2014年3月31日月曜日

従軍慰安婦について≪平成23年12月≫

 とうとう韓国ソウルの日本大使館前に、「元慰安婦を象徴する『少女の像』」が設置されてしまいました。その一方では、我が国東京で、霞が関の外務省前で元慰安婦を支援する「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動2010」などが集会を開いて「慰安婦問題」を訴え、シュプレヒコールを上げたところ、日の丸を掲げた団体に拡声器などで猛烈に抗議され、終いには、トラブル防止で警備していた警察官ともみ合いになるなど、ものものしい雰囲気が漂ったとの事です。

さて、問題の碑の建立計画は今年に入って本格化したそうです。韓国の設置団体側は、国内の所管の役所などへの働きかけを進め、7月に概要を公表していたとの事です。何でも碑は高さ約120センチの少女の像に空席の椅子が並ぶデザイン。しかもこの碑を「平和の碑」と名付けたそうで、ここを訪れた人に、像を隣に記念写真を撮ってもらいたいと主張しているそうです。

この碑については、韓国の憲法裁判所が今年の夏頃、元慰安婦の賠償請求権をめぐる韓国政府の努力不足を違憲と判断していることや、設置団体側の活動が聖域化していて批判の対象となりにくいことから、韓国政府自身、撤去を働きかけるのは難しいとみるのが一般的です。

それに対して、我が日本の姿勢です。藤村修官房長官は、「在韓日本大使館前に『慰安婦の碑』を建立したことに対して韓国政府に建設中止を申し入れてきたが、建設が強行されたのは誠に残念である」として、引き続き碑の撤去を求めることも含め韓国政府に抗議する考えを、一応は示しています。しかし、同時に、藤村氏は、近じか予定されている李明博大統領の訪日日程について変更はないと言っていますから、野田佳彦首相と李大統領の会談については、あくまで大きなテーマの話をするわけで、野田首相が碑建設問題に対し強い抗議は行わないことになるでしょう。
 そもそも慰安婦の方々のほとんどは、契約に基づいて商売をしていたのであり、さらにその多くは朝鮮側の業者によって集められた女性達です。しかし、宮沢内閣の謝罪と河野談話が決定的根拠となっており、これで韓国は官民ともに、本来ならその大部分が虚構に過ぎない「慰安婦問題」を外交カードとして利用し続けているのが現状であると言って良いでしょう。
 ここのところを、朝鮮総督府の事務官として仕え、当時の実情をよく知る大師堂経慰氏は、この虚構がいかにでっち上げられ、独り歩きを始めたのかを整理して提示したうえで、自身の体験をもとに、次のように記しています。

「婦女子の強制連行がなかったと思う根拠の第一は、もしも婦女子の強制連行があったとすれば、その目撃者は強制連行された者の何倍もいたはずだし、いかに戦時中であっても大きな抗議運動が展開されて当然であるはずだが、目撃証言も抗議運動も一切なかった事実である」「この傍証として、昭和4年の光州事件を取り上げる。日本人中学生が朝鮮人女学生をからかったことが原因で、大規模な学生抗議運動が起こったのである」「からかっただけで学生抗議運動が起こる土地で、婦女子を強制連行したらどうなるか。常識で考えればわかるではないか」
 それにしても、なぜ今頃になって慰安婦の賠償問題が蒸し返されるのでしょうか。
 日本はいかに考え・整理し、対処すべきでしょうか。

まず、歴史的事実として、慰安婦は公権力による動員や強制によるものではなかったわけですから、国家による賠償や補償の対象ではありません。戦前、日本軍が駐屯していた戦地に慰安所があり、慰安婦という女性らが存在していたことは歴史的事実ですが、多くは貧困による「身売り」がその背景にあり、賠償責任が発生する公権力による動員や強制はありませんでした。
また、仮に賠償責任があったとしても1965年の協定で解決しているはずです。1965年、日韓両国が国交を正常化した際、韓国は日本から無償3億ドル、有償2億ドルの資金を受け取っているのです。そのとき両国が締結した「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」第2条の1項で「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されるものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とされています。
さらに、日本統治時代の韓国人らの個人的補償は韓国の国内問題に過ぎません。個人補償金も含めて日本から受け取った無償3億ドル、有償2億ドルの使い道は、韓国が独立国として自主的に決めたのです。当時の日本外貨準備は18億ドルであり、韓国の外貨準備は1億3千万ドルで貿易赤字が2億9千万ドルだったから、5億ドルという資金の大きさが分かります。韓国政府はそれを浦項製鉄所、昭陽江多目的ダム、京釜高速道路、農業近代化、中小企業育成などに投入し、韓国政府の計算によると10年間の経済成長寄与率年平均20%、経常収支改善効果年平均8%という輝かしい実績を残しました。
最後に、元慰安婦にもまた徴兵徴用者にも、すでに韓国政府が金銭的支援を実施しています。1990年代初め、朝日新聞の意図的誤報などにより慰安婦問題が日韓の外交懸案に浮上したとき、韓国政府は日本に対して強制性の認定と謝罪を求め、元慰安婦への金銭的支援は韓国政府が行うという姿勢を明確にしています。1993年6月に制定された「日帝下、日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」などにより韓国政府は元慰安婦に対して生活支援金や一時金の支給を行っています。補償の対象から外れてきた元徴用労働者らについても2007年12月に制定された「太平洋戦争前後の国外強制動員犠牲者など支援に関する法律」で同様の国内支援金が支払われるようになっています。
 もう日本は、「事なかれ」的に謝罪を繰り返し、「慰安婦強制連行」の虚構を放置することはやめるべきです。さもないと、いつまでも謀略勢力につけ込む隙を与えてしまいます。地政学上も大事な日韓関係に軋轢の種を残さない為にも、未来志向の関係にシフトする為にも、虚構の排除策に早急に取り組むべきです。歴史・公民教科書、竹島、従軍慰安婦など等、様々な問題が日韓関係に影響を及ぼしていますが、性根を据えて、粘り強く、事実を摘示し続け、真実と正論を訴え続けるしか打開する道はありません。

