早いものですね。年が明けてからもう一月以上が経ち、立春を過ぎました。『時事一滴』をお読みの皆様方におかれましては如何お過ごしでしょうか、お伺い致します。
私自身は、年明けからとっても多くの「新年会」や「新春の集い」といった催し物に顔を出させていただき、出来る限り出席させていただきました。しかも、多くの場合、挨拶までさせてもらい大変感謝しております。ありがとうございました。
今は、それも終わりに近づいております。特に、議会では、第一回定例会の準備と、来るべき予算委員会の開始など、新しい年のための議会活動が本格的にスタートし始めております。
この『時事一滴』をお読みの皆様も、立春を過ぎて年明けムードも抜けきった中で、厳しい商戦を展開されている事と推察いたします。
さて、立春といえば日本の伝統行事として、「節分」があります。
皆様ご存知の通り、立春の前日に「鬼は外、福は内」と唱えながら豆を撒き、一年の無病息災を祈る、アレです。
節分とは、その名の通り、「季節の分かれ目」のことです。季節が変わるときには邪気=鬼が生じると考えられているので、豆を撒いてそれを払おうとするというわけです(一部の地域では、縄に柊やイワシの頭を付けたものを門に掛けることによって、鬼を払うところもあるようですよ)。
言葉の意味上、立春・立夏・立秋・立冬のいずれも節分という事になりますね。でも今では、立春の前日が一般的になっています。その理由は何だろう。あまり詳しく掘り下げてはいませんが、なんでも、豆を撒くのは、豆を投げれば「魔滅(まめ)」、つまり魔を退けられるからだと考えられているそうです。また、イワシの頭はその臭気で鬼を追い払うとされているそうです。
一般的に使用される豆は、お祓いを行った大豆、つまり炒り豆です。ところが、地域によっては落花生が使われている事を知りました。落花生は大豆よりも回収がしやすく、また殻があるので地面に落ちても食べられるという利点から採用されているとのこと。なるほど、確かにそうですね(かなり合理主義的…)。
現代では、この「節分」が一年のビッグイベントの一つとなり、催しに有名人を招いて豆を撒いたり、お寺で狂言を行ったりと、この行事を様々な形で楽しんでいるところが多いようです。これをお読みの皆様も、2月3日には「鬼」に扮して、豆を当てられて楽しまれたのではないでしょうか。ちなみに、豆は以前使われていたコメ、麦、炭などよりも鬼にぶつけたときの音がいいことも好まれる理由だそうですよ~。
節分が行われる場所によっては、「鬼は外」と唱えないことがあるようです。例えば、千葉県成田市の成田山新勝寺では、毎年色々な大相撲力士やその年のNHK大河ドラマの出演者が豆まきに参加します(ちなみに今年は相撲力士では把瑠都、「龍馬伝」からは香川照之さん、宮迫博之さんなどが参加しました)。そこでの掛け声は慣習上「福は内」だけだそうです。これまた、なんでもご本尊の不動明王が鬼さえも改心させるためだからと言われています。
また、例えば、岐阜県端労市の鬼岩福鬼祭りでは、福を運ぶのが鬼であるため、「鬼は内、福は内」と独特の掛け声をするそうです。鬼を祭神あるいは神の使者としている神社、あるいは「鬼塚」「鬼頭」など「鬼」の付く性がつく地名で、「鬼は内」と唱えるところが多い事が分かってきています。
災いや不吉をもたらす存在として忌み嫌われている「鬼」ですが、必ずしも節分で常に「悪役」ではないようですね。
日本の伝統芸能、狂言にも「節分」という曲があります。同じ曲名で幾つかつくられていますが、その内の一つは、鬼が人間的な感情をもち、しかし哀れにも鬼であるがゆえに追い払われてしまうというものがあります。あらすじはこうです。
~節分の前夜に蓬莱の島(渤海にあるという想像上の島)の鬼が、節分で撒かれた豆を食べようと日本へやってくる。長い旅をしたために空腹になり、食べ物をもらおうと民家を探す。灯火にひかれてある家をのぞくと、それはそれは美しい女がいた。その女の夫は出雲大社に年籠り(大晦日から元旦にかけて参籠する事)をしている最中であり、女は女房としてはその留守を預かっているのであった。鬼は食べ物を請い、荒麦をあたえられるが、その時既にその女性に心を奪われていた。なんとか気に入られようと小唄を次々と歌うが、一向に相手にされず、鬼はついには泣き出してしまう。そのため、女は気を許したふりをして、鬼を家に入れ、鬼から隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌などの宝物を取り上げる。さて、時分もよし。「鬼は外」と女は豆をぶつけて鬼を追い出す……~
なんと哀れな鬼でしょう! 美しい女性のしたたかな機転よりも、男性のような人間的な恋情を示しながらも、豆をぶつけられ、追い立てられた鬼の哀れさが気になってしまいますね。宝物を差し出しながらも、忌み嫌われてしまう…。このような状況はどこか、現代で家族での地位が下がってしまったお父さんの状況を彷彿とさせる気がします(う~むむむ…)。
節分会は、色々なやり方で楽しみましょうよ。節分にまつわる狂言を見に行くもよし、お祭りに出かけて行って有名人が撒いた豆を食べに行くもよし、鬼に扮して思い切り豆を当てられて家族を盛り上がるのももちろんよしです。
しかし、ひとたび節分が終わり、お面をとった我々お父さんに対しては、ぜひ労りの気持ちをもって接してほしいですよね。時には一家の大黒柱として、厳しくあるがゆえに、「鬼」のように見えてしまうこともあるでしょう。
しかし、父あっての福だということも忘れてほしくないと願っております。
2010年2月12日金曜日
2010年1月23日土曜日
平成22年を迎えて
『時事一滴』をお読みの皆様、新年明けましておめでとうございます。
読者の皆様におかれましては、常日頃から、池袋駅周辺のまちづくりを始めとしまして、多方面にわたりご尽力いただいておりますことに対し、この場をお借りいたしまして、厚く御礼申しあげます。本年も、皆様とこうして新年のよろこびを共に分かち合えます事を大変幸せに思っております。
さて、昨年平成21年の豊島区は、文化庁長官表彰「文化芸術創造都市部門」受賞の喜びに始まりました。それを起爆剤としまして、豊島区の文化政策も随分と浸透し、もともと盛んであった演劇のほか、音楽、絵画、マンガ、にゅー盆踊りなど、色彩豊かでユニークな企画が、多々催されました。私自身、区民ひろばや地域文化創造館などで行われる様々なイベントにも参加いたしましたが、健康増進や、心豊かな生活を送るための各種講座が開かれていたり、日頃の活動の成果が発表されたりと、地域の方々も、身近なところで文化的な活動に取り組み、楽しんでおられます。また、豊島区内には6つの大学があり、これら6大学との連携も、「としまコミュニティ大学」を始めとして、かなり進んでいました。そこでの各大学の特徴を活かした内容を見れば、本区に住んでいることで、多種多様な事柄を学ぶ機会に非常に恵まれているということがよくわかります。ともすれば閉塞感に陥りがちな不況のまちを、商店街の皆さんやボランティアの方、そして若者などの力で盛り立てていこうとする地域の皆様の気概を、大変心強く感じたところです。
街並みにも大きな変化が見られました。その幾つかを挙げさせてもらいますと、例えば五十年もの間、池袋東口を華やかに彩ってきた三越百貨店が、惜しまれながら閉店し、その跡地には、大型家電量販店ヤマダ電機がオープンしました。既存の大型店ビックカメラとの間に、熾烈な販売競争が繰り広げられており、東口の空気が変わったように感じられます。また、西口には、駅構内にエチカ池袋、地上にエソラ池袋が、相次いで開業し、消費低迷の昨今に新しい活力を吹き込んでおります。エソラ池袋の記念式典では、ソメイヨシノ桜の観光大使が華を添えてくれました。池袋駅西口地上部分も、緑をコンセプトに様変わりを遂げようと動き出しています。隣の大塚駅では、地元住民の皆様念願の南北自由通路が開通されました。その開通式典も、よさこいと絡めたのが功を奏して、盛況のうちに執り行われましたっけ…。また、その隣の巣鴨駅では商業施設の入る五階建ての駅ビルが開業を控え、さらに駒込駅前にはホテルメッツがオープンしました。
一方、新しい庁舎の構想も進んでおります。百年に一度といわれる不況の中で庁舎を建設することは、大変な困難を伴いますが、現庁舎が既に耐久年数を大幅に超えていることの危険性を考えれば、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、デフレの今こそ知恵と勇気を振り絞り、前進してまいりたいですね。ちなみに、新庁舎に関しては、建築家の隈研吾氏らの協力を得る事が出来たとの事です。今第一線で大活躍してくれている隈氏の登場はとっても心強いですし、どのような感性がにじみ出てくるのかがとっても楽しみですね。その斬新な設計とデザインで、私達をアッと言わせてくれる事でしょう。
世界的な大不況もさることながら、世界的な新型インフルエンザの猛威も怖かった1年でしたね。区内の小中学校も、一時は連日学級閉鎖となりました。私達のもとには、かなり頻繁に学級閉鎖の状況説明などを内容とする情報が、ファックスにて届いたりしていました。この点、本区の保健福祉部や教育委員会はよくやっていると思います。このインフルエンザでは、高熱を発して苦しまれた方や、夜を徹しての看病をされた方もおられたことでしょう。今のところ、弱毒性で、落ち着いてきたとはいえ、ウイルスが変異する可能性や、過去の新型インフルエンザでは第二波、第三波があったこともあり、油断は禁物です。どうぞ皆さんお気を付け下さい。
都議会及び衆議院においては、与野党が逆転し、民主党が第一党となりました。政権が代わっても、国や都が直面する課題はそう大きく変わりませんが、現政権の政治が、私たちの暮らしや将来に及ぼす影響を、慎重に見極め、今年の参議院議員選挙では、有権者として答えを出していかなければなりません。特に、最近の国政レベルの選挙は、なんでも「劇場型」と言われ、新聞やテレビそしてラジオなどの媒体からあふれ出てくる情報をただ受け取るだけでの投票行動が目に付き始めました。特に、その傾向は若者に顕著なのではないでしょうか。
その若者ですが、1月11日は、成人の日でした。平成の幕開けと共にこの世に生を受け、そして二十年の時を経て、当日成人式を迎えられた皆さんにおかれましては、誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
「内平らかに外成る」「地平らかに天成る」という、中国の古典に基づいて名づけられた「平成」には、「国の内外にも天地にも平和が達成される」ということへの願いが込められております(確かそのような説明を、額を掲げながら、当時の故小渕恵三内閣官房長官がしてくれたと思いますが…)。成人の日には、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝いはげます日」という意味があります。20歳を迎えた新成人の皆さんには、こういった時代状況の中に生きているおとの認識を噛みしめてもらいたいのは勿論のこと、人間は誰しもが、社会のシステムとそこに働く人々に、その生命を守られ、生活を支えられておりますから、これからは大人として、共に社会を支えていかなければならない義務が生じたことを自覚してもらいたいですし、その一方で、これまでの日々、ご両親、ご家族をはじめ、地域社会や法律などにより、子どもとして大切に守られてきたことに、感謝の念を向けて欲しいと思います。
さてそこで、20歳で生じる権利の一つ、選挙権のことです。申し上げるまでもなく、政治は、有限性の中にあって、地方や国のあり方を決め、進路を方向づけていく人間の営みです。それがあるべきかたちなのか、進むべき方向にあるのかどうかを考えて、推し進めたり、修正したり、異を唱えたりする権利を持つわけです。選挙の際には、新聞がこう書いているとか、テレビでこう言われているとか、友達がこうするからとか、他者からの影響のみでもって審判を下してほしくないですね。必ず投票所に足を運ぶとしても、自分の主義・主張・信念・哲学を一票に託した上で、投票行動をとって欲しいと、本心から思います。それでもまだマダルッコシイとお思いの若者は、25歳ないし30歳になって、立候補することで、自らこの豊島区を、日本を、今一度洗濯してくれればよろしいのです。豊島区の将来のために、ひいては日本のために、粉骨砕身できる方が現れることを望んでおりますし、いつでも同志として迎えます(ただし、政治理念等が同様の方に限られていきますが)。
新成人の諸君!!
