。
「拉致問題の再調査」と「よど号犯とその家族の引き渡し」で、制裁を一部解除する。これを聞いて唖然とした人は多かったのではないでしょうか。何度も聞かされ、ある意味騙されてきた「再調査」で、なぜ我が国は制裁を一部ではあれ解除するのか、と。
そもそも「再調査」という言葉自体が詭弁ではないでしょうか。例えば、誰か日本人が北朝鮮で登山をしていたところがけ崩れに遭い行方不明になったという場合なら、北朝鮮側に捜索をお願いしたり、それでも見つからないから「再調査」をお願いするというのならわかります。しかし、そもそも誘拐犯自身が「自分が誰を誘拐したか再調査する」というのでは話になりません。
「拉致問題の解決」とは、我々が全く知らない人も含め、拉致被害者をすべて取り返すということであります。勿論、その後、真相究明やこれに関わった関係者の処罰が必要なのは言うまでもありませんが、兎に角、拉致被害者を全員取り返すことが先決事項であります。そして、これらの人を取り返すためには北朝鮮で誰もが自由な意思表示をできるようにしなければなりません。「自分が拉致被害者である」と名乗る事ができるようにし、あるいは自由な調査ができるようにすることが大切であって、そうする為には、北朝鮮の体制変更が必要になるでしょう。
政府の責任は、あくまで「拉致被害者全員を救出する」ことであります。その中の一つの手段として「北朝鮮との交渉で帰国させる」が入るのでなければなりません。もし話し合いができないのであれば、別の物理的力を使ってでも取り返すという選択肢が存在するのは当然ではないでしょうか。勿論、北朝鮮からシリアに核拡散した今、イスラエルがシリアの核施設を空爆した選択肢は、現時点では、我が国は採ることは出来ないでしょう。ただ、北朝鮮が従来の立場を変更して、拉致問題での協議に臨んできたのは、この間の我が国と国際社会からの圧力が効果を上げたからである、との見方がもっぱらであります。そうであるなら、政府においては、「拉致問題の解決なくして、国交正常化はない」との方針の下、むしろ経済制裁措置の期限延長や、追加制裁措置の実施など、なお一層の効果を上げるための圧力強化のカードを切ることの方がより重要なのであって、未だに拉致被害者全員の帰国が実現していない中で、一部ではあれ経済制裁措置を解除することは絶対にあってはならない事なのであります。
実務者協議の出席者の一人の斉木昭隆・外務省アジア大洋州局長は、6月13日に行われた、拉致被害者家族会への報告の終わりの頃、「(交渉は)出発点に戻った。交渉のプロセスを動かすために布石を売っている。あとは向こうがどう行動を起こすか」と発言されたとのことです。
その場に居合わせた方に、その時の雰囲気を報道機関が取材しており、その伝えるところによれば……。
「この言葉を聞いた家族会の人の表情からは失望というか落胆というか、なんともいえない思いが感じられました」
「また初めからやると言うのか、家族会ができてからこれまでの十一年はなんだったのか、という感情が何人もの家族から見て取れた」
との事です。
横田めぐみさんの拉致が分かってから、9.17小泉総理の第1回訪朝までが約6年弱、そしてそれから現在までがまた約6年弱です。ここでまた我々は重大な、「停滞」という壁に突き当たろうとしています。
横田めぐみさんの母・早紀江さんは、この拉致問題の風化が一番怖いとして……。
「核問題も拉致問題も、人間のいのちを台無しにする大変な問題です。どちらもいのちの問題として、一つの力で訴え続けて」
このように、政府と我々にいつも呼びかけています。
拉致問題は我が国の国家主権と、我々のいのちと安全・安心にかかわる重大な犯罪あります。
何度でも申し上げますが、政府は、「その解決なくしては北朝鮮との国交正常化はない」との方針を是非とも貫徹すべきですし、北朝鮮に対しすべての拉致被害者の安全確保と速やかな帰国を強く求め続けなければなりません。
それまでは、「対話と圧力」「圧力と交渉」との観点から、引き続き経済制裁措置を行う事が絶対に必要なのであります。
2008年9月17日水曜日
氷解
あれは高校3年生の夏、二学期の始め頃でしたでしょうか?担任の先生(体育と陸上部の先生です)から休み時間に頂戴したお小言がありまして、それは未だに忘れずに覚えております。
「なんだぁ、本橋はまだ小学生気質が抜けないのか」
そう言われた時は、先生が一体全体どういう意味で、何を、如何させようとしてそのように言われたのかが、はっきり言ってピンときませんでした。ただ、ひとつだけその時感じた事は、担任の先生が、その時の私の「イデタチ」を、シゲシゲと見ながら言われたので、どうやら私の体育着の短パン姿に着目して小言を言ってるな、ということです。
当時の私は、アメリカンフットボール部の強面の副主将として、主将が皆に対して言えないことも、あえてズケズケと言う、所謂ヒール役を演じていました。当時の後輩達は、さぞかし本橋先輩は怖い、との印象を持っていた者が多かったと想像します。もっとも功績もありまして、あまり意味も無いしごきを適宜廃止していったことで、シゴキに嫌気がさして退部する者がグッと減った事であります。その意味では、当時のOB達からしますと、私は「改革派」と見られていたようです。OBが練習を見にきて、ソレを求めてきても、私達の代は拒絶した事が多かったと思います。
ただ、どこかの相撲部屋の親方ではありませんが、私自身は、ある一定程度の「可愛がり」は必要だと思っています。さもなければ、上手くは成っても、強くはなりませんから。
さて、3年生ともなると、かなり高校生活の要領も心得ておりまして、朝の電車も、遅刻という事態が生じないように、遅くとも池袋発午前7時45分の準急に乗って登校してくるようにとの学校側の生徒指導も軽んじて、自宅から歩いて最も近い駅である「大山駅」発午前8時ちょい前の各駅停車を使うようになっていました。なぜなら、これだと確実に座席に座る事ができて、かつゆったり出来るからです(お年寄りぃ~)。
同時に、構内での態度も1・2年生の頃よりは確実に大きくなってきまして、1・2学期の夏期などは、朝登校してきて自分の机の上に荷物を置いた後(この荷物も部活の着替えぐらいでして、教科書・ノート類はロッカーに常駐)、直に、制服である学生ズボンを脱ぎ(今、何でも母校は私服だとか)、体育の授業ではく短パンにはき替えるのを常としていました。ですから、授業は短パン姿で受けていたのです。なぜそうするのかと申しますと、少しでも、放課後の部活の為に余力を残しておこうという配慮の一点に尽きまして、特に暑い日などは、上に来ているボタンダウンのワイシャツも、襟をさらに外側に倒す・折り曲げる等して、少しでも涼しくして過ごすことだけを考えていました。
先程の担任の先生は、まさにその姿・格好を見て、本橋は小学生のままだな的発言をされたわけです。
過日、母校である高校の、附属小学校に視察行ってまいりました。 この小学校は、児童の安全確保をトコトン追求しており、その観点から、全国的にもかなり早くから、児童のランドセルにICタグを取り付けた実績があります。「RFIDで登下校時の完全把握」とのスローガンを掲げ、この小学校では、ランドセルに取り付けたICタグの電波を正門のアンテナで受信し、児童の登下校の時刻を完全把握しており、正門をただ通過するだけで、学内のコンピューターに、児童の登下校時刻が記録されます。携帯電話やコンピューターのメールアドレスを登録された保護者の皆さんには、児童の登下校時刻を知らせてくれたりもします。教職員と保護者の両者が協力して児童の登下校時刻を把握する事で、安全確保のレベルを高めてもいるわけです。また、ICタグには、シリアルナンバー以外の情報は登録されておらず、万が一紛失したとしても、個人情報漏洩の危険性は最低限に抑えられているのです。さらに、「学内の安全向上」とのスローガンから、有人監視として正門に警備員の常駐所を設け、児童の在校時間中警備にあたるのは勿論、学内の死角になる場所には防犯カメラを設置し、モニターを警備員が常に監視しています。同時に、下校時には、保護者の方々が交代で、路線別の通学路の見回りをも行っているのです。
豊島区立の小学校にも同じようなシステムの導入が必要です。それは「大阪大学附属池田小学校児童殺傷事件」を思い出して頂ければ明らかであり、しかも、ついこの間の「秋葉原無差別殺傷事件」に見られるように、誰が何時どこからどのような手段で攻撃してくるか予想も付かない時代になってしまっているからであります。