被災地の視察を終えて(後篇)≪平成23年10月≫


 
 先々月号から触れている東日本大震災と津波による被災地を中心とした視察。

まずは、その視察二日目の9月6日(火)ですが、宿泊先で朝食をバイキングで済ませた後に、午前7時50分には同ホテルをチェックアウト。約2時間をかけて訪問先である【釜石市役所】に向かいました。到着後は同市の職員の方々と約1時間30分ぐらいの意見交換をさせていただきました。まずは被害のあらましですが、釜石市は最大震度6弱で、8月24日、10:00の時点で、死者882名、行方不明221名、負傷者不明という事、また家屋倒壊数(全壊+半壊)は不明との事でした。ここでは、市民生活部の山田守防災課長と総務企画部の新張英明総合政策課長のお話がとっても参考になった…、と言いますか、切実な訴えとして受け止めさせてもらいました。山田課長からはこの日までに把握している被害状況に関しての総論的な報告があった後、率直な感想を聞かせてもらいました。「このような甚大な被害に遭って、全国各地から様々な支援を頂戴したが、特に姉妹都市の存在が一番有難かった。その一方で国や県はあまり役に立ってくれませんでした」「当日は議会の真っ最中で、これまで感じたことのない巨大なゆれが来て市内は車で大渋滞となってしまった。その30分後に津波が壁の様に迫ってきました」「その一部始終を市役所の屋上から見ていましたが、その後は市役所は完全に停電。職員と議員の多くが、ここに3日間閉じ込められてしまいました」「ちなみに今現在、警察官200人体制でもって死者・行方不明者を探していますが、その一方、市内の小学生・中学生の死者は、防災教育に力を入れていたお陰でゼロ、これは世間では『釜石の奇跡』と言われています」と。また、新張課長からは、「まずは『不堯不屈の精神』と『希望』を掲げました」「今回の被災を契機に、これからは防災というよりも減災の取り組みにシフトしていきますが、その際『多重防御』という観点が大事と考えています。例えば、津波の来ない地域に道路(三陸縦貫自動車道)を作るなど…。ちなみに防波堤・防潮堤は国・県の仕事なので、早く方向性を出して欲しい」と。このお二方以外にも、議会事務局の岡崎貞夫事務局長、同じく伊藤修治議事係主任が同席されて、何点かの体験談を披歴してくれましたが、その一つひとつのエピソードが、命と紙一重のところで巻き起こっている事柄であることがヒシヒシと伝わってまいりました。ご案内の通り釜石市は、近代工業の幕開けの地と言っても良い土地柄ですから、是非ともものづくりの推進や、海洋研究をしっかりした上での水産業の復活・漁業の復興を、近代産業の原点がここにあるという自負心・気概をもって達成してもらいたいものです。午後、昼食をとった後は、約1時間半をかけて次の訪問先の【大船渡市役所】へ向かいました。到着後は、ここでも約1時間半にわたる意見交換をしました。

まずは被害のあらましですが、大船渡市は最大震度6弱で、8月12日の時点で、死者331名、行方不明者117名、負傷者不明という事、また家屋被害総数は5,083棟との事でした。さて、到着して議長応接室に通されると、佐藤丈夫市議会議長に応接していただき、その後は同市の一般市民が撮影した被災動画を、議会事務局の三浦勝朗局長の解説を頂戴しながら視聴しました。意見交換の中では、8月31日に解散した災害対策本部に代わって組織された災害復興局の佐藤高廣局長がしっかりとした復興スケジュールを教えてくれました。「既に災害復興計画を策定して、その説明会・勉強会を随時展開して市民の合意形成をしている。10年計画を前期(3年)・中期(3年)・後期(4年)と分け、そこの中で課題設定・目標・方針・施策の4つの視点・柱を立てています」と。意見交換会後は、市役所前に停めてあった練馬区から寄贈されたというトヨタのプリウスをシゲシゲと見ながら、市役所職員さんに案内されて豪華客船が停泊しているという港を視察して大船渡市を後にしました。