二十歳を過ぎるころから、月日の巡りは年々加速していくぞ。
若い時にしかできないこともあるし、若くして才能を開花させる人もいる。
しかし、若い日々の努力や心掛けが報われ、歳をとってから花開く人生もある。
焦ることなく、自分の道を自分の明るさで照らし、着実に歩み続けてくれ。
年を重ねた未来の自分が、平凡で、ごく普通の日々を送っていたとしても、誰かを支え、何かの役にたっているのであれば、その誰かや何かにつながる先に秘められている可能性の大きさは、はかり知れない。
たとえ不遇なことがあったとしても、他人や社会のせいにせず、自ら生き抜こうとする気概を持ち続けて欲しい。
不況の今、負けることなくはばたこうとする君達の溢れるパワーに、大いに期待し、心からの声援を送る。
先行きが不透明な中、今年はいったいどのような年になるのでしょうか。
その期待と不安に胸を膨らませつつ、力強い第一歩を皆さんと共に踏み出していきたいと思います。
本年もまた、私共々、この『時事一滴』にどうぞお付き合いください。
読者の皆様におかれましては、常日頃から、池袋駅周辺のまちづくりを始めとしまして、多方面にわたりご尽力いただいておりますことに対し、この場をお借りいたしまして、厚く御礼申しあげます。本年も、皆様とこうして新年のよろこびを共に分かち合えます事を大変幸せに思っております。
さて、昨年平成21年の豊島区は、文化庁長官表彰「文化芸術創造都市部門」受賞の喜びに始まりました。それを起爆剤としまして、豊島区の文化政策も随分と浸透し、もともと盛んであった演劇のほか、音楽、絵画、マンガ、にゅー盆踊りなど、色彩豊かでユニークな企画が、多々催されました。私自身、区民ひろばや地域文化創造館などで行われる様々なイベントにも参加いたしましたが、健康増進や、心豊かな生活を送るための各種講座が開かれていたり、日頃の活動の成果が発表されたりと、地域の方々も、身近なところで文化的な活動に取り組み、楽しんでおられます。また、豊島区内には6つの大学があり、これら6大学との連携も、「としまコミュニティ大学」を始めとして、かなり進んでいました。そこでの各大学の特徴を活かした内容を見れば、本区に住んでいることで、多種多様な事柄を学ぶ機会に非常に恵まれているということがよくわかります。ともすれば閉塞感に陥りがちな不況のまちを、商店街の皆さんやボランティアの方、そして若者などの力で盛り立てていこうとする地域の皆様の気概を、大変心強く感じたところです。
街並みにも大きな変化が見られました。その幾つかを挙げさせてもらいますと、例えば五十年もの間、池袋東口を華やかに彩ってきた三越百貨店が、惜しまれながら閉店し、その跡地には、大型家電量販店ヤマダ電機がオープンしました。既存の大型店ビックカメラとの間に、熾烈な販売競争が繰り広げられており、東口の空気が変わったように感じられます。また、西口には、駅構内にエチカ池袋、地上にエソラ池袋が、相次いで開業し、消費低迷の昨今に新しい活力を吹き込んでおります。エソラ池袋の記念式典では、ソメイヨシノ桜の観光大使が華を添えてくれました。池袋駅西口地上部分も、緑をコンセプトに様変わりを遂げようと動き出しています。隣の大塚駅では、地元住民の皆様念願の南北自由通路が開通されました。その開通式典も、よさこいと絡めたのが功を奏して、盛況のうちに執り行われましたっけ…。また、その隣の巣鴨駅では商業施設の入る五階建ての駅ビルが開業を控え、さらに駒込駅前にはホテルメッツがオープンしました。
一方、新しい庁舎の構想も進んでおります。百年に一度といわれる不況の中で庁舎を建設することは、大変な困難を伴いますが、現庁舎が既に耐久年数を大幅に超えていることの危険性を考えれば、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、デフレの今こそ知恵と勇気を振り絞り、前進してまいりたいですね。ちなみに、新庁舎に関しては、建築家の隈研吾氏らの協力を得る事が出来たとの事です。今第一線で大活躍してくれている隈氏の登場はとっても心強いですし、どのような感性がにじみ出てくるのかがとっても楽しみですね。その斬新な設計とデザインで、私達をアッと言わせてくれる事でしょう。
世界的な大不況もさることながら、世界的な新型インフルエンザの猛威も怖かった1年でしたね。区内の小中学校も、一時は連日学級閉鎖となりました。私達のもとには、かなり頻繁に学級閉鎖の状況説明などを内容とする情報が、ファックスにて届いたりしていました。この点、本区の保健福祉部や教育委員会はよくやっていると思います。このインフルエンザでは、高熱を発して苦しまれた方や、夜を徹しての看病をされた方もおられたことでしょう。今のところ、弱毒性で、落ち着いてきたとはいえ、ウイルスが変異する可能性や、過去の新型インフルエンザでは第二波、第三波があったこともあり、油断は禁物です。どうぞ皆さんお気を付け下さい。
都議会及び衆議院においては、与野党が逆転し、民主党が第一党となりました。政権が代わっても、国や都が直面する課題はそう大きく変わりませんが、現政権の政治が、私たちの暮らしや将来に及ぼす影響を、慎重に見極め、今年の参議院議員選挙では、有権者として答えを出していかなければなりません。特に、最近の国政レベルの選挙は、なんでも「劇場型」と言われ、新聞やテレビそしてラジオなどの媒体からあふれ出てくる情報をただ受け取るだけでの投票行動が目に付き始めました。特に、その傾向は若者に顕著なのではないでしょうか。
その若者ですが、1月11日は、成人の日でした。平成の幕開けと共にこの世に生を受け、そして二十年の時を経て、当日成人式を迎えられた皆さんにおかれましては、誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
「内平らかに外成る」「地平らかに天成る」という、中国の古典に基づいて名づけられた「平成」には、「国の内外にも天地にも平和が達成される」ということへの願いが込められております(確かそのような説明を、額を掲げながら、当時の故小渕恵三内閣官房長官がしてくれたと思いますが…)。成人の日には、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝いはげます日」という意味があります。20歳を迎えた新成人の皆さんには、こういった時代状況の中に生きているおとの認識を噛みしめてもらいたいのは勿論のこと、人間は誰しもが、社会のシステムとそこに働く人々に、その生命を守られ、生活を支えられておりますから、これからは大人として、共に社会を支えていかなければならない義務が生じたことを自覚してもらいたいですし、その一方で、これまでの日々、ご両親、ご家族をはじめ、地域社会や法律などにより、子どもとして大切に守られてきたことに、感謝の念を向けて欲しいと思います。
さてそこで、20歳で生じる権利の一つ、選挙権のことです。申し上げるまでもなく、政治は、有限性の中にあって、地方や国のあり方を決め、進路を方向づけていく人間の営みです。それがあるべきかたちなのか、進むべき方向にあるのかどうかを考えて、推し進めたり、修正したり、異を唱えたりする権利を持つわけです。選挙の際には、新聞がこう書いているとか、テレビでこう言われているとか、友達がこうするからとか、他者からの影響のみでもって審判を下してほしくないですね。必ず投票所に足を運ぶとしても、自分の主義・主張・信念・哲学を一票に託した上で、投票行動をとって欲しいと、本心から思います。それでもまだマダルッコシイとお思いの若者は、25歳ないし30歳になって、立候補することで、自らこの豊島区を、日本を、今一度洗濯してくれればよろしいのです。豊島区の将来のために、ひいては日本のために、粉骨砕身できる方が現れることを望んでおりますし、いつでも同志として迎えます(ただし、政治理念等が同様の方に限られていきますが)。
新成人の諸君!!
