2014年3月31日月曜日

被災地の視察を終えて(後篇)≪平成23年10月≫


 
 先々月号から触れている東日本大震災と津波による被災地を中心とした視察。

まずは、その視察二日目の96()ですが、宿泊先で朝食をバイキングで済ませた後に、午前750分には同ホテルをチェックアウト。約2時間をかけて訪問先である【釜石市役所】に向かいました。到着後は同市の職員の方々と約1時間30分ぐらいの意見交換をさせていただきました。まずは被害のあらましですが、釜石市は最大震度6弱で、824日、1000の時点で、死者882名、行方不明221名、負傷者不明という事、また家屋倒壊数(全壊+半壊)は不明との事でした。ここでは、市民生活部の山田守防災課長と総務企画部の新張英明総合政策課長のお話がとっても参考になった…、と言いますか、切実な訴えとして受け止めさせてもらいました。山田課長からはこの日までに把握している被害状況に関しての総論的な報告があった後、率直な感想を聞かせてもらいました。「このような甚大な被害に遭って、全国各地から様々な支援を頂戴したが、特に姉妹都市の存在が一番有難かった。その一方で国や県はあまり役に立ってくれませんでした」「当日は議会の真っ最中で、これまで感じたことのない巨大なゆれが来て市内は車で大渋滞となってしまった。その30分後に津波が壁の様に迫ってきました」「その一部始終を市役所の屋上から見ていましたが、その後は市役所は完全に停電。職員と議員の多くが、ここに3日間閉じ込められてしまいました」「ちなみに今現在、警察官200人体制でもって死者・行方不明者を探していますが、その一方、市内の小学生・中学生の死者は、防災教育に力を入れていたお陰でゼロ、これは世間では『釜石の奇跡』と言われています」と。また、新張課長からは、「まずは『不堯不屈の精神』と『希望』を掲げました」「今回の被災を契機に、これからは防災というよりも減災の取り組みにシフトしていきますが、その際『多重防御』という観点が大事と考えています。例えば、津波の来ない地域に道路(三陸縦貫自動車道)を作るなど…。ちなみに防波堤・防潮堤は国・県の仕事なので、早く方向性を出して欲しい」と。このお二方以外にも、議会事務局の岡崎貞夫事務局長、同じく伊藤修治議事係主任が同席されて、何点かの体験談を披歴してくれましたが、その一つひとつのエピソードが、命と紙一重のところで巻き起こっている事柄であることがヒシヒシと伝わってまいりました。ご案内の通り釜石市は、近代工業の幕開けの地と言っても良い土地柄ですから、是非ともものづくりの推進や、海洋研究をしっかりした上での水産業の復活・漁業の復興を、近代産業の原点がここにあるという自負心・気概をもって達成してもらいたいものです。午後、昼食をとった後は、約1時間半をかけて次の訪問先の【大船渡市役所】へ向かいました。到着後は、ここでも約1時間半にわたる意見交換をしました。

まずは被害のあらましですが、大船渡市は最大震度6弱で、812日の時点で、死者331名、行方不明者117名、負傷者不明という事、また家屋被害総数は5,083棟との事でした。さて、到着して議長応接室に通されると、佐藤丈夫市議会議長に応接していただき、その後は同市の一般市民が撮影した被災動画を、議会事務局の三浦勝朗局長の解説を頂戴しながら視聴しました。意見交換の中では、831日に解散した災害対策本部に代わって組織された災害復興局の佐藤高廣局長がしっかりとした復興スケジュールを教えてくれました。「既に災害復興計画を策定して、その説明会・勉強会を随時展開して市民の合意形成をしている。10年計画を前期(3)・中期(3)・後期(4)と分け、そこの中で課題設定・目標・方針・施策の4つの視点・柱を立てています」と。意見交換会後は、市役所前に停めてあった練馬区から寄贈されたというトヨタのプリウスをシゲシゲと見ながら、市役所職員さんに案内されて豪華客船が停泊しているという港を視察して大船渡市を後にしました。

次に、視察三日目の97()ですが、宿泊先をチェックアウトした後、数分のところにある世界遺産奥州平泉観光協会を訪問しました。ここでは観光協会の畠山勝彦事務局長が親切に応対してくれるとともに、急遽、平泉町の菅原正義町長との懇談をセッティングしてくれました。菅原町長からは、町おこしに対する意気込みを、畠山事務局長からは、まさにご自身がここで生まれ育ったことからくる郷土愛を、それぞれ感じ取ることが出来ました。畠山事務局長からは、「311直後4月中旬ぐらいまでは観光客はゼロ。それが4月下旬から徐々に、そして5月の連休中にようやく3万人弱が来てくれた」「やがて625日の世界遺産になってからはこれまでの5割増しの観光客が来るとともに、放射能の絡みで福島県に行けなくなった観光客が平泉に来ると言うパターンも生まれた」「いずれにしろ世界遺産となる前は、通過型観光地であったものが、中尊寺から平泉へと面的広がりが出来たおかげで、現在は滞在型観光地へと変化してきている」と。話の中感銘を受けたことがあります。それは、平泉の世界遺産で浮かれることなく、ここでの観光行政のスタートに当たっては、終戦記念日の翌日の816日の「大文字火」で、この度の東日本大震災津波被害でお亡くなりになられた方々を偲んで、しっかりと慰霊祭を執り行ったという事です。また、ここで学び取ったことは、いずれ本区が環境型新庁舎を整備することで池袋全体の街が大勢の来街者を招き入れるようになった際に、きっと生かしていきたいと思います。昼食後は、一路義援金を届けに【登米市役所】へと向かいました。ここでは市議会の田口政信議長と布施孝尚市長がそれぞれ出迎えてくれるというので、遅刻の無いようにと慎重に車で1時間20分の移動をしました。まずは被害のあらましですが、登米市は最大震度は6強で、829日現在、死者22名、行方不明4名、負傷者51名という事、また家屋被害総数は4,164棟との事でした。ここでは何と言っても布施市長のご挨拶に感銘を受けました。今回の視察では、それぞれの訪問先に郵便で、豊島区内の方から被災地の役に立ててもらいたいとして頂戴した携帯電話の充電機を大量に寄贈させていただいたのですが、布施市長からは、「この度の震災では何と言っても通信手段が遮断され、すべての市民が孤立してしまったが、そのさいの充電切れを克服する、命をつなぐ充電器を頂戴したことは感謝に堪えません」と。ここでは自民党豊島区議団が街頭募金で集めた浄財をお贈りしてまいりました。

最後に、視察の四日目は、被災した人々に元気になってもらおうと活動しているエンジェル・ピースにかかわっている皆さんのところを訪問しました。実際に被災した方3名と一緒になって、車内からその方々の無くなった住居跡や仕事先を見て回り、その後お話を聞くことが出来て、私たち一人一人が今回の震災とどう向き合い支援していくべきかを考えさせられたひと時でした。

様々な場所・時間で視察を展開してまいりました。ここでの収穫を豊島区に活かすべく、仙台駅発やまびこ258号で東京へ。お疲れ様でした。