次に、視察三日目の9月7日(水)ですが、宿泊先をチェックアウトした後、数分のところにある世界遺産奥州平泉観光協会を訪問しました。ここでは観光協会の畠山勝彦事務局長が親切に応対してくれるとともに、急遽、平泉町の菅原正義町長との懇談をセッティングしてくれました。菅原町長からは、町おこしに対する意気込みを、畠山事務局長からは、まさにご自身がここで生まれ育ったことからくる郷土愛を、それぞれ感じ取ることが出来ました。畠山事務局長からは、「3・11直後4月中旬ぐらいまでは観光客はゼロ。それが4月下旬から徐々に、そして5月の連休中にようやく3万人弱が来てくれた」「やがて6月25日の世界遺産になってからはこれまでの5割増しの観光客が来るとともに、放射能の絡みで福島県に行けなくなった観光客が平泉に来ると言うパターンも生まれた」「いずれにしろ世界遺産となる前は、通過型観光地であったものが、中尊寺から平泉へと面的広がりが出来たおかげで、現在は滞在型観光地へと変化してきている」と。話の中感銘を受けたことがあります。それは、平泉の世界遺産で浮かれることなく、ここでの観光行政のスタートに当たっては、終戦記念日の翌日の8月16日の「大文字火」で、この度の東日本大震災津波被害でお亡くなりになられた方々を偲んで、しっかりと慰霊祭を執り行ったという事です。また、ここで学び取ったことは、いずれ本区が環境型新庁舎を整備することで池袋全体の街が大勢の来街者を招き入れるようになった際に、きっと生かしていきたいと思います。昼食後は、一路義援金を届けに【登米市役所】へと向かいました。ここでは市議会の田口政信議長と布施孝尚市長がそれぞれ出迎えてくれるというので、遅刻の無いようにと慎重に車で1時間20分の移動をしました。まずは被害のあらましですが、登米市は最大震度は6強で、8月29日現在、死者22名、行方不明4名、負傷者51名という事、また家屋被害総数は4,164棟との事でした。ここでは何と言っても布施市長のご挨拶に感銘を受けました。今回の視察では、それぞれの訪問先に郵便で、豊島区内の方から被災地の役に立ててもらいたいとして頂戴した携帯電話の充電機を大量に寄贈させていただいたのですが、布施市長からは、「この度の震災では何と言っても通信手段が遮断され、すべての市民が孤立してしまったが、そのさいの充電切れを克服する、命をつなぐ充電器を頂戴したことは感謝に堪えません」と。ここでは自民党豊島区議団が街頭募金で集めた浄財をお贈りしてまいりました。

最後に、視察の四日目は、被災した人々に元気になってもらおうと活動しているエンジェル・ピースにかかわっている皆さんのところを訪問しました。実際に被災した方3名と一緒になって、車内からその方々の無くなった住居跡や仕事先を見て回り、その後お話を聞くことが出来て、私たち一人一人が今回の震災とどう向き合い支援していくべきかを考えさせられたひと時でした。

様々な場所・時間で視察を展開してまいりました。ここでの収穫を豊島区に活かすべく、仙台駅発やまびこ258号で東京へ。お疲れ様でした。

被災地の視察を終えて(前篇)≪平成23年9月≫


 
 先月号でも若干触れましたが、さる9月5日から9月8日までのあいだ、3泊4日をかけて、私たち自民党豊島区議団10名は、東日本大震災と津波による被災地を中心に視察をしてまいりました。「百聞は一見にしかず」と申します。この例え通り、現地において国難とも言える未曽有の大災害の爪痕を目の当たりにすることで、地方議員としての知見を深めたいと切に感じたこと、また、千年に一度とも言われているこの度の大震災と津波、その復旧・復興を巡る人間の営みから、豊島区政、特に防災面等に生かせるものは無いか等を貪欲に吸収したいと思ったことが主な動機と言って良いでしょう。これまでも私たちは、豊島区の発展を願って、行政が取り組もうとしているホットな政策との連動を踏まえつつ、様々な角度から全国各地の自治体を視察する計画を立て、実施してまいりましたが、今年の場合は迷わず東北方面の視察と決めさせてもらいました。兎にも角にも、未だに東北地方の太平洋側は大震災と津波による甚大な被害、いわゆる未曽有の国難によって様々な産業が大打撃を受けていますし、かつ原発事故も相まった風評被害による大きな損失も受けている処です。視察先としては、最も被害のあった被災地を訪ね、現地の関係各位からご説明やご案内を頂戴しながら、意見交換に際しては災害発生時の関係者の対応や、取るべき行動を実体験に基づいた話を聞かせていただくこととしました。今後、そう遠くない時期に起きるであろうと言われている東京湾沖や首都直下型、あるいは東南海との三連動地震への対策等に備えて、豊島区に住む私たちが今なすべきことは沢山あります。

まずは視察初日の9月5日(月)です。JR東京駅を午前6時56分に発車する新幹線「はやて155」の車内にて全員集合。これから一路岩手県盛岡市を目指します。JR盛岡駅に午前9時44分に到着するや否や、予約をしておいたレンタカー:トヨタ・ハイエースグランドキャビンに全員が乗り込んで、早速【岩手県庁】を訪問しました。