二十歳を過ぎるころから、月日の巡りは年々加速していくぞ。
若い時にしかできないこともあるし、若くして才能を開花させる人もいる。
しかし、若い日々の努力や心掛けが報われ、歳をとってから花開く人生もある。
焦ることなく、自分の道を自分の明るさで照らし、着実に歩み続けてくれ。
年を重ねた未来の自分が、平凡で、ごく普通の日々を送っていたとしても、誰かを支え、何かの役にたっているのであれば、その誰かや何かにつながる先に秘められている可能性の大きさは、はかり知れない。
たとえ不遇なことがあったとしても、他人や社会のせいにせず、自ら生き抜こうとする気概を持ち続けて欲しい。
不況の今、負けることなくはばたこうとする君達の溢れるパワーに、大いに期待し、心からの声援を送る。
先行きが不透明な中、今年はいったいどのような年になるのでしょうか。
その期待と不安に胸を膨らませつつ、力強い第一歩を皆さんと共に踏み出していきたいと思います。
本年もまた、私共々、この『時事一滴』にどうぞお付き合いください。
2009年11月15日日曜日
文集「若き志士の言の葉」について
先月、お陰様をもちまして私の議長就任祝賀会も無事に行うことができました。これもひとえに皆様方のご支援とご協力の賜物でございます。この場をお借りしまして、心より厚く御礼申し上げます。有難う御座います。
さて、この度の議長就任祝賀会を着実に乗り切ることができたのも、その中心に後援会の役員の皆さんのご協力があったことはもちろんですが、加えまして、私の事務所に研修・研鑚に来てくれている若者達の力があったればこそとも言うことが出来ます。
この度の祝賀会では、帰りのお土産に、今年の流行色で編んだ「マフラー」に加えまして、「若き志士の言の葉」という題名の文集を添えさせていただきました。私自身、今年で議員在職10年となったわけですが、この10年間ずっと続けてきた活動の中の一つに、「次世代の政治的リーダーの育成」というのがあります。最初は、果たして上手くいくのかなと不安な面もありましたが、マスメディアを通さない「裸の政治」を学びたいと思っている若者が、かくもいるのかと驚いたのを思い出します。「裸の政治」を学ぼうとして集まってきた若者達の数も、延べで約500人を超え、その体験談も10年分が溜まっています。この度の文集は、その中から、掲載について本人の承諾があったものの中から、さらにピックアップしたものを編んだもので、前半部分が今現在抱いている感想、後半部分がかつて研修をし終えた直後書かれた体験談となっています。裏返して言いますと、10年を経過した後に私の下に来て研修した若者達の感想や体験談は、割愛されているわけでして、この度の祝賀会の切り盛りに参画してくれていたのが、まさに彼ら彼女らであることを考えますと、何としてもこの若者達の声も何処かで発表したいと願うのもご理解いただけるのではないかと思います。文集からオミットされるのは、今年の夏から来た若者達ということになりますが、この夏、10名の若者が私の下で研修・研鑚を積み増したが、その内の一人の体験談を皆さまに紹介させて下さい。今回もご一読誠に有難う御座います。
「学生」から「住民」への自覚
本学塾第32期生 大田 みふゆ
【何を学んだか】
私は2009年の夏、豊島区議会議員の本橋弘隆先生のもとで研修を行うことを決めた。あれから早くも三ヶ月ほど経つが、今までで一番考える時間が多かった夏休みであった。
本橋先生は本当に大胆である反面、どんな小さなことでも気を配って下さる方だった。時には厳しく指摘して下さり、時には様々なことを心配して下さる本橋先生のもとで研修を行い、「相手の気持ちを考えること」の重要性を改めて感じた。相手の気持ちを考えるということは一見当たり前のように思え、私を含めて幼い頃から言われている方も多いであろう。でも、これこそが社会において、日常生活においても必要なのではないだろうか。選挙のときは有権者の方々や後援会の方々の気持ちを、お祭りの景品を選ぶときは子どもたちの気持ちを、事務作業を行うときはそれに関わる方々や、受け取る方々の気持ちを考えるようにして行動するようにした。そうすることによって、物事の意味を捉えることができるようになった。時には失敗して、反省しなくてはならないこともあったが、後に考えてみると、相手の気持ちを考えれば正しい判断ができたであろうということばかりだった。
政治もこれと同様ではないだろうかと私は思う。生活している人々の気持ちを考え、問題を議論して、より良い政策を実現していく。区民の気持ちを考えれば、何をすべきなのかが見えてくる。そう考えると、本橋先生は地域というものをとても意識していらっしゃった。また、歩いているときや、運転しているときは、地域の人々や街のようすを「区民」且つ「議員」の視点で見ていらっしゃった。そして「○○さんにこのことを報告しておこう」、「今度取り上げてみよう」など、自分が何をすべきなのかを考えていらっしゃった。きっとこのような積み重ねがよりよい街づくりに繋がるのであろうと考えた。また、委員会や協議会を通じて、様々な議員さんや職員の皆さん、そして一般区民の方々が働く姿を生で見ることができたのは貴重な経験であった。「新型インフルエンザ対策」「豊島区子どもプラン―次世代育成支援行動計画―中間報告」などを聞いて、そのようなことまで区政で取り上げていただけるのかと驚いた。そして、委員会では、議員さんが自分の体験をもとに考えを述べている様子を見て、区民の代表であることを改めて感じることができた。また、豊島区子どもプランの中間報告会の中で、行政と区民が一体とならなければ、目標を達成しにくいということを知った。このことから、政治は議員だけが行うものではなく、職員や区民のみんなで行っていくものであるということに気がついた。本橋先生がおっしゃっていた「どこにでも政治はある」という言葉を意識しながら、これからは自分も住民の一人であるという自覚を持って生活し、協力していきたいと考えるようになった。
【これをどう生かすか】
今回の研修で「相手の気持ちを考える」ことの重要性に気付いたので、今後は私と関わる人の気持ちを考えながら、自分に何ができて、何をすべきかを考えられるようにしていきたい。また、その考えを実行しなければ、意味が無いということも研修を通じて感じたので、積極的に行動に表せるように努力していきたい。
また、上記において、自分も住民の一人であるという自覚をもつということを目標として掲げたので、まず、自分の住んでいる地域がどのような活動をしていて、どのような目標を掲げているのかを調べていきたいと思う。その上で、自分が住民として、どんな活動に協力できるかを考え、少しずつ実行していきたい。地域に貢献することが、国の貢献に繋がるということも学んだので、私の周りから変わっていけるようにしたい。
【本橋先生へ】
この度は、私を研修生として受け入れてくださり、本当にありがとうございました。本橋先生の下で研修を行ったことは、私の自慢であり、最高の経験になりました。本橋先生は面接の際に、「この夏を本当にここで過ごしていいのか」と尋ねていらっしゃいましたが、三ヶ月が経った今、この夏を本橋先生の下で過ごすことができて、大変よかったと思っています。
本橋先生は、政治に関することだけではなく、生活する上で必要なことも直接教えてくださり、人間的にも成長できたと思います。他の議員さんの下で研修をしている友人に、この事務所の話をすると、とても羨ましがられました。これからも、アットホームな環境の中でたくさんの研修生を育てていって下さい。
もうすぐ議長就任祝賀会ですね。今までお世話になった分、お手伝いさせて下さい。
さて、この度の議長就任祝賀会を着実に乗り切ることができたのも、その中心に後援会の役員の皆さんのご協力があったことはもちろんですが、加えまして、私の事務所に研修・研鑚に来てくれている若者達の力があったればこそとも言うことが出来ます。
この度の祝賀会では、帰りのお土産に、今年の流行色で編んだ「マフラー」に加えまして、「若き志士の言の葉」という題名の文集を添えさせていただきました。私自身、今年で議員在職10年となったわけですが、この10年間ずっと続けてきた活動の中の一つに、「次世代の政治的リーダーの育成」というのがあります。最初は、果たして上手くいくのかなと不安な面もありましたが、マスメディアを通さない「裸の政治」を学びたいと思っている若者が、かくもいるのかと驚いたのを思い出します。「裸の政治」を学ぼうとして集まってきた若者達の数も、延べで約500人を超え、その体験談も10年分が溜まっています。この度の文集は、その中から、掲載について本人の承諾があったものの中から、さらにピックアップしたものを編んだもので、前半部分が今現在抱いている感想、後半部分がかつて研修をし終えた直後書かれた体験談となっています。裏返して言いますと、10年を経過した後に私の下に来て研修した若者達の感想や体験談は、割愛されているわけでして、この度の祝賀会の切り盛りに参画してくれていたのが、まさに彼ら彼女らであることを考えますと、何としてもこの若者達の声も何処かで発表したいと願うのもご理解いただけるのではないかと思います。文集からオミットされるのは、今年の夏から来た若者達ということになりますが、この夏、10名の若者が私の下で研修・研鑚を積み増したが、その内の一人の体験談を皆さまに紹介させて下さい。今回もご一読誠に有難う御座います。
「学生」から「住民」への自覚
本学塾第32期生 大田 みふゆ
【何を学んだか】
私は2009年の夏、豊島区議会議員の本橋弘隆先生のもとで研修を行うことを決めた。あれから早くも三ヶ月ほど経つが、今までで一番考える時間が多かった夏休みであった。