これらの事を視察して回っていながらも、未だかつて母校の高校の附属小の建物内は見学した事がありませんでした。ものはついでにと思い、授業風景を見させてもらうべくお許しをもらい、各教室を見て回りました。その時、私の目に飛び込んできた光景は、なんと全生徒が体操服で授業を受けているのです。どうやらこの小学校では、登校するや否や、体操服・体育着に着替え、それでもってすべての授業を受ける事に決まっているのです。
私は勿論、豊島区立の小学校出身者です。こんなことはありませんでした。つまり登校した時の服で授業を受けていたのです。そこで初めて担任の恩師の発言の真意が分かりました。つまり、恩師は私がこの付属小から上がってきた生徒であると勘違いされたことを。
私、この付属小には入り、かつ出られるほどの「おぼっちゃま」ではありませんけど・・・・・・。
「なんだぁ、本橋はまだ小学生気質が抜けないのか」
そう言われた時は、先生が一体全体どういう意味で、何を、如何させようとしてそのように言われたのかが、はっきり言ってピンときませんでした。ただ、ひとつだけその時感じた事は、担任の先生が、その時の私の「イデタチ」を、シゲシゲと見ながら言われたので、どうやら私の体育着の短パン姿に着目して小言を言ってるな、ということです。
当時の私は、アメリカンフットボール部の強面の副主将として、主将が皆に対して言えないことも、あえてズケズケと言う、所謂ヒール役を演じていました。当時の後輩達は、さぞかし本橋先輩は怖い、との印象を持っていた者が多かったと想像します。もっとも功績もありまして、あまり意味も無いしごきを適宜廃止していったことで、シゴキに嫌気がさして退部する者がグッと減った事であります。その意味では、当時のOB達からしますと、私は「改革派」と見られていたようです。OBが練習を見にきて、ソレを求めてきても、私達の代は拒絶した事が多かったと思います。
ただ、どこかの相撲部屋の親方ではありませんが、私自身は、ある一定程度の「可愛がり」は必要だと思っています。さもなければ、上手くは成っても、強くはなりませんから。
さて、3年生ともなると、かなり高校生活の要領も心得ておりまして、朝の電車も、遅刻という事態が生じないように、遅くとも池袋発午前7時45分の準急に乗って登校してくるようにとの学校側の生徒指導も軽んじて、自宅から歩いて最も近い駅である「大山駅」発午前8時ちょい前の各駅停車を使うようになっていました。なぜなら、これだと確実に座席に座る事ができて、かつゆったり出来るからです(お年寄りぃ~)。
同時に、構内での態度も1・2年生の頃よりは確実に大きくなってきまして、1・2学期の夏期などは、朝登校してきて自分の机の上に荷物を置いた後(この荷物も部活の着替えぐらいでして、教科書・ノート類はロッカーに常駐)、直に、制服である学生ズボンを脱ぎ(今、何でも母校は私服だとか)、体育の授業ではく短パンにはき替えるのを常としていました。ですから、授業は短パン姿で受けていたのです。なぜそうするのかと申しますと、少しでも、放課後の部活の為に余力を残しておこうという配慮の一点に尽きまして、特に暑い日などは、上に来ているボタンダウンのワイシャツも、襟をさらに外側に倒す・折り曲げる等して、少しでも涼しくして過ごすことだけを考えていました。
先程の担任の先生は、まさにその姿・格好を見て、本橋は小学生のままだな的発言をされたわけです。
過日、母校である高校の、附属小学校に視察行ってまいりました。 この小学校は、児童の安全確保をトコトン追求しており、その観点から、全国的にもかなり早くから、児童のランドセルにICタグを取り付けた実績があります。「RFIDで登下校時の完全把握」とのスローガンを掲げ、この小学校では、ランドセルに取り付けたICタグの電波を正門のアンテナで受信し、児童の登下校の時刻を完全把握しており、正門をただ通過するだけで、学内のコンピューターに、児童の登下校時刻が記録されます。携帯電話やコンピューターのメールアドレスを登録された保護者の皆さんには、児童の登下校時刻を知らせてくれたりもします。教職員と保護者の両者が協力して児童の登下校時刻を把握する事で、安全確保のレベルを高めてもいるわけです。また、ICタグには、シリアルナンバー以外の情報は登録されておらず、万が一紛失したとしても、個人情報漏洩の危険性は最低限に抑えられているのです。さらに、「学内の安全向上」とのスローガンから、有人監視として正門に警備員の常駐所を設け、児童の在校時間中警備にあたるのは勿論、学内の死角になる場所には防犯カメラを設置し、モニターを警備員が常に監視しています。同時に、下校時には、保護者の方々が交代で、路線別の通学路の見回りをも行っているのです。
豊島区立の小学校にも同じようなシステムの導入が必要です。それは「大阪大学附属池田小学校児童殺傷事件」を思い出して頂ければ明らかであり、しかも、ついこの間の「秋葉原無差別殺傷事件」に見られるように、誰が何時どこからどのような手段で攻撃してくるか予想も付かない時代になってしまっているからであります。
これらの事を視察して回っていながらも、未だかつて母校の高校の附属小の建物内は見学した事がありませんでした。ものはついでにと思い、授業風景を見させてもらうべくお許しをもらい、各教室を見て回りました。その時、私の目に飛び込んできた光景は、なんと全生徒が体操服で授業を受けているのです。どうやらこの小学校では、登校するや否や、体操服・体育着に着替え、それでもってすべての授業を受ける事に決まっているのです。
私は勿論、豊島区立の小学校出身者です。こんなことはありませんでした。つまり登校した時の服で授業を受けていたのです。そこで初めて担任の恩師の発言の真意が分かりました。つまり、恩師は私がこの付属小から上がってきた生徒であると勘違いされたことを。
私、この付属小には入り、かつ出られるほどの「おぼっちゃま」ではありませんけど・・・・・・。
2008年6月3日火曜日
ムコーバ
豊島区が放置自転車対策の一環として、海外に向けて再生自転車を譲与し始めてから今年で20年が経ちましたが、このことを住民の皆さんに説明しても、いま一つピンときてくれないところがあります。
それは、放置自転車と言いますと、それが道路隅にズラッと並んで放置されていれば、救命救急の時や災害の時の救援救助の邪魔になりますし、また、それが黄色い点字ブロックの上に跨っていれば、目の不自由な方々にとって通行の邪魔者でしかありません。その意味で、放置自転車の一言からくる、ネガティブな印象が根本原因かもしれません。
ところが、この国内において邪魔者の放置自転車も、一度お色直しをして国外に出してみるとかなりいい線をいっており、この大活躍ぶりを知っている方はそう多くはないようです。
そもそもムコーバ(MCCOBA)と言いますのは、日本語で言う「再生自転車海外譲与自治体連絡会」を、英文で表記した場合に並ぶ単語の頭文字だけを摘んだもので、その目的は、撤去された放置自転車の中で、引き取り手が無く且つまだまだ十分使えるものをメンテナンスし、再生自転車として「アジア」「アフリカ」「中南米」等の開発途上国に無償で譲与し、保健医療福祉関係に携わる人達の交通手段として利用してもらい、各国の福祉衛生の向上・発展に少しでも寄与して、日本の国際貢献・国際協力を高めるところにあります(次ページ資料図を参照)。
現在ムコーバに加盟している自治体は、全国約1800自治体ある中で13自治体と極々少なく、23区では豊島区を始め文京区・練馬区など…、また遠くの方では広島市などです。この13自治体の中で豊島区が全国に先駆けて放置自転車対策の中に「海外譲与」というオプションを設け、その実績を基に「ムコーバ」という組織を作り上げました。自治体別海外出荷台数を見ても、この20年間の総出荷台数53,175台の内、豊島区が第一位の10,656台で、第二位の川口市の7,046台、第三位の武蔵野市の4,724台を軽く押さえて、ダントツの五桁を記録しているのです。