岩手県議会の2階にある委員会室にて、同県の総務部総合防災室の職員の方々と約1時間30分かけて説明と意見交換をさせていただきました。

まずは岩手県全体の被害の状況ですが、8月26日・17:00の時点で、死者4,649名・行方不明1,927名、負傷者186名という事、また家屋倒壊数(全壊+半壊)は、24,680棟との事でした。私たちはこの被害状況の説明を受けた時は、一同唖然とするとともに、そもそも三陸海岸沿岸の自治体は、明治・昭和の三陸大津波の経験を踏まえているのだから世界的にも津波対策の先進地域だ、といった固定観念は見事なまでに吹き飛んでしまいました。次に説明を受けたのが、岩手県が作っている「岩手県被災者台帳システム」です。そもそも私たちが岩手県庁にお邪魔した理由は、東京都の主導で本区でも平成24年度以降に導入しようとしているこのシステムを学び取る事にあります。この被災者台帳システムは、被災者の被災状況や義援金支給状況などを総合的に管理するもので、その目的は、被災者の情報を包括的に管理することで生活再建に向けた支援の取り残しを防ぐことにあります。もちろんこのようなシステムは本来ならば各市町村が独自に導入するものではありますが、岩手県では特に沿岸部の自治体が津波によって壊滅的な被害を受けて、行政機能が著しく低下していますから、このようにして県が各市町村から情報提供をしてもらい、それを集約したうえでシステムを構築し、希望する市町村に提供することは極めて重要と言えます。説明では今現在、大船渡市が参加しているとの事でした。東京では調布市と本区が取り組むとの事です。このシステムでは、住民基本台帳や住家等の課税台帳、罹災証明書の発行状況などの基礎的データに加えて、仮設住宅への入居状況や義援金の申請・支給の結果の有無、医療や福祉分野などの相談とその対応ぶりなどが連結されて一つの台帳に統合されるので、これだけでも一世帯ごとに被災から現在までの状況を把握できるといったメリットがあるとの事です。説明を受けて、確かにこのようなシステムのもとで、各市区町村が被災者情報を総合的に把握してこそ、被災者の各種申請時の確認作業が軽減されますし、義援金の未申請など支援が受けられるのに手続きを行っていない人を掘り起こし、支援の漏れを防ぐことが出来ますね。もっとも、個人情報保護との絡みが出てきてしまいますから、その点のフォローが必要となってくるでしょうが、そこはパスワードを細分化させるとか、閲覧できる情報を制限するとかのセキュリティー対策が必要となってくるでしょう。

さて、昼食を素早く済ませた後は、次の訪問先の【宮古市役所】へと移動しました。この移動距離がまた結構ありましたっけ…。到着後は同市の職員の方々と1時間30分ほど説明と意見交換をさせていただきました。

まずは被害のあらましですが、宮古市は最大震度は5強で、8月23日、16:00の時点で、死者522名、行方不明122名、負傷者33名という事、また家屋倒壊数(全壊+半壊)は4,675棟との事でした。この数字もまた痛ましい限りですし、これから視察で訪れる自治体はすべて、このような状況の説明の連続だろうなと思うと無性にやるせなかったです。もっとも、市内姉吉(あねよし)地区では、過去の大津波の教訓から「ここより下に家を建てるな」という石碑が建っているとのことで、地域住民はみんなこの教えを守り、低地に家を建てていなかったために、集落内の被害は無かったという明るい話題もありました。

その他特に印象に残っているやり取りを申し上げますと、まずは同市の危機管理課長からは、震災と津波の直後から通信網が麻痺したため、市内で何が起こっているのかが分からない、従って、すべての情報は車で行き来ないし移動して集めざるを得なかったということ、また、豊島区の面積の8倍が水浸しになったし、地盤が下がったせいか以前よりやたらと海が近く感じるようになったということでした。次に同市の市民生活課長からは、なによりも仮設住宅での孤独死ゼロを目標にしている為に、安否確認や健康相談を適宜実施するとともに、そのベースともなる仮設住宅内地域コミュニティの構築に力を注いでいるとのことでした。さらに復興支援室長からは、如何せん職員でも被災した者が多かったので、6月20日まで定年延長することで職員を確保して、マンパワー不足を補ったとのことでした。

この日は、本当に様々な被災現場と被災状況を学ばせて頂きました。どれもこれも始めて見る・知る・聞くばかりの事柄でした。この日の宿泊先は、宮古市内では有名な浄土ヶ浜パークホテルでしたが、当然のことながら、宮古湾周辺や浄土ヶ浜という三陸を代表する景勝地も無傷では済みません。その傷跡が濃霧と雨で見ることが出来なかったのが、逆説的ではありますが、少しもの救いでした。

支え合い続けるということ≪平成23年8月≫


 
 来月の5日から8日にかけて、ようやく東北の被災地に足を運ぶことが出来ることとなりました。ここ最近になって、「おやっ、まだ被災地に行ってないの?」とか、「支援活動しないの?」とか、色々と言われることが増えてきたところでした。早く行動を起こしたいけど…。