本橋先生は本当に大胆である反面、どんな小さなことでも気を配って下さる方だった。時には厳しく指摘して下さり、時には様々なことを心配して下さる本橋先生のもとで研修を行い、「相手の気持ちを考えること」の重要性を改めて感じた。相手の気持ちを考えるということは一見当たり前のように思え、私を含めて幼い頃から言われている方も多いであろう。でも、これこそが社会において、日常生活においても必要なのではないだろうか。選挙のときは有権者の方々や後援会の方々の気持ちを、お祭りの景品を選ぶときは子どもたちの気持ちを、事務作業を行うときはそれに関わる方々や、受け取る方々の気持ちを考えるようにして行動するようにした。そうすることによって、物事の意味を捉えることができるようになった。時には失敗して、反省しなくてはならないこともあったが、後に考えてみると、相手の気持ちを考えれば正しい判断ができたであろうということばかりだった。
政治もこれと同様ではないだろうかと私は思う。生活している人々の気持ちを考え、問題を議論して、より良い政策を実現していく。区民の気持ちを考えれば、何をすべきなのかが見えてくる。そう考えると、本橋先生は地域というものをとても意識していらっしゃった。また、歩いているときや、運転しているときは、地域の人々や街のようすを「区民」且つ「議員」の視点で見ていらっしゃった。そして「○○さんにこのことを報告しておこう」、「今度取り上げてみよう」など、自分が何をすべきなのかを考えていらっしゃった。きっとこのような積み重ねがよりよい街づくりに繋がるのであろうと考えた。また、委員会や協議会を通じて、様々な議員さんや職員の皆さん、そして一般区民の方々が働く姿を生で見ることができたのは貴重な経験であった。「新型インフルエンザ対策」「豊島区子どもプラン―次世代育成支援行動計画―中間報告」などを聞いて、そのようなことまで区政で取り上げていただけるのかと驚いた。そして、委員会では、議員さんが自分の体験をもとに考えを述べている様子を見て、区民の代表であることを改めて感じることができた。また、豊島区子どもプランの中間報告会の中で、行政と区民が一体とならなければ、目標を達成しにくいということを知った。このことから、政治は議員だけが行うものではなく、職員や区民のみんなで行っていくものであるということに気がついた。本橋先生がおっしゃっていた「どこにでも政治はある」という言葉を意識しながら、これからは自分も住民の一人であるという自覚を持って生活し、協力していきたいと考えるようになった。
【これをどう生かすか】
今回の研修で「相手の気持ちを考える」ことの重要性に気付いたので、今後は私と関わる人の気持ちを考えながら、自分に何ができて、何をすべきかを考えられるようにしていきたい。また、その考えを実行しなければ、意味が無いということも研修を通じて感じたので、積極的に行動に表せるように努力していきたい。
また、上記において、自分も住民の一人であるという自覚をもつということを目標として掲げたので、まず、自分の住んでいる地域がどのような活動をしていて、どのような目標を掲げているのかを調べていきたいと思う。その上で、自分が住民として、どんな活動に協力できるかを考え、少しずつ実行していきたい。地域に貢献することが、国の貢献に繋がるということも学んだので、私の周りから変わっていけるようにしたい。
【本橋先生へ】
この度は、私を研修生として受け入れてくださり、本当にありがとうございました。本橋先生の下で研修を行ったことは、私の自慢であり、最高の経験になりました。本橋先生は面接の際に、「この夏を本当にここで過ごしていいのか」と尋ねていらっしゃいましたが、三ヶ月が経った今、この夏を本橋先生の下で過ごすことができて、大変よかったと思っています。
本橋先生は、政治に関することだけではなく、生活する上で必要なことも直接教えてくださり、人間的にも成長できたと思います。他の議員さんの下で研修をしている友人に、この事務所の話をすると、とても羨ましがられました。これからも、アットホームな環境の中でたくさんの研修生を育てていって下さい。
もうすぐ議長就任祝賀会ですね。今までお世話になった分、お手伝いさせて下さい。
特色あるまつりづくり ~第10回東京よさこいと第32回江戸川市民まつり~
9月の下旬頃でしたでしょうか、江戸川区の多田正見区長から、各23区の区議会議長に対して「第32回江戸川区民まつり」の招待状が届きました。A4版のレジュメ、パンフレット、そしてご案内状と、その送付資料から、長い歴史としっかりとした運営ぶり、さらには江戸川区の自信と誇りを感じさせられました。そうなってくると実際この目で見なくては気が済まなくなってきてしまうのが私です。当日10月11日の日曜日は、午前10時から「第4回東京よさこいin大塚」、午前10時45分から「第8回池袋本町商人まつり」と、たて続けに大型イベントが盛りだくさんに入っていましたが、ご列席者の皆さんのご協力もあって無難にこなし、何とか正午実施のメインイベントの「場内パレードとセレモニー」、そして「花自動車コンクール」に間に合わせるべく、すぐさま車に飛び乗って、首都高を利用し、一路まつり会場の「都立篠崎公園」を目指しました。
~昭和51年(1976年)9月19日に発足した、「江戸川区町会・自治会青年部等連絡協議会」で、青年を含めた区民ぐるみの催しができないかという声があがり、実行委員会が結成。 青年たちが目指したのは、タレント抜きの完全な手づくりのまつり。青年部等連絡協議会では、まつりを実現させるため中里区長に相談。区長は、昭和53年(1978年)10月10日付け広報えどがわ「区長随想」で、そのときの様子を次のように記す。「初めての“区民まつり”は大成功でした。これは、2年ほど前に発足した町会自治会青年部等連絡協議会が心に描いた若者の夢なのです。最初は私も本当にうまくまとまるだろうか、情熱だけで内容が伴うだろうか、と迷ったものです。それから各地で盛上がる地域祭の様子を種々見る度に、区民ぐるみの祭りもうまくいくのではないかと自信を持つようになりました。そして、6月頃から80にも及ぶ諸団体に相談したところ、是非にという声が多く、予想もしない程の熱意と協力で、立派な祭として実ったのです」~
首都高速から降りて、程なく江戸川区内へ入ってくると、景色は確実に本区とは違ってきます。まずは、土地にゆとりがありますし、また妙にビニールハウスの畑が目に付くようになりました。「これは一体何の栽培をするのだろう、もしかして『小松菜?』かもね」(因みに、来賓お土産が「江戸川おかみさん会の小松菜うどん」でした)、そんな想いを擁きながらも、高層ビルやマンションをあまり見かけない江戸川区内の風景から、自身の視線のゆれが、都心に居る時よりもゆったりしていることに気づく有様です。その後私の目に飛び込んできたものは・・・、今では懐かしい紅白の「アドバルーン」でした(小さい頃、よく自宅から池袋のデパート上空のアドバルーンを見つけては、親に買い物をおねだりした記憶があります)。次に私の見たものは・・・、いやはや何とも言えないスケールでした・・・。会場内を来賓受付で頂いたマップを頼りに動き回り、ようやく来賓席に到着し、多田区長と共に場内パレードを見学することが出来ました。
~今年で、32回目を迎える「江戸川区民まつり」。記念すべき第1回は、『ひろげよう ふれあいの輪を』がテーマ。昭和53年(1978年)10月1日都立篠崎公園で開催。来場者数は約20万人。開催時間は、午前10時から午後8時までと、現在の午前9時から午後4時までに比べ、3時間長く開催。広場数は4つ(縁日広場、おどり広場、芸能広場、出展広場)と、現在より少なかったものの、午後8時のフィナーレには、豪快な打ち上げ花火と華麗なナイヤガラの滝、子どもたちのトーチサービスを実施、炎で会場を彩る派手な演出を行なっていた。
その日の夕方からのメインスケジュールは「第10回東京よさこい」の表彰式への出席と賞状授与でしたので、午後6時半までには来るようにとの先輩の指示に従い、池袋西口の特設ステージ会場へ。目の前では、歴戦のつわものよさこいチームが演舞をしていました。思わず、昼間の「江戸川区民」まつりと比較してしまいましたが、どうしてどうして、こちらはこちら、あちらはあちらと言える、力強い特色がお互いにあることが見て取れます。焦ることなく、お隣に気をとられることなく、目の前のよさこいを育てる事が大事だと私は思いました(それにしても立教大学のよさこいチームはないの?)。
~参考~
第31回江戸川区民まつりのデータ(昨年)
参加者: 55万人
参加協力団体: 391団体 19,610人
場内パレード: 31団体 3,163人
ミニSL 乗車数: 約2,800人
迷子保護: 97人
もぎ店: 約9万食
都市交流コーナー: 8都市2団体
「安曇野市、鶴岡市、南魚沼市、城里町、長井市、八丈町、魚沼市、大島町、JA、町青協」
駐輪場: 9ヶ所 6,500台
ゴミのリサイクル: 空き缶、空きビン、ペットボトル、段ボールなど6,160キログラム
中止の回数: 残念ながら中止ということが、これまで30回のうち、3回あります。 (1)昭和60年(1985年)の第8回は雨天のため当日中止を決定。 (2)昭和63年(1988年)の第11回は、天皇陛下のご不例により中止。 (3)平成3年(1991年)の第14回は異常な長雨により事前に中止を決定。
~昭和51年(1976年)9月19日に発足した、「江戸川区町会・自治会青年部等連絡協議会」で、青年を含めた区民ぐるみの催しができないかという声があがり、実行委員会が結成。 青年たちが目指したのは、タレント抜きの完全な手づくりのまつり。青年部等連絡協議会では、まつりを実現させるため中里区長に相談。区長は、昭和53年(1978年)10月10日付け広報えどがわ「区長随想」で、そのときの様子を次のように記す。「初めての“区民まつり”は大成功でした。これは、2年ほど前に発足した町会自治会青年部等連絡協議会が心に描いた若者の夢なのです。最初は私も本当にうまくまとまるだろうか、情熱だけで内容が伴うだろうか、と迷ったものです。それから各地で盛上がる地域祭の様子を種々見る度に、区民ぐるみの祭りもうまくいくのではないかと自信を持つようになりました。そして、6月頃から80にも及ぶ諸団体に相談したところ、是非にという声が多く、予想もしない程の熱意と協力で、立派な祭として実ったのです」~