ただし海外での評判は、何も豊島区から来た再生自転車が一番良いということはありません。それは決して残念なことではなく、むしろ「お色直し」がしっかりと、均等に出来ているからに他なりません。13自治体共通の「自転車再生整備基準」というのがありまして、海外に譲与するには、例えば、サドルが汚れていれば取り替える事とか、スタンドは必ず両立てスタンドにする事とか、後部荷台を必ず取り付ける事とかが事細かに決まっているのです。
こうして機能的に仕立て上げられた自転車が開発途上国で役に立たないわけがありません。各国には、看護師さんや助産婦さんが、素足で(?)且つ時間もかかって駆けつけていた方面が沢山あるでしょうし、また、急に容態の急変した人がいても、住民が戸板でもって人力で診療所等に運び込むことが多いでしょう。そこから、再生自転車は現地の人達から「動く宝石」「二輪救急車」「命を助ける足」、そして「神様の贈り物」とまで呼ばれ、最大級の賛辞を戴いてるとの事です。
これぞ豊島区が他の自治体に、ひいては世界に誇れる国際貢献といえるものですし、こうもヨイショされていると、是非ともこの目で現場を見てみたいものです。
それは、放置自転車と言いますと、それが道路隅にズラッと並んで放置されていれば、救命救急の時や災害の時の救援救助の邪魔になりますし、また、それが黄色い点字ブロックの上に跨っていれば、目の不自由な方々にとって通行の邪魔者でしかありません。その意味で、放置自転車の一言からくる、ネガティブな印象が根本原因かもしれません。
ところが、この国内において邪魔者の放置自転車も、一度お色直しをして国外に出してみるとかなりいい線をいっており、この大活躍ぶりを知っている方はそう多くはないようです。
そもそもムコーバ(MCCOBA)と言いますのは、日本語で言う「再生自転車海外譲与自治体連絡会」を、英文で表記した場合に並ぶ単語の頭文字だけを摘んだもので、その目的は、撤去された放置自転車の中で、引き取り手が無く且つまだまだ十分使えるものをメンテナンスし、再生自転車として「アジア」「アフリカ」「中南米」等の開発途上国に無償で譲与し、保健医療福祉関係に携わる人達の交通手段として利用してもらい、各国の福祉衛生の向上・発展に少しでも寄与して、日本の国際貢献・国際協力を高めるところにあります(次ページ資料図を参照)。
現在ムコーバに加盟している自治体は、全国約1800自治体ある中で13自治体と極々少なく、23区では豊島区を始め文京区・練馬区など…、また遠くの方では広島市などです。この13自治体の中で豊島区が全国に先駆けて放置自転車対策の中に「海外譲与」というオプションを設け、その実績を基に「ムコーバ」という組織を作り上げました。自治体別海外出荷台数を見ても、この20年間の総出荷台数53,175台の内、豊島区が第一位の10,656台で、第二位の川口市の7,046台、第三位の武蔵野市の4,724台を軽く押さえて、ダントツの五桁を記録しているのです。
ただし海外での評判は、何も豊島区から来た再生自転車が一番良いということはありません。それは決して残念なことではなく、むしろ「お色直し」がしっかりと、均等に出来ているからに他なりません。13自治体共通の「自転車再生整備基準」というのがありまして、海外に譲与するには、例えば、サドルが汚れていれば取り替える事とか、スタンドは必ず両立てスタンドにする事とか、後部荷台を必ず取り付ける事とかが事細かに決まっているのです。
こうして機能的に仕立て上げられた自転車が開発途上国で役に立たないわけがありません。各国には、看護師さんや助産婦さんが、素足で(?)且つ時間もかかって駆けつけていた方面が沢山あるでしょうし、また、急に容態の急変した人がいても、住民が戸板でもって人力で診療所等に運び込むことが多いでしょう。そこから、再生自転車は現地の人達から「動く宝石」「二輪救急車」「命を助ける足」、そして「神様の贈り物」とまで呼ばれ、最大級の賛辞を戴いてるとの事です。
これぞ豊島区が他の自治体に、ひいては世界に誇れる国際貢献といえるものですし、こうもヨイショされていると、是非ともこの目で現場を見てみたいものです。
お花見
4月5日、快晴の土曜日、私は生まれて始めてと言って良い、定型的な「お花見」というものに行ってまいりました。「生まれて始めて」と言いますと、「ちょっとそれ、大袈裟じゃない?」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそも基本的にアルコールやタバコ類を嗜まない私にとりまして、4月のまだ肌寒い時期に、しかも屋外で、桜を見ながら一杯やるといったことは、かなりと言いますか、ある意味思いっきり「想定外」の出来事なのであります。
実際、毎年4月の第1日曜日に、私の母校の豊島区立千川中学校校庭を使って、「4町青年会対抗ソフトボール大会」が開催され(私も高松三町目青年会のメンバーとして主に内野手で出場)、そのソフトボールの試合が終わった後、昼食をとりながら校庭にある桜を愛でることはありますが、最初から最後まで目的それ自体が桜の花を愛でながらの観光・飲食という事は、未だかつてしたことはないのであります。他方、私の家族はと言いますと、毎年4月、「千鳥が淵」に花見に行く様でして、帰ってきますと、「すごく綺麗だったよ。桜の木が見事に生い茂っていて、空が見えないくらい」との感動話を聞きます。察するに「桜ドーム」といわんばかりのその場所に私は行ったことがないのですが、もし私が見に行くとするなら、それは「靖国神社」の桜ではないか、と思っております。その靖国神社にも多くの桜がありますが、ここにある桜の内、3本のソメイヨシノ桜が、気象庁予報部の採用する「桜前線」の到来を伝える「標準木」でして、桜の開花宣言を行うための目安であることは既にご案内の通りかと存じます。
ただ、この3本のうちの1本のソメイヨシノ桜に格別思いをはせてしまうのであります。その桜の木の名は、「神雷桜」と言います。
~~~大東亜戦争末期、敗色が色濃く見え始めた戦局の中にあって、己の命と引き換えにした作戦が編み出される。「桜花」。人呼んで「人間爆弾」。「神風特攻隊」「回天特攻隊」と並び、ひとたび出撃すればもう帰還することはないという究極の作戦。「桜花」は、全長6メートル、幅5メートルの飛行機型の特攻機。約1,2トンの炸裂弾を前頭部に装着。その機体を一式陸攻爆撃機の下部に装着。敵艦を発見次第母親機から分離し、猛スピードで敵艦に体当たり攻撃をする。海軍の最高機密とされたこともあり、未だに全容は解明されておらず、なぞのベールに包まれている。
この「桜花」「一式陸攻爆撃機」「戦闘機」などで構成した部隊が、海軍きってのエリート集
団とも言われた「神雷攻撃隊」。この部隊に所属する人達の合言葉である「靖国で会おう」、その英霊達の集う場所が、靖国神社神門をくぐって右手にある3本のうちの1本、「神雷桜」。「靖国で会おう(あの神雷桜のもとで)」~~~
私自身、日本の桜について感じることは、その花びらの散り際の美しさであり、同時にその花びらの散り際の美しさと、自ら散華していった英霊の皆さん方の生き様との重なり合いです。その意味では、「お花見」自体一つの日本の文化として、これからも続いていって欲しいと考えております(私自身、宴会形式ではない散策形式のお花見は続けます)。
また、日本では4月が「新年度」といった形で一つの区切りとなっております。そこから3月・4月となりますと、ある生徒は卒業式を迎え、ある少年は入学式を迎える。
とある若者は入社式を迎え、またとある高齢者は退職を迎えるといったことが全国一斉に行われます。日本ではたまに、ある外国の例に見られるように、「9月入学」などを実施してみてはどうか、という議論が起きたりしますが、その都度曖昧に葬られてきましたし、それはむしろ自然な事と言うことができます。
「靖国で会おう」といって散華していった英霊達、特に「神雷桜」に集う英霊達のいない時期に、「入学式」や「入社式」そして「卒業式」などを移行させてどうするのですか。英霊達にその後の日本の「新陳代謝」を、きちんと報告できる季節がまさに4月であり、桜が開花した時期なのではないでしょうか。
4月5日のお花見場所は、千葉県幕張にあります「幕張さくら広場」で、ここには「ソメイヨシノ桜」が505本も植えられ、まさに桜一色の公園となっておりました。幕張新都心あります、松下電器社有地32,000平方メートルを、環境や地元の為に有効活用したいとの意図で、平成18年の4月に開園しました。設計者は、現代を代表する建築家の「安藤忠雄」氏で(同氏は元ポロボクサーとのこと…)、知名度とも相俟って、最近は日本で最も新しい桜の名所として話題のスポットとなっているとの事であります。