確かに、これまでも職場の方たちが、一人また二人と東北方面に行くことを、傍らでお見送りしているような感じで、私も時間が出来たらボランティアなどで駆けつけたいな……、と感傷的に日々過ごしてきた観がありました。しかし、3・11後の一連の諸々の周囲の状況を見ていて、未だ動くに動けずといった事情があったのも正直なところです。それがどうやらここにきてやっと被災地の皆さん方を支援・応援に行くことの出来る環境が整ったと言えるのです。

東北方面に向かう……。これだけでは全く焦点があってなくて、一体全体何処に何しに行くんだか、よく分かりませんよね。

確か、4月1日だったでしょうか。岩手県の沿岸部にあります13の市町村が連携して「岩手県沿岸市町村復興期成同盟会」なるものが結成・設立されました。かなりごつごつしたネーミングですね…。なんだかかつての幕末明治期の、会津藩救済のためにできた組織、「奥羽越列藩同盟」を彷彿させますね…。

この復興期成同盟会なるものは、各自治体が個々に行動を起こすよりも、相互に連携・協力し合いながら、災害復旧・復興に向け、国や県に対して、必要な支援を要望する。個別に動くようなことは極力控えることや一致団結・一丸となって動くことで、長期にわたって沿岸市町村が一体となった取り組みを推進しようとの趣旨で立ちあがったものです。具体的には、被災した住民の生活の一日でも早い回復に向け、また、住民生活の安定を図るため、情報提供・市民相談の充実、公共土木施設とライフライン等の早期復旧、災害廃棄物の処理、教育環境の確保、保健・医療・福祉の確保、雇用確保及び産業の復興などについて、緊急的かつ優先的に取り組んでいくことがメインです。この同盟会がうまく機能していけば、これからの復旧・復興にもスピード感が増していくというものですね。

岩手県沿岸部にあるいくつかの市町村のなかで、いよいよ足を運ぶことが出来る自治体は「宮古市」「釜石市」「大船渡市」の3つです。主に復旧・復興の進捗状況と、例えば「罹災証明書」の発行業務をはじめとする行政実務、そして仮設住宅が抱える問題など、私たちが首都直下型大震災などに直面した際に取り組まなくてはならない事柄について、これらの自治体から忌憚のないところを聞いて学び取ってこようということです。

また、宮古(9月5日)・釜石(9月6日)・大船渡(9月6日)と南下してくるので、ついでと言っては失礼且つ恐縮ですが、集まった義援金を宮城県の「登米市」(9月7日)に届ける予定です。確かこの日の午後3時でしたか…、登米市長と登米市議会議長と会えることとなりました。

最終日の9月8日は、いよいよ被災された住民の皆さん、特に子供達と交流ないし意見交換をしてきます。このように言いますと、被災された住民の皆さんが今、今回の震災での行政の対応ぶりや満足度など、どのような気持ちでいるのかの話し合い程度と受け止められてしまいそうですが、今回はちょっと趣向が違います。まだまだメジャーではないものの、「エンジェル・ピース」という組織活動それ自体に関わってくるのが中心です。

このエンジェル・ピースですが、2011年3月11日に東日本大震災が発生した後、「グラウンドワーク三島」というNPO法人が行っている東北の子どもたちへの支援活動を、長期的に継続するために立ち上げられた新たな活動支援組織です。

私自身、阪神大震災の際避難所でボランティアをした経験者の方から、「モノの支援や復興は時間と共に改善されていくが、心の中に閉じ込められた悲しみや苦しみなどは、潜在意識として埋没し、簡単には解消てきない」「これらの傷を癒すためには、人と人とによる、継続的で多様な子どもたちへの心のケア・支援が、最も重要で効果的である」と聞いたことがあります。今後、エンジェル・ピースと題して、東北の子供達を対象にした「心を元気にするショートツアー」を、1万人規模で実施したり、また、多様な支援活動の一環として、「大学生出前寺子屋教室」の開校や「体と心のメディカルチェックツアー」「子どもスポーツ交流」「富士山に登って元気になろうツアー」などを継続的に実施して、子供達に「元気の風」を送り続けることを考えています。実際に、ショートツアーの参加者数は合計264人、大学生出前寺子屋教室の参加者数は、合計112人(被災地の子ども55人、大学生57人)に上っており、いずれも好評を博しています。

「子どもたちが大声で笑うのは久しぶりでした」「震災の日から泣くことを忘れていましたが、皆さんのやさしさに触れて、初めて、涙が止めどなく流れました。これから何とか助け合ってやっていきます」「津波で、家族の写真など、思い出の品は流れてしまったけれど、今回のツアーで新しい家族の思い出を作ることができました」などという感謝の声、そしてツアーの継続を望む声が数多く寄せられたとのことでした。被災地の子供達への長期的な応援は是非とも必要です。ですからこの「エンジェル・ピース」という活動支援組織の立ち上げは誠に時勢にかなったことですし、それに係ることで被災地をいつも支え続けていられると感じ取れます。