首都高速から降りて、程なく江戸川区内へ入ってくると、景色は確実に本区とは違ってきます。まずは、土地にゆとりがありますし、また妙にビニールハウスの畑が目に付くようになりました。「これは一体何の栽培をするのだろう、もしかして『小松菜?』かもね」(因みに、来賓お土産が「江戸川おかみさん会の小松菜うどん」でした)、そんな想いを擁きながらも、高層ビルやマンションをあまり見かけない江戸川区内の風景から、自身の視線のゆれが、都心に居る時よりもゆったりしていることに気づく有様です。その後私の目に飛び込んできたものは・・・、今では懐かしい紅白の「アドバルーン」でした(小さい頃、よく自宅から池袋のデパート上空のアドバルーンを見つけては、親に買い物をおねだりした記憶があります)。次に私の見たものは・・・、いやはや何とも言えないスケールでした・・・。会場内を来賓受付で頂いたマップを頼りに動き回り、ようやく来賓席に到着し、多田区長と共に場内パレードを見学することが出来ました。
~今年で、32回目を迎える「江戸川区民まつり」。記念すべき第1回は、『ひろげよう ふれあいの輪を』がテーマ。昭和53年(1978年)10月1日都立篠崎公園で開催。来場者数は約20万人。開催時間は、午前10時から午後8時までと、現在の午前9時から午後4時までに比べ、3時間長く開催。広場数は4つ(縁日広場、おどり広場、芸能広場、出展広場)と、現在より少なかったものの、午後8時のフィナーレには、豪快な打ち上げ花火と華麗なナイヤガラの滝、子どもたちのトーチサービスを実施、炎で会場を彩る派手な演出を行なっていた。
その日の夕方からのメインスケジュールは「第10回東京よさこい」の表彰式への出席と賞状授与でしたので、午後6時半までには来るようにとの先輩の指示に従い、池袋西口の特設ステージ会場へ。目の前では、歴戦のつわものよさこいチームが演舞をしていました。思わず、昼間の「江戸川区民」まつりと比較してしまいましたが、どうしてどうして、こちらはこちら、あちらはあちらと言える、力強い特色がお互いにあることが見て取れます。焦ることなく、お隣に気をとられることなく、目の前のよさこいを育てる事が大事だと私は思いました(それにしても立教大学のよさこいチームはないの?)。
~参考~
第31回江戸川区民まつりのデータ(昨年)
参加者: 55万人
参加協力団体: 391団体 19,610人
場内パレード: 31団体 3,163人
ミニSL 乗車数: 約2,800人
迷子保護: 97人
もぎ店: 約9万食
都市交流コーナー: 8都市2団体
「安曇野市、鶴岡市、南魚沼市、城里町、長井市、八丈町、魚沼市、大島町、JA、町青協」
駐輪場: 9ヶ所 6,500台
ゴミのリサイクル: 空き缶、空きビン、ペットボトル、段ボールなど6,160キログラム
中止の回数: 残念ながら中止ということが、これまで30回のうち、3回あります。 (1)昭和60年(1985年)の第8回は雨天のため当日中止を決定。 (2)昭和63年(1988年)の第11回は、天皇陛下のご不例により中止。 (3)平成3年(1991年)の第14回は異常な長雨により事前に中止を決定。
子供達の人権メッセを聞いて
9月12日、小雨が降りしきる中、豊島公会堂におきまして、豊島区と豊島区教育委員会もそれぞれ主催者と後援者のひとりとなり、「第16回子どもたちの人権メッセージ発表会」が盛大に執り行われました。この発表会の前に公務があったため、私自身の会場入りは、確か午後1時半頃だったと記憶しています。入った時にちょうど発表していたのが、5番の杉並区立大宮小学校6年生の女の子による「人権侵害について」でした。受付で貰ったプログラムを開いて、それぞれの子供達が発表するメッセージの題名に目を通していくと・・・。さすがに「人権メッセージ発表会」と銘打っているだけあって、「人権」という言葉があちこちの子供達のメッセージ題名に使われております。はたして本当にここにいる子供達は、「人権」を正しく使いこなせているか。使いこなせるのは大学で法学部にでも入ってからで良いとしても、正しく使える為の前提知識をどれだけ学校から、家庭から教わっているのか。一抹の不安を感じないわけにはいきませんでした。この段階でまずしっかりと学習しなければ、これから思春期を迎えていくにしたがって、権利、権利と駄々をこねる若者に育ってしまいかねません・・・・・・。
このような発表会で出会う親御さんの中には、「既に、人は生まれながらにして人権というものがあり、その中には当然子供の権利が保障されているんです」といった趣旨の発言をされる方が大変多いです。勿論、私自身、「人権」とか「子供の権利」とかを否定するつもりはありません。
ただ、今一度、「人権」とは、「権利」とは何か、という命題に向き合って、しっかりと思索して欲しいと思っております。その思索を経由した後に、「人権」とか、「権利」とかを語っていただきたいな・・・、そう切に思う次第です。と言いますのも、それらは過分に濫用の危険があり、中でも特に「人権」は暴走する危険をはらんだ西洋近代の「発明品」であることを肝に銘じていただきたいのです。
「人権」は暴走する。また「人権」は西洋近代の「発明品」である。そう申しましたが、それまではどうであったでしょうか。皆さんご承知の通り、どんな時代のどんな文化においても、「権利」の主張には必ず根拠が必要でした。例えば、まず始めに契約が結ばれて、そして自分はこれこれの仕事をしたからこれこれの取り分がある、と主張するのが、まさに「権利」でした。あるいは、伝統ある古来の慣習を根拠として「権利」が主張されることもありましたし、さらには、キリスト教に基づいた「自然法」のように、「神の掟を忠実に守ること」と「神の与えた権利を有すること」とが表裏一体となっている場合もありました。いずれにしても、単に個人が何かを欲すれば、それが「権利」と認められる、などということはありえなかったのですが、これを全て覆したのが、「人権」概念の発明者のトマス・ホッブスであり、その半世紀あとに登場した、ジョン・ロックです。
~我が国の憲法に採用されているのが、「ジョン・ロック版」の人権思想。また、ホッブス自身、「人権」(自然権)が個人の意志と欲望以外の根拠を持たないものゆえ、本質的に暴走の危険を秘めている。それに手綱をかけて本来の個人の幸福追求・実現へと向かわせるのが国家・政府の責務と危険性を認識。にもかかわらず、その危険性の認識をぼやかしてしまったのがジョン・ロック。ロックは「人権」を「神によって与えられた有難い権利」としながら、そこに当然伴うべき「神への義務」の方はあっさりと無視。「ロック版」人権概念は、一方では個人の意志と欲望をそのままに認めながら、そのことの持つ危険性は一切考えないというもの。
現在、人権の概念はフェミニズムの主張などを容れて、止めどもなく拡大。それはまさに個人の欲求の他、いかなる根拠も必要としないという、ロック版人権概念の基本構造に基づく。
「人権」とか「子供の権利」とかの定義や内容は、きわめて曖昧であり、ありとあらゆる子供達の権利行使が、ある子供の、またはある個人・団体の恣意に基づいて行われる危険を払拭できないところがあります。その典型例ともいえる事件が、約9年前に起きた、東京都国立市立第二小学校での、学校長に対する土下座要求事件だと言えるでしょう。私達大人は、今一度冷静に「人権」とは、「権利」とは如何なるものなのかを問い続け、これらがもつ危険性に常に配慮し、国家や自治体が「人権」や「権利」を謳うないし扱うに際しては、事前の学習やレクチャーをしっかりと十二分に行うと共に、極力それは謙抑的かつ慎重に展開すべきだと思います。
この度の子供達の発表の中で、私なりに気になったことがいくつかありますが、ここでは紙面の都合で一つ取り上げたいと思います。特に「いじめ」とか「ケンカ」、そして「差別」といったキーワードを駆使して発表されたものを聞いていて感じた事ですが、「相手にも『人権』があるんだから、いじめたり、暴力を振るったり、差別してはいけないよ」と言った類の主張です。要は、子供を人権・権利の主体と捉えることで、いわゆる「虐待問題」などを解決しようとする姿勢ですが、私はこういった主張や取り組みは見るべき視点を誤っていると思っています。その事はとりわけ「高齢者に対する虐待」の問題を考えてみればよろしいでしょう。高齢者の方は、当然のことながら大人ですから、完全無欠の権利を有する主体ということが出来ます。相対する方も、お互いが「人権」とか「権利」を有していると了解して社会活動をしています。それなのになぜ、権利主体との了解のある高齢者に対して、家族などによる虐待やいじめが増えているのでしょうか。「子供同士でもお互い『人権』があるんだからね。いじめたらダメよ」、そう主張する方は、いま申し上げた「高齢者虐待」がなぜ起こるのかをどう説明されるのでしょうか。およそ虐待というものは、何も、相手方が権利を持っているかどうかでその抑制が左右される代物ではないと思います。大切な事は、虐待される人に権利があるかどうかではなく、また、虐待する人を単純に非難する事でもなく、そもそも虐待しないですむ状況や、環境を作ることではないでしょうか。虐待してしまう人も介護に悩んでいるのでしょう。なぜ虐待するか、何故いじめるのかを理解しないと、適切な対策は生まれないと考えます。ここで再度確認したいことは、子供が必要としているのは「人権」や「権利」の名の下に生じる「利益」ではないということ、子供が最も必要としているのは、親との「関係」なのだということであります。すなわち、保護者、学校、地域が連携を強め、みんなで子どもを守り育てようという姿勢・構えであります。子どもを巡る環境の悪化は、大人が子どもを守り育てるという当たり前の義務を果たさなくなったことが原因です。私は「人権」とか、「権利」という一見すばらしいものであるような言葉を万能薬のように使って問題を解決しようとするのではなく、一つ一つの問題に対する具体的な施策を地道に実施していくことこそ問題の解決に最も効果的かつ効率の良いやり方であると信じております。