実際足を踏み入れてみますと確かに素晴らしく、505本の桜づくしによってあたり一面が淡いピンクの空間になり、そこに閉じ込められたようで気分も朗らかになっていくのを感じずにはいられませんでした。ただ惜しむらくは、505本の桜の木の殆どは、まだまだ若い樹木であることから、辺りはいわゆる植林したてのほやほやといった感じがつきまとい、天を仰げば青空が見えてしまうといった状態で、決して千鳥が淵の桜のように、天空を桜で覆うが如し、といったところがないところでしょうか。いずれにせよ5・6年先は楽しみなスポットではあります。
当日は、新進気鋭の「ソメイヨシノ桜の観光大使」の女性が花を添えてくれました。これは、豊島区観光協会が、豊島区を全国に発信するための起爆剤のひとつとして、豊島区発祥のソメイヨシノ桜をヒントに、過日行われた「ミス桜コンテスト」で優勝した女性を観光大使として任命したものです(任期は1年)。桜の観光大使の女性も、まだ任命されて日が浅いからか、しぐさの一つ一つに若干のぎこちなさがありましたが、それが返って評判を呼び、当日は記念撮影のラッシュが続いたようでした(さくら大使さんには、ソメイヨシノ桜を起点にして、豊島区を全国的に有名にして欲しいものです)。
さらに、当日のお花見に利用したバス11台のうち4台が、「天ぷら油の廃油で走る観光バス」でして、これはまだ日本には4台しかなく、いかにして燃料として使用する、使い終わった天ぷら油を回収するか、についてまだまだ課題があるものの、幾ら走っても大気汚染の原因となる硫黄酸化物はゼロで、しかも黒鉛は軽油の半分以下といったエコもの、じゃなくて、優れもの。
国内旅行は勿論のこと、各国世界への観光ツアーはこういったエコの観点から再度組み立てられていくことが大事と感じました。それがまた愛する祖国を守る為に散華していった英霊の皆さんの気持ちにも合い通じていくと思います。
今年も靖国の「神雷桜」は美しかったと聞いております。そこでは確実に凛とした英霊達の出会いが在ったことでしょう。合掌。
実際、毎年4月の第1日曜日に、私の母校の豊島区立千川中学校校庭を使って、「4町青年会対抗ソフトボール大会」が開催され(私も高松三町目青年会のメンバーとして主に内野手で出場)、そのソフトボールの試合が終わった後、昼食をとりながら校庭にある桜を愛でることはありますが、最初から最後まで目的それ自体が桜の花を愛でながらの観光・飲食という事は、未だかつてしたことはないのであります。他方、私の家族はと言いますと、毎年4月、「千鳥が淵」に花見に行く様でして、帰ってきますと、「すごく綺麗だったよ。桜の木が見事に生い茂っていて、空が見えないくらい」との感動話を聞きます。察するに「桜ドーム」といわんばかりのその場所に私は行ったことがないのですが、もし私が見に行くとするなら、それは「靖国神社」の桜ではないか、と思っております。その靖国神社にも多くの桜がありますが、ここにある桜の内、3本のソメイヨシノ桜が、気象庁予報部の採用する「桜前線」の到来を伝える「標準木」でして、桜の開花宣言を行うための目安であることは既にご案内の通りかと存じます。
ただ、この3本のうちの1本のソメイヨシノ桜に格別思いをはせてしまうのであります。その桜の木の名は、「神雷桜」と言います。
~~~大東亜戦争末期、敗色が色濃く見え始めた戦局の中にあって、己の命と引き換えにした作戦が編み出される。「桜花」。人呼んで「人間爆弾」。「神風特攻隊」「回天特攻隊」と並び、ひとたび出撃すればもう帰還することはないという究極の作戦。「桜花」は、全長6メートル、幅5メートルの飛行機型の特攻機。約1,2トンの炸裂弾を前頭部に装着。その機体を一式陸攻爆撃機の下部に装着。敵艦を発見次第母親機から分離し、猛スピードで敵艦に体当たり攻撃をする。海軍の最高機密とされたこともあり、未だに全容は解明されておらず、なぞのベールに包まれている。
この「桜花」「一式陸攻爆撃機」「戦闘機」などで構成した部隊が、海軍きってのエリート集
団とも言われた「神雷攻撃隊」。この部隊に所属する人達の合言葉である「靖国で会おう」、その英霊達の集う場所が、靖国神社神門をくぐって右手にある3本のうちの1本、「神雷桜」。「靖国で会おう(あの神雷桜のもとで)」~~~
私自身、日本の桜について感じることは、その花びらの散り際の美しさであり、同時にその花びらの散り際の美しさと、自ら散華していった英霊の皆さん方の生き様との重なり合いです。その意味では、「お花見」自体一つの日本の文化として、これからも続いていって欲しいと考えております(私自身、宴会形式ではない散策形式のお花見は続けます)。
また、日本では4月が「新年度」といった形で一つの区切りとなっております。そこから3月・4月となりますと、ある生徒は卒業式を迎え、ある少年は入学式を迎える。
とある若者は入社式を迎え、またとある高齢者は退職を迎えるといったことが全国一斉に行われます。日本ではたまに、ある外国の例に見られるように、「9月入学」などを実施してみてはどうか、という議論が起きたりしますが、その都度曖昧に葬られてきましたし、それはむしろ自然な事と言うことができます。
「靖国で会おう」といって散華していった英霊達、特に「神雷桜」に集う英霊達のいない時期に、「入学式」や「入社式」そして「卒業式」などを移行させてどうするのですか。英霊達にその後の日本の「新陳代謝」を、きちんと報告できる季節がまさに4月であり、桜が開花した時期なのではないでしょうか。
4月5日のお花見場所は、千葉県幕張にあります「幕張さくら広場」で、ここには「ソメイヨシノ桜」が505本も植えられ、まさに桜一色の公園となっておりました。幕張新都心あります、松下電器社有地32,000平方メートルを、環境や地元の為に有効活用したいとの意図で、平成18年の4月に開園しました。設計者は、現代を代表する建築家の「安藤忠雄」氏で(同氏は元ポロボクサーとのこと…)、知名度とも相俟って、最近は日本で最も新しい桜の名所として話題のスポットとなっているとの事であります。
実際足を踏み入れてみますと確かに素晴らしく、505本の桜づくしによってあたり一面が淡いピンクの空間になり、そこに閉じ込められたようで気分も朗らかになっていくのを感じずにはいられませんでした。ただ惜しむらくは、505本の桜の木の殆どは、まだまだ若い樹木であることから、辺りはいわゆる植林したてのほやほやといった感じがつきまとい、天を仰げば青空が見えてしまうといった状態で、決して千鳥が淵の桜のように、天空を桜で覆うが如し、といったところがないところでしょうか。いずれにせよ5・6年先は楽しみなスポットではあります。
当日は、新進気鋭の「ソメイヨシノ桜の観光大使」の女性が花を添えてくれました。これは、豊島区観光協会が、豊島区を全国に発信するための起爆剤のひとつとして、豊島区発祥のソメイヨシノ桜をヒントに、過日行われた「ミス桜コンテスト」で優勝した女性を観光大使として任命したものです(任期は1年)。桜の観光大使の女性も、まだ任命されて日が浅いからか、しぐさの一つ一つに若干のぎこちなさがありましたが、それが返って評判を呼び、当日は記念撮影のラッシュが続いたようでした(さくら大使さんには、ソメイヨシノ桜を起点にして、豊島区を全国的に有名にして欲しいものです)。
さらに、当日のお花見に利用したバス11台のうち4台が、「天ぷら油の廃油で走る観光バス」でして、これはまだ日本には4台しかなく、いかにして燃料として使用する、使い終わった天ぷら油を回収するか、についてまだまだ課題があるものの、幾ら走っても大気汚染の原因となる硫黄酸化物はゼロで、しかも黒鉛は軽油の半分以下といったエコもの、じゃなくて、優れもの。
国内旅行は勿論のこと、各国世界への観光ツアーはこういったエコの観点から再度組み立てられていくことが大事と感じました。それがまた愛する祖国を守る為に散華していった英霊の皆さんの気持ちにも合い通じていくと思います。
今年も靖国の「神雷桜」は美しかったと聞いております。そこでは確実に凛とした英霊達の出会いが在ったことでしょう。合掌。
冷凍肉まん君まで!!