また、エンジェル・ピースでは、「心を元気にするショートツアー」の中で子どもたちが描いたイラストのTシャツなどを、「ハート・ブロッサム」シリーズとして企画・販売してます。8月12日にその販売展示会が開催されている銀座三越に子供を連れて行ってきたのですが、そこで見て感じた事は、確かに子どもたちの絵は、花やハートや虹色の鮮やかな色彩であふれており、大きな困難にも負けず、大輪の花、そして美しいハートを咲かせる!という前向きなメッセージが託されていたということです。私も3枚ばかりTシャツを購入して、我が家に居る時、風呂あがりに着たりしていますが、これを身につけている間、被災地の子供達の元気な心を応援していることを感じているような気がします。と言いますのも「ハート・ブロッサム」シリーズの収益金は全額、被災地の子どもたちのために使われますから…。

自然災害は、将来的にも、海外の国々や地域において起こるでしょうし、すでに起こっています。このエンジェル・ピースは、国境を越えて支援の輪を拡大させ、世界中の子どもたちに元気と勇気の風を送り、困難や障害を乗り越えられる精神力と体力を養成して、明るい地球と地域の未来を担っていってもらいたいと考えている組織です。この運動拠点である「石巻市」にも足を運んでまいります。これからずっと支え続け合いたいですね…。

2014年3月29日土曜日

新たなる決意≪時事一滴≫


読者の皆様方におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
お元気にてお過ごしでしょうか。
お伺い申し上げます。

近頃は、思うように時間が取れず、「時事一滴」(本橋ひろたかのコラム)執筆につきましても大変ご無沙汰しておりました。
一時期、メールマガジンにて「時事一滴」を連載しておりましたが、この度、再度原点に戻る意味で、この場所にて執筆・連載していくことと致しました。
ご愛顧してくださいますと嬉しい限りですし、その際は、忌憚のないご指摘を賜りますと幸甚です。

まだまだ至らぬ点が多々ある私では御座いますが、引き続きましてのご指導を謹んでお願い申し上げます。
何卒よろしくお願い致します。

                                                                                                                    豊島区議会議員 本橋弘隆

2010年5月6日木曜日

悲しみの3・10と4・13の存在

 それは、3月10日に開催された子ども文教委員会での、午前中の質疑応答がひと段落して終わり、午後からの質疑応答の再開時間を決める際の出来事でした。本来私は、委員(かつ議長)という身分では、総務委員会という常任委員会に帰属していますが、もう一つ、今度は純粋に、議長という身分で子ども文教委員会という常任委員会にも出席しています。この辺りは、今の副議長と役割分担をしているところでもあります。

(本橋)「えっ、何で…、ただ正午に黙とうするってだけじゃ傍聴者は訳が分からないでしょうに。もっとキチンと、分かりやすく案内すればいいのに…」
この度の第1回定例会での子ども文教委員会の特徴は、「報告案件」がかなり多い事でした。勿論、どの報告案件も大事なものばかりで、その内容に優劣をつけることは出来ないでしょう。ただ、その取り扱い量の多さから、いつにも増して委員会が開催されたことは特筆されてしかるべきですし、その開催日の一つが、冒頭申し上げた3月10日だったのです。

(事務局)「本日は、正午から黙とうが行われますので、午後の開催時間をお決めください」

 今年に入って間もなくのことです。特別区23区の議長には勿論のこと、三多摩の議長にも、東京都の石原慎太郎知事(実務は、東京都の生活文化スポーツ局・文化振興部・文化事業課が担っているのですが、ここで『文化』が出てくるのには、なんだか違和感をいだいてしまいますね…)から、3月10日、東京都庁第1本庁舎5階大会議場で行われる、「東京都平和の日記念式典」の招待状が届きました。何でも、平和国家日本の首都としての東京都は、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓うために、3月10日を「東京都平和の日」と定めたこと、そして、この日は、東京大空襲をはじめ戦災で亡くなられた方々を追悼するとともに、何よりも平和の願いを込めて、「東京都平和の日記念式典」を挙行すること、確か、そういった内容の手紙が添えられていました。
 勿論、私は、出席に○を付けて返信しました。
 
昭和20年3月10日、午前零時8分、東京上空…。日本軍玉砕とバンザイクリフの悲劇のあったサイパン島が陥落し、ここから、その当時の日本の総国家予算の半分以上の研究開発費をかけて製造されたといわれている「B29重爆撃機(愛称は、スーパーフォートレス)」334機が、暗闇の中轟音をたててやって来ました。今の墨田区や江東区、そして中央区あたりを中心に、絨毯爆撃を展開し、約2000トンの焼夷弾(新型焼夷弾)を、だいたい午前2時半頃まで落とし続けたのです。
その焼夷弾の落とし方がまた、アングロサクソン流ですね…。まずは、東西の5キロ、南北の6キロの範囲に焼夷弾を落として灼熱の炎で取り囲み逃げ惑う人々の退路を断ち、次に、1平方メートルあたりに、平均して3発の焼夷弾を落とすことで、人も、家屋も焼きつくす計画を遂行したわけですから…。