このような発表会で出会う親御さんの中には、「既に、人は生まれながらにして人権というものがあり、その中には当然子供の権利が保障されているんです」といった趣旨の発言をされる方が大変多いです。勿論、私自身、「人権」とか「子供の権利」とかを否定するつもりはありません。
ただ、今一度、「人権」とは、「権利」とは何か、という命題に向き合って、しっかりと思索して欲しいと思っております。その思索を経由した後に、「人権」とか、「権利」とかを語っていただきたいな・・・、そう切に思う次第です。と言いますのも、それらは過分に濫用の危険があり、中でも特に「人権」は暴走する危険をはらんだ西洋近代の「発明品」であることを肝に銘じていただきたいのです。
「人権」は暴走する。また「人権」は西洋近代の「発明品」である。そう申しましたが、それまではどうであったでしょうか。皆さんご承知の通り、どんな時代のどんな文化においても、「権利」の主張には必ず根拠が必要でした。例えば、まず始めに契約が結ばれて、そして自分はこれこれの仕事をしたからこれこれの取り分がある、と主張するのが、まさに「権利」でした。あるいは、伝統ある古来の慣習を根拠として「権利」が主張されることもありましたし、さらには、キリスト教に基づいた「自然法」のように、「神の掟を忠実に守ること」と「神の与えた権利を有すること」とが表裏一体となっている場合もありました。いずれにしても、単に個人が何かを欲すれば、それが「権利」と認められる、などということはありえなかったのですが、これを全て覆したのが、「人権」概念の発明者のトマス・ホッブスであり、その半世紀あとに登場した、ジョン・ロックです。
~我が国の憲法に採用されているのが、「ジョン・ロック版」の人権思想。また、ホッブス自身、「人権」(自然権)が個人の意志と欲望以外の根拠を持たないものゆえ、本質的に暴走の危険を秘めている。それに手綱をかけて本来の個人の幸福追求・実現へと向かわせるのが国家・政府の責務と危険性を認識。にもかかわらず、その危険性の認識をぼやかしてしまったのがジョン・ロック。ロックは「人権」を「神によって与えられた有難い権利」としながら、そこに当然伴うべき「神への義務」の方はあっさりと無視。「ロック版」人権概念は、一方では個人の意志と欲望をそのままに認めながら、そのことの持つ危険性は一切考えないというもの。
現在、人権の概念はフェミニズムの主張などを容れて、止めどもなく拡大。それはまさに個人の欲求の他、いかなる根拠も必要としないという、ロック版人権概念の基本構造に基づく。
「人権」とか「子供の権利」とかの定義や内容は、きわめて曖昧であり、ありとあらゆる子供達の権利行使が、ある子供の、またはある個人・団体の恣意に基づいて行われる危険を払拭できないところがあります。その典型例ともいえる事件が、約9年前に起きた、東京都国立市立第二小学校での、学校長に対する土下座要求事件だと言えるでしょう。私達大人は、今一度冷静に「人権」とは、「権利」とは如何なるものなのかを問い続け、これらがもつ危険性に常に配慮し、国家や自治体が「人権」や「権利」を謳うないし扱うに際しては、事前の学習やレクチャーをしっかりと十二分に行うと共に、極力それは謙抑的かつ慎重に展開すべきだと思います。
この度の子供達の発表の中で、私なりに気になったことがいくつかありますが、ここでは紙面の都合で一つ取り上げたいと思います。特に「いじめ」とか「ケンカ」、そして「差別」といったキーワードを駆使して発表されたものを聞いていて感じた事ですが、「相手にも『人権』があるんだから、いじめたり、暴力を振るったり、差別してはいけないよ」と言った類の主張です。要は、子供を人権・権利の主体と捉えることで、いわゆる「虐待問題」などを解決しようとする姿勢ですが、私はこういった主張や取り組みは見るべき視点を誤っていると思っています。その事はとりわけ「高齢者に対する虐待」の問題を考えてみればよろしいでしょう。高齢者の方は、当然のことながら大人ですから、完全無欠の権利を有する主体ということが出来ます。相対する方も、お互いが「人権」とか「権利」を有していると了解して社会活動をしています。それなのになぜ、権利主体との了解のある高齢者に対して、家族などによる虐待やいじめが増えているのでしょうか。「子供同士でもお互い『人権』があるんだからね。いじめたらダメよ」、そう主張する方は、いま申し上げた「高齢者虐待」がなぜ起こるのかをどう説明されるのでしょうか。およそ虐待というものは、何も、相手方が権利を持っているかどうかでその抑制が左右される代物ではないと思います。大切な事は、虐待される人に権利があるかどうかではなく、また、虐待する人を単純に非難する事でもなく、そもそも虐待しないですむ状況や、環境を作ることではないでしょうか。虐待してしまう人も介護に悩んでいるのでしょう。なぜ虐待するか、何故いじめるのかを理解しないと、適切な対策は生まれないと考えます。ここで再度確認したいことは、子供が必要としているのは「人権」や「権利」の名の下に生じる「利益」ではないということ、子供が最も必要としているのは、親との「関係」なのだということであります。すなわち、保護者、学校、地域が連携を強め、みんなで子どもを守り育てようという姿勢・構えであります。子どもを巡る環境の悪化は、大人が子どもを守り育てるという当たり前の義務を果たさなくなったことが原因です。私は「人権」とか、「権利」という一見すばらしいものであるような言葉を万能薬のように使って問題を解決しようとするのではなく、一つ一つの問題に対する具体的な施策を地道に実施していくことこそ問題の解決に最も効果的かつ効率の良いやり方であると信じております。
2009年8月15日土曜日
今夏もめげずに「高三盆踊り」
ここ最近、異常気象があったり、寝苦しい夜が続いたりと、体調維持にひと工夫が必要な日々が続いておりますが、皆様は如何お過ごしでしょうか、心より残暑お見舞い申し上げます。
この暑い8月は、豊島区内のあちこちで、様々な熱いイベントが行われておりますが、中でもこの時期のイベントで、誰もが楽しみにしていて、地域の親睦を図るにはもってこいのものと言ったら、基本的に町会ごとに実施・展開されている「盆踊り」ではないでしょうか。
夏の夜の風物詩とも言える「盆踊り」。そのイメージも、現代社会においてはむしろ単純明快に理解されており、お盆の時期の夜、音楽にのって浴衣の集団が踊るといった感じではないでしょうか。東京音頭とかをはじめとして、新民謡と呼ばれる曲で踊る民謡踊りや、子供向けにアニメキャラクターの盆踊りの曲なども登場して、大人から子供まで、老若男女問わず楽しめる娯楽的な踊り・イベントとのイメージが定着しているみたいです。
最も、今もって町会長が不在で、とりたてて商店街もないがゆえに商店会長不存在の、集団指導体制下の高三町会では、そもそもこの夏にまた盆踊りをするかどうかが、5月に行われる総会で改めて議論されます。他町会さんからすれば、町会の盆踊りはもう既定の方針であり、その実施は当然の事として暗黙の合意があるかと思いますが、こと私のいる高三町会におきましては、毎夏、実施の有無・立ち上げから議論しなければならない状況になっているのであります。もっとも、総会ではなんだかんだと意見は沢山出たりはしますが、今申しましたように、毎年夏、老若男女が楽しみにしているイベントの一つでもありますし、また、住民相互の親睦やコミュニケーションを図るにはきわめて効果的ですから、結局はこの夏もやりましょうということになっていきます。ただ、それなら老若男女が楽しみにしなくなってきたら、この盆踊りそのものは一体全体どうなってしまうのか。私達は、そんな心配もしてしまう今日この頃なんです。まずは、楽しみを越えた存在・存続理由を、盆踊りに見出して、それを伝えねば…。
~盆踊りは、仏教行事の一つである盂蘭盆会(うらぼんえ)に迎えた祖霊を慰め、再び送るために大勢の人が踊る「念仏踊り(ねんぶつおどり)」が源流。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号に節を付け、唱えつつ踊るもの。盂蘭盆会はお盆の正式名称。「盆」「盆会」「精霊会(しょうりょうえ)」「魂祭(たままつり)」などとも呼ばれる。施餓鬼や盆飾り、精霊流しを行うなど、現在でも日本古来の民族風習が色濃い行事。斎明天皇の治世である657年に盂蘭盆会を設けたことが史実上初めて登場。8世紀頃には夏場に祖先供養を行うという民俗風習が日本で確立。以来1300年もの歴史を持つ。旧暦7月15日を中心として行われている。この日は十五夜、すなわち満月にあたり、月明かりの下で夜通し踊ることができるほど明るかった。盆踊りの場は、あの世との境界・接点となる。その踊りには、霊と踊り手が親しみ、通じ合うことを表す所作が盛り込まれている。月明かりや篝火のほの暗い幻想の中、踊り手はあの世に行った人々の姿を別の踊り手に重ね合わせ、精霊と一緒に踊っているような錯覚に陥り、故人を偲ぶ~
ちょっとこの路線では、何ゆえ盆踊りを実施・存続するのかを理由付けるには、あまりにもお堅いかも知れません。勿論、盆踊りの存在理由とも言える「祖先供養」を外す事はできません。そのことはしっかりと子供達に伝える事が大事で、それを暗黙の了解事項に仕立て上げつつ、なにか娯楽的な潤いと装いを付け加える事が大事ではないかなと思っています。
~盆踊りの直接的な起源を遡ると、元々は儀式的な色合いが強い。がやがて太鼓などが用いられ、娯楽的な要素が時代を下るごとに大きくなる。挙句はて騒ぎが昂じて、室町時代から明治時代までの間、盆踊り禁止令が度々出されることに……~