中国河北省の天洋食品の「冷凍餃子」君から農薬が検出されてから、安全で安心できる「食」の確保が注目を集めているわけですが、そこに今度は「毒入り肉まん」が登場するという、大変残念で痛ましい事態となってしまいました(中華まん好きの私としてはちっとも大袈裟ではありません)。
一連の中毒事件が、単なる天洋食品という一工場の、これまた「毒入り餃子」という一種類の食べ物の問題に止まらず、そもそも何故こうも中国社会において悪質食品・有毒食品が出てしまうのかという意味において、事件は更なる広がりと長期化の様相を帯びてまいりました。
メタミドホスが入っていたこの肉まんは、実は平成18年8月2日に製造されており、1年半後の今年の2月2日が賞味期限に設定されておりました。今年の1月31日と2月1日(いずれも賞味期限内)に肉焼まん計12個を食べた広島県内の73歳の男性が、めまいを感じて2月1日に医療機関を受診した結果、軽症ということで済んだところから事件が発覚したとのことです。実際、事件のおきた広島県では、念のためということで調査したところ、食べ残しの肉まんから0・64ppm、未開封の同肉まんから0・55ppmのメタミドホスが検出されたとのことであります。
~~広島県は、この冷凍肉まんは大阪市の輸入業者ニッキートレーディングが輸入販売したものであることから、この結果を大阪市に通報。大阪市は、早速、同日(平成18年8月2日)製造の冷凍肉まんの在庫品や自主回収分を対象に検査を実施。 この結果、皮や具などから 0・22~0・64ppmのメタミドホスが検出。なお、袋からの検出はないとのこと。
これらの結果から、大阪市と広島県は、2月19日にそれぞれ記者会見を実施。『大阪市の食品輸入会社「ニッキートレーディング」が、中国・山東省の「山東仁木食品」から輸入し、広島県内などで販売した平成18年8月2日製造の冷凍「青島ニラ肉焼まん」から、0・22~0・64ppmの有機リン系殺虫剤「メタミドホス」を検出した』と発表。
なお、「山東仁木食品」は「ニッキートレーディング」のグループ会社である平成18年8月2日製造分の商品は同年8月21日に2500袋(1袋20個入り)が輸入され、大阪府など6府県の10業者に販売された。ニッキー社は今年2月17日までに74袋を自主回収したが、残りは消費されたとみられる(なんてこったー!!)~~
私の幼少の頃は、中華まんといえば肉まんとあんまんの2種類だけでして(確か?)、今のように様々な種類の中華まんがあって、その中からお好みで選ぶことが出来るといったことは考えられませんでした。しかも当時は、いわゆる駄菓子屋さんが根強い人気スポットとして君臨しておりまして(高松3丁目には駄菓子屋さんが2軒もありました)、中華まんでも買って食べようぜ!!と言ってのける子供は、当時としてはリッチな家庭・子供の部類に入っていたと思われます(私なんかよく友人と2人で一つを買って半分づつ、というパターンでしたっけ)。
その中華まんですが、これはそもそも小麦粉、水、塩、酵母などをこねて発酵させたふわっとした皮で、具を包んで蒸し上げた「饅頭」でして、中国で「包子」(パオズ bāozi)と呼ぶものに相当するとのことです。豚肉などを入れた肉まん(地方によっては「豚まん」と呼ばれることがある)や小豆餡のあんまんが代表格であるわけですが、最近のピザまん、カレーまん、海鮮中華まん、餃子まんなど、多様な変り種の中華まんも根強いファンをゲットしており、私もたまに食べてみますが、さらに美味しくなったな、今の子供たちは恵まれているな、と感じます。 また、まだ食べていませんが、「○○ロール」と呼ばれる細長い形状の種類もあるみたいです(?)。
その饅頭ですが、中国の明の時代に完成しました、いわゆる「三国志」(学生時代によく読みましたっけ…)の後半の部分に、実はこの「饅頭」の話が出てまいります。そして、この饅頭が、中華まんの原型であるとされております。
~~三国志に出てくる、蜀の国の元首:劉備玄徳の軍師:諸葛亮孔明は、国家3分の計(劉備玄徳の蜀・孫権の呉そして曹操の魏)を一応実現した後、周辺諸国の平定に乗り出す。やがて南蛮に到着すると、その地で「川の氾濫を治めるためには野蛮人の頭を川に投げる必要がある」との言い伝えを聞く。孔明はこの言い伝えに納得がいかず、人の頭を模した饅頭を作り、それを川に投げ込ませる。すると不思議な事に氾濫は治まってしまう。以来川の氾濫を防ぐため饅頭が投げられた。もちろん人の首を入れれば川の氾濫は静まるというのは迷信。孔明は、川の氾濫がいつの季節・時期に起きて、いつ静まるかを知っていたと思われる。同時に孔明は、蛮族を服従させるには武力より、そのような手段を用いた方が得策考えた~~
歴史的には(三国志演義はフィクションが多いですが…)多くの血を流さないですむようにといって発案された饅頭、そしてその後の中華まんが、今日では逆に人命を脅かす食べ物として認識され、警戒されてしまったことに、とても憤りを感じますし、加えて悲しいことは、今回の一連の冷凍餃子中毒事件に関して、中国語のインターネットサイトの掲示板で、「日本人の体質は毒に弱すぎ」とか、「日本人の生活環境は甘すぎ、ちょっとした事でも大袈裟に言う」とかの発言が出ていることです。
これからもまだまだこういった事件は続くでしょうが、その根本原因はどこにあるのかを私なりに探りますと、中国社会における①言論・報道・表現の自由と②司法の確立・自律・独立の2点が重要でしょう。現在の中国社会では殆ど報道の自由といったものがないため、報道機関として「正しい情報を伝える」「不正に対する監督機能を果たす」という使命が達成されていないですし、むしろすべての報道が党宣伝部にコントロールされてしまっております。そこから例えば、国内でのいくつかの雑誌や新聞社の編集長は頻繁に更迭されているとの事です。
また、司法の独立も依然未発達で、裁判・検察・警察の3作用は党中央ないし地方の政法委員会に属しています。そこから例えば、党幹部と太いパイプを持てば、法律で罰せられる対象外となり得、そこから社会の公正さは失われていき、悪質食品事件が揉み消されているといわれております。これらの二点が克服されませんと、依然として中国製品・中国食品の安全・安心性は世界から認められないのではないでしょうか。
今回もまた私は叫びます。冷凍肉まん君、ガンバレ。君も決して悪くない。君の汚名を晴らす為に、僕は君を食べ続けながら、いつでもポワロやコロンボになる覚悟だ。
一連の中毒事件が、単なる天洋食品という一工場の、これまた「毒入り餃子」という一種類の食べ物の問題に止まらず、そもそも何故こうも中国社会において悪質食品・有毒食品が出てしまうのかという意味において、事件は更なる広がりと長期化の様相を帯びてまいりました。
メタミドホスが入っていたこの肉まんは、実は平成18年8月2日に製造されており、1年半後の今年の2月2日が賞味期限に設定されておりました。今年の1月31日と2月1日(いずれも賞味期限内)に肉焼まん計12個を食べた広島県内の73歳の男性が、めまいを感じて2月1日に医療機関を受診した結果、軽症ということで済んだところから事件が発覚したとのことです。実際、事件のおきた広島県では、念のためということで調査したところ、食べ残しの肉まんから0・64ppm、未開封の同肉まんから0・55ppmのメタミドホスが検出されたとのことであります。
~~広島県は、この冷凍肉まんは大阪市の輸入業者ニッキートレーディングが輸入販売したものであることから、この結果を大阪市に通報。大阪市は、早速、同日(平成18年8月2日)製造の冷凍肉まんの在庫品や自主回収分を対象に検査を実施。 この結果、皮や具などから 0・22~0・64ppmのメタミドホスが検出。なお、袋からの検出はないとのこと。
これらの結果から、大阪市と広島県は、2月19日にそれぞれ記者会見を実施。『大阪市の食品輸入会社「ニッキートレーディング」が、中国・山東省の「山東仁木食品」から輸入し、広島県内などで販売した平成18年8月2日製造の冷凍「青島ニラ肉焼まん」から、0・22~0・64ppmの有機リン系殺虫剤「メタミドホス」を検出した』と発表。
なお、「山東仁木食品」は「ニッキートレーディング」のグループ会社である平成18年8月2日製造分の商品は同年8月21日に2500袋(1袋20個入り)が輸入され、大阪府など6府県の10業者に販売された。ニッキー社は今年2月17日までに74袋を自主回収したが、残りは消費されたとみられる(なんてこったー!!)~~
私の幼少の頃は、中華まんといえば肉まんとあんまんの2種類だけでして(確か?)、今のように様々な種類の中華まんがあって、その中からお好みで選ぶことが出来るといったことは考えられませんでした。しかも当時は、いわゆる駄菓子屋さんが根強い人気スポットとして君臨しておりまして(高松3丁目には駄菓子屋さんが2軒もありました)、中華まんでも買って食べようぜ!!と言ってのける子供は、当時としてはリッチな家庭・子供の部類に入っていたと思われます(私なんかよく友人と2人で一つを買って半分づつ、というパターンでしたっけ)。
その中華まんですが、これはそもそも小麦粉、水、塩、酵母などをこねて発酵させたふわっとした皮で、具を包んで蒸し上げた「饅頭」でして、中国で「包子」(パオズ bāozi)と呼ぶものに相当するとのことです。豚肉などを入れた肉まん(地方によっては「豚まん」と呼ばれることがある)や小豆餡のあんまんが代表格であるわけですが、最近のピザまん、カレーまん、海鮮中華まん、餃子まんなど、多様な変り種の中華まんも根強いファンをゲットしており、私もたまに食べてみますが、さらに美味しくなったな、今の子供たちは恵まれているな、と感じます。 また、まだ食べていませんが、「○○ロール」と呼ばれる細長い形状の種類もあるみたいです(?)。