(読者)「えっ、1平方メートルあたりに3発も焼夷弾を落としたの?、なんてひどい事を…」

そのひどさをもう少し詳しくご説明しましょう。
「3発」と言っても、単純に3つの弾が落ちてくるというものではありません。このとき使われた焼夷弾は、その中に、ナパーム剤を中身とするM69という新型焼夷弾が48個束ねられて詰まっているのです。つまり、B29から投下された焼夷弾は、空中でパカッと帯が解かれ、48個のM69(新型焼夷弾)がばら撒かれる仕組みになっているのです。しかも、そのM69のお尻からは約1メートル位のリボンがひらひらと飛びだし、これによってM69の揺れを防ぐと共に、ここが点火もします(だから、当時の被災者の証言の中に、やたらと空から火の雨が降ってきたよ…、とのセリフが出てくるのでしょうね)。それが、次から次へと、雨あられのように天から降ってくるのですからたまったものではありません。しかも、アメリカは最もダメージを大きくするためのち密な実験までしての計画遂行ですから…。
実験…、何でもアメリカは、木と紙で出来ているとも言える日本家屋を焼き払う作戦計画策定ために、わざわざ国内の実験場に、2階建て12棟の長屋を建設し、建物内部には、ちゃぶ台・畳・座布団・炭火鉢・ふすま・障子・タライなど、ありとあらゆる日本的グッズを用意して、新型焼夷弾M69の試爆実験を繰り返し、その威力を確かめたといいます。
その結果が、「東京大空襲」です。
一夜にして焼死者約10万人、負傷者約11万4千人、戦災家屋約26万8千戸。東京の人々は、灼熱地獄の中にあって、逃げ惑い、逃げ切れずに、燃え上って絶命していったのです。これを国際法違反の非人道的空爆、人類史上空前絶後の戦争犯罪・大虐殺と言わないで、一体全体何と言うのでしょうか。私達日本人は、今もって告発者の立場にある事を忘れてはならないでしょう。
そのアメリカは、相も変わらずに、6大工業都市を隈なく爆撃した後、人口の多い順番に、日本全国の64の都市部焼き払っていったのです。

(事務局)「本日3月10日は、かつて東京大空襲のあった日です。東京都でも、また本区でも、正午に黙とうをささげる事となっております。つきましては、そこをご斟酌のうえ、午後の委員会の再開時刻をお決めください」

あの時、このような言い回しを事務局にしてもらいたかったですね…。先の大戦の悲劇は、現在生きている我々は勿論、将来の子孫にも語りつないでいかなくてはならないと思っています。そこを明確に意識していないと、直ぐに忘却の彼方へといざなわれてしまいますもの…。

4月13日、城北大空襲犠牲者追悼の会に参列してまいりました。既に15回目を迎えた「4・13根津山小さな追悼会」です。当日の実行委員会の皆さんの活動ぶりは、とっても純粋でかつ真摯でした。しかも設営・運営から進行に至るまで、手作りと戦災者への労りに満ち満ちていました。時折、葉桜となりながらも一枚一枚、追悼の会に潤いと悲しみを誘うかのように、丁寧に舞い落ちてくる桜の花びらが印象的でした。桜の花の散り際を見つめながら…、桜舞い散る公園の中で…、戦災で亡くなられた方々の思いに、少しでも辿り着こうとしている自分がそこにいましたし、これをどう語り、紡いでいくかが大事だと思案した午後のひと時でした…。
合掌。

バンクーバーを想う

「睦月・如月・弥生」と、季節も慌ただしい三月となりました。名店街ニュースをお読みの皆様のご家族も、学校や職場で引っ越しや移転作業等、新生活への準備等で慌ただしい時期ではないでしょうか。
さて、三月の別名、「弥生」の由来ですが、草木がいよいよ生い茂る月、「木草弥や生ひ月(きくさいやよひつき)」が詰まって「やよい」になったそうです。草木の芽が生え始めているのを見て、学生は新学期の開始、社会人は職場での新メンバーの歓迎など、さぞかし期待と不安の入り混じった、新しくも待ち遠しい事の始まりを予感している頃ではないでしょうか。
 
新春を迎える前に、そのスタートに相応しい多くの感動を私達は貰ったのではないでしょうか。いわゆるバンクーバーオリンピックでの日本人選手の活躍です。この大会で、我が国の選手は数えきれないドラマを残したわけですが、中でも特に印象深かった選手を振り返ってみたいと思います。