盆踊りで騒ぎすぎてしまった挙句、禁止令が出ていた時代があったなんて知りませんでした。でも、なんとなく理解できるような気がします。盆踊りそれ自体が、地域をあげての一大行事ですし、また夜開催されるところから、特に昔は、若い男女が村の日常性から解放され、「恋愛活動の自由」を謳歌する場所でもあったわけですから…。ここにまた、お酒などのアルコール類が入ったら、もうどうにも止まらないといった感じでしょう。因みに、高三の盆踊りでは、来賓の方に対してだけ接客の際にビール等のアルコールを出するのみで、ビール等を販売する出店は一店舗たりともありません。また、昔から盆踊り会場内は禁煙を徹底しています。そこから、若い夫婦が安心してお子様を連れて会場に足を運んでくれています。未成年らしき者がビールを飲んで大騒ぎしていて迷惑だとか、歩行喫煙者の存在によって大事なわが子が火傷を負いかねないとかの心配がないのが高三盆踊りなんです。
~盆踊りの系統には大別して2つの流れがある。「伝統踊り」と「民謡踊り」 と呼ばれるもの。「民謡踊り」は、戦後に発展したもの。「伝統踊り」のような生演奏はなく、民謡カセット(レコード・CD・etc)を流して街の公園や公民館などで集団で踊るのが一般的。昭和初期、中山晋平の作曲で大ヒットした「東京音頭」に代表される「新民謡」の興隆により、戦後、地域交流の場として盆踊りが見直された時、それらの最新ヒット曲が活用され、その後も「ドラえもん音頭」など次々と盆踊りのための新しい曲と振りが作られた。現在、民謡・歌謡民謡をはじめ、アニメ・子供向けキャラクター・バラエティ番組・テレビドラマなどから多彩な曲が用いられている。また、各々のグループ・組織別に浴衣・衣装を揃えたり、仮装したりと観衆を意識した見どころが多いことも特徴的である~
子供向け人気アニメ番組に流れている主題歌をもっともっと活用した曲作りとか、また、「志村けんのバカ殿」、二コレットのテレビコマーシャルに出てくる「全身タバコ」とか、定番の浴衣姿とは違った「仮装」で踊るといった工夫に、新しい盆踊りの幕開けがあるのかもしれません。
そういえば、「ニュー盆踊り」と叫ばれていますよね。本区で……。
この暑い8月は、豊島区内のあちこちで、様々な熱いイベントが行われておりますが、中でもこの時期のイベントで、誰もが楽しみにしていて、地域の親睦を図るにはもってこいのものと言ったら、基本的に町会ごとに実施・展開されている「盆踊り」ではないでしょうか。
夏の夜の風物詩とも言える「盆踊り」。そのイメージも、現代社会においてはむしろ単純明快に理解されており、お盆の時期の夜、音楽にのって浴衣の集団が踊るといった感じではないでしょうか。東京音頭とかをはじめとして、新民謡と呼ばれる曲で踊る民謡踊りや、子供向けにアニメキャラクターの盆踊りの曲なども登場して、大人から子供まで、老若男女問わず楽しめる娯楽的な踊り・イベントとのイメージが定着しているみたいです。
最も、今もって町会長が不在で、とりたてて商店街もないがゆえに商店会長不存在の、集団指導体制下の高三町会では、そもそもこの夏にまた盆踊りをするかどうかが、5月に行われる総会で改めて議論されます。他町会さんからすれば、町会の盆踊りはもう既定の方針であり、その実施は当然の事として暗黙の合意があるかと思いますが、こと私のいる高三町会におきましては、毎夏、実施の有無・立ち上げから議論しなければならない状況になっているのであります。もっとも、総会ではなんだかんだと意見は沢山出たりはしますが、今申しましたように、毎年夏、老若男女が楽しみにしているイベントの一つでもありますし、また、住民相互の親睦やコミュニケーションを図るにはきわめて効果的ですから、結局はこの夏もやりましょうということになっていきます。ただ、それなら老若男女が楽しみにしなくなってきたら、この盆踊りそのものは一体全体どうなってしまうのか。私達は、そんな心配もしてしまう今日この頃なんです。まずは、楽しみを越えた存在・存続理由を、盆踊りに見出して、それを伝えねば…。
~盆踊りは、仏教行事の一つである盂蘭盆会(うらぼんえ)に迎えた祖霊を慰め、再び送るために大勢の人が踊る「念仏踊り(ねんぶつおどり)」が源流。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号に節を付け、唱えつつ踊るもの。盂蘭盆会はお盆の正式名称。「盆」「盆会」「精霊会(しょうりょうえ)」「魂祭(たままつり)」などとも呼ばれる。施餓鬼や盆飾り、精霊流しを行うなど、現在でも日本古来の民族風習が色濃い行事。斎明天皇の治世である657年に盂蘭盆会を設けたことが史実上初めて登場。8世紀頃には夏場に祖先供養を行うという民俗風習が日本で確立。以来1300年もの歴史を持つ。旧暦7月15日を中心として行われている。この日は十五夜、すなわち満月にあたり、月明かりの下で夜通し踊ることができるほど明るかった。盆踊りの場は、あの世との境界・接点となる。その踊りには、霊と踊り手が親しみ、通じ合うことを表す所作が盛り込まれている。月明かりや篝火のほの暗い幻想の中、踊り手はあの世に行った人々の姿を別の踊り手に重ね合わせ、精霊と一緒に踊っているような錯覚に陥り、故人を偲ぶ~
ちょっとこの路線では、何ゆえ盆踊りを実施・存続するのかを理由付けるには、あまりにもお堅いかも知れません。勿論、盆踊りの存在理由とも言える「祖先供養」を外す事はできません。そのことはしっかりと子供達に伝える事が大事で、それを暗黙の了解事項に仕立て上げつつ、なにか娯楽的な潤いと装いを付け加える事が大事ではないかなと思っています。
~盆踊りの直接的な起源を遡ると、元々は儀式的な色合いが強い。がやがて太鼓などが用いられ、娯楽的な要素が時代を下るごとに大きくなる。挙句はて騒ぎが昂じて、室町時代から明治時代までの間、盆踊り禁止令が度々出されることに……~
盆踊りで騒ぎすぎてしまった挙句、禁止令が出ていた時代があったなんて知りませんでした。でも、なんとなく理解できるような気がします。盆踊りそれ自体が、地域をあげての一大行事ですし、また夜開催されるところから、特に昔は、若い男女が村の日常性から解放され、「恋愛活動の自由」を謳歌する場所でもあったわけですから…。ここにまた、お酒などのアルコール類が入ったら、もうどうにも止まらないといった感じでしょう。因みに、高三の盆踊りでは、来賓の方に対してだけ接客の際にビール等のアルコールを出するのみで、ビール等を販売する出店は一店舗たりともありません。また、昔から盆踊り会場内は禁煙を徹底しています。そこから、若い夫婦が安心してお子様を連れて会場に足を運んでくれています。未成年らしき者がビールを飲んで大騒ぎしていて迷惑だとか、歩行喫煙者の存在によって大事なわが子が火傷を負いかねないとかの心配がないのが高三盆踊りなんです。
~盆踊りの系統には大別して2つの流れがある。「伝統踊り」と「民謡踊り」 と呼ばれるもの。「民謡踊り」は、戦後に発展したもの。「伝統踊り」のような生演奏はなく、民謡カセット(レコード・CD・etc)を流して街の公園や公民館などで集団で踊るのが一般的。昭和初期、中山晋平の作曲で大ヒットした「東京音頭」に代表される「新民謡」の興隆により、戦後、地域交流の場として盆踊りが見直された時、それらの最新ヒット曲が活用され、その後も「ドラえもん音頭」など次々と盆踊りのための新しい曲と振りが作られた。現在、民謡・歌謡民謡をはじめ、アニメ・子供向けキャラクター・バラエティ番組・テレビドラマなどから多彩な曲が用いられている。また、各々のグループ・組織別に浴衣・衣装を揃えたり、仮装したりと観衆を意識した見どころが多いことも特徴的である~
子供向け人気アニメ番組に流れている主題歌をもっともっと活用した曲作りとか、また、「志村けんのバカ殿」、二コレットのテレビコマーシャルに出てくる「全身タバコ」とか、定番の浴衣姿とは違った「仮装」で踊るといった工夫に、新しい盆踊りの幕開けがあるのかもしれません。
そういえば、「ニュー盆踊り」と叫ばれていますよね。本区で……。
グレイトなピアニスト
7月3日から始まった、10日間にも及ぶ東京都議会議員選挙もようやく終わりを告げ、街の中にもゆったりとした空気の存在を感じている今日このごろ、過日の「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で、日本人として始めて優勝した「辻井伸行」さんと、幸運にも面会する運びとなりました。
何せ国際的にも評価の高いコンクールでの優勝者・チャンピオンです。その後も色々な形でスケジュールが入り込んでいるでしょうから、当日の「お見えになりましたよ」といった旨の案内が私のところにくるまでは、「本当に会えるのかな」と、心配というか、気が気ではありませんでした。と言いますのも、既に私の家族が、7月7日にあった「七夕○○○○」(何でもこれは毎年行われているコンサートらしいです)というリサイタルと言いますか、コンサートに、ようやくチケットを入手して、そのピアノに感銘を受けて帰って来たと共に、彼自身がこれからかなりのスケジュールをこなし続けるとの情報を得ていたからです。
一たび時の人になると、やっぱりこういう流れになっていくのですね・・・。
さて、そうこうする間に、予定の時間より20分も早く、「辻井氏来る」の報を受けました。ワクワクしながらも面会場所に駆けつけましたが、そのお隣には、「辻井いつ子」さん、つまりピアニスト辻井伸行さんのお母様も同席されていました。
当日の辻井伸行さんとの面談参加者は、何も私だけではありませんでしたから、様々な角度からの意見交換がなされましたし、その意見交換・面談の節々から、私が今まで会ったこともないような、素晴らしい精神性と美意識を持った若者像が浮かび上がってきました。何よりも嬉しかった事は、この豊島区にお住まいである事は勿論でしたが、会話のところどころに、「何か私でお役に立つことがありましたら、おっしゃってください」とのフレーズが数多くでてきた事です。「このような謙虚な姿勢を同世代の若者に見せてやりたいな」、そう思ったのは私だけではないと思いますし、事実、彼がこの言葉を口にする度に、列席者の皆さんが、自身の一挙手一投足を、あるいは又呼吸を、止めるがごとき静謐な雰囲気に包まれていたようでした。