その饅頭ですが、中国の明の時代に完成しました、いわゆる「三国志」(学生時代によく読みましたっけ…)の後半の部分に、実はこの「饅頭」の話が出てまいります。そして、この饅頭が、中華まんの原型であるとされております。
~~三国志に出てくる、蜀の国の元首:劉備玄徳の軍師:諸葛亮孔明は、国家3分の計(劉備玄徳の蜀・孫権の呉そして曹操の魏)を一応実現した後、周辺諸国の平定に乗り出す。やがて南蛮に到着すると、その地で「川の氾濫を治めるためには野蛮人の頭を川に投げる必要がある」との言い伝えを聞く。孔明はこの言い伝えに納得がいかず、人の頭を模した饅頭を作り、それを川に投げ込ませる。すると不思議な事に氾濫は治まってしまう。以来川の氾濫を防ぐため饅頭が投げられた。もちろん人の首を入れれば川の氾濫は静まるというのは迷信。孔明は、川の氾濫がいつの季節・時期に起きて、いつ静まるかを知っていたと思われる。同時に孔明は、蛮族を服従させるには武力より、そのような手段を用いた方が得策考えた~~
歴史的には(三国志演義はフィクションが多いですが…)多くの血を流さないですむようにといって発案された饅頭、そしてその後の中華まんが、今日では逆に人命を脅かす食べ物として認識され、警戒されてしまったことに、とても憤りを感じますし、加えて悲しいことは、今回の一連の冷凍餃子中毒事件に関して、中国語のインターネットサイトの掲示板で、「日本人の体質は毒に弱すぎ」とか、「日本人の生活環境は甘すぎ、ちょっとした事でも大袈裟に言う」とかの発言が出ていることです。
これからもまだまだこういった事件は続くでしょうが、その根本原因はどこにあるのかを私なりに探りますと、中国社会における①言論・報道・表現の自由と②司法の確立・自律・独立の2点が重要でしょう。現在の中国社会では殆ど報道の自由といったものがないため、報道機関として「正しい情報を伝える」「不正に対する監督機能を果たす」という使命が達成されていないですし、むしろすべての報道が党宣伝部にコントロールされてしまっております。そこから例えば、国内でのいくつかの雑誌や新聞社の編集長は頻繁に更迭されているとの事です。
また、司法の独立も依然未発達で、裁判・検察・警察の3作用は党中央ないし地方の政法委員会に属しています。そこから例えば、党幹部と太いパイプを持てば、法律で罰せられる対象外となり得、そこから社会の公正さは失われていき、悪質食品事件が揉み消されているといわれております。これらの二点が克服されませんと、依然として中国製品・中国食品の安全・安心性は世界から認められないのではないでしょうか。
今回もまた私は叫びます。冷凍肉まん君、ガンバレ。君も決して悪くない。君の汚名を晴らす為に、僕は君を食べ続けながら、いつでもポワロやコロンボになる覚悟だ。
2008年2月28日木曜日
冷凍餃子君
毎日行動する上で欠かせない手帳から、いよいよ【新年会】【新春の集い】といった催し物が少なくなってまいりました。例年ですと、酒もタバコも一切と言って良いほど嗜まないのにもかかわらず、お付き合いと称して杯を重ね、帰り際には良い心もちになっていた私ですが、今年は出席する会の多さから車での移動がやたらと多く(勿論、私が運転手兼ナビゲーターです。最近うちに来る塾生はオートマ限定が多過ぎるゾ!!マニュアルをとらんかいー)、当然のことながらお酒は控えましたので、体調面・記憶面(若年痴呆?)でも、かなりしっかりとした新年会シーズンを過ごすことができました。また今年は有難くも、いろいろな団体様からお声掛けをいただき、可能な限り出席させていただいただけではなく、挨拶までさせていただけた団体さんが例年よりも多くありました。ありがとうございます。
「………さて、毎年恒例の「今年の漢字」に、「偽」が選ばれてしまい、その後の二位以下にも、「食」「嘘」「疑」が続いてしまった事にも象徴されますように、この五年間というものは、まさに日本人の食べ物に対する「安全・安心」が厳しく問われ、国民の皆様から強い叱責を受ける時代でありました。その潮流の中にあって、当協会の食品関係営業者の皆様におかれましては、「消費者の信用を勝ち取る為に!!」、また「ご自分で自身のお店を守る為に!!」、更には「自主的衛生管理を実践するお店創りをする為に!!」を合言葉に、毎日弛むことなく鋭意努力・活動されて来た事と存じます。特に、会員施設の食品衛生の向上と、自主的衛生管理の確立のために、昼夜を違わず、会員施設を巡回して衛生管理の指導・普及に取り組んでおられる「食品衛生自治指導員」の皆様方に対しましては、そのご尽力振りにただただ頭の下がる想いで一杯であります。引き続きましてのご活動に期待いたしますと共に、力強い支援システムの構築が急務と考えております。………私自身、当協会は勿論の事、ひいては食品業界全体に対しまして貢献できるよう、豊島区の保健福祉部や池袋保健所等と緊密な連携を図り、当協会会員の皆様に対しまして、食品衛生等の情報を幅広く提供してまいる覚悟であります。………」
【食】の安全と言いますと、昨今は、【毒入り餃子】【殺人餃子】の話題が世上をかなり賑わしておりますが、この餃子の歴史は大変古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすでに食べられていた痕跡が見つかっているとのことですし、敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されたとのことです。その餃子発祥の地は中国、しかも華北の料理とされ、中国東北部で特によく食べられていたものが、戦後満州を経由して我が国に流入してきたとのことですが、物語っぽくなってしまうものの、日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされており、亡命していた朱舜水(誰ですかね?)から教わった、と伝えられております。
日本では米飯のおかずとして食されることが多いですが、これは日本独自であり、他の国では一般的ではないようです。と言いますのも、中国の華北で食べられる餃子は主食を兼ねたものが多く、皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方の水餃子が主流で、焼き餃子はあまり食べられない。焼き餃子は残り物の餃子を焼いて食べるものであって、あまり上品な食べ物とは思われていない、と言った経緯があるからです。
もっとも経緯とか歴史を調べて見ますと、餃子はその中国語での発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子の形に似ていることにから、縁起の良い食べ物としても珍重されており、また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願い食されます。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子を食したといわれています。
日本の自治体の中には、栃木県宇都宮市のように、この餃子を使って町興しをしているところがあります。その宇都宮市の餃子の始まりは、かつての陸軍、しかも宇都宮出身の将兵が、満州からの帰国の際に本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれており、現在市内には餃子専門店と餃子を扱う料理店が合わせて約200軒もあり、一般的な販売価格は1人前150~200円程度と低廉で学生がおやつ代わりに食べることが出来る価格帯となっているとのこと、加えて、タレは酢だけで食する、宇都宮スタイルといわれるものがあるそうです。
~~平成2年ごろ、町興しにつながるキーワードを探していた市の職員が、総務省の「家計調査年報」において「餃子購入額」で同市は常に上位に挙がっていることに注目。餃子による町興しを提案したのがきっかけで、以来観光PRに力を入れる。平成3年には業者団体として「宇都宮餃子会」が発足。行政と民間で協力して様々な企画を仕掛けたことが功を奏し、かつて国際観光都市「日光・鬼怒川」への通過点だった宇都宮が、餃子という大きな観光資源を得ることに大成功。任意団体として発足した宇都宮餃子会は、平成13年に協同組合となり、登録商標「宇都宮餃子」の管理や組合直営店「来らっせ」3店舗(宇都宮2店、東京1店)の運営管理なども実施。現在の組合加盟店舗数は70軒を超える。JR宇都宮駅東口広場には、地元産出「大谷石」の業者によって無償で制作されたオブジェ『餃子像』が設置。ヴィーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現したユニークなもので、観光客の人気撮影スポットとなる。同時に、宇都宮駅が駅弁発祥の地(これは初めて知りました)であることから「宇都宮餃子駅弁」も企画・販売。宇都宮駅構内の立ち喰いそば屋には餃子そばというメニューがあった。秋には宇都宮餃子会を中心とする市民手作りのイベント「宇都宮餃子祭り」が定例化。協賛餃子店が市街で屋台を開き、1人前1皿100円の餃子が振る舞われる。「宇都宮餃子祭り」は毎年10月下旬~11月初旬の土日に実施。~~
餃子一つでこれだけのインパクトを町に、そして全国に醸し出せるとは意外ですし、それはまた餃子というものを日本人の誰もが好物としているからでもありましょう。その食べた後の口臭が気になるという女子学生はいても、私の周囲にいる方でも餃子が嫌いな人はおりません。