まずは、女子フィギュアスケートで銀メダルを獲得した、浅田真央選手。女子フィギュアのチャンピョン、キム・ヨナ選手と頂点を争い合いましたが、結果はプレッシャーをはねのけ、完璧な演技をこなしたキム・ヨナには敗れましたが、自己最高得点を叩き出し、初出場で銀メダルという快挙を成し遂げました。
しかしながら、その後の涙ながらのコメントが実に印象的です。
「(トリプル)アクセル(演技の技名で、女子フィギュアではかなり高難易度の技だそうです)を2回飛べた以外は全く満足していない。」
なんという貪欲さでしょうか!全世界から集められた天才の祭典で、圧倒的多数を抑えて2位になったにも関わらず、悔し涙を流したその勝利への意欲は大したものです。私達がテレビで見る演技、審査対象の全てはたったの5分足らずです。その5分のために、何千時間もかけて、怪我やスランプと闘いながら調整するわけですが、どんなに努力をしようとも、評価される対象はその5分のみです。およそ長い人生の中で、たった一瞬であるその時間を生きがいにし、そのわずかな時間のためにあくなき向上意欲を示す態度には、感服させられましたし、同時に自らの背筋が伸びるようです。
「本当に長かった、というか、あっという間・・・」大会後のこのコメントは、まさに一瞬に人生を賭けた勝負師・英雄の感想であるといえるでしょう。「銀メダル」というその偉業に拍手を送ると共に、その情熱を見習い、自らを戒めたいと感じたひと時でした。

長島圭一郎選手が日本勢として初のメダルに輝いた瞬間、地元である北海道池田町での応援団の様子がテレビに映し出されました。会場は歓喜にわきました。町のホールで開かれた観戦会には町民300人が集合し、歓喜の瞬間には十勝ワインのスパークリングワインで祝杯を上げたそうです。
長島選手の快挙によって、町の絆が深まりました。池田町長は、長島選手に町民特別栄誉賞授与の意向も示しています。なぜここまで多くの町民が長島選手に魅了されるのでしょうか。おそらくは、一つの目標に向うに当たっての志高き個人の意思と信念が、多くの人を魅了しているのではないかと考えます。人生を歩む中で、自らが貫きたい・守り続けたい意思や姿勢、そして信念が必ずあるはずですもの・・・。
ちなみに、池田町の初代町民特別栄誉賞は、どなただと思いますか。
それは、みなさんよくご存じのDREAMS・COME・TRUE(ドリームズ・カム・トゥルー)の吉田美和さんです。町民に夢を与え、町の知名度を上げたとして、ドリカムの結成20周年と開町110年が重なった2008年に授与されました。バンクーバーオリンピック日本代表応援ソングであるドリカムの「GODSPEED」は、困難なことに立ち向かう人たちへ最上級の「GOOD LUCK!!」を願う意味を持つそうです。この応援ソングに日本選手団の選手たちは、多くの勇気をもらったことでしょう。人は困難に立ち向かう時、得てして周りの人間の温もりを感じるものです。長島選手も強き意思と信念があったとはいえ、周りの人の支えなしには、あるいはこの曲なしでは(ちょっと大袈裟?)、この快挙は達成できなかったのではないでしょうか。

同じスピードスケート男子500mにおいて、長島選手以上に金メダルが期待されていた選手がいます。長島選手と同じ会社に所属する、加藤条治選手です。一回目のレースでは金メダルが十分に狙える位置にいた加藤選手でしたが、二回目のレースでは最後の直線で失速し、残念ながら銅メダルという結果に終わってしました。競技終了後の加藤選手のブログには、「好きな競技に本気になって、たくさんの感情を抱く。幸せなことですね。」という文が掲載されています。
「たくさんの感情」とは、いったいどういったものだったのでしょうか。
加藤選手は、メダルを獲得した喜び・安堵の感情を、ひとまずは抱いたことでしょう。私自身も、人生の四年間を競技のために捧げ、世界で第三位という見事な結果をおさめた加藤選手の栄誉をたたえ、敬意を表したいと思っています。
一方で加藤選手は、「銅メダルがこんなに悔しかったなんて知らなかった」とも述べています。
競技が終了した翌日の朝日新聞の社説には、長野五輪の同種目で金メダルを獲得し、過日引退を発表した清水宏保選手の記事が掲載されていました。題名は「条治よ 悔しかったか」。「楽して金メダル取りたいですね」と言い、スタミナが要求される1000mには出場せず500mの競技のみに専念した加藤選手に対して、最後の直線で失速した原因はスタミナ不足にあり、練習方法を変えていく必要があると助言をする清水氏。同じ種目で金メダルを取った清水氏にしかできない、さらに高みへ登っていくための助言を、加藤選手はどう受け取ったのでしょう。
きっと加藤選手にとっては、銅メダルが自分自身を見つめなおすきっかけとなったのではないでしょうか。清水選手の助言を受けとめた加藤選手は、四年後のオリンピックまでに一回り大きくなって、必ずや私たちの期待に応えてくれるでしょう。私も一人のサポーターとして、今後の加藤選手を全力で応援していきたいと思っています。

4年に1度の五輪で、長島選手のように全力を出し切り、最高の結果をだすことができた選手もいれば、浅田選手や加藤選手のように、一瞬のために賭けた4年間を通じて自分自身を見つめなおし、また4年後を見据えて競技を極めていこうとする選手たちもいます。こうした選手たちの姿は非常に美しく、私は自分を奮い立たせ、困難を乗り切る勇気が湧いてきます。
私たちも彼らのように、いつまでも一瞬一瞬に全力でぶつかっていきたいですね。