と同時に、このような姿勢を持つわが子に育て上げたお母さんに対して、関心を抱かないはずもなく、私からの話は、お母さんに向けたものになっていました。
そこで、ここまで息子さんを立派に育ててきたお母さんに、「欧米と日本とで、ピアニストとして育てるにあたり、その環境に格差みたいなものはあるのでしょうか」、と聞いてみました。それは、かねてから私は、欧米の音楽、特にクラシックというものの年代的な厚みに関心を持っておりまして、モーツァルトやベートーベンといった音楽は、日本で言うと江戸時代にも当たる頃の音楽です。それが未だにかく家庭で、それぞれの街中で流れていて、それを未だに自然と聞いている文化に尊敬の念を持っているからです。今の日本で、はたして江戸時代の音楽をかくご家庭で流して聴いているといたことは、まずはありえないでしょう。
そう力んで聞いては見たものの、そのご回答は極めてあっさりしたものでした。
「特に格差を感じたことはありませんし、今はむしろ、アジアの方が音楽に熱心かもしれませんね・・・」、といったものでした。
最もこの質問から、辻井伸行さんが関連して話された事が興味津々で、ある意味で、すべての芸術家やアスリートに通じる事かもしれません。
「いつも中国や韓国のピアニストが最後のほうにまで残ってくるし、彼らは絶対優勝してやるんだといった気迫が物凄いんです。もうそれは彼らが弾いているピアノの音色でまず伝わってきます」「そういった中で、僕はいつも自分自身がピアノを弾くことを楽しんでやっている。自分らしいピアノ、自分のピアノをやることに集中することが、大切なんです」「特に、楽しんでやることがとても大事なんです」
そういった話を、身をゆすりながらしてくれました。
既に、グレイトの域に達している感がありました。
この若者の未来がとっても楽しみになってきましたし、この子を育てたお母様には、全国をめぐってわが子の才能を発見し、それを伸ばしたお話を講演してもらいたいものです。
※ 辻井伸行さんプロフィール
昭和63年生まれ。
平成2年 2歳 ピアノに触れる。2歳3ヶ月、母の口ずさんだ「ジングルベル」 に合わせておもちゃのピアノで演奏。
平成8年 8歳 モスクワ音楽学院大ホールで演奏。
平成10年 10歳 ピティナ・ピアノコンペティションD級で金賞。
アメリカ(カーネギーホール)、チェコ、台湾(国家音楽庁)などでも 演奏。
平成12年 12歳 サントリーホールで初リサイタル。
平成14年 13歳 フランスで佐渡裕指揮のラムルー管弦楽団と共演。
平成14年 14歳 東京オペラシティ・コンサートホールで東京交響楽団と共 演。
平成15年 15歳 やまと郡山城大ホールでピアノリサイタル。
平成16年 16歳 東京交響楽団の定期演奏会のソリストに抜擢。
平成17年 17歳 第15回ショパン国際ピアノコンクール(ポーランド・ワルシャ ワ)に最年少で出場。「ポーランド批評家賞」受賞。
平成19年 19歳 デビューアルバム発売。
平成20年 20歳 第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール(アメリカ・テ キサス)で優勝。
※ バン・クライバーン国際ピアノコンクール
アメリカで開催される国際的なピアノコンクールで、チャイコフスキー国際コンクールの第1回の優勝者、バン・クライバーンを祝して、昭和37年より、原則4年ごとに開催されている。開催地はテキサス州フォートワース。
※ 同優勝者一覧
1962 ラルフ・ボダペク。
1966 ラドゥ・ルプー。
1969 クリスティーナ・オルティーズ。
1973 ウラディミール・ビアルド。
1977 スティーブン・デ・クローデ。
1981 アンドレ=ミシェル・シューブ。
1985 ホセ・フェガーリ。
1989 アレクセイ・スルタノフ。
1993 シモーネ・ペドローニ。
1997 ジョン・ナカマツ。
2001 スタニスラフ・ユデニチ。
オルガ・ケルン。
2005 アレクサンダー・コブリン。
2009 辻井伸行。
チャン・ハオチェン。
何せ国際的にも評価の高いコンクールでの優勝者・チャンピオンです。その後も色々な形でスケジュールが入り込んでいるでしょうから、当日の「お見えになりましたよ」といった旨の案内が私のところにくるまでは、「本当に会えるのかな」と、心配というか、気が気ではありませんでした。と言いますのも、既に私の家族が、7月7日にあった「七夕○○○○」(何でもこれは毎年行われているコンサートらしいです)というリサイタルと言いますか、コンサートに、ようやくチケットを入手して、そのピアノに感銘を受けて帰って来たと共に、彼自身がこれからかなりのスケジュールをこなし続けるとの情報を得ていたからです。
一たび時の人になると、やっぱりこういう流れになっていくのですね・・・。
さて、そうこうする間に、予定の時間より20分も早く、「辻井氏来る」の報を受けました。ワクワクしながらも面会場所に駆けつけましたが、そのお隣には、「辻井いつ子」さん、つまりピアニスト辻井伸行さんのお母様も同席されていました。
当日の辻井伸行さんとの面談参加者は、何も私だけではありませんでしたから、様々な角度からの意見交換がなされましたし、その意見交換・面談の節々から、私が今まで会ったこともないような、素晴らしい精神性と美意識を持った若者像が浮かび上がってきました。何よりも嬉しかった事は、この豊島区にお住まいである事は勿論でしたが、会話のところどころに、「何か私でお役に立つことがありましたら、おっしゃってください」とのフレーズが数多くでてきた事です。「このような謙虚な姿勢を同世代の若者に見せてやりたいな」、そう思ったのは私だけではないと思いますし、事実、彼がこの言葉を口にする度に、列席者の皆さんが、自身の一挙手一投足を、あるいは又呼吸を、止めるがごとき静謐な雰囲気に包まれていたようでした。
と同時に、このような姿勢を持つわが子に育て上げたお母さんに対して、関心を抱かないはずもなく、私からの話は、お母さんに向けたものになっていました。
そこで、ここまで息子さんを立派に育ててきたお母さんに、「欧米と日本とで、ピアニストとして育てるにあたり、その環境に格差みたいなものはあるのでしょうか」、と聞いてみました。それは、かねてから私は、欧米の音楽、特にクラシックというものの年代的な厚みに関心を持っておりまして、モーツァルトやベートーベンといった音楽は、日本で言うと江戸時代にも当たる頃の音楽です。それが未だにかく家庭で、それぞれの街中で流れていて、それを未だに自然と聞いている文化に尊敬の念を持っているからです。今の日本で、はたして江戸時代の音楽をかくご家庭で流して聴いているといたことは、まずはありえないでしょう。
そう力んで聞いては見たものの、そのご回答は極めてあっさりしたものでした。
「特に格差を感じたことはありませんし、今はむしろ、アジアの方が音楽に熱心かもしれませんね・・・」、といったものでした。
最もこの質問から、辻井伸行さんが関連して話された事が興味津々で、ある意味で、すべての芸術家やアスリートに通じる事かもしれません。
「いつも中国や韓国のピアニストが最後のほうにまで残ってくるし、彼らは絶対優勝してやるんだといった気迫が物凄いんです。もうそれは彼らが弾いているピアノの音色でまず伝わってきます」「そういった中で、僕はいつも自分自身がピアノを弾くことを楽しんでやっている。自分らしいピアノ、自分のピアノをやることに集中することが、大切なんです」「特に、楽しんでやることがとても大事なんです」
そういった話を、身をゆすりながらしてくれました。
既に、グレイトの域に達している感がありました。
この若者の未来がとっても楽しみになってきましたし、この子を育てたお母様には、全国をめぐってわが子の才能を発見し、それを伸ばしたお話を講演してもらいたいものです。
※ 辻井伸行さんプロフィール
昭和63年生まれ。
平成2年 2歳 ピアノに触れる。2歳3ヶ月、母の口ずさんだ「ジングルベル」 に合わせておもちゃのピアノで演奏。
平成8年 8歳 モスクワ音楽学院大ホールで演奏。
平成10年 10歳 ピティナ・ピアノコンペティションD級で金賞。
アメリカ(カーネギーホール)、チェコ、台湾(国家音楽庁)などでも 演奏。
平成12年 12歳 サントリーホールで初リサイタル。
平成14年 13歳 フランスで佐渡裕指揮のラムルー管弦楽団と共演。
平成14年 14歳 東京オペラシティ・コンサートホールで東京交響楽団と共 演。
平成15年 15歳 やまと郡山城大ホールでピアノリサイタル。
平成16年 16歳 東京交響楽団の定期演奏会のソリストに抜擢。
平成17年 17歳 第15回ショパン国際ピアノコンクール(ポーランド・ワルシャ ワ)に最年少で出場。「ポーランド批評家賞」受賞。
平成19年 19歳 デビューアルバム発売。
平成20年 20歳 第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール(アメリカ・テ キサス)で優勝。
※ バン・クライバーン国際ピアノコンクール
アメリカで開催される国際的なピアノコンクールで、チャイコフスキー国際コンクールの第1回の優勝者、バン・クライバーンを祝して、昭和37年より、原則4年ごとに開催されている。開催地はテキサス州フォートワース。
※ 同優勝者一覧
1962 ラルフ・ボダペク。
1966 ラドゥ・ルプー。
1969 クリスティーナ・オルティーズ。
1973 ウラディミール・ビアルド。
1977 スティーブン・デ・クローデ。
1981 アンドレ=ミシェル・シューブ。
1985 ホセ・フェガーリ。
1989 アレクセイ・スルタノフ。
1993 シモーネ・ペドローニ。
1997 ジョン・ナカマツ。
2001 スタニスラフ・ユデニチ。
オルガ・ケルン。
2005 アレクサンダー・コブリン。
2009 辻井伸行。
チャン・ハオチェン。
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