このように戦後中国から入り、日本に広まった餃子は数十年の時を経て、日本の食文化の1つとして日本流の餃子になっていると言えるでしょう。中国と日本の文化の架け橋であり、日本人が愛してきた餃子に毒が入っていたなんて、残念で仕方がありません。冷凍餃子君、君は悪くない。君の汚名を晴らす為には私はいつでも明智小五郎や金田一耕介になる覚悟だ。
「………さて、毎年恒例の「今年の漢字」に、「偽」が選ばれてしまい、その後の二位以下にも、「食」「嘘」「疑」が続いてしまった事にも象徴されますように、この五年間というものは、まさに日本人の食べ物に対する「安全・安心」が厳しく問われ、国民の皆様から強い叱責を受ける時代でありました。その潮流の中にあって、当協会の食品関係営業者の皆様におかれましては、「消費者の信用を勝ち取る為に!!」、また「ご自分で自身のお店を守る為に!!」、更には「自主的衛生管理を実践するお店創りをする為に!!」を合言葉に、毎日弛むことなく鋭意努力・活動されて来た事と存じます。特に、会員施設の食品衛生の向上と、自主的衛生管理の確立のために、昼夜を違わず、会員施設を巡回して衛生管理の指導・普及に取り組んでおられる「食品衛生自治指導員」の皆様方に対しましては、そのご尽力振りにただただ頭の下がる想いで一杯であります。引き続きましてのご活動に期待いたしますと共に、力強い支援システムの構築が急務と考えております。………私自身、当協会は勿論の事、ひいては食品業界全体に対しまして貢献できるよう、豊島区の保健福祉部や池袋保健所等と緊密な連携を図り、当協会会員の皆様に対しまして、食品衛生等の情報を幅広く提供してまいる覚悟であります。………」
【食】の安全と言いますと、昨今は、【毒入り餃子】【殺人餃子】の話題が世上をかなり賑わしておりますが、この餃子の歴史は大変古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすでに食べられていた痕跡が見つかっているとのことですし、敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されたとのことです。その餃子発祥の地は中国、しかも華北の料理とされ、中国東北部で特によく食べられていたものが、戦後満州を経由して我が国に流入してきたとのことですが、物語っぽくなってしまうものの、日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされており、亡命していた朱舜水(誰ですかね?)から教わった、と伝えられております。
日本では米飯のおかずとして食されることが多いですが、これは日本独自であり、他の国では一般的ではないようです。と言いますのも、中国の華北で食べられる餃子は主食を兼ねたものが多く、皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方の水餃子が主流で、焼き餃子はあまり食べられない。焼き餃子は残り物の餃子を焼いて食べるものであって、あまり上品な食べ物とは思われていない、と言った経緯があるからです。
もっとも経緯とか歴史を調べて見ますと、餃子はその中国語での発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子の形に似ていることにから、縁起の良い食べ物としても珍重されており、また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願い食されます。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子を食したといわれています。
日本の自治体の中には、栃木県宇都宮市のように、この餃子を使って町興しをしているところがあります。その宇都宮市の餃子の始まりは、かつての陸軍、しかも宇都宮出身の将兵が、満州からの帰国の際に本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれており、現在市内には餃子専門店と餃子を扱う料理店が合わせて約200軒もあり、一般的な販売価格は1人前150~200円程度と低廉で学生がおやつ代わりに食べることが出来る価格帯となっているとのこと、加えて、タレは酢だけで食する、宇都宮スタイルといわれるものがあるそうです。
~~平成2年ごろ、町興しにつながるキーワードを探していた市の職員が、総務省の「家計調査年報」において「餃子購入額」で同市は常に上位に挙がっていることに注目。餃子による町興しを提案したのがきっかけで、以来観光PRに力を入れる。平成3年には業者団体として「宇都宮餃子会」が発足。行政と民間で協力して様々な企画を仕掛けたことが功を奏し、かつて国際観光都市「日光・鬼怒川」への通過点だった宇都宮が、餃子という大きな観光資源を得ることに大成功。任意団体として発足した宇都宮餃子会は、平成13年に協同組合となり、登録商標「宇都宮餃子」の管理や組合直営店「来らっせ」3店舗(宇都宮2店、東京1店)の運営管理なども実施。現在の組合加盟店舗数は70軒を超える。JR宇都宮駅東口広場には、地元産出「大谷石」の業者によって無償で制作されたオブジェ『餃子像』が設置。ヴィーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現したユニークなもので、観光客の人気撮影スポットとなる。同時に、宇都宮駅が駅弁発祥の地(これは初めて知りました)であることから「宇都宮餃子駅弁」も企画・販売。宇都宮駅構内の立ち喰いそば屋には餃子そばというメニューがあった。秋には宇都宮餃子会を中心とする市民手作りのイベント「宇都宮餃子祭り」が定例化。協賛餃子店が市街で屋台を開き、1人前1皿100円の餃子が振る舞われる。「宇都宮餃子祭り」は毎年10月下旬~11月初旬の土日に実施。~~
餃子一つでこれだけのインパクトを町に、そして全国に醸し出せるとは意外ですし、それはまた餃子というものを日本人の誰もが好物としているからでもありましょう。その食べた後の口臭が気になるという女子学生はいても、私の周囲にいる方でも餃子が嫌いな人はおりません。
このように戦後中国から入り、日本に広まった餃子は数十年の時を経て、日本の食文化の1つとして日本流の餃子になっていると言えるでしょう。中国と日本の文化の架け橋であり、日本人が愛してきた餃子に毒が入っていたなんて、残念で仕方がありません。冷凍餃子君、君は悪くない。君の汚名を晴らす為には私はいつでも明智小五郎や金田一耕介になる覚悟だ。
2008年2月7日木曜日
舞良戸(まひらど)
新しい年を迎え、気持ちも新たにして原稿を書いておりますと、「時折穴もあけるけど、よくもまあ続いているなぁ」と、自分で感心するときがありますし、書きたまったものを纏めて出版したら、という言葉をかけてくれる方もいます。誠に嬉しいことではありますが、いやいや、私なんぞの原稿を纏めて出版したところで読めた代物ではありません。しかも、もし三島由紀夫が生きていて、その本を読んだとしたら、私はどうされちゃうでしょうか?想像しただけでもゾッとします(私が介錯されちゃう!!)。といいますのも、彼の遺作評論であり、文学的遺書とも言える(私が勝手に思ってる?)「小説とは何か」(新潮社)の五を読む限り、とてもとても、私なんぞ本とか出版とか、口にすることすら出来ないと思うのであります。
三島はその中で、小説と戯曲とを比較しながら、「小説の特徴は…生・自然・人間(動物である場合もある)のすべての表現が、言語を通じてなされており、かつ、言語を持って完結している、…」と述べ、「言語表現による最終完結性」こそが、芸術としての小説のもっとも本質的な要素であるといった発言をしております。そこから、三島は「小説は、実に自由でわがままなジャンルと考えられているだけに、この点の認識をなおざりにして書かれたものが実に多く、古い日本語の教養が崩れてゆくに従って、この認識自体が小説家の内部で日に日に衰えつつあるように思われる」と当時の小説作品群の出来映えの傾向を嘆きつつ、ひとつの家の造りのある部分を取り上げて、以下のように自説を展開しているのであります。
「たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。一例をあげよう。『舞良戸(まひらど)』という名の戸がある。横に多数のこまかい棧のある板戸のことである。こんな戸は今では古い邸や寺などに見られるだけで、近代和風建築にはめったに見られず、ましてマンションやアパートの生活ではお目にかかれない代物である。しかし小説はマンション生活ばかり扱うべきだという規則があるわけではなく、小説家自身の過去の喚起が、小さな事物をも重要な心象たらしめるから、現代小説にだって、舞良戸が登場することは免かれない。そういうとき小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその『名』をしらねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はおわり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。……(略)……伝統によって一定期間存続され且つそれに代わる名稱ないようなものについては、作家はその『名』を指示すれば、満足すべきなのであって、それが言語表現の最終的完結性というものを保障する一つの文化的確信であるべきである。極端なことをいえば、日本歴史を信ぜずして日本語を使うことなどできよう筈がない。私は明らかに、舞良戸は、ただ『舞良戸』と書くことを以って満足する小説家である。……(略)……しかしこのごろ新人の、いや新人のみならず中堅に及ぶ作家の中にも、『舞良戸』が出てきたと仮定した場合、次のような表現をとる事例に、私はしばしばぶつかるのである。
①「横棧のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」
②「横棧戸」
③「まひらど、というのか、横棧の沢山ついた戸」
このうち私が検事であれば、③にもっとも重い罪を課する筈であるが、それは追って説明するとして、①のように書く作家は、物を正確に見ており、過去の喚起力を持っているけれども、それだけを作家の素質と考えている怠け者であり、言語表現の最終完結性について、すなわち小説の本質について、ぞろっぺえな考えを持っているのである。彼は字引を引くこと自体を衒学的な行為と錯覚しているにちがいない。②の作家は平気で造語をする。『横棧戸』などという、サンドウィッチの一種のような言葉は日本語にはない。彼は言葉の伝統性について敬謙さを欠いた考えの持主であり、あるいは忙しすぎて、表現の厳密性に注意を払わない作家である。
一事が万事、こういう作家に限って、決してユニークな感覚的表現はできず、他の個所では、きっと『彼女は悲しくなるほど美しい微笑をうかべて』など、使い古されたルーティーンな表現を平気で多用している筈である。彼はただ忙しいのである。③の作家にいたっては論外である。なぜ論外かというと、こういう表現をするには、いくつかの心理的蓋然性が考えられる。一つは、彼の頭に『舞良戸』という名が浮かぶには浮かんだが、字引なり何なりで確かめる労を省いて、その労を省いたという心理的経過をそのまま売り物にして、『というのか』と、責任を他に転嫁しているのである。もう一つは、実は彼が『舞良戸』という名をちゃんと知っていながら、作者自身あるいは登場人物の呑気な正確表現として、『というのか』を入れたほうが、表現が柔らかく親しみ易いものになると考えているのである。三つ目は、すべてが無意識な場合である。彼は表現の凝縮性も正確性も考えず、ただ、あいまいな心理状態を外界に投影して、外界自体をあいまいな『というのか』で満たしており、しかもすべてを無意識にやっているのである。
私のすべての中で、この③の第三番目の場合をもっとも悪質だと思う。③の第一番目は文士気質を売り物にしているから悪く、第二番目はわざとらしい無智の衒いを、作中人物の呑気さの性格表現に利用しようと考えている点で、キザな心掛けが悪く、第三番目は、言語表現の自律性についての無反省において、作家としての根本的な過誤を犯しているからである。
私はこれらの例をすべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさという罪名に於いて弾劾する。何を些細なことを、と言われるかもしれないが、一方、もし劇作家がト書の中で、『下手に舞良戸』と指定すれば、職人はすぐに意を承けて舞良戸を制作するに決まっており、單なる技術的指定として使われた言語が、舞台ではちゃんとした物象として存在するにいたるのである。そして小説とは、そのような、ちゃんとした物象、役者がよりかかったぐらいではグラつかない本物の物象を、言語で、ただ言葉のみで創造していく芸術なのである」
~ は初めて「まひらど」というのを知ったわけですが、もし自分がこれを読者に伝えるとしたらどのような言語表現を用いていたでしょうか?おそらく三島検事の最も嫌う③のように記述していたかなと思います。決して私はここで小説を書いているのではありませんが、この三島の言説に触れる度に、日本語・その概念・その文章は美しいけれども難しいと、つくづく感じますと共に、私が本を出すなんて……トンデモナイー、と叫ぶのであります。
今年もまた拙いエッセイ(間違っても小説はかけません)にどうぞお付き合い下さいませ。
2008年1月
三島はその中で、小説と戯曲とを比較しながら、「小説の特徴は…生・自然・人間(動物である場合もある)のすべての表現が、言語を通じてなされており、かつ、言語を持って完結している、…」と述べ、「言語表現による最終完結性」こそが、芸術としての小説のもっとも本質的な要素であるといった発言をしております。そこから、三島は「小説は、実に自由でわがままなジャンルと考えられているだけに、この点の認識をなおざりにして書かれたものが実に多く、古い日本語の教養が崩れてゆくに従って、この認識自体が小説家の内部で日に日に衰えつつあるように思われる」と当時の小説作品群の出来映えの傾向を嘆きつつ、ひとつの家の造りのある部分を取り上げて、以下のように自説を展開しているのであります。
「たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。一例をあげよう。『舞良戸(まひらど)』という名の戸がある。横に多数のこまかい棧のある板戸のことである。こんな戸は今では古い邸や寺などに見られるだけで、近代和風建築にはめったに見られず、ましてマンションやアパートの生活ではお目にかかれない代物である。しかし小説はマンション生活ばかり扱うべきだという規則があるわけではなく、小説家自身の過去の喚起が、小さな事物をも重要な心象たらしめるから、現代小説にだって、舞良戸が登場することは免かれない。そういうとき小説家は、言語表現の最終完結性を信ずる以上、第一にその『名』をしらねばならない。名の指示が正確になされれば、小説家の責任はおわり、言語表現の最終完結性は保障されるからである。……(略)……伝統によって一定期間存続され且つそれに代わる名稱ないようなものについては、作家はその『名』を指示すれば、満足すべきなのであって、それが言語表現の最終的完結性というものを保障する一つの文化的確信であるべきである。極端なことをいえば、日本歴史を信ぜずして日本語を使うことなどできよう筈がない。私は明らかに、舞良戸は、ただ『舞良戸』と書くことを以って満足する小説家である。……(略)……しかしこのごろ新人の、いや新人のみならず中堅に及ぶ作家の中にも、『舞良戸』が出てきたと仮定した場合、次のような表現をとる事例に、私はしばしばぶつかるのである。
①「横棧のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」
②「横棧戸」
③「まひらど、というのか、横棧の沢山ついた戸」
このうち私が検事であれば、③にもっとも重い罪を課する筈であるが、それは追って説明するとして、①のように書く作家は、物を正確に見ており、過去の喚起力を持っているけれども、それだけを作家の素質と考えている怠け者であり、言語表現の最終完結性について、すなわち小説の本質について、ぞろっぺえな考えを持っているのである。彼は字引を引くこと自体を衒学的な行為と錯覚しているにちがいない。②の作家は平気で造語をする。『横棧戸』などという、サンドウィッチの一種のような言葉は日本語にはない。彼は言葉の伝統性について敬謙さを欠いた考えの持主であり、あるいは忙しすぎて、表現の厳密性に注意を払わない作家である。
一事が万事、こういう作家に限って、決してユニークな感覚的表現はできず、他の個所では、きっと『彼女は悲しくなるほど美しい微笑をうかべて』など、使い古されたルーティーンな表現を平気で多用している筈である。彼はただ忙しいのである。③の作家にいたっては論外である。なぜ論外かというと、こういう表現をするには、いくつかの心理的蓋然性が考えられる。一つは、彼の頭に『舞良戸』という名が浮かぶには浮かんだが、字引なり何なりで確かめる労を省いて、その労を省いたという心理的経過をそのまま売り物にして、『というのか』と、責任を他に転嫁しているのである。もう一つは、実は彼が『舞良戸』という名をちゃんと知っていながら、作者自身あるいは登場人物の呑気な正確表現として、『というのか』を入れたほうが、表現が柔らかく親しみ易いものになると考えているのである。三つ目は、すべてが無意識な場合である。彼は表現の凝縮性も正確性も考えず、ただ、あいまいな心理状態を外界に投影して、外界自体をあいまいな『というのか』で満たしており、しかもすべてを無意識にやっているのである。
私のすべての中で、この③の第三番目の場合をもっとも悪質だと思う。③の第一番目は文士気質を売り物にしているから悪く、第二番目はわざとらしい無智の衒いを、作中人物の呑気さの性格表現に利用しようと考えている点で、キザな心掛けが悪く、第三番目は、言語表現の自律性についての無反省において、作家としての根本的な過誤を犯しているからである。
私はこれらの例をすべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさという罪名に於いて弾劾する。何を些細なことを、と言われるかもしれないが、一方、もし劇作家がト書の中で、『下手に舞良戸』と指定すれば、職人はすぐに意を承けて舞良戸を制作するに決まっており、單なる技術的指定として使われた言語が、舞台ではちゃんとした物象として存在するにいたるのである。そして小説とは、そのような、ちゃんとした物象、役者がよりかかったぐらいではグラつかない本物の物象を、言語で、ただ言葉のみで創造していく芸術なのである」
~ は初めて「まひらど」というのを知ったわけですが、もし自分がこれを読者に伝えるとしたらどのような言語表現を用いていたでしょうか?おそらく三島検事の最も嫌う③のように記述していたかなと思います。決して私はここで小説を書いているのではありませんが、この三島の言説に触れる度に、日本語・その概念・その文章は美しいけれども難しいと、つくづく感じますと共に、私が本を出すなんて……トンデモナイー、と叫ぶのであります。
今年もまた拙いエッセイ(間違っても小説はかけません)にどうぞお付き合い下さいませ。
2008年1月
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